ANMELDEN宮殿ホテル『ル・ルクシオール』の非公開審査ホール。豪奢なクリスタルシャンデリアの下、長円形のテーブルには各国の審査員たちが居並び、重苦しい空気が張り詰めていた。その上座に座るのは、欧州ジュエリーカルテルの頂点に君臨するクリストフ・ヴァディム卿。白髪を完璧に撫で付け、胸元にアンティークの懐中時計を覗かせた老貴族は、冷淡な眼差しで手元の審査シートを眺めていた。「開始時刻まで残り五分。……東洋の推薦枠『BLANC』は、まだ現れんのか」「ええ、連絡もつかないようですわ」隣に座るジュリア・ランバールが、隠しきれない嘲笑を浮かべた。「昨夜のプレ展示で少しばかり注目されたからと、プレッシャーに耐えきれず逃げ出したのでしょう。所詮はその程度の素人ですわ」「ふむ。ならば不戦敗として処理――」ギィィ……。ヴァディムがペンを走らせようとした瞬間、重厚なオーク材の二重扉が静かに開かれた。審査員たちの視線が一斉に入り口へと集まる。現れたのは、真白だった。シンプルな漆黒のイブニングドレス。雨に濡れた髪はきつく束ね直され、胸元には焦げ跡の残る母のノートが抱えられていた。その隣には、一寸の乱れもないタキシードを纏い、氷刃のような眼光でホールを睥睨する黒羽蓮。「な……っ!?」ジュリアの息が止まった。廃倉庫に送り込んだ手配師たちが失敗したのだと察し、ヴァディムの眉がわずかにピクリと跳ねる。「失礼いたします。『BLANC』代表、白河真白です。エントリー時刻に間に合いました」真白は淀みないフランス語で名乗りを上げ、審査台の前へと進み出た。泥濘を駆け抜けてきた疲労など微塵も見せない。背
石畳を叩く冷たい雨が、真白のコートの裾を濡らしていた。 タクシーを降りた先は、セーヌ川の支流沿いに広がる旧工業地帯。街灯の光も届かない薄暗い廃倉庫が、夜の闇の中に巨大な怪物の骨組みのように聳え立っている。 胸元に抱きしめたジュラルミンケースの金属の冷たさが、真白の焦燥をわずかに引き締める。 (罠だと分かっていても……母のノートを灰にさせるわけにはいかない) 軋む鉄扉を押し開けると、湿ったカビと錆の匂いが鼻を突いた。 水たまりが点在するコンクリートの床。その中央、ドラム缶の上で揺れる裸電球の真下に、一人の女が立っていた。 「時間通りね、お姉様」 くぐもった声とともに振り返ったのは、白河結衣だった。 かつての華美なドレス姿は見る影もない。黒い革のジャケットを羽織り、乱れた金髪の間から覗く瞳は、飢えた獣のように濁った狂気を宿していた。 その手元には、ライターの青い炎と、焼け焦げた母のデザインノートが握られている。 「結衣……ノートを返しなさい!」 「返して欲しければ、そこに跪いて土下座しなさいよ!」 結衣が甲高い声で叫んだ。 ライターの火をノートの端へ近づけると、紙の焼ける嫌な臭いが立ち込める。 「神崎の坊ちゃんも、お父様も、麗奈様も……全部あんたのせいで破滅した! 私の輝かしい未来も、全部あんたが奪ったのよ! 身代わりのくせに、何が『BLANC』よ! 何が世界最高峰のサロンよ!」 「奪ったんじゃないわ。自業自得よ」 真白は一歩、泥濘んだ床を踏みしめた。 恐怖で震えそうになる膝を叱咤し、結衣を真っ向から見据える。 「他人のデザインを盗み、他人の石を壊してまで手に入れようとした偽物の栄光が崩れただけ。……結衣、目を覚ましなさい。そんなことをしても、あなたの人生は一歩も前に進まない!」 「黙りなさいよ! 上から目線で説教しないで!」 結衣の顔が激しく歪む。 その瞬間、暗がりの奥から二人の大柄な男が音もなく姿を現した。 彫りの深い顔立ちに無骨な革ジャン。欧州の裏社会で金で雇われた手配師たちだった。 「私のバックにはね、ヴァディム卿がついているのよ。欧州のサロンを牛耳る本物の貴族がね! あの方の指示よ……『東洋の小娘の作品を奪い、右手を潰して二度とヤスリを握れないようにしろ』ってね!
「結衣が、保釈されて出国した……?」 大回廊の喧騒から離れた宮殿ホテルのテラス。冷え込むパリの夜風の中、蓮は手元のタブレットに視線を落とした。 画面には、成田空港の国際線ゲートを抜けるサングラス姿の女――白河結衣の姿が鮮明に捉えられていた。 「保釈金を積んだのは、海外の幽霊ファンドです。背後にいるのは、欧州ジュエリーカルテルの元締め、クリストフ・ヴァディム卿。彼らは黒羽グループの欧州進出を阻止するため、総帥と真白様を揺さぶる駒として結衣を買い取った模様です」 執事の高杉が淡々と報告を重ねる。 蓮は端末を胸ポケットへ戻すと、紫煙を燻らせるように吐息を落とした。 「あの害虫にそこまでの知恵はない。誰かに操られているだけの人形だ。……真白にはまだ余計な心配をかけるな。明日の本審査に集中させる」 「かしこまりました」 テラスの扉が開き、ドレス姿の真白が小走りで駆け寄ってきた。 先ほどのプレ展示会で欧州の名門バイヤーたちから名刺の山を受け取ったばかりの真白は、頬を紅潮させ、息を弾ませていた。 「黒羽さん! 探しましたよ、こんなところで何をしていたんですか?」 「風に当たっていただけだ」 蓮は表情を一切崩さず、真白の肩に自分のジャケットをそっと羽織らせた。 温かなウールの重みと、かすかな白檀の香り。真白の心臓がトクンと小さく跳ねる。 「プレ展示の感触はどうだ」 「大盛況でした! イギリスやイタリアのセレクトショップのオーナーたちから、『本審査の後にぜひ独占契約を結びたい』って言ってもらえて……。片桐さんの研磨と、日本の石の力が、ちゃんと世界に届いたんです!」 無邪気に喜ぶ真白の頭に、蓮は大きな手をぽんと乗せた。 「浮かれるな。明日の本審査は、各国の審査員が密室で点数をつける。ジュリア・ランバールのような既得権益の連中が、裏でどんな根回しをしてくるか分からんぞ」 「はい、油断はしません。どんな理不尽な審査基準を突きつけられても、作品そのものの説得力でねじ伏せてみせます!」 琥珀色の瞳をまっすぐに輝かせる真白。 蓮はその迷いのない顔を見つめ、わずかに口元を緩めた。 「頼もしいことだ。……今夜はもう休め。部屋まで送る」 ◇ 真白に割り当てられたスイートルームの前。 蓮を見送り、部屋に
「力づくで中央へ引きずり出す、ですか……?」真白が振り返ると、蓮は冷ややかな眼光のまま、大回廊の中央にそびえ立つメインブースを一瞥した。そこにはジュリア・ランバールが君臨し、無数のシャンデリアの光を独占するように、巨大なダイヤモンドのティアラが燦然と輝いている。招待客や名門バイヤーたちが群がり、まるで女王の宮廷のような熱狂を作っていた。「ここパリのサロンに集まる連中は、伝統と権威を崇める一方で、誰よりも強烈な『新しい刺激』に飢えている。退屈な優等生など一瞥もされんが、常識を焼き払う異端者には群がる習性がある」蓮はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップした。「高杉。ル・ルクシオールのオーナーと電気保安責任者を呼べ。……今夜のプライベートディナーの予約金として、予定の三倍を積め」「えっ、黒羽さん、何を……!?」「お前の作品は、光を浴びて初めてその牙を剥くのだろう。ならば、光を用意してやるのが俺の仕事だ」蓮が淡々と告げた数分後、会場内の照明にわずかな変化が起きた。大回廊全体を均一に照らしていた天井の光量が、メンテナンスと称してわずかに絞られ、逆に真白のいる非常口側の柱の陰へ、極細の特注高演色LEDスポットライトが一筋、鋭いレーザーのように落とされたのだ。「照明の位置を変えただけでは、客は来ませんわ」「客を呼ぶのは光ではない。お前の石だ。……開けろ、真白」蓮に背中を押され、真白はジュラルミンケースの留め金を外した。カチリ。蓋が開かれた瞬間、黒いベルベットの台座に乗ったチョーカー『星辰』が姿を現した。無骨な泥を被っていたはずの山梨産スタークォーツは、片桐武造の神業によって、完璧な放物線を描くドーム状のカボションカットへと研磨されていた。そして――真白が編み上げた、極細のプラチナワイヤーフレーム。ただ石を囲むのではない。星雲が渦を巻くように立体的に組み上げられた黒と銀のワイヤーが、天井からの一筋のスポットライトを正確に石の中心へと集約する。――ボォッ!まるで水晶の内部で青白い炎が着火したかのようだった。光を呑み込んだスタークォーツの奥底から、鮮烈な六条の光の星が爆発するように射出された。その光条は石の表面にとどまらず、計算され尽くしたプラチナワイヤーの反射角を通じて、柱の陰の薄暗い大理石の床や壁へと幾重もの光の波紋を広げて
シャルル・ド・ゴール空港を抜けた専用車が、石造りの重厚な街並みを滑るように走る。車窓の外には、朝靄に煙るエッフェル塔とセーヌ川。世界中のモードと芸術の頂点――パリ。「すごい……本当に、パリに来ちゃったんだ……」真白は窓に張り付くようにして街並みを見つめていた。膝の上には、頑丈なジュラルミンケース。中には、甲府の片桐武造が極限まで研磨し、真白が徹夜で組み上げた『BLANC』の処女作――スタークォーツとプラチナワイヤーによるチョーカー『星辰(せいしん)』が収められている。「観光に来たのではないぞ」隣で英字の経済紙をめくっていた蓮が、低く釘を刺した。完璧に着こなしたチャコールグレーのスリーピース。長時間フライトの疲れなど微塵も感じさせない横顔は、すでに欧州のビジネスを睨む総帥のものだった。「今回の『オート・ジュワイアリー世界サロン』は、ヴァンドーム広場に店を構えるグランサンク(五大ジュエラー)や、王族御用達の老舗だけが参加を許される閉ざされた社交界だ。アジアの新興ブランドなど、石畳の塵ほどにも思われていない」「分かっています。一条様にも言われました。『世界中から引きずり降ろされる戦場だ』って」真白はケースをぎゅっと抱き直した。恐れはない。むしろ、世界最高峰の目利きたちが自分の作品をどう見るのか、胸の奥で闘志がチリチリと燃え盛っていた。◇サロンのプレ展示会が開かれる会場は、歴史ある豪奢な宮殿ホテル『ル・ルクシオール』の大回廊だった。金箔の漆喰彫刻、巨大なクリスタルシャンデリア、そしてイブニングドレスやタキシードを纏った欧州貴族や大富豪、名門ジュエラーの当主たち。「真白様、割り当てられた展示ブースはこちらです」現地法人のスタッフに案内された場所を見て、真白は思わず足を止めた。大回廊の中央、最も華やかなメインストリートから大きく外れた、非常口近くの薄暗い柱の陰。通りすがる招待客の視界にすら入らないような、あからさまな「最下席」だった。「……随分と分かりやすい洗礼ね」真白が小さく呟くと、背後から冷ややかな笑い声が降ってきた。「あら、ご不満かしら? 東洋の小娘さん」振り返ると、そこには見事なブロンドの髪をアップにまとめた長身の白人女性が立っていた。エメラルドグリーンのドレスに身を包み、胸元には目も眩むような大粒のダイヤモンドネックレ
山あいの夜は底冷えした。暖房のない土間の工房で、真白は息を白く吐きながらルーペを覗き込んでいた。手元にあるのは、泥と濁りに覆われた無骨なスタークォーツの原石。ペンライトの鋭い光を様々な角度から当てても、表面のクラック(亀裂)と不純物に遮られ、光は鈍く拡散するだけだった。(どこ……? どこに光条(アステリズム)の軸があるの……?)スタークォーツは、内部に含まれる微細な金紅石(ルチル)の針状結晶が特定の三方向に交差することで、光を浴びた際に六条の星を浮かび上がらせる。だが、その結晶軸(C軸)を正確に見極め、球面の頂点に据えるように割り出さなければ、星は歪むか、完全に消えてしまう。時計の針は深夜二時を回った。指先がかじかみ、タガネを握る手が小刻みに震える。焦りがじわりと真白の胸を締め付けた。(落ち着いて、真白。石を見るんじゃない……石が育ってきた『時間』を追うのよ)真白は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。蓮から課された「百の石の解剖」を思い出す。あの過酷な夜、石のわずかな結晶構造の傾き、比重の偏り、屈折の違和感を指先と感覚で掴み取った記憶。真白はタガネを置き、素手で原石を包み込んだ。泥だらけの表面を、指の腹でミリ単位で撫でていく。冷たい鉱物の感触。だが、ある一点だけ、他よりもわずかに熱を帯びたように滑らかな筋があった。「……ここだ」ライトを斜め四十五度から当て、表面の微細な成長線(条線)を辿る。光が濁りの奥を透過した瞬間、真白の網膜に、かすかにクロスする極細の金色の針が映し出された。「見えた……! C軸はこのラインに対して垂直、ここが星の頂点になる……!」迷いは消えた。真白はタガネの刃先を、狙いを定めたクラックの基点へとあてがった。右手に握ったハンマーを持ち上げる。力任せに叩けば砕け散る。必要なのは、石の目に沿って力を逃がす、一瞬の鋭い打撃。「お願い……応えて!」カーン――!澄んだ金属音が静寂の工房に響き渡った。◇翌朝、午前六時。ガラガラと引き戸が開き、作業着姿の片桐武造が工房に入ってきた。「おい小娘、時間だ。諦めて東京へ――」言葉が途切れた。作業台の前に、立ったままの真白がいた。目の下に隈を作りながらも、その琥珀色の瞳は凛と冴え渡っている。真白は無言で、手のひらを片桐の前に差し出した。そこに乗っていたの







