Mag-log in東京湾の埠頭に打ち寄せる黒い波音が、夜の冷気と混ざり合っていた。 密輸用の貨物船から降ろされた白河結衣は、ずぶ濡れのコートを抱え、錆びたコンテナの影で小刻みに震えていた。 パリの病院から脱走し、偽造パスポートと貨物船の底に揺られて辿り着いた日本。 かつての華美な美貌は失われ、頬はこけ、爪の間は垢で黒ずんでいる。だが、その濁った瞳の奥で燻る憎悪の炎だけは、以前よりも遥かにどす黒く燃え盛っていた。 「……白河結衣だな」 暗がりから響いた低く乾いた声に、結衣はビクッと肩を跳ね上げた。 現れたのは、仕立ての良い漆黒のレインコートを纏った壮年の男だった。顔の上半分は帽子の鍔で隠れているが、コートの襟元には金色の蛇が絡みつく不気味なピンが光っている。 「だ、誰よ、あなた……! 私をパリから逃がしたのは誰なの!?」 「質問する立場か、身代わりの妹よ」 男は冷徹に言い放ち、革手袋をはめた手で薄いアルミケースを差し出した。 「ヴァディム卿のような老いぼれが失脚しようと、東洋の市場をあの黒羽蓮と、泥上がりの女デザイナーに独占させるわけにはいかんのだ。我ら『オフィディアン・グループ』にとって、あの二人は目障りな障壁にすぎない」 「オフィディアン……? 裏の宝石シンジケート……!?」 「お前が奴らを殺したいほど憎んでいることは知っている。利用してやる。このケースを開けろ」 結衣はおずおずと手を伸ばし、留め金を外した。 中に収められていたのは、鈍い黒紫色の光を放つ、親指大の不気味な原石だった。表面には無数の微細な亀裂が走り、見る者の神経を逆撫でするような歪な気配を放っている。 「これは……?」 「放射線処理によって人工的に結晶格子を狂わせた、極めて脆く毒性の高い変異トパーズだ。触れるだけで金属の接合を脆化させ、わずかな衝撃で周囲を巻き込んで破裂・粉砕する欠陥石の極み」 男は冷酷な笑みを口元に浮かべた。 「来週開催される、一条麗華と『BLANC』の合同コレクション。そのランウェイでお前の姉が身に纏うメインピースの留め金を、これで擦り、すり替えろ。……照明の熱と熱気で、石は壇上で無残に砕け散り、プラチナのフレームごと姉の肌を切り刻むだろう」 「肌を……切り刻む……」 結衣の唇が、歓喜に歪んだ。 あの忌々しい
パリの最高峰サロンでの満点評価とグランプリ獲得の一報は、瞬く間に世界中のモード界とビジネス紙を席巻した。新興ブランド『BLANC』の名は、伝統と権威に胡坐をかいていた欧州ジュエリー界に風穴を開けた新星として刻まれ、国内に戻った真白のもとには、世界各国の百貨店や名門メゾンからの提携オファーが殺到していた。だが、南青山の『BLANC』本店アトリエの奥。真白は熱狂の渦に溺れることなく、作業着に身を包み、拡大鏡を覗き込みながら黙々とヤスリを動かしていた。シュッ、シュッ――と、規則正しい研磨の音が静かな室内に響く。「……相変わらず、祝杯をあげるよりも削り粉を被る方が性に合っているようだな」低く滑らかな声とともに、作業室の引き戸が開いた。姿を現したのは、黒羽蓮だった。黒羽グループ本社の激務を終えて直行してきたのか、上質なスリーピースのジャケットを脱ぎ、ネクタイをわずかに緩めている。「黒羽さん! お仕事、もう終わったんですか?」「一通りの片付けは済ませた。欧州カルテルを牛耳っていたヴァディム卿の不正取引網は、インターポールと現地金融庁の手で完全に解体された。ジュリア・ランバールのメゾンも、カルテル解体の連座とブランドイメージの失墜で、欧州デザイナー協会の理事職を追放されたそうだ」蓮は作業台の脇の丸椅子を引き寄せ、腰を下ろした。卓上に散らばるデザイン画と、真白の指先に巻かれた絆創膏を一瞥し、わずかに口元を緩める。「お前を潰そうとした連中は、全員己の蒔いた種で自滅した。……誇るべき完全勝利だ」「ありがとうございます。でも、私が勝てたのは……黒羽さんが光を信じて、隣で支えてくれたからです」真白は工具を置き、照れくさそうに笑った。身代わりの花嫁として絶望の底にいたあの日から、ここまで走り抜けてこられたのは、この冷徹で誰よりも不器用な男が、常に自分の可能性を信じ抜いてくれたからだ。「……勘違いするな。俺はただ、お前の才能に正当な投資をしたにすぎん」蓮はそっぽを向くように視線を逸らしたが、その耳元がわずかに熱を帯びているのを、真白は見逃さなかった。蓮はポケットから一枚のカードキーを取り出し、作業台の上に置いた。「パリのサロンを制したことで、一条麗華が正式に『BLANC』との合同コレクションを日本国内で立ち上げると申し出てきた。これは、その発表会場とな
宮殿ホテル『ル・ルクシオール』の非公開審査ホール。豪奢なクリスタルシャンデリアの下、長円形のテーブルには各国の審査員たちが居並び、重苦しい空気が張り詰めていた。その上座に座るのは、欧州ジュエリーカルテルの頂点に君臨するクリストフ・ヴァディム卿。白髪を完璧に撫で付け、胸元にアンティークの懐中時計を覗かせた老貴族は、冷淡な眼差しで手元の審査シートを眺めていた。「開始時刻まで残り五分。……東洋の推薦枠『BLANC』は、まだ現れんのか」「ええ、連絡もつかないようですわ」隣に座るジュリア・ランバールが、隠しきれない嘲笑を浮かべた。「昨夜のプレ展示で少しばかり注目されたからと、プレッシャーに耐えきれず逃げ出したのでしょう。所詮はその程度の素人ですわ」「ふむ。ならば不戦敗として処理――」ギィィ……。ヴァディムがペンを走らせようとした瞬間、重厚なオーク材の二重扉が静かに開かれた。審査員たちの視線が一斉に入り口へと集まる。現れたのは、真白だった。シンプルな漆黒のイブニングドレス。雨に濡れた髪はきつく束ね直され、胸元には焦げ跡の残る母のノートが抱えられていた。その隣には、一寸の乱れもないタキシードを纏い、氷刃のような眼光でホールを睥睨する黒羽蓮。「な……っ!?」ジュリアの息が止まった。廃倉庫に送り込んだ手配師たちが失敗したのだと察し、ヴァディムの眉がわずかにピクリと跳ねる。「失礼いたします。『BLANC』代表、白河真白です。エントリー時刻に間に合いました」真白は淀みないフランス語で名乗りを上げ、審査台の前へと進み出た。泥濘を駆け抜けてきた疲労など微塵も見せない。背
石畳を叩く冷たい雨が、真白のコートの裾を濡らしていた。 タクシーを降りた先は、セーヌ川の支流沿いに広がる旧工業地帯。街灯の光も届かない薄暗い廃倉庫が、夜の闇の中に巨大な怪物の骨組みのように聳え立っている。 胸元に抱きしめたジュラルミンケースの金属の冷たさが、真白の焦燥をわずかに引き締める。 (罠だと分かっていても……母のノートを灰にさせるわけにはいかない) 軋む鉄扉を押し開けると、湿ったカビと錆の匂いが鼻を突いた。 水たまりが点在するコンクリートの床。その中央、ドラム缶の上で揺れる裸電球の真下に、一人の女が立っていた。 「時間通りね、お姉様」 くぐもった声とともに振り返ったのは、白河結衣だった。 かつての華美なドレス姿は見る影もない。黒い革のジャケットを羽織り、乱れた金髪の間から覗く瞳は、飢えた獣のように濁った狂気を宿していた。 その手元には、ライターの青い炎と、焼け焦げた母のデザインノートが握られている。 「結衣……ノートを返しなさい!」 「返して欲しければ、そこに跪いて土下座しなさいよ!」 結衣が甲高い声で叫んだ。 ライターの火をノートの端へ近づけると、紙の焼ける嫌な臭いが立ち込める。 「神崎の坊ちゃんも、お父様も、麗奈様も……全部あんたのせいで破滅した! 私の輝かしい未来も、全部あんたが奪ったのよ! 身代わりのくせに、何が『BLANC』よ! 何が世界最高峰のサロンよ!」 「奪ったんじゃないわ。自業自得よ」 真白は一歩、泥濘んだ床を踏みしめた。 恐怖で震えそうになる膝を叱咤し、結衣を真っ向から見据える。 「他人のデザインを盗み、他人の石を壊してまで手に入れようとした偽物の栄光が崩れただけ。……結衣、目を覚ましなさい。そんなことをしても、あなたの人生は一歩も前に進まない!」 「黙りなさいよ! 上から目線で説教しないで!」 結衣の顔が激しく歪む。 その瞬間、暗がりの奥から二人の大柄な男が音もなく姿を現した。 彫りの深い顔立ちに無骨な革ジャン。欧州の裏社会で金で雇われた手配師たちだった。 「私のバックにはね、ヴァディム卿がついているのよ。欧州のサロンを牛耳る本物の貴族がね! あの方の指示よ……『東洋の小娘の作品を奪い、右手を潰して二度とヤスリを握れないようにしろ』ってね!
「結衣が、保釈されて出国した……?」 大回廊の喧騒から離れた宮殿ホテルのテラス。冷え込むパリの夜風の中、蓮は手元のタブレットに視線を落とした。 画面には、成田空港の国際線ゲートを抜けるサングラス姿の女――白河結衣の姿が鮮明に捉えられていた。 「保釈金を積んだのは、海外の幽霊ファンドです。背後にいるのは、欧州ジュエリーカルテルの元締め、クリストフ・ヴァディム卿。彼らは黒羽グループの欧州進出を阻止するため、総帥と真白様を揺さぶる駒として結衣を買い取った模様です」 執事の高杉が淡々と報告を重ねる。 蓮は端末を胸ポケットへ戻すと、紫煙を燻らせるように吐息を落とした。 「あの害虫にそこまでの知恵はない。誰かに操られているだけの人形だ。……真白にはまだ余計な心配をかけるな。明日の本審査に集中させる」 「かしこまりました」 テラスの扉が開き、ドレス姿の真白が小走りで駆け寄ってきた。 先ほどのプレ展示会で欧州の名門バイヤーたちから名刺の山を受け取ったばかりの真白は、頬を紅潮させ、息を弾ませていた。 「黒羽さん! 探しましたよ、こんなところで何をしていたんですか?」 「風に当たっていただけだ」 蓮は表情を一切崩さず、真白の肩に自分のジャケットをそっと羽織らせた。 温かなウールの重みと、かすかな白檀の香り。真白の心臓がトクンと小さく跳ねる。 「プレ展示の感触はどうだ」 「大盛況でした! イギリスやイタリアのセレクトショップのオーナーたちから、『本審査の後にぜひ独占契約を結びたい』って言ってもらえて……。片桐さんの研磨と、日本の石の力が、ちゃんと世界に届いたんです!」 無邪気に喜ぶ真白の頭に、蓮は大きな手をぽんと乗せた。 「浮かれるな。明日の本審査は、各国の審査員が密室で点数をつける。ジュリア・ランバールのような既得権益の連中が、裏でどんな根回しをしてくるか分からんぞ」 「はい、油断はしません。どんな理不尽な審査基準を突きつけられても、作品そのものの説得力でねじ伏せてみせます!」 琥珀色の瞳をまっすぐに輝かせる真白。 蓮はその迷いのない顔を見つめ、わずかに口元を緩めた。 「頼もしいことだ。……今夜はもう休め。部屋まで送る」 ◇ 真白に割り当てられたスイートルームの前。 蓮を見送り、部屋に
「力づくで中央へ引きずり出す、ですか……?」真白が振り返ると、蓮は冷ややかな眼光のまま、大回廊の中央にそびえ立つメインブースを一瞥した。そこにはジュリア・ランバールが君臨し、無数のシャンデリアの光を独占するように、巨大なダイヤモンドのティアラが燦然と輝いている。招待客や名門バイヤーたちが群がり、まるで女王の宮廷のような熱狂を作っていた。「ここパリのサロンに集まる連中は、伝統と権威を崇める一方で、誰よりも強烈な『新しい刺激』に飢えている。退屈な優等生など一瞥もされんが、常識を焼き払う異端者には群がる習性がある」蓮はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップした。「高杉。ル・ルクシオールのオーナーと電気保安責任者を呼べ。……今夜のプライベートディナーの予約金として、予定の三倍を積め」「えっ、黒羽さん、何を……!?」「お前の作品は、光を浴びて初めてその牙を剥くのだろう。ならば、光を用意してやるのが俺の仕事だ」蓮が淡々と告げた数分後、会場内の照明にわずかな変化が起きた。大回廊全体を均一に照らしていた天井の光量が、メンテナンスと称してわずかに絞られ、逆に真白のいる非常口側の柱の陰へ、極細の特注高演色LEDスポットライトが一筋、鋭いレーザーのように落とされたのだ。「照明の位置を変えただけでは、客は来ませんわ」「客を呼ぶのは光ではない。お前の石だ。……開けろ、真白」蓮に背中を押され、真白はジュラルミンケースの留め金を外した。カチリ。蓋が開かれた瞬間、黒いベルベットの台座に乗ったチョーカー『星辰』が姿を現した。無骨な泥を被っていたはずの山梨産スタークォーツは、片桐武造の神業によって、完璧な放物線を描くドーム状のカボションカットへと研磨されていた。そして――真白が編み上げた、極細のプラチナワイヤーフレーム。ただ石を囲むのではない。星雲が渦を巻くように立体的に組み上げられた黒と銀のワイヤーが、天井からの一筋のスポットライトを正確に石の中心へと集約する。――ボォッ!まるで水晶の内部で青白い炎が着火したかのようだった。光を呑み込んだスタークォーツの奥底から、鮮烈な六条の光の星が爆発するように射出された。その光条は石の表面にとどまらず、計算され尽くしたプラチナワイヤーの反射角を通じて、柱の陰の薄暗い大理石の床や壁へと幾重もの光の波紋を広げて







