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第36話:凱旋と消えぬ牙

Auteur: 秦江湖
last update Date de publication: 2026-09-23 20:48:02

パリの最高峰サロンでの満点評価とグランプリ獲得の一報は、瞬く間に世界中のモード界とビジネス紙を席巻した。

新興ブランド『BLANC』の名は、伝統と権威に胡坐をかいていた欧州ジュエリー界に風穴を開けた新星として刻まれ、国内に戻った真白のもとには、世界各国の百貨店や名門メゾンからの提携オファーが殺到していた。

だが、南青山の『BLANC』本店アトリエの奥。

真白は熱狂の渦に溺れることなく、作業着に身を包み、拡大鏡を覗き込みながら黙々とヤスリを動かしていた。

シュッ、シュッ――と、規則正しい研磨の音が静かな室内に響く。

「……相変わらず、祝杯をあげるよりも削り粉を被る方が性に合っているようだな」

低く滑らかな声とともに、作業室の引き戸が開いた。

姿を現したのは、黒羽蓮だった。

黒羽グループ本社の激務を終えて直行してきたのか、上質なスリーピースのジャケットを脱ぎ、ネクタイをわずかに緩めている。

「黒羽さん! お仕事、もう終わったんですか?」

「一通りの片付けは済ませた。欧州カルテルを牛耳っていたヴァディム卿の不正取引網は、インターポールと現地金融庁の手で完全に解体された。ジュリア・ランバール
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    南青山の『BLANC』地下工房。換気扇の低い唸りと、微細な研磨水の匂いが立ち込める中、作業台の中央には、糸魚川の濁流から引き揚げた無骨な塊が鎮座していた。泥を落とし、粗削りの皮膜を剥いだ原石は、白く乾いた岩肌の奥底に、かすかな山紫水明の光を閉じ込めている。だが、問題はその先だった。「……ダイヤモンドより厄介だぞ、こいつは」作業用ルーペを目元に挟んだ片桐が、煙草の灰を落としながら唸った。「ダイヤは硬いが、特定の方向に割れやすい結晶構造(劈開)があるから、決まった面で叩けば綺麗に割れる。だが、翡翠は微小な繊維状の結晶が複雑に絡み合った『靭性(じんせい)』の塊だ。地球上で最も割れにくい岩石のひとつと言っていい。下手に刃を当てりゃ、内部の青い脈が粉々に濁ってただの濁った石ころになっちまう」「はい……。光を通す角度を、一ミリでも見誤れば終わりです」真白は拡大鏡を覗き込み、手元のトレーシングペーパーに三次元の断層図を書き込んでいた。東京に戻ってから丸三日。真白は一度もベッドに入っていなかった。原石に強力な透過光を当て、内部を走る淡い紫と清流のような青のグラデーションが、どの角度で最も鮮やかに浮かび上がるのか。微細なクラック(亀裂)を巧みに避けつつ、ティアラの中心に据えるべき至高のカボション(曲面研磨)を切り出すための切断ラインを、何百回と計算し続けていた。目の下には濃い隈が落ち、唇は乾いてひび割れている。指先は糸魚川での裂傷と寒さで赤く腫れ上がり、ペンを握るたびに激痛が走る。それでも、真白の琥珀色の瞳は異様な熱を帯びてギラついていた。「ここ……この角度から四十三度の傾斜で刃を入れれば、内部のラベンダーが青の奥から滲み出るように光を反射します。片桐さん、もう一度シミュレーションを――」ガタツ、と突然、真白の膝から力が抜けた。机に突っ伏しかけた真白の細い肩を、背後から伸びてきた屈強な腕が乱暴に抱き留めた。「……何の真似だ」低く、氷のように冷徹な声。顔を上げると、蓮が作業着姿の真白を片腕で抱き寄せ、冷ややかな眼差しで見下ろしていた。「く、黒羽さん……どうしてここに」「どうしても何もあるか。三日間、一歩も地下から出てこないと高杉から報告が入った。……鏡を見てみろ。幽霊のような面をして、まともに石が見えているのか」「見えています! あと少しなん

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    石油ストーブの灯油臭さが立ち込める事務所内には、重苦しい沈黙が落ちていた。 煙管をくわえた集積所の責任者――五十嵐は、灰皿の縁にとんとんと雁首を打ちつけると、薄汚れた帳簿に視線を落としたまま顔も上げようとしない。 「帰んな、お嬢ちゃん。片桐の爺さんの顔を立てて事務所に上げてやっただけでもありがたいと思いな」 「五十嵐さん、頼みます!」 真白は濡れたボストンバッグを床に置き、深く頭を下げた。 「私たちが立ち入りたいのは、保護区域外の旧鉱床跡です。密猟をするつもりはありません。国が迎える新しい時代の式典で、この糸魚川の石を……日本の原初の魂を冠に据えたいんです!」 「能書きはいいんだよ」 五十嵐は苛立ちを隠さず、真白を睨みつけた。 「俺たち零細の山持ちはな、東京の黒羽グループ……征四郎副総裁の息がかかった商社に鉱石の定期買い付けを支えてもらってんだ。あそこから『あの女に立ち入り許可証を出したら、糸魚川の石の買い取りを全面停止する』って言われてるんだよ。お前ひとりの我儘で、仲間全員の飯の種を潰すわけにはいかねえ」 「そんな……!」 「おい五十嵐、てめえ」 背後で片桐が野太い声で唸り、一歩踏み出そうとした。だが、真白はその前に腕を伸ばし、片桐を制した。 「片桐さん、待ってください」 「真白、こいつらは話して分かる連中じゃねえぞ」 「でも、力づくで押し通したら、ただの密猟者になってしまいます」 真白は五十嵐の前に進み出ると、リュックから透明なクリアファイルを取り出し、机の上に広げた。 鉛筆と絵の具で描かれた、何十枚にも及ぶティアラの初期構成案。線はまだ荒削りだが、石の輪郭一つひとつに、息を呑むような執念が込められている。 「これは……?」 「設計図です。真ん中に据えるべき石の場所だけが、まだ真っ白です。外国の輸入ダイヤモンドじゃ駄目なんです。この厳しい北陸の雨と雪に打たれ、気の遠くなるような年月を生き抜いてきた糸魚川の翡翠でなければ、この線は完成しません。……お願いします。山に入らせてください」 「駄目なものは駄目だ。警察を呼ぶ前に出て行け!」 五十嵐は図面を一瞥しただけで、乱暴に手で払いのけた。紙片が冷たい土間に散らばる。 事務所の扉が乱暴に閉ざされ、真白と片桐は土砂降りの雨の中へと追

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    「糸魚川……? 新潟の、あの糸魚川ですか?」 真白は受話器を強く握り締め返した。 『そうだ。日本海へ注ぐ姫川の流域、ヒスイ峡だ』 片桐のしゃがれた声が、電話口の雑音を切り裂いて届く。 『都内の問屋どもが征四郎の鼻息を窺って右往左往してるなら、下らねえ流通など捨てちまえ。日本の国家式典だろ? なら、この列島の骨組みから削り出された、本物の「原初の石」を据えるべきだ。……小娘、お前には泥を掘る度胸があるか?』 「あります!」 迷いは一秒もなかった。 「行きます、片桐さん。今すぐ準備します!」 『おう、明朝五時、上野発の始発に乗れ。糸魚川の寂れた駅前で待ってる』 ツーツーと切れた受話器を置き、真白はすぐにアトリエの奥へ走った。 華やかなドレスも、デザイン画を飾る額縁もいらない。手袋、作業用ルーペ、硬度計、そして母の遺したボロボロのデザインノート。泥に塗れるための厚手の作業着と長靴を、無骨なボストンバッグに詰め込んだ。 靴紐を結び直してアトリエの通用口を開けた瞬間、冷え込む深夜の空気を切り裂いて、黒塗りのセンチュリーが音もなく滑り込んできた。 後部座席のドアが開き、漆黒のチェスターコートを羽織った蓮が降り立つ。 無言のまま真白の足元――泥作業用の頑丈なブーツと、膨らんだボストンバッグを見下ろした。 「……夜逃げの準備か」 「違います」 真白は顎を上げ、蓮の鋭利な瞳を見据えた。 「片桐さんと糸魚川へ行きます。市場で手に入らないなら、山から直接、私の手で最高の石を掘り出してきます」 「糸魚川の翡翠峡は、国の天然記念物に指定されている区域も多い。立ち入りを誤れば密猟として即座に警察送りだ。それに、今の時期の北陸の山間部は初冬の雪混じりの豪雨が降る。崖崩れで毎年遭難者が出るような危険地帯だぞ」 淡々と、だが一切の誇張なく危険を突きつけてくる。 冷酷な総帥の視線は、真白がどれほどの覚悟でその足を踏み出そうとしているのかを、容赦なく測っていた。 「分かっています。危険も、寒さも承知の上です。でも、一条先生は今この瞬間も、命を削って『至高』を創り出そうとされている。安全な東京の部屋で指をくわえて待つくらいなら、泥水に飛び込んで死に物狂いで探す方を選びます」 真白の瞳に揺らぎはなかった。 蓮は

  • 冷酷総帥の身代わり花嫁 〜植物状態のはずの億万長者に溺愛され、私を見捨てた偽りの家族を地獄に落とします〜   第43話:封鎖された流通

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