Mag-log in迎賓館・大審査場の静寂は、冷たい刃物のようだった。天井の高いドームには精緻なフレスコ画が広がり、クリスタルのシャンデリアが冷厳な光を落としている。長机に並ぶのは、皇族代表をはじめ、内閣官房参与の東條、宮内庁侍従長、文化庁長官、そして国立美術館長ら、この国の伝統と審美眼の頂点に座す五名の特別審査員たちだった。「……身なりを正し、所定の位置に着きなさい」東條参与が低く重々しい声で告げた。係官から差し出された温かい布で泥を拭い、真白は控席の椅子へ腰を下ろした。右肩の激痛が脈打ち、引き裂かれたドレスから覗く素足は微かに震えている。荒い呼吸を整えようと深く息を吸い込むたび、肺の奥が軋んだ。「それでは、新元号・国家慶祝式典における公式ティアラ選定、最終非公開審査を執り行います。……まずは先攻、『一条メゾン』代表、一条麗華先生。前へ」東條の合図とともに、一条麗華が静かに立ち上がった。一寸の乱れもない真紅のイブニングドレス。背筋を凛と伸ばした立ち姿は、それだけで部屋の空気を塗り替える絶対の風格を漂わせていた。麗華の助手が、純白の展示台の上に恭しく置かれた黒檀のケースの蓋を押し開ける。中から現れたティアラを、麗華自らの手で中央のビロードの台座へと掲げた。――息を呑む音が、審査員席のあちこちから漏れた。「これが私の答え――『戴冠の曙光(たいかんのしょこう)』ですわ」麗華の鈴の音のように澄んだ声が響く。そこに在ったのは、完璧無欠のシンメトリーが織りなす「神の建築」だった。最高純度のプラチナによって幾何学的に組み上げられたアーチ。そのすべてに、最高級クラリティを誇る特級ダイヤモンドが無数に配されている。光が当たるたび、まるで一条のまばゆい夜明けの太陽が頭上で炸裂したかのような、圧倒的な威厳と格式。何百年という歴史の重み、王道たる品格、そして一ミリの隙も許さぬ職人技の極致。(すごい……これが、一条先生の……)真白は全身の血が引いていくような感覚に襲われた。打撲の痛みなど一瞬で吹き飛ぶほどの、絶対的な完成度。その光はあまりにも眩しく、あまりにも巨大で、自分が糸魚川の泥の中で掴んできたものが、ひどく小さく不格好なものに思えてしまいそうだった。胸の奥で、恐怖が冷たく渦を巻く。(私の作ったものは……この完璧な光の前に、本当に立てるの……?)真白の両手が
キキィィィィッ――ドガァァァンッ! 鼓膜を劈くスキール音の直後、天地が激しく反転したかのような衝撃が車内を襲った。 側道から突進してきた大型ダンプカーに対し、ハンドルを握る高杉の超人的なブレーキングとステアリング操作によって、直撃という最悪の結末だけは紙一重で回避された。 だが、回避の反動で制御を失ったセンチュリーは、そのままコンクリートの側壁へと激突。フロントは大破し、白い白煙がシューシューと吹き上がっていた。 「……真白、無事か」 エアバッグが弾け飛ぶ煙の中、真っ先に落ちてきたのは低く硬質な蓮の声だった。 蓮は咄嗟に自らの長い腕で真白の上半身を覆い、飛散したガラス片から完全に庇っていた。 「黒羽、さん……っ」 右肩に激痛が走る。側壁に打ち付けた打撲の痛みだった。 だが、真白は痛みに喘ぐ間もなく、腕の中に抱えたジュラルミンケースを確かめた。ロックは外れていない。特注の緩衝材に守られた『黎明の息吹』は、無傷だった。 「ティアラは……無事です……!」 「総帥、申し訳ありません……! 足回りを完全にやられました。エンジンが息絶えています!」 額から血を流しながら、高杉が後方へ叫んだ。 蓮の腕のクロノグラフは、午前八時三十分を指していた。 宮内庁が設定した最終受付の締め切りは、午前九時ジャスト。一分でも遅れれば、理由の如何を問わず失格となる冷酷なルールだ。会場である赤坂迎賓館までは、ここから直線距離でおよそ二キロ。 「事故処理と警察の手配を待っていては、間に合わない……!」 真白の心臓が激しく跳ね上がった。 ここまで来て、締め切りという紙切れ一枚の前に屈するのか。糸魚川の冷たい激流に打たれ、泥水を啜り、片桐と命を削り合って生み出したあの光を、見せることすら許されずに終わるのか。 (嫌だ……絶対に、そんなの嫌だ……!) 真白は歪んだドアを肩で押し開け、車外へ飛び出した。 履いていたヒールをその場で脱ぎ捨てる。そして、ロングドレスの裾を両手で掴むと――ビリリッ! と迷いなく膝上まで引き裂いた。 「真白」 蓮の澄んだ声が真白を止めた。 真白はケースの取っ手を強く握り締め、蓮の漆黒の瞳を真
宮内庁指名コンペの提出期限まで、残り二十四時間。南青山の『BLANC』アトリエは、戦場と化していた。バーナーの青い炎が吹き荒れ、ヤスリが金属を削る鋭い摩擦音が空気を震わせる。床には冷却水の飛沫と金属粉が舞い、職人たちの荒い呼吸だけが響いていた。「片桐さん、第三フレームの焼き戻し、完了しました!」「おう! 次、サイドの唐草ワイヤーを回せ! コンマ一ミリでも歪んだら、翡翠の座金が浮くぞッ!」片桐の怒号を受け、真白はピンセットを握り直した。徹夜の連続で、指先の感覚はすでに麻痺しかけていた。手袋を外した指の関節は赤黒く腫れ、糸魚川で負った擦り傷がズキズキと痛む。だが、真白の視界は針の穴を通すように澄み渡っていた。純国産の最高純度プラチナを、極限まで細く引き伸ばしたワイヤー。それを幾重にも編み込み、強靭な張力を持たせながら、冬の厳寒を突き破って天へ伸びる新芽のような有機的フレームを組み上げていく。重厚な金属でありながら、まるで羽毛のように軽やかで、光を透過させる立体構造。「いくよ……」息を止め、拡大鏡の焦点を合わせる。中央に据えられたラベンダー青翡翠のカボション。その周囲を囲む極小の爪(プロング)を、微細タガネで一本ずつ倒していく。カチ、カチ、カチ……。石の劈開(へっかい)に一切の余計な圧力をかけず、包み込むように固定する神業。最後の一本を留め終えた瞬間、アトリエの張り詰めた空気が一気に解き放たれた。「……終わった」真白の膝が折れ、床に崩れ落ちそうになった瞬間、背後から伸びた手がその身体をがっしりと支えた。「黒羽さん……」いつの間にか立っていた蓮が、真白を腕の中に抱き留めていた。蓮の視線は、作業台の黒いビロードの上に鎮座する作品へと向けられていた。静寂の中、朝の清冽な陽光が窓から差し込み、ティアラを照らし出す。「…………」あの冷徹無比な黒羽蓮が、言葉を失い、息を呑んでいた。そこに在ったのは、冷たい権威を誇示する冠ではなかった。光を孕んで立ち昇るプラチナの繊細な曲線。その中心で、清流の蒼と朝焼けの薄紫を溶け合わせた青翡翠が、自ら呼吸をしているかのように幽玄な光を放っている。過酷な運命に抗い、泥水の中から立ち上がった真白自身の魂が宿った、至高の生命美。「……見事だ、真白」蓮の低く硬質な声に、偽りのない深い感嘆が滲んでいた
作業台の黒いビロードの上で、磨き上げられたラベンダー青翡翠のカボションが、夜明けの霞のような幽玄な光を放っていた。 中心に据える至高の原石は手に入った。しかし、それを取り囲むべきティアラ全体の骨格――フレームの設計図の上で、真白の手は完全に止まっていた。 「……駄目だ。これじゃ、ただの偽物だ」 真白は鉛筆を取り落とし、両手で顔を覆った。 机の上には、第49話:誇りの骨格 奇跡のラベンダー青翡翠は、片桐の神業のような手技によって、完璧な潤みを湛えたカボションへと磨き上げられた。 水滴のように滑らかな石の表面は、見る角度によって冷たい蒼から夜明けの紫へと艶やかに表情を変える。心臓となる至高の原石は揃った。 だが――真白の前に、次なる絶望的な壁が立ちはだかっていた。 「……まとまらない」 南青山アトリエの机の上。 無数に引かれたティアラのフレーム設計図を前に、真白は頭を抱えていた。 青翡翠を中心に据え、純国産プラチナの骨格で頭部を包み込む構造。だが、国家慶祝式典という「格式」を重んじようとすれば、どうしても左右対称の古典的で荘厳なアーチに行き着いてしまう。それでは、一条麗華が何十年もかけて極限まで磨き上げた王道美の劣化コピーにすぎない。 かといって、『BLANC』らしい躍動感を押し出して前衛的(アヴァンギャルド)に振れば、皇室の神聖な儀礼に求められる品格と静謐さが失われてしまう。 伝統の重圧と、革新の狭間。 どちらへ舵を切っても、一条麗華の背中には届かないという焦燥が、真白の思考を鉛のように鈍らせていた。 「どうすればいいの……。お母さん……」 縋るように、作業台の脇に置いていた母の形見のデザインノートを開いた。 色褪せた紙面をめくっていく。粗削りながらも命の脈動に溢れた母のデッサンの数々。その最後の余白に、擦れた万年筆の文字で、強い筆圧の殴り書きが残されていた。 『装飾とは、己の権威を誇るために身に纏う鎧ではない。それを着ける人の魂を肯定し、その背筋を凛と伸ばすためにある』 「背筋を……伸ばすため……」 真白の指先が、その文字をなぞった。 そうだ。自分は何のためにデザインを描いているのか。国家の権威に怯え、審査員の顔色を窺い、「減点されないための枠組み」に囚われていたのではないか。
南青山の『BLANC』地下工房。換気扇の低い唸りと、微細な研磨水の匂いが立ち込める中、作業台の中央には、糸魚川の濁流から引き揚げた無骨な塊が鎮座していた。泥を落とし、粗削りの皮膜を剥いだ原石は、白く乾いた岩肌の奥底に、かすかな山紫水明の光を閉じ込めている。だが、問題はその先だった。「……ダイヤモンドより厄介だぞ、こいつは」作業用ルーペを目元に挟んだ片桐が、煙草の灰を落としながら唸った。「ダイヤは硬いが、特定の方向に割れやすい結晶構造(劈開)があるから、決まった面で叩けば綺麗に割れる。だが、翡翠は微小な繊維状の結晶が複雑に絡み合った『靭性(じんせい)』の塊だ。地球上で最も割れにくい岩石のひとつと言っていい。下手に刃を当てりゃ、内部の青い脈が粉々に濁ってただの濁った石ころになっちまう」「はい……。光を通す角度を、一ミリでも見誤れば終わりです」真白は拡大鏡を覗き込み、手元のトレーシングペーパーに三次元の断層図を書き込んでいた。東京に戻ってから丸三日。真白は一度もベッドに入っていなかった。原石に強力な透過光を当て、内部を走る淡い紫と清流のような青のグラデーションが、どの角度で最も鮮やかに浮かび上がるのか。微細なクラック(亀裂)を巧みに避けつつ、ティアラの中心に据えるべき至高のカボション(曲面研磨)を切り出すための切断ラインを、何百回と計算し続けていた。目の下には濃い隈が落ち、唇は乾いてひび割れている。指先は糸魚川での裂傷と寒さで赤く腫れ上がり、ペンを握るたびに激痛が走る。それでも、真白の琥珀色の瞳は異様な熱を帯びてギラついていた。「ここ……この角度から四十三度の傾斜で刃を入れれば、内部のラベンダーが青の奥から滲み出るように光を反射します。片桐さん、もう一度シミュレーションを――」ガタツ、と突然、真白の膝から力が抜けた。机に突っ伏しかけた真白の細い肩を、背後から伸びてきた屈強な腕が乱暴に抱き留めた。「……何の真似だ」低く、氷のように冷徹な声。顔を上げると、蓮が作業着姿の真白を片腕で抱き寄せ、冷ややかな眼差しで見下ろしていた。「く、黒羽さん……どうしてここに」「どうしても何もあるか。三日間、一歩も地下から出てこないと高杉から報告が入った。……鏡を見てみろ。幽霊のような面をして、まともに石が見えているのか」「見えています! あと少しなん
ズズズ……ゴオオォォッ!腹の底を激しく揺さぶる重低音とともに、頭上の斜面から大量の土砂と倒木が滝のように崩れ落ちてきた。「逃げろ! 岩陰へ走れ、呑まれるぞッ!」案内人が絶叫し、真白の腕を強引に引こうとする。だが、真白の足は一歩も動かなかった。濁流の底、二つの巨岩の噛み合う隙間に差し入れた右手――その指先が触れた感触から、神経のすべてが離れようとしないのだ。激流の飛沫の奥。灰色の泥水がわずかに引いた一瞬、水底の亀裂に、息を呑むほど幽玄な光彩が浮かび上がった。単なる青ではない。薄暮の冷たい空に、わずかに紅を差したような――紫がかった、幽かな、だが決して濁ることのない玲瓏たる色彩。(これだ……。この石だ……!)「おい真白! 何やってやがる、早く手を抜け!」片桐の怒号が飛ぶ。「片桐さん、ここにいます! この奥に、本物の石が挟まってる!」「馬鹿野郎! 死んだら石もへったくれもねえんだよ! 来い!」片桐が真白の肩を掴もうとした瞬間、真白はそれを身を捩って振り払った。常軌を逸した執念だった。真白は上半身ごと冷たい激流の中へ突っ込み、両腕を巨岩の隙間へとねじ込んだ。水底の泥と鋭利な砂利が皮膚を切り裂く。爪が根元から剥がれかけるほどの激痛が走り、泥水の中に赤い血の筋が滲み出た。それでも真白は指を緩めない。岩盤の圧力に抗い、角張った無骨な原石の輪郭に指先を食い込ませ、全身の筋肉を軋ませながら渾身の力で引き抜こうとする。(動いて……お願い、動いて! 一条先生と戦うための、私たちの光……!)ゴロゴロと頭上から拳大の落石が降り注ぎ、真白の防寒着の背中を強打した。激痛に息が止まりかける。だが、その瞬間――水底でメキリと鈍い音が響き、何万年もの間、大地に囚われていた塊が泥の中から剥がれ落ちた。「取れた……ッ!」両手で抱え込んだ拳大の重み。だが、同時に視界の上半分が、黒い土煙と崩れ落ちる巨大な土砂の壁で完全に覆い尽くされた。「しまっ――」真白が息を呑んだ瞬間、襟首を背後から万力のような力で掴まれた。「うおおおおッ!」片桐の咆哮とともに、真白の身体が後方の岩棚へと強引に引きずり上げられる。間髪を容れず、真白が数秒前まで伏していた足場へ、数トンの巨岩と黒い泥流が凄まじい地響きを立てて雪崩れ込んだ。激しい水飛沫と泥煙が視界を白く染め上げる。「ゲ