FAZER LOGIN凛だ。その頃、凛は瀬戸家の本邸に身を潜めていた。今はここに隠れているしかなく、一歩も外へ出る勇気がない。うっかり外に出れば、気まぐれな和真に無理やり病院へ引きずり込まれ、お腹の子を堕ろされかねないからだ。そんなことになれば、後半生の安泰など吹き飛んでしまう。それに、駿大もまだ彼女を連れ戻そうと躍起になって探している。大人しく瀬戸家の本邸に引きこもっていることだけが、今の彼女にとって唯一の安全策だった。もっとも、本邸に置いてもらっているとはいえ、屋敷での扱いはまるで空気のようだった。これまでの悪事を知った美佐子と静江からは完全に毛嫌いされており、お腹に和真の子が宿っているという一点に免じて、渋々使用人を一人つけられているに過ぎない。それ以上の待遇など望むべくもなく、自由は一切奪われ、広大な屋敷のごく限られた場所でしか動くことを許されなかった。彼女たちの目に映る凛は、金と地位のためなら手段を選ばない、浅ましく下品な女でしかなかったのだ。まあ、あながち間違ってはいない。凛自身、自分がそういう人間だとよく分かっていた。富を渇望し、自分こそが生まれながらにして贅沢を享受するべき存在なのだと、心の底から信じ込んでいるのだから。かすかな記憶がある。自分が「高城凛」になるずっと前、幼い頃の自分は、それこそ大豪邸に暮らしていたはずだ。おぼろげな幼少期の記憶の中にあるその家は、とてつもなく広くて天井が高く、まるでお城のようにそびえ立っていた。瀬戸家や高城家の屋敷ですら、記憶の中にあるあのお城に比べれば見劣りするほどだ。まだ小さかった頃、夢うつつの中でいつも誰かが耳元で囁いていた気がする。「あんたは一生、お金持ちとして贅沢に暮らす運命なの。生まれながらに、すべてを手に入れる権利があるのよ」「欲しいものがあるなら、誰からでも奪い取ってしまえばいいの。私のお姫様」ぼんやりとした記憶の片隅には、いつも白いドレスを着て、長い髪を垂らした儚げな女の姿もあった。けれどその後、見知らぬ二人の人間に連れられ、あのお城から追い出された。それからの日々は惨めなものだった。ふかふかの大きなベッドも、美味しいケーキも、着替えを手伝って遊び相手になってくれる大勢の使用人も、全部欲しかったのに。ある日、蝶々の飾りがついた可愛いお姫様
深く息を吸い込み、冷たい水をグラス一杯あおって、ようやく少しだけ頭が冷えた。震える指でスマホを操作し、裏のアカウントに切り替えてメッセージを打ち込む。【前回頼んだ件、抜かりはないわよね?】相手はプロの業者なのだろう、返信はすぐに飛んできた。【どの件だ?】沙耶が彼らに依頼した仕事など、数え切れないほどあった。【ホテルと、チンピラよ】あえて詳細を言葉にする必要はない。それは、沙耶が男を使い、ホテルで実花に薬を盛らせてチンピラに襲わせた一件のことだ。今度は少し返信が遅れた。おそらく過去の記録を確認しているのだろう。数分後、ようやく画面が光った。【あぁ、向こうが言ってたぜ。一晩中たっぷり味わえて、女のイキっぷりも最高だったってよ。後からネットで顔写真を確認したが、黒田のところのお嬢ちゃんで間違いねぇってさ】【他の奴に嗅ぎ回られたりしてないでしょうね?】【絶対にねぇよ】そのメッセージを見て、沙耶はわずかに胸をなで下ろした。もっとも、そのチンピラが湊や夜行の底知れぬ狂気におびえ、恐怖で口を割れなくなっていることなど、彼女は知る由もない。彼女が頼りにしていたのは、最初から最後まで自分の手が汚れておらず、間に仲介役を挟んでいるため、どんな捜査が入ろうとも自分に辿り着くはずがないという、歪んだ自負だけだった。――湊さんが言っていた「自分がしたこと」というのは、きっと別の何かのことだわ。そうやって必死に現実逃避でもしなければ、正気を保てなかった。なにせ、彼女が裏で仕出かした悪事など数え切れないのだから。湊の名前が脳裏をよぎるたび、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。長年密かに恋い焦がれてきた湊は、彼女にとって完璧な理想の男性だった。冷酷で、周囲の人間を氷のように冷たく突き放すその孤高な姿が、当時の彼女にはたまらなく気高く魅力的だったのに。いざその冷たい刃が自分に向けられてみると、こんなにも息が詰まるほど苦しいものだなんて思いもしなかった。だが、今は感傷に浸っている暇などない。湊が口にした「もう一人の男」の正体を、何としても突き止めなければならなかったのだ。まずはホテルに直接電話をかけ、防犯カメラの映像を開示するように要求した。しかし、ホテル側は顧客のプライバシー保護を理由に、冷淡に突っぱねた。
澄江のポケットの中には、数本の髪の毛が隠されていた。先日、実花の寝室を掃除した際に、枕元からこっそりと回収しておいたものだ。実花は、百合の娘ではない。――だが、私の娘である可能性はあるのだから。……一騒動起こした百合が不承不承といった様子で立ち去った後、湊は間髪入れず空港へと向かった。実花の搭乗した便から数時間遅れとなるフライトを、強引に押さえたのだ。搭乗ゲートをくぐる直前、湊は自ら鈴木の携帯へ電話をかけ、神経質なほど事細かに指示を飛ばした。「実花の到着は午後五時だ。お前は他の護衛も連れて、到着ロビーの出口で待機しろ。万全を期して一時間前には配置につけ。運転は絶対に慎重にしろ。何があろうと、あいつから一秒たりとも目を離すな」普段の冷酷無比な社長からは想像もつかないほどの饒舌ぶりに、鈴木は戸惑いを隠せず思わず聞き返した。「あの……社長。もしかして、実花さんにまた何か危険が?」「あいつは、妊娠している」「……えっ!?」電話の向こうで、鈴木が盛大にむせる音が聞こえた。通話を切った後も、湊の過保護な手配は止まらない。最高峰の専属シェフ、妊婦専門の管理栄養士、ベテランの家政婦、さらには追加のSP……これだけの人員を配置するとなれば、今実花が住んでいるマンションでは到底手狭だ。湊はすぐさま、海浜市に所有する自身の別荘を、妊婦にとって完璧な環境に改装するよう業者に命じた。……これでもう、実花を黒田の屋敷へ戻らせる理由もないな。あの沙耶のように底意地の悪い女がうろついている場所に、身重の実花を置いておくなど論外だった。実花が一緒に住んでくれるかどうか? ――これだけ全面的なサポートを約束してやったのだ、「その見返りとして俺の傍にいてくれ」と要求する権利くらいはあるだろう。湊の口元には、何をどうしても隠しきれない甘い笑みがこぼれ続けていた。機内へ搭乗する際、出迎えたCAに向かって機嫌よく微笑みかけ、優雅に会釈までしてみせた。その色気を孕んだ深い微笑みに、CAたちは一瞬呼吸を忘れて呆然と立ち尽くしてしまったほどだ。シートに深く腰を下ろし、湊は静かに目を閉じた。傍目にはいつもの冷徹な顔に戻ったように見えるが、その脳内はすでに、生まれてくる我が子の名付け会議で埋め尽くされていた。男の子なら「実(みのる)」にする
「……くっ、ふふ……っはははは!」むせ返りが収まった守三は、珍しく腹の底から愉快そうに大笑いした。そして、それからたっぷりと五分間、石像のように固まったまま歓喜を噛み締めていた湊が、ようやく口を開いた。「祖父さん。退院したばかりで申し訳ありませんが……俺が留守の間、篠宮の采配はお任せしても?」一秒たりともここに留まる気はないとばかりに、湊は踵を返そうとする。「ほう?どこへ行くつもりだ。ずいぶんと急ぎのようだが」守三が笑いを噛み殺しながらわざとらしく尋ねると、湊は振り返りもせずに答えた。「――妻を口説き落としに」「相手はまだ頷いてもおらんだろうに、気が早いことだ。どうせお前の独り相撲だろうよ」守三は容赦なく水を差したが、その目元は完全に下がりきっていた。孫嫁としてこれ以上ないほど面白い女が、曾孫まで連れてきてくれるのだ。早くあの憎たらしいほど賢い小娘が子供を産み落とす日が来ないかと、守三は早くも曾孫を抱き上げる自分の姿を夢想し始めていた。「さて、どう口説き落としたものか……」待ちに待った曾孫の気配にすっかり相好を崩した守三と、まだ見ぬ我が子への喜びに浸る湊。和やかな空気が流れ始めたダイニングルームへ、突如としてヒステリックな女の金切り声が乱入してきた。「湊!妹はどこへ行ったの!?まさか、どこかに隠したんじゃないでしょうね!」百合だった。血相を変えて乗り込んできた実の母親に、湊の瞳は一瞬にして絶対零度の氷点下へと冷え込んだ。「何度言えばわかる。俺と実花には血の繋がりなど一切ない」湊は吐き捨てるように言った。実花が自分の子供を身籠っていると知った今、百合の「妹だ」という狂言は、吐き気をもよおすほどおぞましいものに感じられた。そして同時に、猛烈な怒りが込み上げてくる。実花は、とっくに自分が妊娠していることに気づいていたのだ。それなのに、百合に「二人は異父兄妹だ」と喚き散らされたとき、実花の胸中はどれほどの恐怖と絶望、そして底知れぬ嫌悪感に苛まれたことだろうか。それを想像しただけで、湊は目の前の母親の首を絞め上げてやりたい衝動に駆られた。「嘘よ!あんたが検査結果を裏で手を回して改ざんしたに決まってるわ!私は信じない!あの子を他の病院へ連れて行って、何度でも再検査させるから!」「……
――ピコン。その数秒後、追い打ちをかけるように湊のスマートフォンが一件の通知を知らせる。それは、裏で手配させていた特別な医療機関から送られてきた、【浅見実花の血液精密検査・最終結果報告書】だった。湊は、全身に雷を落とされたような衝撃を受け、贈り物を持った姿勢のまま完璧な石像と化していた。視線だけを動かして手元の端末を開くと、ずらりと並んだ複雑な数値の羅列の中で、一箇所だけ赤く強調されている項目がある。【 HCG(ヒト絨毛性ゴナドトロピン)数値:著しい上昇 】【 診断所見:妊娠初期の可能性が極めて濃厚。速やかに産婦人科での精密検査を推奨する 】画面を食い入るように見つめながら、湊の脳内で、ここ数日の実花の不自然な行動がパズルのピースのようにカチリカチリとはまり始めた。――そういうことだったのか。健康診断の結果を尋ねたとき、明らかに視線を泳がせて誤魔化していたこと。大好物だったはずの魚介類を見ただけで気分を悪くし、箸すらつけなかったこと。ベッドで自分が理性を失いかけたとき、彼女は必死の形相で拒絶し、生理なのだと嘘をついてまで行為を避けようとしたこと……!妊娠など経験したことのない自分が、そんなわずかな兆候だけで気づけるはずもなかった。極限の驚愕が過ぎ去った後、湊の胸の奥から、山を呑み込み海を割るような凄まじい歓喜が爆発した。実花が、俺の子供を身籠っている。この世のどんな偉業も、どんな途方もない富を手に入れることも、今のこの事実に比べれば塵芥に等しい。心臓が狂ったように暴れ回り、脳内で無数の花火が打ち上がったように視界が白く明滅する。あまりの鼓動の激しさに、肋骨が内側から砕け散るのではないかと錯覚するほどだ。生まれて初めて、湊は完全に言葉を失い、自分の手足をどう動かせばいいのかすら分からなくなっていた。今すぐ実花の元へ飛び立ち、あの華奢な身体を腕が折れるほど強く抱きしめて、この狂おしいほどの心音を聞かせたい。だが無情なことに、この全てを引き起こした張本人は、今まさに遥か上空の飛行機の中だ。歓喜の絶頂の直後――今度は背筋が凍るような、身の毛もよだつ恐怖と安堵が波のように押し寄せてきた。時期を逆算すれば、実花が拉致され、あの廃工場で命の危機に晒されていたとき……彼女のお腹の中には、すでに俺たちの子供がいた
「祖父・征二郎様の顔に免じて、俺の手元にあるあの夜の動画データは当面保留にしておいてやる。だが、もしこれ以上あの胸糞悪い汚い真似を続けるなら――黒田沙耶、お前が社会的に完全に終わる覚悟をしておけ」それだけを冷酷に言い捨て、湊は通話を一方的に叩き切った。最悪の気分だ。せっかくの実花との甘い余韻が、あんな薄汚いゴミ女のせいで完全にぶち壊しにされた。苛立ちを隠しきれない湊の端末が、間髪入れずに再び着信を知らせた。またしても見知らぬ番号。「……何だ」機嫌が最悪の底辺まで落ち込んだ湊が凄みを利かせて応じると、電話口から飛び出してきたのは――怒髪天を突くような勢いの、野太い男の怒鳴り声だった。「あ!?もしもし!オタクが【開運☆招福】さんっすか!?荷物届いてるんすけど!」篠宮の当主に向かって放たれたとは思えない、あまりにも横柄で苛立った宅配員の怒声。「さっきから何回も何回も電話してんのに、なんで出ねえんすか!こっちも暇じゃねえんすよ、時間無駄にさせやがって!」――【開運☆招福】。それは実花が最近設定した、あまりにもふざけた偽名だった。こめかみに青筋を立てながら、湊はギリッと奥歯を噛み締め、なんとか怒りを腹の底へねじ伏せる。すべては実花から頼まれた「自分で受け取れ」という任務のためだ。「……今すぐ戻る。門の前で待っていろ」「は?待つ?ふざけんな、こっちは次の配達が詰まってんだよ!門の前に放り投げとくからな!」ブチッ!!ツーツーツー……「……」無機質な電子音だけが響くスマートフォンを握り締めたまま、湊は完全にフリーズしていた。湊様が……あの泣く子も黙る篠宮の社長が、ただの配達員に怒鳴られて一方的に切られた……!?運転席の山崎は、寿命が十年縮む思いでアクセルを床が抜けるほど踏み込んだ。社長の理性が焼き切れる前に、一秒でも早く屋敷へ帰り着かなければならない!あの実花さんからのプレゼントを、何としてでも無事に回収しなければ!それにしても――と、山崎は冷や汗を拭いながら心の中で密かに感嘆していた。この七年間、どんな修羅場でも氷の彫刻のように顔色一つ変えなかった冷徹な主が、今日だけでジェットコースターのように感情を振り回されている。すべては、あのお方――浅見実花、ただ一人のために。……屋
夜、七時半。瀬戸家の邸宅にあるキッチンは、温かな湯気に包まれていた。白身魚の蒸し物が湯を上げ、牛肉の煮込みが照りよく仕上がっていく。綺麗に切り揃えられた豆腐が、コンロの上の出汁のなかでことことと心地よい音を立てていた。そこへ、リビングのドアを開けて和真が帰ってきた。ダークカラーのチェスターコートに、仕立ての良いスーツ。首元のネクタイは少しだけ緩められている。夕食の準備をしている実花の姿を目にして、彼の鋭い目元がほんのわずかに和らいだ。実花はキッチンで手を動かしたままだ。帰宅の気配に気づいても、振り返りもせず、作業の手を止めることもしない。以前の彼女なら、和真が時
場内は水を打ったような静寂に包まれた。和真の顔が瞬時に険しくなり、周囲の参列者たちは思わず息を呑む。言葉を失った凛は、目に涙を溜めていかにも「悲劇のヒロイン」といった体で震えていた。和真は結局、無言のまま焼香台へと進んだ。遺影の前に立つ彼の背筋はあくまで真っ直ぐだったが、どういうわけか、胸の奥が妙に締め付けられるような感覚に襲われていた。実花は最後まで、一度も彼の方を見ようとはしなかった。香炉に線香を立て、和真は振り返る。床に膝をつく実花の細い背中を見つめ、迷った末にようやく言葉を絞り出した。「実花……僕は、ここに残るよ」「和真くん……っ」その時、凛が不意に額を押さ
斎場の中は、芯まで冷え切っていた。弔いの音楽が延々と繰り返され、香炉に落ちる灰の音さえ聞こえてきそうなほど、静寂が重くのしかかっている。瀬戸実花(せと みか)は父の遺影の前で膝をついていたが、とうに感覚は消え失せていた。指先を掌に強く食い込ませ、辛うじて自分を繋ぎ止めている。今ここで糸が切れたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。背後から、参列者たちのひそひそ話が刺すように届く。「和真さんはどうしたんだ?まだ姿を見せないが」「知らないのか?空港だよ。ニュースになってる」「空港?こんな時に、一体誰を迎えに行ってるんだ。今日は義理の父親の葬儀だぞ」「例の『忘れられない
一見すると、妻を思いやる完璧な夫の台詞だ。だが、実花にはわかっていた。これは彼なりの、ちっぽけな罪悪感の清算に過ぎない。実花がいつものように「遠慮しておくわ」と物分かりよく断ることを、彼は最初から確信しているのだ。「ううん、せっかくだから行くわ」実花の返答に、和真は虚を突かれたように動きを止めた。「……え?今、なんて言った?」「行くと言ったの。体調ももう大丈夫だし、あなたの友人たちに挨拶しておくのもいいかと思って」実花は静かに微笑んだ。どうせ、彼らと顔を合わせる機会なんて、この先二度と訪れないのだから。翌日の夜。指定されたのは会員制のプライベートラウンジだった。開放的な







