Masuk「ああ」湊は踵を返し、立ち去る前にもう一度だけ、実花が眠る部屋の方向へ視線を向けた。「わたし、独身だもん」……か。あの小悪魔のような女が、自分をその気にさせるためにあんな見え透いた嘘をついたのかと思うと、呆れると同時にたまらなく愛おしかった。湊はまだ、実花が和真と正式に離婚したことを知らない。だからこそ、自分が瀬戸和真という夫がいる人妻を抱いてしまったのだと自嘲した。俺も俺だ。結局理性を保てずに、一線を越えてしまうとはな。だが――一度自分のものにしたからには、もう絶対に後戻りする気はなかった。相手が誰であろうと、強引にでも奪い取ってやる。「……そういえば、瀬戸和真の動きは?」実花の「夫」を思い出し、湊の声にドス黒い殺気が混じる。すると山崎は、ひどく気まずそうな顔をして湊の耳元へ顔を寄せた。「実は……先ほど支配人が監視カメラを確認した際、瀬戸和真が高城凛と共に、別の客室へ入っていくのが映っておりました」「……ッ」湊は鼻で冷たく笑った。「ゴミはどこまで行ってもゴミだな。正真正銘のクズだ」たとえ自分が実花を奪うつもりだとしても、実花の尊厳がこれほどまでに下劣な男に踏みにじられることだけは絶対に許せなかった。実花は、この世の誰よりも大切に愛されるべき存在なのだ。「今後、瀬戸和真が実花に一切近づけないよう、鈴木に徹底させろ」昨夜、彼女を抱いた。もう遠慮などするつもりはない。実花は、俺の女だ。---数時間後、実花は重い瞼をこじ開けた。全身が、まるで巨大な岩で何度も轢かれたかのようにひどく痛む。おまけに頭は割れそうにガンガンと鳴っていた。ぼんやりする頭で、昨夜の断片的な記憶を必死に手繰り寄せる。思い出した。冴島夜行だ。あいつは確かに、お母さんのことを口にした。母の死の真相。その手がかりが、ようやく見え始めたのだ。夜行は間違いなく、真実へ至るための突破口になる。だが、それと同時に、背筋が粟立つようなおぞましい感覚も蘇ってきた。薬で朦朧とする中、夜行の手が肌を這った時の、あのねっとりとした吐き気のする感触。意識を手放すまいと、必死に唇を噛み破るほど耐えていた自分の姿。あの後、夜行はどうやって姿を消したんだったか。そうだ。彼が来たんだ。湊が。湊の纏う、冷たくて鋭いあの
湊は、生涯最大の自制心を総動員して、最後に一つだけ意地悪な探りを入れた。「……じゃあ、お前の夫は?もし今日ここにいるのがあいつだったら、お前はあいつに抱かれたか?」「……夫?」実花の顔に、一瞬だけぽかんとした迷いが浮かんだ。だが、すぐに湊がまた自分を突き放すのではないかと焦ったように、必死に首を横に振った。「私に、夫なんていない……わたし、独身だもん……っ」その言葉を聞いた瞬間だった。湊の脳内で、無数の絢爛な花火が一斉に爆発した。ギリギリのところで繋ぎ止めていた理性の糸が、音を立てて完全に弾け飛ぶ。彼はもう一秒たりとも我慢することなく、実花の甘い唇へと深く覆い被さった。「んんっ……あ……」実花の口から、満足げな熱い吐息が漏れる。火照りきった全身が、まるで真夏の冷たい泉に浸かったように、心地よい清涼感と快楽に包まれていった。――それから、二時間後。VIPスイートルームのドアの前では、篠宮家専属の医師がすでに一時間以上も息を殺して待機させられていた。深夜、ベッドの中から緊急の呼び出しを受けた時は、てっきり当主に命に関わるような一大事が起きたのだと青ざめて飛んできたというのに。蓋を開けてみれば、薄暗い廊下で側近の山崎と向かい合い、ひたすら気まずい沈黙の中で立ち尽くす羽目になっていた。だが、扉の向こうにいる絶対的な主の行動に、文句を言える者などこの世に存在するはずがない。医師は大人しく医療バッグを握りしめ、忠犬のように呼ばれるのを待つしかなかった。ガチャリ。ついに、重厚な扉が開かれた。ダークネイビーのシルクのガウンを無造作に羽織った湊が姿を現す。「入れ。薬の残効がないか、念のため診ておけ」その声は、明らかに情事を終えた直後の、ひどく掠れた色気を帯びていた。室内に足を踏み入れると、濃厚で甘い事後の匂いがむせ返るほどに充満していた。山崎も医師も、決して余計な場所へは視線を向けず、床だけを見て真っ直ぐに進む。実花は、ふかふかの巨大なベッドの海で、すでに泥のように深く眠っていた。首から下は分厚い掛け布団で隙間なくぐるぐると包み込まれており、医師が脈拍などのバイタルを確認できるよう、透き通るような白い腕だけがちょこんと外に出されている。湊はベッドの傍らに立ち、静かな寝息を立てる実花の愛らし
だが、最高の暇つぶしになった。「また会おう、篠宮湊」夜行はククッと喉の奥で笑うと、部屋を取り囲む篠宮家の精鋭たちを一瞥もせず、まるで誰もいない散歩道を歩くように堂々と歩き出した。反射的に立ち塞がろうとしたボディガードが、夜行が流し目で睨みつけた瞬間、その底知れぬ狂気の眼光に金縛りに遭ったように足を止める。「……行かせろ」湊が低く冷徹な声で命じた。先ほど到着した際、ホテルの周囲には完全武装した冴島家の車列が待機しているのを確認済みだった。ここで無理に夜行とやり合えば、間違いなく双方に甚大な被害が出る。下の階ではお披露目パーティーが続いている今、大立ち回りを演じるわけにはいかなかった。「お前らも、全員ここから出ろ」湊の声は、周囲の空気を凍りつかせるほどに冷ややかだった。こんな姿……絶対に誰にも見せるものか。熱に浮かされ、甘い声で泣き濡れる実花。半分はだけたドレスから覗く白い肌。狂おしいほどの独占欲が湊を支配し、他の男の視線など一秒たりとも浴びせたくなかったのだ。黒服たちが慌てて部屋から退室していく中、最後に残った山崎だけが、ドアの隙間から恐る恐る口を開いた。「当主……実花様はかなり強い薬を盛られているようです。至急、専属の医師を呼びましょうか?」「……あぁ」湊は実花をきつく抱きしめたまま、喉の奥から獣のような低い声で短く応じた。ドアが完全に閉ざされた瞬間、湊の腕の中にいた実花の動きが、さらに焦燥を帯びて激しくなった。薬の熱で潤んだ赤い瞳が、すがるように湊を見つめる。ふっくらとした桜色の唇が不満げに尖り、理性を失った彼女は本能のままに顔を上向け、湊に口付けをねだるような仕草を見せた。湊の喉仏が、ゴクリと上下に動く。彼はたまらず、バッと顔を背けた。「……苦しいの……ここ、触って」実花が泣きじゃくるような震える声で哀願する。耐え難い熱に急かされるように、彼女は自ら湊の冷たい手を取り、自分の熱い肌へと押し当てようとした。「熱いの……おかしくなりそう……お願い、早く触ってよぉ……っ」その甘ったるい声を聞いた瞬間、湊の思考は、不可抗力で二十年前の記憶へと引き戻された。――あれは、実花がまだ五歳の頃だ。酷い水疱瘡にかかり、かさぶたが治りかけの時期、実花は全身を掻きむしりたくなるほどの痒みに
「……あ?」「……っ、承知いたしました」殺される。本能的な恐怖に屈した山崎は、それ以上何も言えなかった。漆黒のベントレーは凄まじいスキール音を響かせてハイウェイを急旋回し、再び狂ったようなスピードでホテルへと引き返していった。湊がホテルに到着した時、支配人は滝のような冷や汗を流しながら監視カメラの映像を準備して待ち構えていた。「み、実花様は……2502号室に入られた後、一度も出ておられません!」映像には、実花が一人でカードキーを使い、ふらふらと2502号室へ入っていく姿が映っていた。一人で入室したため、監視室のスタッフも特に不審に思わなかったらしい。支配人は恐怖で歯の根が合わなかった。つい数時間前、湊に対して「警備は完璧です。絶対に何事も起きません!」と大見得を切ったばかりだったのだ。自分のホテルで実花に何かあれば、命はない。だが、今の湊にはこの無能な支配人を粛清している暇などなかった。ドォォンッ!!2502号室の分厚い扉が、湊の蹴り一発で蝶番ごと吹き飛んだ。だが、室内に飛び込んだ湊の目に飛び込んできたのは、彼を絶望の淵へと突き落とす光景だった。「……!」実花はドレスをはだけさせ、全身を情欲に染めた赤い顔で目を閉じていた。そして、ベッドの傍らに立つ男に向かって――自ら口付けを強請るように、震えながら顔を近づけていたのだ。湊の頭の中で、ブツンと何かが切れる音がした。次の瞬間、彼は獣のような速度で男に飛びかかると、その胸ぐらを掴み上げ、空気を引き裂くような拳を思い切り叩き込んだ。ゴッ!鈍い打撃音が響き、殴り飛ばされた夜行の顔が激しく横に弾かれた。彼の口角から、再びタラリと鮮血が滴り落ちる。「……冴島夜行」湊の声は、不気味なほど低く、平坦だった。だが、彼をよく知る者であれば、その声にどれほどの凄まじい殺意が込められているか痛いほど分かるはずだ。「貴様ら冴島家は……波前市ごと地図から消え去りたいらしいな?」冗談でも脅しでもない。完全な処刑宣告だった。だが、夜行は痛みにわずかに顔を顰めた後、目の前で地獄の業火を纏う湊の顔を見て――堪えきれないように低く笑い出した。「は……ははっ、あははははっ!」夜行は狂ったように笑い声を上げた。「そういうことか。お前が欲しがっていた
狂ってる……!実花は心の中で毒づいた。条件交渉も脅し文句も通用しなかったわけだ。こんな狂人に、まともな理屈が通じるはずがない。だが――「由紀子」という単語を聞いた瞬間、実花はどうしても黙っていられなかった。「お母さんに何があったの!?あなたとどういう関係があるっていうのよ!」夜行は血の滲む唇を歪め、からかうように笑った。「知りたいか?なら、俺にキスしろ」「ふざけないでっ!」実花は憎悪に満ちた目で夜行を睨みつけた。「あなたが言わなくても、自分の力で絶対に突き止めてみせるわ。いつか必ず、本当のことを……!」「真実だと?」夜行は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻で笑った。「冴島家と黒田家が総力を挙げて口封じをした一件だ。お前ごときが、欠片でも調べられると思っているのか?」その言葉に、実花の心臓がドクンと重く鳴った。……悔しいが、この男の言う通りだ。黒田家の情報統制は完璧で、自力ではいくら調べても無駄だった。「どうする?今日を逃せば、一生真実を知ることはできないぞ。次に知りたいと泣きついてきても、こんな簡単な条件じゃ済まさない」夜行は獲物を追い詰める捕食者のように、ゆったりとした仕草で自身の額を指差した。「ここだ。ここにキスをしたら、少しだけ教えてやる」実花は、目の前の男を殺意すら滲む目で睨みつけた。だが、その心の中では必死に自分自身を言い聞かせていた。いいじゃない。道端の野良犬に口付けするようなものよ。減るもんじゃないわ……!大きく深呼吸をして、胃の底から込み上げる吐き気を必死に抑え込む。実花はゆっくりと目を閉じ、震える体を持ち上げて、男の額へと少しずつ顔を近づけていった。その少し前のこと。漆黒のベントレーが、海浜市のVIP専用プライベート空港へ向かって夜のハイウェイを疾走していた。「あぁ、分かっている。すぐに人員を増員しろ! ホテルのリソースはすべてお前たちに一任する。絶対に探し出せ!」ハンドルを握る山崎は、インカム越しに声を殺して指示を飛ばしていた。後部座席の湊には、彼の焦燥しきった表情は見えないはずだ。通話を切った山崎は深く深呼吸をして、表情筋を無理やり平常時のものに作り変える。そしてルームミラーをちらりと覗き込み、極めて冷静な声で後部座席の主へ報告した。「当主様。あ
だが――ベッドの傍らに立った夜行は、ただ静かに、冷え切った目で実花を見下ろしているだけだった。その手は彼女に触れようともしない。「……似ていないな。やはり、似ていない」暗闇に、氷のように冷たい呟きが溶ける。目の前で発情し、甘い吐息を漏らす絶世の美女。しかし、夜行の目に映る実花の体は、ただの「物」でしかなかった。部屋の隅にあるテーブルや、味気ないスタンドライトとなんら変わらない、ただの無機質な造形物。彼の狂気に満ちた瞳には、微塵の欲情すら宿っていなかった。突然聞こえた男の低い呟きに、実花の全身からどっと冷や汗が噴き出した。誰かいる……!?跳ね起きようとしたが、手足は泥のように重く、まったく力が入らない。それどころか、体の芯からは先程よりもさらに強い、焼け付くような熱が絶え間なく湧き上がってくる。これは、ただの悪酔いじゃない。私……薬を盛られたの!?実花は咄嗟に奥歯を強く噛み合わせ、自身の舌先を思い切り噛み破った。口内に鉄錆のような血の味が広がる。その鋭い痛みのおかげで、ドロドロに溶けかけていた理性がほんの少しだけ引き戻された。熱い息を吐きながら薄く目を開けると、ベッドの脇に背の高い男のシルエットが立っている。逆光になっていて顔はよく見えない。だが、得体の知れない危険な空気を纏っていることだけは確かだった。実花は表情を作ったまま、布団の下で震える指を動かした。手探りでスマートフォンを掴み、画面を見ないまま、指先の感覚だけを頼りに通話ボタンを押し込む。プルー……プルー……極めて小さなコール音が鳴った。よかった、発信できた……!「あ、あなた……誰なの!?」その微小なコール音を掻き消すため、実花はあえて声を張り上げた。強がって上体を少し起こし、鋭く睨みつける。「私のお祖父様が……黒田征二郎だと知っての狼藉!? 今すぐ出て行きなさい!」黒田家の絶対的権力を盾にした、精一杯の威嚇だった。自分ではドスを効かせたつもりだったが、薬に侵され熱を持った喉から漏れ出たのは、ひどく甘ったるく、媚びるように掠れた嬌声だった。男はピクリとも動かない。実花は焦りを押し殺し、すぐさま交渉へと切り替えた。「お金が目的なら……望み通りの額を払うわ。他のことでもいい。あなたが言うなら、なんだって手配して
斎場の中は、芯まで冷え切っていた。弔いの音楽が延々と繰り返され、香炉に落ちる灰の音さえ聞こえてきそうなほど、静寂が重くのしかかっている。瀬戸実花(せと みか)は父の遺影の前で膝をついていたが、とうに感覚は消え失せていた。指先を掌に強く食い込ませ、辛うじて自分を繋ぎ止めている。今ここで糸が切れたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。背後から、参列者たちのひそひそ話が刺すように届く。「和真さんはどうしたんだ?まだ姿を見せないが」「知らないのか?空港だよ。ニュースになってる」「空港?こんな時に、一体誰を迎えに行ってるんだ。今日は義理の父親の葬儀だぞ」「例の『忘れられない
一見すると、妻を思いやる完璧な夫の台詞だ。だが、実花にはわかっていた。これは彼なりの、ちっぽけな罪悪感の清算に過ぎない。実花がいつものように「遠慮しておくわ」と物分かりよく断ることを、彼は最初から確信しているのだ。「ううん、せっかくだから行くわ」実花の返答に、和真は虚を突かれたように動きを止めた。「……え?今、なんて言った?」「行くと言ったの。体調ももう大丈夫だし、あなたの友人たちに挨拶しておくのもいいかと思って」実花は静かに微笑んだ。どうせ、彼らと顔を合わせる機会なんて、この先二度と訪れないのだから。翌日の夜。指定されたのは会員制のプライベートラウンジだった。開放的な
「まだ起きていらしたんですか?」心配そうに顔を覗かせた佐藤さんに、実花は何か答えようとしたが、喉が焼けるように痛んで声にならない。かろうじて短く息を漏らすのが精一杯だった。近寄ってきた佐藤さんが実花の額に手を触れ、息を呑んだ。「なんて熱……!ひどい熱ですよ」「少し、雨に降られたから……」実花は力なく微笑んだ。「薬は、もう飲んだわ」「そんな場合じゃありません!こんなに熱くては大変なことになります」佐藤さんは慌ててスマートフォンを取り出した。「和真様に連絡します。すぐに戻ってきていただかないと」一度目のコール。誰も出ない。二度目のコール。やはり応答はなかった。「もう
胸の奥がひどく重くなるのを感じ、実花は深く息を吸い込んだ。次に、和真のスケジュール管理ツールを開く。画面に並んでいたのは、目を疑うような記録の羅列だった。【凛:人間ドック】【凛:航空券・ホテル手配】【凛:誕生日】【凛:……】実花に関する記述を探そうと画面をスクロールし続け、ようやく最下部で見つけたのは、三年前に入籍した日の短いメモだけだった。実花は背もたれに身を預け、冷え切った指先を見つめた。感情を無理やり押し殺し、別のフォルダへと手を伸ばす。和真が最近購入した不動産、株式の取引履歴――専門的な数字の羅列は完全には理解できなかったが、構わなかった。見つけ







