ログイン――ピコン。その数秒後、追い打ちをかけるように湊のスマートフォンが一件の通知を知らせる。それは、裏で手配させていた特別な医療機関から送られてきた、【浅見実花の血液精密検査・最終結果報告書】だった。湊は、全身に雷を落とされたような衝撃を受け、贈り物を持った姿勢のまま完璧な石像と化していた。視線だけを動かして手元の端末を開くと、ずらりと並んだ複雑な数値の羅列の中で、一箇所だけ赤く強調されている項目がある。【 HCG(ヒト絨毛性ゴナドトロピン)数値:著しい上昇 】【 診断所見:妊娠初期の可能性が極めて濃厚。速やかに産婦人科での精密検査を推奨する 】画面を食い入るように見つめながら、湊の脳内で、ここ数日の実花の不自然な行動がパズルのピースのようにカチリカチリとはまり始めた。――そういうことだったのか。健康診断の結果を尋ねたとき、明らかに視線を泳がせて誤魔化していたこと。大好物だったはずの魚介類を見ただけで気分を悪くし、箸すらつけなかったこと。ベッドで自分が理性を失いかけたとき、彼女は必死の形相で拒絶し、生理なのだと嘘をついてまで行為を避けようとしたこと……!妊娠など経験したことのない自分が、そんなわずかな兆候だけで気づけるはずもなかった。極限の驚愕が過ぎ去った後、湊の胸の奥から、山を呑み込み海を割るような凄まじい歓喜が爆発した。実花が、俺の子供を身籠っている。この世のどんな偉業も、どんな途方もない富を手に入れることも、今のこの事実に比べれば塵芥に等しい。心臓が狂ったように暴れ回り、脳内で無数の花火が打ち上がったように視界が白く明滅する。あまりの鼓動の激しさに、肋骨が内側から砕け散るのではないかと錯覚するほどだ。生まれて初めて、湊は完全に言葉を失い、自分の手足をどう動かせばいいのかすら分からなくなっていた。今すぐ実花の元へ飛び立ち、あの華奢な身体を腕が折れるほど強く抱きしめて、この狂おしいほどの心音を聞かせたい。だが無情なことに、この全てを引き起こした張本人は、今まさに遥か上空の飛行機の中だ。歓喜の絶頂の直後――今度は背筋が凍るような、身の毛もよだつ恐怖と安堵が波のように押し寄せてきた。時期を逆算すれば、実花が拉致され、あの廃工場で命の危機に晒されていたとき……彼女のお腹の中には、すでに俺たちの子供がいた
「祖父・征二郎様の顔に免じて、俺の手元にあるあの夜の動画データは当面保留にしておいてやる。だが、もしこれ以上あの胸糞悪い汚い真似を続けるなら――黒田沙耶、お前が社会的に完全に終わる覚悟をしておけ」それだけを冷酷に言い捨て、湊は通話を一方的に叩き切った。最悪の気分だ。せっかくの実花との甘い余韻が、あんな薄汚いゴミ女のせいで完全にぶち壊しにされた。苛立ちを隠しきれない湊の端末が、間髪入れずに再び着信を知らせた。またしても見知らぬ番号。「……何だ」機嫌が最悪の底辺まで落ち込んだ湊が凄みを利かせて応じると、電話口から飛び出してきたのは――怒髪天を突くような勢いの、野太い男の怒鳴り声だった。「あ!?もしもし!オタクが【開運☆招福】さんっすか!?荷物届いてるんすけど!」篠宮の当主に向かって放たれたとは思えない、あまりにも横柄で苛立った宅配員の怒声。「さっきから何回も何回も電話してんのに、なんで出ねえんすか!こっちも暇じゃねえんすよ、時間無駄にさせやがって!」――【開運☆招福】。それは実花が最近設定した、あまりにもふざけた偽名だった。こめかみに青筋を立てながら、湊はギリッと奥歯を噛み締め、なんとか怒りを腹の底へねじ伏せる。すべては実花から頼まれた「自分で受け取れ」という任務のためだ。「……今すぐ戻る。門の前で待っていろ」「は?待つ?ふざけんな、こっちは次の配達が詰まってんだよ!門の前に放り投げとくからな!」ブチッ!!ツーツーツー……「……」無機質な電子音だけが響くスマートフォンを握り締めたまま、湊は完全にフリーズしていた。湊様が……あの泣く子も黙る篠宮の社長が、ただの配達員に怒鳴られて一方的に切られた……!?運転席の山崎は、寿命が十年縮む思いでアクセルを床が抜けるほど踏み込んだ。社長の理性が焼き切れる前に、一秒でも早く屋敷へ帰り着かなければならない!あの実花さんからのプレゼントを、何としてでも無事に回収しなければ!それにしても――と、山崎は冷や汗を拭いながら心の中で密かに感嘆していた。この七年間、どんな修羅場でも氷の彫刻のように顔色一つ変えなかった冷徹な主が、今日だけでジェットコースターのように感情を振り回されている。すべては、あのお方――浅見実花、ただ一人のために。……屋
「……黒田沙耶?」湊の眉間に、深い溝が刻まれた。心底から怪訝そうな色を隠そうともしない。「用件があるなら手短に言え」実のところ、湊は沙耶と数えるほどしか対面したことがなく、その声などまるで記憶に残っていなかった。おまけに喉に何か異物でも詰まっているのかと疑いたくなるような、不快極まりない鼻にかかった喋り方だ。誰が判別できるというのか。普段の湊であれば「仕事の件なら誠を通せ。俺に用があるなら秘書の山崎から面会予約を取れ」とだけ冷酷に言い捨て、一秒で通話を切断していたはずだった。しかし、ここ数日間の実花との甘やかな時間のおかげで、湊の機嫌は底抜けに良かった。それゆえ、この図々しい女にもほんのわずかな猶予を与えてしまったのだ。「湊さん!私、妊娠したの。あなたの子よ!」以前送った二度のメッセージと同じように無視されることを恐れた沙耶は、息を吐く間も惜しんで早口でまくし立てた。「あのね、前にもメッセージを入れたんだけど、お返事がなかったから……もしかしたら電波が悪くて届いてなかったのかと思って」――ああ、あの二件の迷惑メッセージの主はこいつだったか。「妊娠した?俺の子供を?――一体どの口が、それを俺の子だと言っているんだ?」湊は底冷えのする低い声で、感情の起伏を一切見せずに淡々と問い返した。だが、彼をよく知る者であれば、その不気味なほどの静けさの裏に、嵐のような凄まじい怒りが渦巻いているのがはっきりと分かるはずだ。運転席でハンドルを握っていた秘書の山崎は、思わずヒッと首をすくめた。今日という日の湊様は、この数年で一番と言っていいほど上機嫌だった。実花と異父兄妹などではなかったことも判明し、山崎は心の底から安堵して「これからは心置きなくお二人のイチャイチャを拝める!」と有頂天になっていたばかりだというのに。その社長を、たった二言三言でここまでブチ切れさせるとは――ある意味、この電話の主は恐ろしいまでの才能の持ち主だ。「え……湊さん、どういうこと……?」冷酷な反問を突きつけられ、沙耶は血の気が引くのを感じた。自分が何か勘違いをしている?それとも、ただ責任逃れのためにしらばっくれているだけ?遊び慣れた最低の男が、妊娠した女を突き放すときの常套句ではないか。女性を全く寄せ付けない孤高の男だと思っていたのに
一刻を争う事態に、嘉乃は各地から腕利きの修復師を緊急招集し、厳格な守秘義務を結んだ上で特別修復チームを編成して対応に当たる手筈だそうだ。仕事の話題に触れた途端、実花の瞳はみるみるうちに澄んだ輝きを宿していく。自らが心血を注ぐ天職について語るその姿は、見惚れてしまうほどに凛々しく、眩しいほどの熱気を纏っていた。「私、どうしてもこの修復に参加したいの。――私のこと、応援してくれる?」「当たり前だ」湊は一片の迷いもなく頷いた。今日の実花の温もりと愛おしさに、湊の心は幾度となく満たされていた。今の湊なら、実花が夜空の星を欲しいとねだったとしても、迷わずその手で捥ぎ取って捧げただろう。だが――愛の幸福感にすっかり酔いしれていた湊は、ひとつの決定的に不自然な違和感を見落としていた。実花がわざわざ「応援してくれるか」と、許可を求めるように問いかけてきたことだ。実花がわざわざ「応援してくれるか」と、許可を求めるように問いかけてきたことだ。本来の実花であれば、自ら決めた道を誰に気兼ねすることなく真っ直ぐに進む性分であり、湊自身も彼女のキャリアを邪魔したことなど一度たりともなかったのだから。篠宮家の広大な本邸へ帰り着いた頃には、夜もすっかり更けていた。退院直後で静養が必要な守三は、医師の指示に従ってすでに自室へ下がって休んでいる。帰りの車内、実花は手元のスマートフォンを操作して、ある注文を完了させていた。その届け先は、他ならぬこの篠宮家の屋敷だ。「何を買ったんだ?俺が支払おうか」湊が珍しそうに画面を覗き込んできた。湊のような立場の男が自ら通信販売を利用することなどまずなく、必要な品があればすべて秘書の山崎に手配させているからだ。「このお屋敷に届くように手配したの。明日荷物が届いたら、私の代わりに受け取ってくれる?」実花はどこか悪戯っぽく微笑み、湊を見上げた。「湊への贈り物よ。他の誰の手も借りずに、必ずあなた自身で開けてね」「俺に……?」湊にとって、それはなんとも新鮮な響きだった。荷物を受け取ること自体はあるが、篠宮家の本流たるこの屋敷の門を、自分宛ての宅配便がくぐるなど前代未聞のことだ。「わかった。明日届いたら、必ず俺自身の手で受け取って、自分で封を開けるよ」どこか誇らしげにそう約束する湊の顔を、実花は
恭平が肩に薄手の毛布を掛けながら訊ねると、守三は口元を歪めて薄く笑った。「もしあの娘が、篠宮家の財産目当てで湊にすり寄る浅ましい女なら、私のあの言葉を聞いて顔を青ざめさせるはずだ。湊がすべてを奪われて路頭に迷えば、自分には一文の得にもならんのだからな。なんとしても湊を宥めすかし、篠宮家に留まらせようと裏で画策し始めるだろう」「……なるほど。では、もしあのお嬢様が、そのような損得など眼中にない清廉な娘であったなら?」「そのときは、我が篠宮家の当主夫人に相応しい、信じるに足る肝の据わった孫嫁が手に入ったと喜べばいいだけの話だ」老獪な笑みを浮かべる守三。人の心の裏の裏まで読み尽くしたつもりの前当主だったが――この百戦錬磨の怪物ですら、計算に入れようもない決定的な事実があった。実花のお腹の中に、すでに何が宿っているのかということを。一方、後続の車内。実花は窓の外を見つめながら、重苦しい沈黙の中に沈んでいた。先ほどのお茶の席で、守三が柔和な笑みの裏で自分を冷酷に値踏みしていたことなど、百も承知だ。篠宮家の莫大な富など、実花にとっては最初からどうでもよかった。けれど――実花がどうしても見過ごせないのは、湊がこれまで背負ってきた血のにじむような苦難だった。かつて先代が築き上げた栄光をさらに塗り替え、篠宮グループの規模を倍以上にまで押し広げたのは、他の誰でもない、湊が自らの身を削り、命を賭して戦い抜いてきた結果なのだ。実花は今でも、湊の鋼のような身体に刻まれていた無数の古傷を鮮明に覚えている。そんな湊の積み上げてきたすべてを、自分の存在ひとつで奪い去るわけにはいかない。だが、それ以上に実花の胃をキリキリと締め上げていたのは――守三が最後に言い放ったあの非情な一言だった。『篠宮の血を引く跡継ぎの赤子だけはここに置いていけ』……待って、嘘でしょ……実花は湊に気づかれないよう、膝の上でそっと下腹部に手を添えた。胸の奥で、頭を抱えて叫び出したい衝動が暴れ狂う。この事実が明るみに出たら、一体どうやってあの老獪な前当主に説明しろというのか。――会った初日。「守三様、ご機嫌麗しゅう。お孫さんは私のために家をあっさり捨てる覚悟のようです」――そして翌日。「守三様、再び失礼します。ご指名の跡継ぎなら、すでにお腹に宿っております」
「申し訳ありません、少々急を要する連絡が入ってしまいまして……少し席を外してもよろしいでしょうか」実花が丁寧に断りを入れると、守三は穏やかな笑顔のまま小さく頷いた。実花は会釈を返し、少し距離を取った木陰へと歩いて通話ボタンをスライドさせた。実花が十分に離れたのを見届け、守三は先ほどまでの柔和な空気を一変させ、底冷えするような声で低く切り出した。「……あの娘で決まり、ということか」遠くで通話する実花の背中へ、守三の冷徹な視線が向けられる。「ああ」湊の返答は極めて簡潔だった。祖父が何を言わんとしているのか、百も承知だったからだ。「ならば、黒田家への落とし前はどうつけるつもりだ」沙耶との間で進んでいた政略結婚の話を、守三は指している。「黒田家の令嬢は沙耶一人ではありませんし、篠宮家の同世代で独り身なのも、俺一人じゃありませんよ」すでに手を打ってある、とでも言わんばかりの冷ややかな湊の物言いに、守三はそれ以上追及しなかった。ここで孫の意志を頭ごなしに否定しても、かえって頑なになるだけだと熟知しているからだ。「お前が私生活で誰と逢瀬を楽しもうが、口を挟むつもりはない。若い者同士が惹かれ合うのも結構なことだ。だが――あの娘を篠宮の正妻として迎え入れるというなら、話は別だ。よく考え直すことだな」決定的な拒絶こそ口にしないものの、それは決して越えてはならない一線を引く言葉だった。「祖父さん……」湊が食い下がろうとした瞬間、守三が片手を挙げてそれを遮った。「この話はここまでだ」実花が通話を終え、こちらへ戻りつつあるのを守三は見逃さなかった。だが湊は引き下がらず、祖父へ背を向けたまますれ違うように実花が近づいてきていることにも気づかず、断固とした声で言い放った。「俺は、あいつ以外あり得ない」その覚悟を前にしても、守三の表情には一片の動揺もなかった。実花がすぐそこまで戻ってきているのをはっきりと視界に収めながら、あえて彼女の耳に届くよう、残酷な宣告を淡々と口にする。「ならば、篠宮家か、あの娘か。お前が選べる道はどちらか一つだけだ。――もし、どうしてもあの娘を連れて出て行くと喚くのなら、篠宮の血を引く跡継ぎの赤子だけはここに置いていけ。お前を一人前に育て上げたように、その次の世代を育て直すことな
胸の奥がひどく重くなるのを感じ、実花は深く息を吸い込んだ。次に、和真のスケジュール管理ツールを開く。画面に並んでいたのは、目を疑うような記録の羅列だった。【凛:人間ドック】【凛:航空券・ホテル手配】【凛:誕生日】【凛:……】実花に関する記述を探そうと画面をスクロールし続け、ようやく最下部で見つけたのは、三年前に入籍した日の短いメモだけだった。実花は背もたれに身を預け、冷え切った指先を見つめた。感情を無理やり押し殺し、別のフォルダへと手を伸ばす。和真が最近購入した不動産、株式の取引履歴――専門的な数字の羅列は完全には理解できなかったが、構わなかった。見つけ
夜、七時半。瀬戸家の邸宅にあるキッチンは、温かな湯気に包まれていた。白身魚の蒸し物が湯を上げ、牛肉の煮込みが照りよく仕上がっていく。綺麗に切り揃えられた豆腐が、コンロの上の出汁のなかでことことと心地よい音を立てていた。そこへ、リビングのドアを開けて和真が帰ってきた。ダークカラーのチェスターコートに、仕立ての良いスーツ。首元のネクタイは少しだけ緩められている。夕食の準備をしている実花の姿を目にして、彼の鋭い目元がほんのわずかに和らいだ。実花はキッチンで手を動かしたままだ。帰宅の気配に気づいても、振り返りもせず、作業の手を止めることもしない。以前の彼女なら、和真が時
場内は水を打ったような静寂に包まれた。和真の顔が瞬時に険しくなり、周囲の参列者たちは思わず息を呑む。言葉を失った凛は、目に涙を溜めていかにも「悲劇のヒロイン」といった体で震えていた。和真は結局、無言のまま焼香台へと進んだ。遺影の前に立つ彼の背筋はあくまで真っ直ぐだったが、どういうわけか、胸の奥が妙に締め付けられるような感覚に襲われていた。実花は最後まで、一度も彼の方を見ようとはしなかった。香炉に線香を立て、和真は振り返る。床に膝をつく実花の細い背中を見つめ、迷った末にようやく言葉を絞り出した。「実花……僕は、ここに残るよ」「和真くん……っ」その時、凛が不意に額を押さ
斎場の中は、芯まで冷え切っていた。弔いの音楽が延々と繰り返され、香炉に落ちる灰の音さえ聞こえてきそうなほど、静寂が重くのしかかっている。瀬戸実花(せと みか)は父の遺影の前で膝をついていたが、とうに感覚は消え失せていた。指先を掌に強く食い込ませ、辛うじて自分を繋ぎ止めている。今ここで糸が切れたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。背後から、参列者たちのひそひそ話が刺すように届く。「和真さんはどうしたんだ?まだ姿を見せないが」「知らないのか?空港だよ。ニュースになってる」「空港?こんな時に、一体誰を迎えに行ってるんだ。今日は義理の父親の葬儀だぞ」「例の『忘れられない