LOGIN「自ら進んで人の運転手を買って出るなんて、物好きね」綾は小さく悪態をつくと、助手席に乗り込んだ。健吾はドアを閉め、運転席に回り込むと微笑んだ。「勘違いするなよ。俺はただ、お前の専属ドライバーになれるなら、進んで志願するだけだ」綾は苦笑する。「ご苦労さま。そんなちょっとしたご機嫌取りで、私が感動するなんて思わないでよ」健吾はふっと笑い、エンジンをかけた。途中、アイスクリーム店を見つけると、彼は路肩に車を止め、バニラ味を買って綾に差し出した。「ほら、これでも食べながら行こう。全部食べる頃にはバーに着くから」「子供じゃないんだから」綾はアイスを受け取り、スプーンで一口すくって口に入れた。香りが鼻に抜け、ひんやりとした甘さが広がった。健吾は口を開いた。「お酒には弱いんだろ?これからは出歩いて飲むのは控えたほうがいい。明里と遊ぶにしても家飲みにしろよ。自分のことを大事にしないなら、せめて子供のためにもさ」「分かってるよ」綾は短く返すと、黙々とアイスを食べ続けた。なぜかいつもなら30分で着く道のりが、気づけば1時間以上もかかっていた。綾は路肩に停めてあった自分の車へ向かうが、バッグの中をまさぐっても鍵が見当たらない。健吾が尋ねる。「鍵をなくしたのか?」「そんなはずはないんだけど……」考えを巡らせていた綾は、車の鍵を青斗に預けたままだったことを思い出した。「あ、他の人に渡したんだった。あなたは先に帰ってて。本人に連絡して届けてもらえるか聞いてみるから」健吾は帰ろうとせず、鋭く訊ねた。「そのガキ、どこの大学だ?」バーの前での光景が頭をよぎり、彼は鍵を取った相手が誰かなんてすぐに予想がついた。綾は訝しげに見る。「何をする気?」「届けてもらうなんて手間だろう。授業だってあるかもしれない。俺が送ってやるから取りに行こう。どこに行けばいいんだ?」「先に電話をかけてみるから」綾が鳴らすと、相手はすぐに出た。「綾さん?何かありましたか?」「今、大学にいますか?あの、車の鍵を返してほしいんですが」「寮でゲームをしていて、暇ですよ。そっちへ行きましょうか?」元気な声がスマホから聞こえてきた。綾は、若さっていいなと心のどこかで思った。「いえ、私が今から大学へ向かいます」スマホをしま
「綾、いい?」綾は眉をひそめて聞いた。「何がいいって?」健吾は目を閉じたまま、低くかすれた声で呟いた。「お前がほしい」綾は顔を赤らめ、歯を食いしばった。「帰ってよ。ここはあなたに用はないわ」健吾は動こうともせず、甘く吐息を漏らした。「綾……」綾は起き上がり、一発蹴りを入れてやろうとしたが、健吾はすでに深い眠りに落ちて寝言を言っていた。「綾、すごく柔らかいんだな……」自分を前にして、自分との甘い夢を見るなんて、本当にどうかしてる。綾は履物を脱ぎ捨てると、健吾の太もも目掛けて蹴りをくらわせた。健吾は飛び起きて、慌てた様子で訊ねた。「どうした?子供がまた熱を出したか?」綾は唇を噛んだ。健吾がそんな夢を見ていたなんて、とても言えそうにない。「子供は平気。起きて、ちゃんとしたところで寝なさいよ」余計な説明もせず、綾は履物を履き直して布団に入った。健吾は眉間を揉み、夢の内容を思い出してハッとした。彼は横になり、綾と子供たちのほうを向いて、柔らかな笑みを浮かべた。翌朝、綾は退院の手続きを済ませた。健吾は先に荷物を車へ運び、それから子供たちを迎えにきた。綾は一緒に下へ降りると、車には二つのジュニアシートが取り付けられていた。健吾は壮真を座らせてから、今度は瑞希を抱きかかえる。いつも人見知りをする瑞希が、抵抗することなく素直に抱っこされた。至れり尽くせりの段取りに、感謝の念がこみ上げた綾は、正直に「ありがとう」と言った。「当然のことをしただけだ。父親だからな」健吾はそう言いながら助手席のドアを開け、綾に座るよう促した。綾が座り、車が走り出すと告げた。「今後、二度と父親面しないで。他人に勘違いされるのが嫌なの」健吾はルームミラー越しに、冷ややかな綾を見て、低く笑った。「なら聞くが、今の俺たちはどういう関係なんだ?」「あっさりしたものよ。お互い前に進んだ元夫婦」と綾が答える。当時の別れが綺麗だったわけではないけれど、時間が苦しみを少しずつ薄れさせていた。振り返っても、あの時自分がどんな思いで過ごしていたのか、綾はもうよく覚えていない。ただ、あれが酷い病のような苦しみだったということだけは分かっている。病が治った今、もう二度と病気になんてなりたくない。健吾の目が鋭くなり、
綾は深く溜め息をついた。健吾という人は、どうやら自分にとってこの世で一番の「試練」らしい。誰かを心から完全に吹っ切るまでには、好きになる以上の時間と苦痛が必要だ。綾は手早くシャワーを浴びると、ネグリジェに着替えて外に出た。健吾はモップを持って床の水滴を拭いていた。綾が出てくるのに気づき、「足元が危ないから気をつけて」と声をかけた。綾が近づき、健吾の持つモップを取り上げた。「私が代わるから、先にお風呂に入って」指先が触れた瞬間、健吾の肌が氷のように冷え切っていることに気づいた。綾は苛立ちと憤りが募る。服が濡れたままでエアコンに当たって風邪を引きやすいことくらい分かっているはずなのに、それでもわざわざ浴室に押しかけてきて、全身ずぶ濡れになったのだから。服が濡れているからといって、追い出さないとでも思っているのか?それを聞いて、健吾の顔にあった暗い影は瞬く間に消え、彼は小さく笑った。綾はやっぱり、口では冷たくても本当は自分を気遣い、心配してくれているのだ。「掃除はいいよ、置いておいて。シャワーから出たら自分でやるから」健吾はバスルームへと足を踏み入れた。綾の香りが残る狭い空間で、さっきまでの二人のやり取りを思い出し、体に妙な火照りを感じていた。……病室で、綾はきれいに床を掃除し、ソファの上の毛布に潜り込んだ。小柄な自分には、このソファはぴったりだった。しかし、健吾にとっては明らかに小さすぎる。昨日もここで縮こまって眠っていたのだから、さぞ窮屈だったに違いない。綾は不満げに口を尖らせる。自分で好んで選んだ場所なのだから、心地いいかどうかなんて知ったことではない。しかし、健吾の入浴は長かった。待っている間にうとうとしてしまった綾だが、かすかなドアの音で目を覚ました。バスルームから戻った健吾が、ソファに丸まる綾を見て眉をひそめた。「どうした、一緒に寝る気か?」綾はあきれ顔で毛布を被り直した。「ベッドで寝れば?ここは私が使うから」「そんなに元夫が心配なのか?」と、健吾は茶化した。「寝ないなら出て行って」そう言うと、綾は彼に背を向け、毛布の奥へと縮こまった。目は閉じていても、頭上から自分を見下ろす健吾の気配をはっきりと感じた。恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に彼の顔があった。影に
綾が電話を切ると、健吾がじっとこちらを見ていた。その視線は、濡れたように重くまとわりつくようなものだった。健吾が冷めた口調で切り出した。「なんだ?バーの前にいた、あの色黒のやつか?」「健康的でいい色じゃない?変な偏見はよしてよ」と、綾は言い返した。健吾はその言葉を無視して、半歩距離を詰めると、なおも追及した。「あの色黒のやつと、一体どういう関係だ?」言い返そうとした綾の言葉が、ふと止まる。なぜ、わざわざ健吾に説明しなければならないのか?そもそも、何様のつもりで問いただしているのか?考えを変えた綾は、言い放った。「あなたに問い詰められる筋合いはないし、説明する義務もないわ」そう言って、背を向けバスルームへと向かった。しかし扉を閉めようとした瞬間、差し込まれた腕がそれを阻んだ。健吾は荒っぽくドアを押し開けると中へ踏み込み、振り返りざまに鍵をかけた。彼は綾の腰に手を回し、シャワーブースの角へ押し込むと、片手でシャワーのスイッチをひねった。冷たい水が二人を容赦なく打ち付け、薄手の服があっという間に濡れそぼった。「健吾!何するのよ!」綾は力一杯押し返そうとしたが、目の前の男は微動だにしない。顔を上げると、整った目元に、見たこともないほどの激しい怒りが浮かんでいた。滴る雫が彼の美しい顔を流れ、首筋を通り、開いた襟元へ吸い込まれていく。視線を落とした健吾は、じっと見つめていた綾と目が合った。至近距離にある見慣れた顔を見つめ、健吾の喉仏が大きく動いた。水滴が綾の顔を伝い、長い首筋を滑り落ち、ワンピースのVネックの奥へ流れていった。お湯ではないのに、濡れた服の中で熱がじわりと広がっていく。二人の息が混ざり合い、重なる心臓が激しく波打った。綾が再び手で健吾を突っ返したが、最初のような力はなかった。鼻の中に流れ込む水蒸気のせいで、うまく呼吸ができない。吸い込もうと口を開いた瞬間、唇を温かい感触が力ずくで塞いだ。「んッ!」必死に胸を叩いても健吾は一向にひるまず、綾の腰を抱いたまま後頭部を固定し、壁に強く押し付けてきた。壁と健吾の体の間に挟まれ、綾は逃げ場を失ったまま、息が切れるほど深くくちづけされる。窒息しそうになった瞬間、決心して下に手を伸ばし、健吾の急所を思い切り締め上げた。
綾ははっきりと「はい」と答えた。「もしよろしければ、中野さんと連絡先を交換できませんか?」綾はすぐに答えず、隣の湊の顔をうかがった。湊はスマホの画面を冷たく見下ろし、言い捨てた。「申し訳ありませんが、ソフィアさん。友達を作ることに興味はありません」そのまま彼は視線を逸らし、ベビーベッドで眠る瑞希を覗き込んだ。ソフィアが現れたことで、湊の中で健吾への嫌悪感がさらに募った。「何かの勘違いではありませんか?ただ純粋に、お友達として皆さんと仲良くなりたいだけなんです」ソフィアは真っ直ぐな瞳で言った。だが、綾にはどうしても合点がいかなかった。自分や湊と関わることで、ソフィアに何のメリットがあるというのだろう?ソフィアはI国の財閥の令嬢であり、生まれながらの特権階級にいる。釣り合う相手といえば健吾のような名家の子息であり、海外のロイヤルファミリーとも親交があるはずだ。そんなソフィアと比べれば、自分たちなど取るに足りない存在だった。「お誘いは嬉しいんですが、湊は体が弱くて、来客を接待するのは難しいんです」綾が理由を説明している間に、健吾がスマホを奪い取り、通話を強制終了した。「今後は関わって利益になる奴だけ相手にすればいい。つまらない相手とのお付き合いに、大事な時間や体力を使う必要なんてないんだ」彼は湊の方を向いて言った。「もう夜も遅いし、綾も休息が必要です。車で送りましょうか?」湊は健吾を無視して綾だけを見つめ、縋るような眼差しで囁いた。「綾、本当に俺に帰れというのか?こいつをここに残したまま?」綾は2秒ほど考えた。湊を傷つけない、一番良い答えは何だろうか。しかし、わずか2秒の沈黙だけで、湊は答えを悟ってしまった。「分かった。お休み」彼の声は沈んでいた。湊は最後に、複雑な眼差しを瑞希に向けてから立ち上がった。健吾のそばを通り過ぎる際、一度だけ足を止め、鼻で笑った。そのまま扉を開け、病室を出て行った。健吾は扉を閉めると、拗ねたように言った。「さっきのあいつ、完全に俺を小馬鹿にしてただろ?」綾は呆れ混じりに健吾の横顔を見た。たかが離婚しただけで、なぜ彼はこうも媚びたような甘ったれた態度を取るようになったのだろうか?以前より表情も百倍豊かになっているし、わざとらしく声を作って喋るようになった。
湊がノートパソコンの画面から視線を外し、開いていた企画書を見ると、その表情は陰った。綾が明里と共に会社を立ち上げると決めたとき、湊は力になりたいと申し出た。だが断られ、詳細なビジネスプランについても聞かせてもらえなかった。それなのに今、健吾は綾のパソコンを使って企画書を読み込み、遠慮なくダメ出しまでしている。健吾に敵わないのは、身体的な理由だけではないと、湊は知っていた。だが二人が離婚した今なら、少なくともまだ自分が競い合えると思っていたのだ。それなのに、今の自分はあまりにも無様で滑稽だ。同じように綾を傷つけた存在でありながら、綾は健吾のことだけは許し、寄り添おうとしている。自分に対するのは、他人行儀な礼儀と、わざとらしい拒絶だけ。湊の本心に気づいていない綾は、会話を遮るように言った。「湊、先生は明日退院していいって。だから、もう帰って休んで」湊は健吾を一瞥し、「山下さんもいないんだ。今夜は俺が残って子供の面倒を見るよ」と返した。だが、綾が留まらせるはずはなかった。湊は身体が弱く、夜更かしなどできないからだ。それに夜泣きすれば、大人の休息を妨げることになる。綾が断ろうとするよりも先に、健吾が口を開いた。彼はノートパソコンを閉じ、冷たい声で放つ。「中野社長、ここは俺がいるので、そっちはさっさと帰って寝てくださいよ」昼間の言い争いを思い出し、健吾はより酷い言葉を飲み込んだ。綾を困らせたくなかったからだ。湊は彼を無視して、深刻な面持ちで綾を見た。「綾、二度とこんな男に傷つけられないって、約束してくれ」こんな男、だと?健吾は唇をゆがめ、目には冷たい光が宿る。「湊、健吾と私はなんでもないの」言葉が終わらないうちに、綾のスマホが鳴った。彼女は座って応答ボタンを押す。「ビアンカちゃん、こんな時間まで起きてたの?」ビアンカの笑顔が画面いっぱいに広がる。「今日ね、ソフィアがこっちに来てるの。一緒にいて話してたんだけど、ソフィアが赤ちゃんの顔を見たいって言ってて」綾の笑顔が凍り付く。ソフィアが何を目的にしているのか、単に子供に興味があるだけなのか判断できない。健吾はスマホをひったくるように奪い、綾の代わりに答えた。「赤ちゃんたちはもう寝てる。だから無理だ」ソフィアの声が響く。「綾さん、近