LOGIN薄暗いバーの個室で、青い影が揺らめいている。凪はソファにもたれかかり、脚を組んでいた。向かいには、顔色が悪くやつれ、頬に傷を負った充が座っていた。彼はブランデーを一気に飲み干すと、喉の奥が熱くなるのを感じた。「俺たち親子をはめたのは、本当に綾なのか?」「直接見たでしょ?あの日、青木社長がいかにして綾を守り抜いたか。彼女自身に力はなくても、青木社長という権力を上手く操っているのよ」凪は充の瞳の揺らぎを冷静に見定めながら、酒を注ぎ足した。「あなたたちが収監された後、綾がこう嘲笑ってたわ。『高木くんはただの能なしよ。ちょっと動けば、高木家なんて跡形もなく消せる』って。青木家の権力ときたら凄まじいものね。相手が悪かったとしか言えないわ。復讐なんてやめて、出てきた以上は大人しく暮らすことね」ドガン、と音が響き、充がグラスをテーブルに叩きつけた。「くそっ、あの女を殺してやる!泣いて詫びるまで気が済まない!」塀の中で死ぬほどの思いをしたのは、すべて健吾が裏で糸を引いていたからに違いない。凪は含みのある笑みを浮かべた。「後悔しない?」充は大の女好きで、手が届かない存在だった綾への執着は狂気の沙汰だった。「俺の人生を滅茶苦茶にしやがって。地獄の底まで道連れにしてやる!」充の顔には邪悪な執念が滲み出ていた。以前は裕福な家の御曹司として、贅沢の限りを尽くしてきた男だ。すべては綾のせいだと、落ちぶれた今も信じて疑わない。昔の仲間も、自分に関わりたくない一心で避けている始末だ。たとえ事件と関係なかろうと、綾を泥沼に引きずり込み、完全に支配したかった。独り身で耐える暗い日々が、どれほど辛いものか。凪は内心で「バカめ」と毒づきながら、表面上は心配するフリをした。「苦労して救い出したんだから、深追いはしないで。次また捕まったら、もう私は助けられないわ」話題を転じ、こう続けた。「綾が凛を海外へ追いやったのよ。これ、足しに使いなさい」充は酒の入ったコップを強く握り締め、目を光らせた。「手ぶらで行くつもりはない。目的を果たしてから、凛にいい報せを持って行けばいい。俺は外道かもしれないが、友情には厚い男さ」充は凛と幼馴染であり、子どもの頃からずっと親しくしてきた。凛の問題は、充にとって彼
「湊はいつも一歩遅いのよ。愛情も、謝罪も、誠実さも……その一歩の遅れが、運命を大きく変えてしまうの」綾はそう言い捨てると、窒息しそうな会話を終わらせたくて、たまらずあくびをした。湊は黙り込んだ。病室は静まり返り、機器の規則正しい電子音だけが響いている。強い眠気に襲われ、綾はその夜、夢も見ずに朝までぐっすりと眠った。目を覚ますと、湊はすでに起きていて、看護師が体温を測っているところだった。綾が起きたのに気づいた湊は、優しい笑みを浮かべた。「おはよう」「おはよう。今日は少しは良くなった?」綾がベッドの横まで歩み寄る。湊の顔色は相変わらず青ざめていた。「大丈夫だよ。心配しないで」湊の心には複雑な思いが渦巻いた。これが、綾という女性だ。自分が深く傷つけてしまった相手なのに、最も弱っている時、綾は変わらずこうしてそばにいてくれる。ただ、この優しさは責任と善良さからくるものであり、愛とは別物だということも、湊は分かっていた。綾は身支度を済ませた。湊は今日もまだ食事を摂ることができない。少し話をしてから、綾は職場へ向かった。達也と専属の介護士がいるから、自分がいなくても安心だ。車を研究棟の地下駐車場に停める。近頃は猛暑が続いていて、一歩でも外を歩きたくなかった。車を停めた先で、ちょうど健吾が待っているのが目に入った。綾は冗談半分で尋ねた。「まさかここで社員の遅刻を監視しているの?」健吾は腕時計をちらりと見て、淡々と言い放った。「残念だ。遅刻はしていないようだな」「あなたと一緒に仕事をする以上、遅刻なんてできないからね」綾はエレベーターのボタンを押し、体をずらして健吾を先に促した。健吾はポケットに手を入れたまま、深刻な表情で口を開いた。「高木のやつが釈放された」綾は驚いた。「ついこの間、逮捕されたばかりじゃないの?」高木親子が逮捕されたなら、普通はかつての人脈も関わり合いを避けるはずだ。綾の知る限り、高木家に確たる後ろ盾はない。かつて最も親密だった後藤家も、今は高木家を深く憎んでいる。拓也は高木親子を一生閉じ込めておきたいと願っているほどで、手を貸すはずがない。健吾は表情を変えずに尋ねた。「どう思う?」綾は少し考えた。「凪がそれを知ったら、絶対に高木くんを使って私を攻撃し
綾は自嘲気味に微笑んだ。湊、本当に強欲ね。さんざん自分を傷つけておきながら、それでもまだ彼だけを想い続けてほしいなんて。綾は立ち上がって自販機へ向かい、温か飲み物で疲れを癒した。戻ってくると、湊は目を覚ましており、普段の冷たい瞳を焦点も合わさずに彷徨わせていた。「痛みで眠れないの?」湊の容体では強い鎮痛剤を使うことができず、痛みのすべてを一人で耐え抜かなければならない。湊は唇の端を吊り上げ、「大丈夫だ。もう寝なよ」と言った。「私もまだ眠くないから、もう少し本を読んであげる」綾はベッドの横に腰掛け、湊の額に手を当てた。肌は氷のように冷たかった。湊は元々体温が低かったが、病気になってからはさらに拍車がかかっていた。綾は枕元の詩集を手に取り、静かな声で読み上げた。数ページ読み終える頃には、点滴の液が尽きかけていた。「綾、もう寝ろ。俺も少し眠るから」その口調は優しく、目元には微かな笑みがあったが、声の虚弱さは隠せず、一つ一つの言葉が辛そうに響く。綾は、湊が痛みと闘いながら、自分を気遣って無理をしているのだと分かっていた。彼がこれ以上心配しないように、綾は大人しく付き添い用のベッドに横になったが、間のカーテンはあえて閉めなかった。綾は横を向き、じっと湊のことを見つめていた。彼は目を閉じているが、呼吸があまりに浅く、本当に眠っている人のそれとは程遠かった。本当に眠っている時は、呼吸がもう少し重くなるのだ。綾は眠気を堪えて待ち続けたが、湊はとうとう眠りにつかなかった。「湊、眠れないなら少し話しようか?」身体的な苦痛から湊の意識を逸らしてやりたかったのだ。「ここのベッドが、あまり快適じゃないか?」湊は目を開けた。寝返りを打てないため、横目で綾の方を追った。綾は少しわざとらしく明るく笑って「もうこのベッドにも慣れたわ。ただ単に眠くないの」と言った。この病室はほとんど湊の専用だ。彼が入院を繰り返す間、ずっとこうして綾が付き添い続けてきた。沈黙が流れた。長い時間が過ぎ、湊は弱々しく溜息のように言った。「綾、俺を恨んでいるか?」「いいえ。結婚する前は、あなたは優しかったもの」これは本心ではなかったが、正直に言えるはずもなかった。これほど弱っている相手に、残酷な真実を突きつけた
【放課後、かき氷食べようよ】とか、【明日のお昼、何が食べたい?】そんなメモばかりが残っていた……あの頃、恋というものがよく分からなかった綾にとって、その一文字ずつは羽のように優しく心をくすぐり、胸を熱くさせるものだった。綾は、健吾が自分が「不幸になればいい」と願っていることを思い出していた。彼の今の問いかけに、本当に心から良い返事を求めているとは思えなかったからだ。綾は睫毛を伏せて言った。「容体は予断を許さないわ。事故の後遺症がひどすぎるの」嘘ではない。達也の見立て通り、湊の身体は確かに以前よりひどく弱っていた。健吾は薄ら笑いを浮かべた。「葬式のときは知らせてくれよな」そう言って腕を下ろし、長い足を伸ばして研究所から出て行った。綾は表情一つ変えず、目の前の仕事を続けた。健吾のそんな言葉は子供の悪口のように聞こえ、綾には何の影響もなかった。その頃、健吾はオフィスに戻り、ルカに電話をかけていた。「叔父さん、世界最高峰の医療チームを手配してくれないか?」「誰が病気なんだ?」健吾は少し沈黙し、冷淡に返した。「虫唾が走る相手だよ」電話の向こうでルカが吹き出した。「ははは、最高峰のチームで嫌がらせでもするのか?」「そんな悪趣味じゃない。できるだけ早く頼むよ、費用は出す」電話を切った健吾は、スマホをデスクに叩きつけた。その顔には重苦しい鬱憤が溜まっていた。綾は夜の8時まで研究所で働き、病院へ駆けつけた。湊はもう目覚めていたが、一人でベッドに横たわり、どんよりと暗い表情を浮かべていた。病室の壁と肌が同じ白さで、まるで景色の一部のように生気が感じられなかった。「具合はどう?」綾が静かに聞いた。「痛いよ。身体中が痛むんだ」湊は覇気のない声で答えた。まだ身動きができず、両手にも力が入らないようだった。綾は手を洗い、カバンから電子リーダーを取り出した。「本を読んであげるわ。何がいい?」湊は焦点の合わない目で天井を見つめたまま、枯れた声で呟いた。「詩を読んでくれないか?」「ええ、いいわよ」綾は水を一口飲み、喉を整えた。この電子リーダーは普段は湊が使っているものだ。湊が開いていた詩集のデータは、半分ほどまで読み進められていた。表示されていたのは冬の詩だ。湊がこれを読んだかどうか定かで
今日、湊の腎移植手術が行われるため、綾は午前半休をとった。手術室に入る前、湊は綾の手を強く握りしめた。口元をわずかに動かしたが、言葉は何も発さなかった。綾は、湊の掌がひやりと冷たく、かすかに震えているのを感じ取った。彼女は湊の手を優しく握り返し、「外で待っているからね」と小さくささやいた。手術室のドアが静かに閉まる。一人、廊下のベンチに腰を下ろした綾は、スマホを取り出してプロジェクトのグループチャットを確認した。聡からのメッセージ。【中野さん、今日休みなんですか?】【夫の手術があって……】理央からのメッセージ。【きっと成功しますよ!】【そう願ってるわ】健吾からもメッセージが来た。【ここは仕事のグループチャットで、身内の連絡の場ではない】【申し訳ありません】と綾は謝った。チャットは一瞬で静まり返り、誰も何も書き込まなくなった。颯太を除いて、プロジェクトチームのメンバーは皆、健吾を恐れていた。常に仏頂面で、威圧感がある。仕事に関しては極めて厳しく、冷徹と言ってもいいほどだった。スマホを置き、綾は再び閉じられた手術室のドアを見つめた。ただでさえ体が弱い湊に、こんな大手術に耐える体力があるだろうか?時は刻一刻と過ぎていく。窓の外の陽は高くなり、廊下の床に明るい光の筋を落としていた。いてもたってもいられず、綾は何度も手術中のランプを仰ぎ見た。正午近くになって、ついに手術室の扉が開いた。綾が立ち上がると、達也が先頭に出てきた。マスクを外し、綾に向かって穏やかに微笑んだ。「手術は無事成功したよ」「達也さん、ありがとう」綾は深く息を吐き出し、胸につかえていたものがようやく取れた気がした。急いで移動ベッドに歩み寄ると、湊は麻酔でまだ深く眠っていた。「これからの数日は特に注意が必要だ。傷口からの感染を防いで、合併症の兆候がないか細かく観察してほしい」達也は細かく説明し、術後のケアが書かれた用紙を手渡した。一呼吸置いてから、彼は続けた。「できれば君がついていてあげてほしい。湊が体調を崩すたびに世話をしてきたのは君だし、一番彼のことを分かっているからね」「できるよう調整してみるわ」簡単に頷くことはできなかった。研究所が忙しくなれば、付きっきりで看病できる保証はない。専門の介護
他に湊を世話してくれる人がいるなら、こっちがわざわざ行くまでもないだろう。湊の容体が安定しているのを確認し、綾は胸をなでおろした。帰宅してくつろいでいたとき、達也から着信があった。湊に何かあったのかと思い、綾はすぐさま電話に出る。「達也さん、何かあったの?」「今夜は来ないのか?」と、達也に問い詰められた。彼は事前に、綾が仕事帰りに寄ると湊に伝えていたらしく、湊はずっと待っていたようだ。弱っているときほど人は孤独を感じるものだ。綾がそばにいれば、きっと回復も早まるだろう。それに、腎臓移植の件についても話を進めたいと考えていた。綾は少し黙ってから答えた。「さっき行ったら凪が食事の世話をしていて。邪魔したくなかったから帰ったわ」こっちもやり方を知らないわけじゃない。目的のためなら、少しばかり嘘をつくことも厭わない。湊と離婚するつもりだが、凪にすべてを譲る気なんてさらさらなかった。最初は、海斗を連れて戻ってきた凪を見て、素直に身を引こうとしていた。けれど、凪が仕掛けてくる悪意の数々に、その考えは一変した。湊を凪なんかに渡してたまるか?湊が凪に嫌悪感を抱くよう仕向けなくては。達也は電話越しにため息をついた。湊の今の行いでは、綾が冷めてしまっても仕方がないのだ。達也もそれ以上説得するのは気まずかったようで、そのまま電話を切った。凪が下の階に下りると、達也は仕事をしていた湊の手から、タブレットを強引に奪い取った。「君がいなくても会社は回る。無理をすれば体を壊すぞ」湊は身体の不調を抱えており、ストレスや仕事のしすぎで状態が悪化しつつあった。「まだ綾が来ないから、手持ち無沙汰でね」湊は病院の廊下へ目を向けたが、人の気配はなかった。達也は諦めたように言う。「綾はもう来ないさ。いや、正確にはすでに来ていたよ」湊は眉をひそめる。「いつ?ずっと起きていたけど、姿は見なかったぞ」「二宮さんと食事をしていた時、それを見ていたんだ」達也の言葉に、病室が静まり返る。少しして達也が言った。「湊、綾に対して酷すぎる。彼女をなんだと思ってるんだ?妻だと言いながら、綾のプライドをまるで大事にしない。妹同然だと言いながら、結局は愛して結婚した」湊はこめかみを押さえた。ただ、最近傷つくことの多かった凪
綾は堂々と出迎えた。「誠さん、そして取締役の皆さん。こんなことで、わざわざお越しいただくなんて申し訳ありません」誠は単刀直入に尋ねた。「湊はどこだ?」「病室です。でも先生からは安静にするよう言われていて……本人も今は誰とも会いたくないみたいです」達也も口を添えた。「今は絶対安静が必要です。皆さん、また日を改めていただけますか」「皆さんはこちらでお待ちください。私が様子を見て来ます」「お待ちください、誠さん」綾は誠の前に立ちふさがり、意味ありげな視線を送った。「湊が今、一番会いたくないのは……誠さんなんです」誠は眉をひそめた。「どういう意味だ?」「今回の拉致事
そのハイヒールは、綾のお気に入りのブランドのもので、とても履きやすいと評判だった。こんな偶然、あるはずがない……「健吾、大変なの!」明里の震える声が、受話器の向こうから聞こえてきた。次の瞬間、健吾はシェパードにリードをつけると、車に駆け込んだ。……「くだらないいたずらだろう」湊は、凪が見せてきたネットニュースを一瞥すると、うんざりした様子で無関心にそう言った。「でも、本当に誰かが危ない目に遭ってるのかもしれないじゃない。それに綾も、こんなハイヒールを持ってた気がするわ」湊は画像に目をやり、答えた。「あいつは同じような靴を何足も持っている。履き心地がいいとかで
綾は眉をひそめて綾を見ていた。綾の左には颯太、右には健吾が座っている。颯太が慌てて説明した。「青木社長はこっちが招待したんです。仕事のパートナーなので」颯太は、どうも湊が健吾に敵意を持っているように感じていた。健吾のほうも、湊のことが気に入らないようだ。この二人がいつから険悪なのかは分からないけど、とりあえず今は問題が起きないようにするしかない。「中野社長、この席にどうぞ」颯太が自分から席を譲ると、湊は遠慮なくその席に座った。綾は湊と健吾の間に挟まれる形になり、ものすごく気まずかった。二人が来るって分かってたら、絶対に来なかったのに。凪が湊の隣に座ったので、颯太
「湊、海斗がサプライズを用意して部屋で待ってるわよ。早く行ってあげて」湊は考えた。綾はもう寝ているだろう。邪魔をしないでおこう。彼は手を引っ込め、凪に車椅子を押されてその場を去った。翌日は土曜日で、凪はキッチンでバーベキューの準備に追われていた。湊はリビングに座り、幸子に言いつけた。「ケーキ屋にケーキをひとつ配達させて。それから、綾を呼んできてくれ」幸子はすぐに3階から降りてきた。「旦那様、奥様は部屋にいらっしゃいません。電話で確認いたしましょうか?」「必要ないわ」と凪が口を挟んだ。「いない方が好都合よ。どうせ気まずくなるだけだし」「綾は明里のところにでも行ってるん