Masuk綾は微笑みながら、マーガレットのもとへ歩み寄った。「マーガレットさん、今日は本当にありがとうございました」マーガレットは明るく手を振りながら言った。「いいですよ、ホテルのスタッフさんも手伝ってくれましたし。二人ともすごくお利口でしたよ」綾は腰をかがめ、子どもたちの背中にそっと手を添えて前へ促した。「さあ、部屋に戻るわよ。マーガレットさんに挨拶して」二人は声をそろえて、「おやすみなさい」と言い、小さな手を振った。綾は子供たちを連れて自分の部屋へ戻った。いつもの決まり通り、瑞希をお風呂に入れ、健吾が壮真を連れて隣のバスルームへ向かった。綾は瑞希とお風呂を済ませて温まった身体で部屋に戻ると、すでにベッドでくつろぐ健吾と壮真の姿があった。二人は肩を並べて寄りかかっている。何の話をしているのか、壮真は目を細めて笑っていた。同じ光景を前にも見た気がする。綾は思わず身構えた。「健吾、自分の部屋に戻って」健吾は動こうとせず答えた。「一人で大丈夫なのか?」綾は返事をせず、健吾を呼ぶように手招きして廊下へ出た。通路のライトが二人を柔らかな光で包む。綾はドアを静かに閉めると言った。「こういうことはダメよ。あの子たちまだ小さいけれど、私たちは正しい男女の関係というものを見せないといけないわ。私たちはもう離婚しているのよ。それでも一緒にベッドで寝て、あの子たちが大人になって思い出したらどう思うかしら?男女の適切な距離感を、どう教えればいいの?」綾は真剣な眼差しで、毅然と言い放った。子供たちの教育において、綾は一切の妥協を許さない。健吾は驚いた顔で綾の頬に両手を添えた。その掌の温度が、綾の肌に伝わってくる。「悪かった。俺の考えが足りなかったな。お前のことで頭がいっぱいで、子供たちのことを忘れていたよ」綾は健吾を拳で軽く小突いた。「調子のいいことを言わないの。もし寂しいなら、壮真に隣で寝てもらえば?十分すぎる待遇でしょ?」「感謝するよ、綾」健吾は笑みを浮かべ、綾の額にそっとキスをした。彼はすぐに部屋に戻ると、今度は少し大げさに肩をすくめ、壮真に語りかけた。「壮真、パパ怖いよ。一人で寝られないんだ。隣にいてくれるかな?」壮真はまるでとびきり面白い冗談を聞いたかのようにケラケラと笑い出し、ベッドの上を転げ回っ
颯太はソフィアからスマホを受け取ると、指先で器用にタップして自分の番号を入力した。少し考えてから、名前の欄にしっかりと「颯太」と記し、ソフィアにスマホを返した。「姉も俺のことを大切に思ってくれているから、もしソフィアさんが杉本グループと協力したいなら、こっちがいつでも口を利きますよ」ソフィアはスマホを受け取ると、唇をわずかに歪めて微笑み、何も答えなかった。そして、スマホをゆっくりとバッグにしまい、手首の時計に目をやってから、エレガントな立ち姿で席を立った。「もう帰って休みますので、失礼します」ソフィアは目の前の男に少し心が揺れたのは事実だが、わざわざ自分から動くほどの興味はまだなかった。颯太はソフィアに合わせて立ち上がり、ごく自然な足取りで会場の外まで見送った。夜風が都会の匂いを運んできて、颯太はソフィアを守るように少し体を寄せて言った。「ホテルまでお送りしましょうか?」「いいえ、秘書がいますから」ソフィアは丁寧に、そして少し突き放すように断った。ソフィアは車に乗り込み、ドアが閉まると、車は街の灯りの中に溶け込むように去っていった。颯太は立ち止まり、車のテールランプが街の角で見えなくなるまで見届けた。颯太は会場には戻らず、そのまま自分の車へと向かった。会場内では、眩しい光が踊るように煌めいている。綾は健吾と何度もダンスを踊り、シャンパンの酔いと穏やかな音楽のおかげで、全身の力が抜け切っていた。綾は眉間を揉みほぐすと、隣にいる健吾に声をかけた。「健吾、ホテルに戻ろう」「分かった」と健吾は答え、温かい手でそっと綾の手を引いた。ホテルの外では健吾の部下が待機しており、車のドアが開くと、二人は後部座席に乗り込んだ。綾は柔らかなシートに体を預け、あまりの眠気に目をつぶった。まどろみの中で、大きな手がふと顎を支えた。綾がうっすらと目を開けると、健吾の手によって優しく導かれ、そのまま彼の肩に頭を預けた。健吾の肩幅は広く、上着の下の筋肉は固く引き締まっており、清々しい香りに包まれる。健吾は視線を落とし、うとうとしている綾を見つめ、あふれんばかりの愛おしさを募らせた。「眠りなよ。ホテルに着いたら起こすから」綾はあいまいに返事をし、すぐに寝息を立て始めた。どのくらい経ったのか、急に体
颯太は軽く笑ってグラスを揺らし、気の抜けたような口調で言った。「杉本グループの研究所は俺の管轄ですけど、グループの社長は姉です」ソフィアは眉をひそめ、颯太をじっと見つめて尋ねた。「なぜ颯太さんが跡取りじゃないんですか?」颯太はソフィアの視線を正面から受け止め、こう返した。「姉が3人いるんですが、全員俺より商売上手ですよ。特に一番上の姉は、仕事に対する姿勢がソフィアさんとそっくりです。でも姉は恋愛体質じゃないし、男を追いかけて走り回るような真似はしないです」ソフィアは呆れたように鼻で笑った。「チェッコみたいなハイスペックな男性を追うことのどこが悪いのですか?男から女を求めるように、女からだって男を求めていいはずでしょう」ソフィアは顎を少し上げてそう言った。颯太は何かを納得したように頷く。「確かにその通りです。振られると分かっていても挑む、それは立派な勇気ですよ」ソフィアが小さく笑う。「颯太さんの口から珍しくまともなことが聞けましたね。でも、ご両親がお姉さんにグループを任せることに納得したんですか?」「今の杉本グループは、うちの一族と念花グループが合併してできた巨大企業ですから。祖父も父も母も、それから叔父まで、俺に跡を継がせようとしていたんです」と颯太は正直に話した。「それで、どうなりました?」ソフィアは身を乗り出し、食い気味に質問した。「グループ全体を率いるより、一つの研究棟を管理する方が自分に向いていますね」颯太は目を伏せ、グラスの縁を指でなぞりながら、口元に穏やかな笑みを浮かべた。不器用な自分が、唯一没頭できる研究以外で一族の重責を担うなんて到底無理だ、と颯太は理解していた。何より、自分で汗をかいて研究をしないという一点を除けば、姉たちの方が圧倒的に優秀なのだ。ただ「男である」というだけで一族の資源や権限を注がれる状況を、颯太はこれまでずっと恥ずかしく思ってきた。「癇癪を起こしたり、家出をしたりして、無理やり家族を説得したんです。今じゃ姉3人の経営手腕で会社は右肩上がりだし、誰一人として俺に跡取りの話を押し付けたりしなくなりました」ソフィアは冷たく突き放すような口調で言ったが、その表情には自分と重なる怒りがあった。「あまりに不公平ですね。本当ならお姉さんたちの方が適任なのに、なぜ颯太さんが譲らなきゃその
「ソフィアさんはどんな男にも引けを取らないほど優秀です。ソフィアさんのような女性なら、周りが勝手に言い寄ってくるのを待っていればいいでしょう。わざわざ、手に入らない男の顔色をうかがう必要なんてないですよ」颯太はソフィアの腰にそっと手を添え、その眼差しには、惜しみない賞賛があふれていた。綾が行方不明になっていた頃、颯太は綾を見つけるためにあらゆる手がかりを追い、その過程でソフィアの生い立ちについても調べていた。このプライドの高い女性は、昔から誰かに負けることを決して良しとしなかった。ソフィアの学生時代、彼女がいる限り、他の者が1位を取るなど夢のまた夢だった。大学時代には、自らの力だけで世界最高峰の大学に進み、法学と経済学、2つの博士号を手にしている。そんな華々しい実績を引っ提げて帰国したソフィアを待っていたのは、父親からの政略結婚の強要だった。娘の結婚を利用して、家業を拡大させようと画策したのだ。その絶望的な状況の中で、ソフィアは健吾と取引をし、互いの利益のために偽装結婚をして窮地を脱する道を選んだ。健吾の協力のもと、ソフィアは見事に実家の会社を自らの支配下に置いた。そして健吾から離婚を切り出されると、ソフィアはすぐさま、彼のI国の取引先を引き継いだ。もちろん恵まれた家柄のおかげもあるが、それ以上にソフィア自身の能力がずば抜けているのは間違いない。もしソフィアに実力も努力もなければ、ただの政略結婚の道具にされ、その弟の引き立て役に甘んじていただろう。ソフィアは美しく口元を歪め、生まれ持った気高さを含んだ声で言った。「私が学んできたのは、自らの手で手に入れ、支配することだけです。私より頼りない男なんて、興味ありません」颯太はそう聞くと、ふっと目を伏せてため息をもらした。「どうやら、自分にはチャンスすらなさそうですね」言い終わるか終わらないかのうちに、ソフィアがふっと足を止めた。咄嗟に止まりきれなかった颯太は、ソフィアの足につまずきそうになり、勢い余って抱きつくような形で覆いかぶさってしまった。颯太が慌てて体勢を立て直そうとした時、柔らかい両手が胸をしっかりと支え、元のダンスのステップへと戻してくれた。「颯太さんって、そんなに弱いのでしょうか?」ソフィアは顔を上げて颯太を見た。その瞳には面白がるような光が
きらびやかに飾られた会場では、多くのゲストたちがグラスを手に楽しげに談笑していた。数人の外国人ビジネスマンが綾の作った新製品に熱心な様子で、彼女の周りに集まっては探るように質問をぶつけている。綾は慌てず堂々と受け答えをしており、その姿には会場を完全に自分の空気に変えるだけの自信が溢れていた。そのすぐ側で、健吾は控えていた。話しかけてくる相手を軽くあしらいながらも、視線を終始、綾から離さなかった。綾はお酒に弱かった。だから健吾は、綾が無理にお酒を飲まされるのではないかと気が気でなかったのだ。パーティーの前半が終わり、会場にゆっくりとした心地よい音楽が響き渡った。それを合図に、ゲストたちはパートナーの手を取って、ダンスフロアへ進み始めた。ようやく周囲の人間が引いたタイミングで、健吾は立ち上がって綾へ恭しく手を差し出した。「綾、俺と一曲踊ってくれないか?」綾は小さく微笑み、自分の手を健吾の手のひらに預けた。指先が触れ合った瞬間、健吾は力を込めて引き寄せた。「喜んで」二人は軽やかにダンスフロアへと踏み出した。健吾は綾の細い腰をぐっと引き寄せて、自分の胸へと抱き寄せる。少し離れた休憩用のブースで、ソフィアはグラスを小さく傾けながら、お似合いのカップルを澄んだ青い瞳で見つめていた。近づいてダンスに誘ってくる他の男性たちを、素っ気なく首を振ってすべて追い払った。そこへ、よく見ると見覚えのある一人の男性がやってきた。彼は紳士的な様子で、ソフィアに向かって片手を差し出した。「ソフィアさん、一曲踊りませんか?」ソフィアは片方の眉を持ち上げて、面白そうに相手の姿を頭からつま先まで品定めするように見つめた。「あなたのこと、知っています。綾さんに気がある男性の一人でしょう。私をダンスに誘うなんて、私に妨害されないためでしょうか?」その口調には刺があり、目には探るような光が潜んでいた。颯太はクスッと笑い、素直な目で見つめた。「ソフィアさん、そんなに自分に自信がないのですか?」颯太はソフィアのグラスを奪うと脇に置いた。そして、ぬくもりのある手で、拒む余地なく彼女の体を強引に引いて、立たせた。「単純にソフィアさんの魅力に惹かれて、もっとよく知りたいと思ったのかもしれませんよ」ソフィアは逆らわずフロアへと入っていった。音
東都の黒崎病院の最上階にある病室で、湊はソファにもたれ、じっとテレビを見つめていた。画面には、科学賞の授賞式が生中継されていた。見慣れた姿の綾がステージへ進み、落ち着いた様子でトロフィーを受け取る。スポットライトに照らされた姿は、現実とは思えないほど眩しかった。胸に鋭い痛みが走り、湊は思わず息をのんだ。これほど美しく輝く綾を、自分は危うく壊してしまうところだったのだ。目から涙が静かにこぼれ落ちて、綾の姿がだんだんとにじんでいく。綾を拉致して監禁した記憶も、同じようにぼんやりとしていた。少しずつ、細かいことを忘れていっている。達也は、カウンセリングのおかげだと言っていた。それでも綾の顔を見るだけで、どうしても胸が締め付けられる。達也がドアを開けて入ってきたとき、湊は顔を覆って泣いていた。達也は震える湊の肩越しに、テレビの画面に目を向けた。綾はトロフィーを持ち、健吾の隣の席に戻った。二人は顔を寄せ合い、親しげに笑い合っている。まるで周囲が目に入らない様子だった。達也は歩み寄ると、リモコンを手にしてテレビの電源を切った。「カウンセラーから、刺激の強い情報には触れないように言われていただろ?」達也はティッシュを箱から取り出して手渡した。湊は顔を上げ、そのティッシュを受け取って涙を拭った。「俺のトラウマは綾なんだ。避けて通るより、ちゃんと向き合いたい。痛いと感じるのは怖くない。恐ろしいのは、心まで麻痺してしまうことなんだ」痛みすら感じなくなったら、死んでいるのと同じだから。達也は持ってきた薬を置いた。湊が自分自身を傷つけないよう、薬は毎回決まった分量だけ渡している。達也はすでに院長を辞め、多くの仕事を整理していた。そのため、こうして病室に通う時間はたっぷりあった。達也はこれまでに、間接的あるいは直接的に綾をたくさん傷つけてきた。湊の世話は、今の達也にとって唯一の罪滅ぼしなのだ。湊は薬を手に取り、冷たい水で流し込んだ。喉を通る水の冷たさが胸に広がるけれど、消えない心の痛みを抑えることはできない。「いつまで、ここに入院しなければならないんだ?」達也は湊の隣に座り、穏やかに笑った。「焦らなくていいよ。俺がずっと一緒にいるから」湊は眉間にシワを寄せた。「兄さんは俺のせいで警察に捕まった