彩乃は唇を閉じ、歯を噛みしめて言った。
「行ってきて」
その日は一晩中、彩乃は病院で若葉に寄り添い、陽翔の看病をし、片時も離れなかった。
一方、「すぐ戻る」と言っていた蒼司と真理は、最後まで姿を見せない。
彩乃の胸には、どうしようもない苦さが広がっていく。
その間に蒼司と真理がやり取りしていたLINEの写真には、蒼司が家にいて、あれこれ一つひとつを「これで合ってる?」と真理に確認している様子が映っていた。
それはもはや「客人への礼儀」でも、「子どもたちの母親への配慮」だけでもない。
まさか、彼はい今でも真理を愛しているの?
最初は、蒼司が真理に償おうとしているだけだと思っていた。子どもたちを産んだ相手だから、と蒼司自身もそう言っていた。
けれど、今日の彼の態度、そして「継母は所詮継母だ」というあの一言が、過ぎた六年を雇用関係のように思わせる。
まるで、彼女の価値は子ども次第。彩乃の責務はただ子どもを世話すること。
子どもが無事なら「賢い妻」。少しでも行き違いが起きれば「責任逃れの継母」。
どれほど完璧に尽くしても、真理という「実母」の肩書には敵わない。
たとえ、真理が何もしていなくても。
夜九時半。
「ママ、もう大丈夫だよ。お家に帰ろう?」点滴を終えた陽翔はこれ以上病院にいたがらない。
彩乃は少し考え、「わかった。じゃあママが退院手続きしてくる。あなたとお姉ちゃんは、病室から出ちゃダメよ。いい?」
「うん、うん!」
彩乃は何度も振り返りながら急ぐ。
手伝いは誰もいない。蒼司が家政婦を寄越すこともなかった。
二人を病院で見失うのが怖くて、廊下では看護師に少しだけ見ていてもらうよう頼み、手続きを済ませると、三人でタクシーに乗って帰路についた。
水野家。
家の明かりは眩しいほど灯り、玄関先には何台もの高級車。
彩乃はふと、昼に蒼司が「友だちと会う」と言っていたのを思い出す。ここで集まっているのだろうか。
「ママ、この車、高そう?」陽翔が一台を指さす。
「そうね、まあまあ」
彩乃の感覚では「まあまあ」。彼女にとっては、昔の自分が所持した車の中から一台適当に選んでも、ここに並ぶ何台分にもなる。そんな世界だった。
家に入った瞬間、彩乃は凍りついた。胸の奥から頭の中まで、ドン、と轟音が走る。
家の中は大勢が集まり、どんちゃん騒ぎの最中。
玄関は遮音が効いていて、扉を開けて初めて歓声が耳に飛び込んでくる。
「キース! キース!」
「蒼司さん、照れてる場合じゃないって!」
「真理さん、もうお子さんも大きいんだし、いいでしょ?」
誰も入口に気づかない。
ただ、家政婦たちは気づいていた。止めに入りたいが、今の彩乃の顔色が怖くて声が出せない。
人垣の向こう、蒼司と真理が向かい合って立っていた。
真理は笑って友人たちをたしなめる。
「からかわないで。昔、蒼司と私は婚約者だったけど、今は違うの」
「でもさ、あの騒動がなかったら今ごろ幸せの絶頂でしょ。蒼司さんの上場と、幼なじみの再会を兼ねて、ほら、もう一回お祝い! キ〜ス!」と慎太郎。
昔話が出ると、蒼司はみんなの矛先からさりげなくかばってくれる真理を見て、胸が痛む。
彼は彼女に何も与えられなかった。
真理は微笑む。「もう昔のことは言わないで。今の蒼司は本当に素敵だもの。私にはそれだけで十分」
その言葉で、蒼司の罪悪感は一気にせり上がり、衝動のように真理の頬へと顔を寄せる。
「キス! キス!」
囃し立てる慎太郎。
だが、もう一人の幼なじみは眉をひそめ、沈黙したまま。
全員がその瞬間を待ち、急に静まり返る。
静けさのおかげで、彩乃の声がやけに鮮明に響いた。
「……楽しい?」
平らかで静かな、たった四文字。なのに、その場の心臓が一斉に震える。
蒼司は我に返り、二歩さがって距離を取る。真理の頬にも、気まずさが差す。
誰も、彩乃が突然戻るとは思っていなかった。
彩乃の心は、じわじわと揺れる。
もし彼女が来なければ、二人は、もうキスしていた。
蒼司は、強制など利かない男だ。さっき真理に近づいたのは、自分の意思。
やっぱり、彼の心には真理がいる。
一人で子どもを看ていた間に、「すぐ戻る」は真っ赤なウソ。
二人はここで、いちゃつきながら宴を続けていた。
蒼司の友人たちは彩乃を数度見たことがある。でも多くはない。
彼らの多くはこう思っている。
「彩乃は棚からぼた餅で双子を手に入れ、肩書もない、たぶん普通の家の出で、仕事もせず、ただ美貌だけが取り柄。だから、かつて桜峰市の金持ちだった蒼司に拾ってもらえたのだ」と。
だが、今この瞬間、彼らもさすがに後ろめたい。なにしろ彼女は現役の「奥さん」なのだから。
慎太郎がおどける。
「奥さん、帰ってたんすか。病院じゃなかった?」
彩乃は薄く笑い、視線を蒼司と真理の方へ滑らせる。
「ええ、病院にいたわ。あなたたちは、何をしていたの?」
その一言で、さらに気まずい空気が広がる。
若葉がぷんと頬をふくらませる。
「パパ、さっき『友だちとちょっと挨拶したらすぐ病院に戻って来る』って言ったよね?」
陽翔もむっとする。
「パパはもう、ぼくのことどうでもいいんだ。ぼく、マンゴーで死にかけたのに、ぼくを病院に運んだ人と一緒にここで遊んでたんだろ。パパ、きらい!」
友人たちは顔を見合わせる。そんな事情、誰も知らなかった。
子どもたちの言葉は、顔を強くひっぱたかれたかのように蒼司の頬に響く。
彼は本当は病院に戻るつもりだった。だからパーティーを早めに切り上げ、着替えやらを持って向かう段取りにしていたのに、場が白熱し、慎太郎が真理まで呼び戻し、ズルズルと。
彩乃は客間を見渡し、きっぱりと言う。
「皆さんは蒼司の大切なお友達です。お越しいただくのは歓迎します。でも、どうか節度はお忘れなく。真理さんは私たち夫婦の客です。礼をもって接していただけると助かります」
遠回しに、いや、真正面から「礼義も分からないの?」と言い放った。
誰の耳にも、そう聞こえた。反論したい者もいる。けれど、ぐっと飲み込む。
彩乃は真理を見た。
「真理さん、あなた、蒼司が既婚者だって事実を、忘れてない?」
いつもなら温厚で、何を言われても笑って済ませる彩乃が、この場で堂々と切り込む。誰も予想しなかった。
慎太郎の目には、真理は守られるべき「弱者」、彩乃こそ「強圧的な女」。
「拾ってもらったくせに、偉そうに」とでも思っている。
真理はおろおろして、「ごめんなさい、私、そんなつもりじゃ……」
蒼司が口を挟む。「彩乃、言い過ぎだ」
「私が?」
彩乃の目が潤む。
「病院で子ども二人を見てる間に、あなたたちは人目もはばからずキス寸前?道義も礼節も、どこへ置いてきたの?」
「いい加減にしろ!」蒼司が怒鳴った。
場が凍った。
彩乃はその一喝に一瞬固まった。
目の前には険しい蒼司。周りには野次馬の目。背後では子どもたちが「ママ」と呼ぶ声。
脳裏をよぎったのは、結婚の日——手を握って「誓います」と言った蒼司の顔。
六年の苦労。見返りは何?
何かが、胸の底で静かに砕ける。
六年……
彼女は、「継母」でも「奥さん」でもなく、「彩乃」に戻るべきなのだ。
彼女の涙はあまりに鮮烈だ。彩乃は笑いながら頷いた。
「いいわ。続けて」
蒼司の心臓が鷲づかみにされる。思わず手を伸ばすが、彩乃は身をかわし、その手は宙で止まった。
若葉が慌てて立ちはだかる。
「ママ、どこ行くの? わたしと弟も連れてって!」
我に返った蒼司も動き、陽翔を抱え、若葉の手を取る。
「パパが一緒にいる」
真理が寄ってきて、優しくささやいた。「ママもここにいるからね。」
二人の合わせ技で、彩乃ははっきり悟った。
この家は、私がいなくても崩れない。
家族四人は、あの三人と真理。
余計なのは、彩乃だけ。
そのとき、唯一はしゃがなかった井上直樹(いのうえ なおき)が立ち上がる。
「さっきは失礼しました、彩乃さん。慎太郎は飲み過ぎて、口が過ぎました。どうか許してやってください」
慎太郎が何か言い返そうとして、直樹に睨まれ、口を閉じる。
「今日は引き上げます」直樹は慎太郎を連れ出し、他の面々も続く。
車内で慎太郎が噛みつく。
「何なんだよ、さっきのは。真理の悪口まで言って、あの女に頭下げるって? ただの棚ぼた女だろ?」
直樹は運転手に合図してから静かに言う。「次、同じことしたら、もう友達やめるよ」
「は?」
「彼女がどうだろうと、気に入らなくても、今の妻は彩乃だ。法律上の妻だ。真理が堂々と家に住む筋合いがあるか?それを焚き付けて『キスしろ』? 正気か?」
慎太郎は食ってかかる。
「普通の女が蒼司に嫁げるなんて、幸運以外の何物でもねーだろ。双子までタダで手に入れて、世話くらい当然だろ。何で怒る?」
「実子のように育て上げたからだ。お前、自分の妹が後妻になるって言ったら、どうする?」
「俺の妹がそんなこと言ったら、ぶっ飛ば……」
言いかけて、慎太郎は口を閉じた。
水野家の玄関。
出て行こうとした彩乃の視界に、靴棚の上に忘れ物のスマホが目に入る。
画面には写真。高校生くらいの時の蒼司。
彼の着ているシャツが、写真の真理の服とおそろいペアのシャツだ。
そして、そのシャツを蒼司はいまも捨てず、大切にアイロンがけしてクローゼットに掛け、家政婦に触らせもしない。
母親からの贈り物なのかも、と彩乃は推測していた。
まさか真理とのペアだったなんて。
不意打ちの事実が彼女に衝撃を与える。
涙があふれ、胸の奥に亀裂が走る。言葉が出ない。彩乃は踵を返して外へ。
「先に休んでて」蒼司は真理にそう言い、若葉と陽翔は彩乃を追って玄関を飛び出す。
すぐ追いついた若葉が彩乃の手を掴む。彩乃は顔を伏せ、頬に涙を光らせて言う。「今日はママ、友達の家に行くの。二人はお利口にしてね」
「やだ!」陽翔が即座に反対する。
若葉は必死に守る。「出てくのはあっちでしょ。なんでママが行くの。ママはわたしたちのママで、この家の人間だよ!」
そう、彼女はこの家の人間。
なのに、蒼司は何度も私の顔に泥を塗った。
駆けつけた蒼司は、ようやく子どもたちがどれほど真理を拒み、どれほど彩乃を愛しているかに気づく。
同時に、夜通し子どもたちに付き添ってきた彩乃の姿が頭の中で蘇った。
六年間の彼女の献身は誰の目にも明らかだった。
「彩乃」
彼女はうつむいたまま。
その呼びかけで、彩乃の頭の中に、初めて出会った訓練合宿の朝がよみがえる。
涙はもう止まらない。
「まだ、彼女を愛してるの?」
蒼司は沈黙する。
彩乃は自嘲気味に笑った。
「愛してるかどうかに関係なく、君は妻だ。夫婦なんだ」
「つまり、私への気持ちは夫婦の務めだけ?あなた……」
華のように育った彩乃は、その現実に粉々にされかける。
人は極限まで無力になると、本当に声が出なくなるのだ。
その瞬間の彩乃は、もう一度だけ問いただしたくなった。
「じゃあ、私と結婚したのは、あなたの二人の子どもの世話をさせるためだけだったの?」
まるで長い夢から醒めたように、彼女はふと悟る。自分は本当に間違っていたのだ、と。
間違いは、最初に両親や兄の忠告に従わなかったこと。
結婚後、彼とその二人の子どもだけにすべてを注いでしまったこと。
仕事を手放し、自分の価値を失い、彼の目には「責任=子どもの世話」だけの存在になってしまったこと。
一歩進むごとに、誤る一方。
親という立場は枷だと思い込み、彼のために自分でその枷を外してしまった。
けれど現実は残酷に告げる。それは彼女の命を守る盾であり、尊厳だったのだ、と。
涙は糸がぷつりと切れたようにあふれた。
蒼司は眉根を寄せ、「彩乃、君は……」
こんなふうに泣いたことはない。結婚して六年、一度だって。
蒼司の胸がきゅっと軋み、思わず抱き寄せたくなる。
そのとき、真理の声が割り込む。「彩乃、誤解を解かせて。お願い、まだ行かないで……」
「きゃっ!」
さきほど二階で休むはずの真理が、慌てて階段を降りようとして足をひねってしまった。
悲鳴に蒼司がはっと振り向く。
「真理!」
真理はかなりひどく捻ったらしく、痛みに額にたちまち汗が滲んだ。
「動けない……痛い……」
蒼司は真理を抱き上げ、そのまま車に乗せて病院へ直行した。ひとときの逡巡もない。
エンジン音だけが耳のそばで響いた。
取り残された彩乃は、胸の痛みがしびれに変わっていくのを感じるばかり。
抱いていた期待も、言い聞かせてきた慰めも、音を立てて粉々に砕け散った。
深夜。
家には家政婦しかいない。彩乃は出ていくに出ていけず、眠気に負けた二人を寝かしつけた。
小さなベッドで若葉の手を撫でながら、彩乃は思う。
娘がいつも自分をかばってくれる。それだけで、この六年が無駄ではなかったと胸を張れる。
同時に、子どもという絆の重さも、嫌というほど分かった。
ドアが開き、蒼司が戻った。
彩乃はちらりと見るだけで、言葉を飲み込む。
「二人は寝た?」
「ええ」彩乃は立ち上がり、子ども部屋を出る。
そして横顔のまま言った。
「話をしましょう」
蒼司は黙った。
寝室。
彩乃は腰を下ろし、はっきりと告げる。
「離婚しましょう」