LOGINシートベルトを締め終え、蒼司はそっと息を吐いた。若葉と陽翔は、後ずさりしながら遠ざかっていく真理の背中を見つめ、胸の奥に小さな寂しさを覚えていた。二人とも、同じ疑問を抱いていた。どうして……どうして、彼らのママは、結局みんな去っていってしまうのだろう。「……パパ?」陽翔が小さな声で呼んだ。けれど蒼司は答えなかった。運転席の男は、赤信号で車を止めたまま、声を殺して涙を流していた。それはズボンの上へと落ち、静かに。自分の心が今、どんな状態なのか、うまく言葉にできなかった。ただ一つ、はっきりしていることがある。もう戻れない、真理と、あの頃に戻ることはない。たとえ子どもたちのため
真理はそのあと、ふっと笑った。たぶん、最初から結末のない縁というものもあるのだろう。だから子どもたちの親子会が終わるのを待って、彼女は蒼司と二人の子を夕食に誘った。選んだのは少し高級なレストランで、半月分の給料を使う覚悟だった。食事の途中、若葉が違和感を覚えたように言った。「……どうかしたの?」真理は一瞬きょとんとする。――この子、意外と鋭いわねさすが、自分の娘だ。「一年以上、あなたたちの家にお世話になったでしょう。そろそろ普通のマンションに引っ越して、頭金を払って、落ち着こうと思ってるの。そうすれば、あちこち移らなくて済むから」そう言ってから、少し間を置き、続けた。「だから
真理はあごに手を当て、真剣な表情で言った。「ここね、よく聞いて、文法の問題だよ」二人の子どもはとても賢く、飲み込みも早い。真理はとても満足そうに言った。「うんうん、いいね。勉強の飲み込みはパパにそっくりだよ」「あなたも小さいころ、勉強はできたの?」陽翔が尋ねた。真理は答えた。「まあまあできた方かな」ここは嘘も誇張もしていない。実際、子どものころは本当に勉強がよくできた。真理はとても丁寧に、しかも根気よく教えていた。蒼司が帰ってきたとき、彼が目にしたのはまさにその光景だった。リビングのシャンデリアの下、真理は左右に二人の子どもを座らせ、子どもたちは真理の話す知識を聞いていた。
「ちゃんと貯めておいてね、こっそり使ったりしないで。私、いつか家を買うんだからね」この人生で別荘を買うことはもう無理だ。でも少し小さめの高級マンションならなんとかなるかもしれない。ただ、朝霧市のこの場所じゃ、そう簡単でもない。でも真理は焦っていなかった。退職して働かなくなる前に家を買えれば、それでいい。あとは穏やかに老後を過ごせばいい。あの二人の子どもたちのことも、真理は将来頼ろうなんてこれっぽっちも考えていなかった。同じ会社にいる蒼司は、真理のこの半年以上の変化に自然と気づいていた。しかし、何も言わなかった。そんな日々が一年半も続き、真理はついに倒れた。熱を出してしまった
胸がぎゅっと痛んで、突然地面から立ち上がると、彼のところに駆け寄り抱きついた。「あぁー」声を上げて泣きじゃくる。天を突くように、心を引き裂かれるように、泣き叫んだ。蒼司「……」若葉と陽翔「……」すると、二人の子どもはすぐに目を覆った。蒼司はため息をついた。「もう、いい」真理の泣き声はひときわ大きく、胸が痛くて、悲しくて、孤独だった。落ち葉は根に帰れず、親も頼れる人もいない。死んでも誰も気づかないだろう。「帰るぞ」蒼司は冷たい声で言った。「うん」二、三歩歩いたところで、真理は突然立ち止まり、両親の墓前に戻った。「お父さん、お母さん、行ってくるね。今は朝霧市にいて、あまり来ら
桜峰市に向かう道中、蒼司は流れていく街並みや都市の景色を見つめていた。ここは、彼が幼いころからずっと暮らしてきた場所。あまりにも多くの思い出が詰まっている。突然、真理が口を開いた。「彩乃さんとたくさん思い出があるんでしょ?ここに来て、つらくなったりしないの?」顔には、どこかからか面白がって見ているような表情が浮かんでいた。蒼司は心に特別な感情はなかったが、真理を無表情で見て答える。「君に関係ある?」そう言ったあと、独りごとのように小さく呟いた。「いや、関係あるな……」誰のせいでもない。責任は自分に一番重くのしかかっている。あのとき自分が……いや、もういい。すべては過去のこ
彼の嫌悪は、何ひとつ隠されていない。明菜の胸にぐさりと刺さり、心が乱れ、苦しかった。俊明は去っていった。和江は使用人たちを連れて、海鮮料理を作り始めた。腕のいい料理人がいるのだから、味が悪いはずがない。けれど、明菜は自分で作るしかなかった。あまりにも疲れていて、凝ったものを作る気力もなく、ただの素うどんをさっと茹でただけ。本当はダイニングで食べるつもりだったが、和江に止められる。「俊明様が言ってました。ダイニングは使わせないって。キッチンで食べて」「それ、俊明が言ったの?どうせあなたの判断でしょ!」明菜は歯を食いしばった。和江は肩をすくめる。「信じないなら、直接俊明様に聞けばいいじ
若葉は、以前よりずいぶん背が伸びていて、真理の肋骨あたりまで届くほどになっていた。陽翔よりも、ほんの少し高いくらいだ。真理が出てくるのを見ても、もう反射的に後ずさりすることはなかったし、弟をかばおうと身構えることもなかった。それが、若葉自身には不思議だった。どうやらこの真理は、昔ほど怖くも恐ろしい存在でもなくなっていたらしい。それでも、彩乃ママに接するみたいに自然に振る舞えるかと言われたら、若葉にはまだできない。幸い、父はもう彼女と無理に仲良くしろとは言わなかった。ある日、父が酔っている隙を見て、若葉は思い切って聞いた。「パパ、本当に……私と弟に、あの人を無理に受け入れさせたりしな
彩乃は笑って言った。「ご夫婦の間でちょっと揉めてるだけでしょ。私たちに何ができるっていうの?説得しても無理なら、各自引き上げるしかないじゃない」どれだけ大げさに言ったところで、所詮は人様の家庭内トラブルだ。俊明が明菜に暴力を振るった?食事を与えなかった?それとも眠らせなかった?彼女は今も広い部屋で眠り、オーダーメイドのドレスを着ている。床を拭いて、トイレを掃除しただけの話だ。それでどうして、自分たちが「共犯」になるのか。「ふん」詩織が立ち上がった。「せいぜい頑張って。明菜さん」それを合図に、他の奥様たちも一斉に立ち上がり、子分のように彩乃の後について行く。俊明も席を立った。
「ニュースになってる?」「そうだよ。とにかく規模がすごくて、現場もめちゃくちゃ綺麗だった!海外メディアじゃ『百人の中で最も美しい花嫁』なんて言われてるくらい。中村社長、見る目あるよね」「しっ、声小さくして!あの部屋にいるの、中村社長のお母さんだから!」「えっ?……やば、行こ行こ!」彼女は、結婚した。病室の中。明菜は相変わらず部屋の隅に縮こまり、あの結婚届受理証明書を抱きしめていた。ここ数か月、毎日同じ場所に座ったまま。天気がどうであれ、彼女は一言も口をきかなかった。トイレに行くときも、看護助手を呼ぶことはない。手探りで壁を伝い、頭をぶつけて血を流しても、声ひとつ上げなかった。