ANMELDEN2週間後、画面の線は私の意思に合わせて動くようになっていた。
いつでも、ではない。午前中の短い時間に限り、答えが明確な質問を6回繰り返せば、5回ほどは同じ側を選べる。それを過ぎると集中が切れ、誤判定が増えた。
最初の3日間は、名前を問われても半分しか正しく答えられなかった。4日目に画面の明るさを落とし、点滅の間隔を広げると、ようやく同じ反応が続いた。
翌日は首の痛みで一度も判定できない。さらに次の日は、開始から15分だけ前日の結果を上回った。
能力が階段のように上がるわけではない。体調と環境によって進み、戻り、また進む。研究ログには成功より多くの失敗が並んでいた。
それでも私は、自分が集中できる条件を覚え始めていた。午前中。休憩の直後。質問は短く、一度にひとつ。左右の位置を入れ替え、反対の聞き方でも確かめる。
大学病院の訓練室で、玲奈が今日の質問を読み上げる。
「久保先生は脳外科医ですか」
私は【はい】へ注意を向けた。
画面に【YES】と表示される。
「今、痛みがありますか」
【いいえ】を選ぶ。今度も正しく出た。
直紀が隣で腕を組んでいた。結果が出るたび、研究担当者の端末をのぞき込む。
「前回より、ずいぶん安定しましたね」
「短い時間なら、傾向が見えてきました」
玲奈は喜ばせるための数字を口にしなかった。試行数、判定不能、誤判定をすべて同じ表へ記録する。
直紀の視線は、その表から離れなかった。
「文字入力には、いつ進めますか」
「二択が安定してからです」
「妻は理解しているんでしょう。なら、もう試してもいい」
私が理解していると認めたのは、事故後初めてだった。
うれしくはない。彼が見ているのは私ではなく、使える段階へ近づいた装置だ。
「久保先生が何を伝えるかは、先生が決めます。ご家族が急がせることではありません」
玲奈が言うと、直紀は口元だけで笑った。
「もちろんです。ただ、妻も早く話したいだろうと思って」
直紀は研究担当者へ向き直った。
「自宅でも使える機器はありますか。会社で開発費を負担できます。データを共有してもらえれば、うちの解析技術で精度を上げられるかもしれない」
「研究データの利用目的は承認された範囲に限られます。費用負担とデータ提供を交換条件にはできません」
「患者本人の利益になる提案です」
「何が本人の利益かは、ご本人を抜きに決めません」
玲奈は私を見てから答えた。
直紀は反論しなかったが、机に置いた指先だけが止まっていた。彼は装置の可能性だけでなく、誰がデータを管理するのかも見ている。
次の質問が表示された。
【研究を続けたいですか】
私は【はい】を選びかけて、止めた。
このまま精度が上がれば、直紀は訓練内容へもっと深く入り込む。私が入力した文章を最初に読み、使える機能を決め、端末を自分の管理下へ置くだろう。
事故後、私のスマートフォンとパソコンを「手続きに必要だから」と持ち去ったように。
伝える手段を得ても、その手段ごと彼に握られれば何も変わらない。
画面の点滅が一巡する。
私は意識を散らし、どちらにも集中しなかった。
【判定不能】
「もう一度いきます」
玲奈の声は変わらない。
2回目は、わざと【いいえ】へ意識を向けた。
結果を外すためにも、正しい選択と同じ集中が要る。こめかみの奥が熱くなり、首を支えるクッションが急に重く感じられた。
【NO】
直紀が椅子へ座り直した。
「続けたくないということですか」
「一度の出力では決めません」
質問の左右が入れ替わる。
私は次も外した。その次は、疲労で本当に判定不能になった。
研究担当者が休憩を提案した。
直紀は記録表を見たまま、指で机を二度たたく。
「さっきまで合っていたのに」
「精度は一定ではありません。疲労、姿勢、電極の状態でも変わります」
説明は事実だった。意図的に外した結果と、本当に崩れた結果は、表だけを見れば区別できない。
直紀のスマートフォンが鳴った。画面を確認すると、彼は席を立つ。
「会社からです。外で話してきます」
扉が閉まるまで、玲奈は次の質問を始めなかった。
研究担当者も機器の調整で隣室へ移り、訓練室には玲奈と私だけが残った。
玲奈は記録表を見つめていた。
「午前の前半は、既知の質問10回中8回が正答でした」
私は動かない。
「久保さんが入室してからは、正答が逆に減っています。でも、反応そのものが消えたわけではない。誤答側へ、はっきり信号が出た試行があります」
彼女は私の顔を見た。
「わざとだ、と決めつけることはできません」
そこで言葉を切り、モニターを私の正面へ戻した。
「確認してもいいですか」
左右に【はい】【いいえ】が表示される。
「久保さんがいない状態で、研究を続けたいですか」
私は【はい】へ集中した。
【YES】
玲奈は質問の順序を変えた。
「研究を中止したいですか」
【いいえ】を選ぶ。
【NO】
彼女はまだ結論を出さなかった。休憩を3分入れ、電極の接触を確認し、最後の質問を表示する。
「本当の入力精度を、久保さんに隠したいですか」
私は【はい】だけを見た。
1回目。
【YES】
左右を入れ替えて2回目。
【YES】
もう一度休み、3回目。
視界がかすみ、点滅する文字が二重に見えた。
それでも【はい】の位置を数え、そこへ残った集中を向ける。
【YES】
玲奈は長く息を吐き、端末の記録を保存した。
「分かりました。けれど、私が先生の答えを都合よく解釈しないよう、今後も反対の質問を混ぜて確認します」
私はもう一度【はい】を選びたかったが、線は途中で止まった。
【判定不能】
玲奈はそれも消さなかった。
彼女は次回以降の進め方を、私へひとつずつ確認した。
毎回、家族や会社関係者がいない時間を設ける。最初に既知の質問でその日の精度を測る。
重要な質問は肯定形と否定形に変え、時間を置いて3回確認する。結果が割れたときは答えとして扱わない。
直紀へ渡す報告には、その日の全試行を残す。ただし、本人だけの確認で伝えた内容は、私が開示を選ぶまで共有しない。
どれも秘密の暗号ではなかった。研究参加者なら本来持っている、誰に何を伝えるかを選ぶための手続きだ。
私は項目ごとに【はい】を返した。最後の確認では集中が途切れ、2回目まで判定できなかった。玲奈は急かさず、答えがそろうまで待った。
「今日はここまでです」
扉の向こうから、直紀の足音が戻ってくる。
玲奈は通常の記録画面へ切り替えた。私たちの間に特別な合図はない。秘密を示す言葉も、表情も必要なかった。
彼女だけが、私に答えられることを知った。
そして直紀は、まだ知らない。
判決の確定から4か月後、私は大学のBCI研究室で、3回続けて入力を間違えた。【続ける】を選んだつもりが、【休む】になる。削除しようとして、今度は画面を閉じた。玲奈が端末の横で待っている。「今日は精度が落ちています。どうしますか」私は右手の人差し指へ力を集めた。指先が、机に固定された大きなスイッチへ触れる。一度押せばYES。二度ならNO。一度。少し遅れて、確認音が鳴った。「休んでから続ける、ですね」玲奈は画面を閉じ、15分の休憩を設定した。右手の人差し指を自分の意思で動かせるようになったのは、半年前だった。動く範囲はわずかで、続けて押せるのは数回だけ。疲れれば、指はまた机の上で動かなくなる。首と左手にも小さな反応が戻ったが、日によって差が大きい。自分で起き上がることも、歩くこともできない。言葉を声にするには、今もBCIとAI音声が必要だ。完全に元へ戻ったわけではない。それでも、使える手段がひとつ増えた。BCIが不安定な日は指で答える。指が動かない日は眼球反応を短い確認に使う。どれも難しければ、その日は話さない。話さないことと、意思がないことを、もう誰も同じにはしなかった。休憩中、研究室の窓から中庭を見る。学生たちが白衣のポケットへ手を入れ、早足で別棟へ向か
判決の確定を聞いた日、弁護士は3冊のファイルを病室の机へ置いた。公開実証から1年8か月。窓の外で、若い木が揺れていた。青は直紀、白はあゆみ、灰色は三浦。私は背を起こしたベッドから、その表紙を見た。「3人とも、執行猶予の付かない拘禁刑が確定しました」誰か1人の供述だけで決まったのではない。三浦の指示音声、会社車両のGPSと加速、治療費名目の送金、あゆみの録音、提案者A文書の更新履歴。別々の場所に残った記録が、3人の説明を照らし合わせた。判決は、あゆみが私を会議へ行かせないよう発案し、直紀が車両接触という具体的な方法を選んで三浦へ指示し、三浦が実行したと認定した。想定より重い傷害になったことは、故意に接触させた事実を偶然の事故へ戻さなかった。私は法廷へ出ていない。長時間の移送と傍聴は身体への負担が大きく、映像で見ることも選ばなかった。私の意見は、作成過程と確認記録を付けた文書で提出した。判決の日も、直紀たちの顔ではなく、認定された事実を弁護士から聞くと決めていた。弁護士は、判決文のうち私が指定した箇所だけを読んだ。3人が私の死亡を望んだとは認定されていない。一方で、契約判断を妨げるため故意に車を接触させる計画を共有し、傷害の危険を現実のものにした。結果が計画を越えたという主張は、被害を引き受けなくてよい理由にならない。事故後、直紀が私の意思を確認できない状態を利用して契約を進め、三浦へ削除を求め、あゆみへ責任を集める文書を作った経過も、供述の信用性を判断する材料になった。
あゆみは、接見室の透明な仕切りに映る自分の顔を見ていた。公開実証から8か月。髪は肩で切りそろえられ、爪には何も塗っていない。弁護士が書類を机へ広げるあいだ、両手を膝の下へ挟んでいた。「久保さん側の供述調書が開示されました」直紀を指す【久保さん】が、自分ではなく恵美の夫だと理解するまで一瞬かかった。「事故への関与は、今も否定しています。会議を妨害する案は矢代さんが出し、三浦さんが方法を暴走させた。自分は事後に会社を守ろうとしただけだと」あゆみは笑おうとした。喉から出たのは、短い息だった。「録音に、会社を守ったって入ってるでしょう」「入っています。ただ、何をした意味かは争うと言っています」弁護士は、録音1本で決まるとは言わなかった。三浦の通話音声には、直紀の具体的な指示と、【あゆみが言い出した】という言葉がある。あゆみの端末には、自分が会議妨害を提案したと認める声がある。事故対応草案の更新履歴には、提案者Aへ責任を寄せる過程が残っていた。あゆみが原端末を提出した事実も記録されている。提出したから、事故前の言葉が消えるわけではない。「あなたが経緯を説明し、原端末を任意提出したことは、今後も事情として主張します」「助かるんですか」弁護士は答えを飾らなかった。「結果を約束はできません。少なくとも、提出したことだけで責任を免れるわけではありません」起訴状には、あゆみが恵美を契約変更の会議へ行かせないよう提案し、直紀が三浦へ具体的な方法を指
配信が終わって1時間後、直紀から17件の着信が残っていた。玲奈が端末を視界へ置く。画面には番号が並び、最後だけ留守番電話があった。【聞きますか】私はNOを選んだ。主治医が照明を落とす。公開実証で使い切った集中力は戻らず、既知質問にも2度続けて誤った。今は直紀の言葉を受け取るときではない。着信を消す必要もなかった。聞かない。返さない。記録は残す。その3つを、弁護士が私の希望として確認した。「今後の連絡は代理人へ一本化します。久保直紀さん本人からの面会、電話、メッセージには応じない。それでよろしいですね」【YES】すぐに離婚が成立するわけではない。事故の捜査も、契約の争いも、会社の調査も始まったばかりだ。それでも、直紀が私へ直接届く道は閉じられた。午後、ネクサス・メディカルの監査担当者が病院の会議室から接続した。画面に映ったのは、公開実証を止めなかった女性と、社外取締役の2人だった。「本日付で、久保直紀さんの代表権と業務執行を一時停止しました」有罪と決めたからではない。調査対象である本人が、社内資料や端末へ触れられないようにするためだという。管理者権限は変更され、事故当時の経理、車両、契約、広報のデータへ保全措置が取られた。公開実証のアーカイブも、大学側の映像と照合できる状態で保存された。私は、会社を今すぐ潰したいかと聞かれたことはない。聞かれても、YESとは答えなかっただろう。直紀の指
配信開始の赤いランプが点灯した。カメラの向こうに、何人いるのかは分からない。正面のモニターには、大学病院の配信室と、ネクサス・メディカルが用意した会場が並んで映っている。会社側には報道陣と社員、取引先が座っていた。直紀は私のベッドから離れ、会社側のカメラの中央に立っている。「本日は、妻・久保恵美が取り戻した声を、皆さまへお届けします」いつもの穏やかな声だった。あゆみの原端末が外へ渡ったあとでも、彼は献身的な夫の顔を作れた。「事故から1年。妻は、私たちの技術と大学研究チームの支援によって、再び自分の意思を伝えられるようになりました」私たちの技術。私の特許も、大学のBCIも、彼の事業として語られている。直紀が次の説明へ進もうとすると、司会者が止めた。「ここからは、研究チームが確認手順をご説明します」玲奈が大学側のカメラの前へ出た。画面の隅に【本人作成・当日確認済み】と表示される。「これは思考を読む実演ではありません。久保先生が作成した文章を、今使うかどうか、ご本人へ確認します」それだけ告げて、玲奈はカメラの外へ下がった。研究担当者が、最初の確認画面を出す。【事前作成した文章を、今から使用しますか】訂正できなかった一文が、私の同意として公開された日の画面がよみがえる。確認手順があると分かっていても、呼吸が浅くなった。YESへ集中する。
磨りガラスの向こうで、直紀の影が止まった。主治医が入口の中央へ立ち、病棟責任者と警備担当者がその左右を塞いでいる。私はベッドから、磨りガラスへ落ちる彼の影を見ていた。「恵美。5分でいい。会社の話じゃない」扉越しの声は低かった。「昨夜、あゆみが妙な録音を送った。君が誤解する前に、俺から説明させてくれ」説明を求めたのは、何度も私のほうだった。三浦とは何を話したのか。契約をどうしたのか。あゆみをなぜ家へ入れたのか。目しか動かせなかった私に、直紀は【疲れている】【勘違いだ】【僕を信じろ】と答えた。今になって、彼自身が話す時間を欲しがっている。看護師が確認画面を私へ向けた。【扉を開けますか】【NO】「恵美、聞こえているんだろう」影が一歩近づく。「あゆみの言葉だけで決めるな。あの女は、自分が助かるためなら何でも言う」その言葉で、直紀が何を選ぶか分かった。一緒に暮らした女を切り離し、三浦へ命じた行為を事故へ戻し、最後には私の判断まで誰かのせいにする。扉を開けても、別の物語を聞かされるだけだ。私は入力画面で短い文を選んだ。【面会しません】研究担当者が語句を読み上げ、私の確認を取る。AI音声が病室に流れた。直紀は黙った。ほんの数秒だったのに、その沈黙には、7年間のどの口論より重さがあった。