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4話

Autor: Amy
last update Fecha de publicación: 2026-08-13 08:10:50

1週間後、岡本玲奈(おかもと れいな)が私の前に立った。

白衣ではなく、紺色のジャケットを着ていた。肩まで伸びた髪を耳へかけ、ベッドに近づく前に、私と同じ高さまで腰を落とす。

「久保先生。岡本玲奈です。分かりますか」

分かる。

私が東都大学病院にいたころ、3年下の玲奈は、症例検討会のたびに一番前へ座っていた。

臨床ではなく医用工学へ進みたいと打ち明けたとき、私はまず、彼女が迷いをすべて話し終えるまで待った。

医師になることだけが、医学に貢献する道ではない。自分で選んだのなら、逃げだと思わなくていい。最後にそう伝えたことを覚えている。

米国で研究していると聞いていたが、帰国したことは知らなかった。

主治医が、意思伝達手段を探すため国内大学の研究班へ照会したのは2週間前だった。

共有された候補者資料で私の名前を見つけた玲奈が、評価に立ち会いたいと一時帰国を申し出たという。

「先生に試してほしい技術があります。でも、私が先生を知っているから成功するわけではありません。合わない可能性もあります」

玲奈は期待だけを語らなかった。そのことが、今は何より信じられた。

私は視線を彼女へ向けようとした。

焦点は頬の横へずれたが、玲奈は追いかけるように顔を動かさなかった。

「無理に目で追わなくて大丈夫です。今日は、先生に意思を伝える方法が残っているか、一緒に確かめに来ました」

直紀が窓際の椅子に座っていた。主治医と、国内大学の研究チームの担当者もいる。

玲奈はテーブルへ、電極のついた布製のキャップを置いた。

「手や声を使わず、脳波の反応で画面の選択肢を選び、意思を伝える装置です。

BCIと呼ばれています。これは頭皮から脳波を測るタイプで、考えている内容をそのまま読み取るものではありません。

画面上の『はい』『いいえ』へ注意を向けたときの反応を何度も測り、久保先生が使えるか確かめます」

直紀がキャップを手に取ろうとしたが、研究担当者が先に資料を差し出した。

「今日は説明と適合評価です。研究参加には、ご家族の代諾だけでなく、久保先生ご本人に拒否の反応がないかも継続して確認します。負担が強い場合は中止します」

「妻は、自分で同意できない状態です」

「だからこそ、同意できないと決めつけません。今使える反応から、ご本人の意思を確かめます」

主治医が静かに補った。

直紀は資料へ目を落とした。

「実用化は、どの段階まで進んでいるんですか」

私の負担より先に出た質問だった。

玲奈は表情を変えずに答えた。

「患者さんによって差があります。二択が安定するまでにも時間がかかりますし、長く使えば疲労で精度が落ちます。文字入力へ進めない場合もあります」

「それでも、会話できない人の意思を外へ出せる可能性はある」

「可能性はあります。ただし、装置の出力が、そのまま本人の正確な意思だとは限りません」

直紀はそこで初めて、私を見た。

「うちの神経信号解析とも相性がよさそうだ」

会社の広報で語っていた「声を失った人へ、意思を伝える未来」。まだ私へ装置をつけてもいないのに、彼の中ではもう事業へつながっている。

「研究で結果が出たら、発表や事業連携もできますか」

「研究参加と事業利用は別です。先生ご本人の意思を確認できる段階になれば、改めて伺います」

玲奈の声は穏やかだったが、直紀へ答えを預けなかった。

その日の午後、私は大学病院の評価室へ運ばれた。

窓のない小さな部屋に、モニターと計測機器が並んでいた。頭へキャップをかぶせられ、電極の位置をひとつずつ調整される。

皮膚を傷つける処置はない。それでも、体勢を保ったまま光る画面を見続けるだけで、首の奥が重くなった。

研究担当者は計測前に、室内カメラと記録用端末を私にも見える位置で示した。

「質問、刺激の順序、脳波の生データ、出力結果を同じ時刻で記録します。うまくいった結果だけを残すことはしません」

直紀が署名した参加書類とは別に、私が拒否を示した場合はその時点で中止する、と読み上げた。玲奈は一項目ごとに間を置き、私の目と呼吸の変化を確かめていた。

私には署名できない。だからといって、私の意思が存在しないことにはならない。

モニターには、【はい】と【いいえ】の2つが表示された。

最初は装置を使わず、玲奈が私の眼球運動とまばたきを確認した。右を見る。休む。次は左を見る。途中から焦点が定まらず、同じ指示に同じ反応を返せなくなった。

次に、答えが分かっている質問で基準を取った。

「先生の名前は、久保恵美ですか」

はい。

「ここは先生の自宅ですか」

いいえ。

私が心の中で答えても、最初の数回はどちらの反応も拾えなかった。

電極の接触を調整し、画面との距離を変え、刺激の速度を落とす。そのたびに結果は記録され、判定不能という文字も消されずに残った。

正しい答えを知っている質問でさえ、装置は簡単には私を見つけられない。

「ここまでで休憩します」

直紀が時計を見る。

「まだ始めたばかりだろう」

「疲れた状態で続けても、先生の反応ではなく雑音が増えます」

玲奈は計測を止め、私の額ににじんだ汗を看護師へ知らせた。休むかどうかを聞くときも、直紀ではなく私へ問いかける。

「続けたくなければ、まばたきを2回してください。難しければ、今は何もしなくて大丈夫です」

やめたくはなかった。

だが、まばたきひとつでさえ思いどおりにならない私にとって、何もしないことが同意に見えるのは怖かった。

玲奈は時間を置いてから、質問を変えた。

「少し休んだあと、続けたいですか。今度は、画面を使って確認します」

私が答えられないうちは、開始しない。そう言って、彼女は待った。

20分後、計測が再開された。

画面の左右で、【はい】と【いいえ】が交互に明るくなる。私は「はい」だけを追うように意識を集中させた。

1回目。判定不能。

2回目は【いいえ】の数値がわずかに上がった。

違う。

訂正したくても、声は出ない。焦るほど、点滅の間隔についていけなくなった。

玲奈がすぐに止めた。

「今の1回で答えを決めません。休んでから、同じ質問を順序を変えて繰り返します」

次は【いいえ】が先に表示された。

私は待ち、「はい」が明るくなる瞬間だけを数えた。頭の中で、短くひとつ、ふたつ、と繰り返す。

画面の端に、判定を示す細い線が伸びた。

【YES候補】

確定ではない。偶然かもしれない。

それでも、うれしかった。

画面に伸びた細い線は、事故後初めて、私がここにいると外へ示した痕跡だった。声は出ない。指も動かない。それでも、私の意図で画面が変わった。

直紀が椅子から身を乗り出した。

「今のは、恵美が答えたんですか」

「その可能性があります。再現できるか確認します」

玲奈は喜びを先に言葉にしなかった。計測時刻と質問、画面の順序、出力結果を記録し、私の顔色を見た。

視界の端が白くかすみ、額の内側が熱を持っている。もう一度集中すれば、次は何も出ないかもしれない。

それでも、私は続けたかった。

これは直紀が私へ与える許可ではない。私が、自分で外へ出す最初の返事だ。

玲奈が椅子を寄せ、私の正面へ座った。

「先生、もう一度だけ確認します」

モニターの表示が切り替わる。

「研究を続けたいという答えは、YESですか」

私は点滅する文字を見つめた。

時間をかけて、もう一度、同じ線を動かした。

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