ログイン片桐蒼士(かたぎり そうし)は明るく、人柄も良い高嶺の花的存在で、医科大学の学生だった頃に峯崎市(みねさきし)で、最も将来を期待されていた男だ。 ある日失恋した彼は、最も尊敬する指導教授から、どこにでもいそうな平凡な女性を紹介された。 一カ月後、彼は緒方星奈(おがた せな)というその女性と結婚した。 結婚して一年、周りの誰もが、彼女は蒼士に相応しくないと言う。 ある小さな片田舎から来た平凡な女。さらに、脳腫瘍の病気を抱えた母親までいる。 星奈は蒼士の人生における最大の汚点だと、周りは騒いでいた。 そして星奈の不妊症が発覚した日、ついに彼女は蒼士にメッセージを送った。 【私たち、離婚しましょう】 すると、片桐家は彼女に離婚協議書への署名を迫り、星奈は自分の荷物をまとめ、失意の中、蒼士と暮らした家を出ていった。 この時蒼士は、片思いしていた女性、甲斐田真帆(かいだ まほ)を迎えに、遠くへ向かう飛行機の中にいた。 星奈は泣くことも、怒って騒ぐこともなく、この現実を直視し、母親を連れて潔く去っていった。 一方、蒼士は星奈がただすねているだけだと思い、毎日しつこく家に帰ってこいと急かした。 「そんなふうにすねたって、俺は真帆を放っておいたりしないから意味のないことだ。さっさと諦めて帰ってこい」 星奈は淡々とした口調で返した。 「片桐先生、すでに離婚の件なら、メールで伝えたはずです。メールを見ていないのですか?」 実は、星奈のほうが、彼のことを愛していなかった。 ―― それから時は過ぎ、星奈の傍に落ち着いた雰囲気のある紳士の姿を見た瞬間、蒼士は心中穏やかでいられなくなった。 「星奈、俺が長年君を好きだったこと、知らないのか?」 ―― 星奈が蒼士と離婚すると知った瞬間、榊京一(さかき きょういち)はどのような手を使っても、彼女を手に入れてみせると固く決意した。 ―― 「蒼士君、俺は君よりもずっと前から、星奈さんと知り合いだったんだよ」 「いや、京一さんは恐らく知らないだろうが、俺のほうが先だった」 「ふっ、違うな。俺が先だ」
もっと見る星奈は一瞬戸惑い、京一にどう返事をすればいいか困った。京一の返事は軽い感じに聞こえ、どうも大人で落ち着いた会社トップが口にするような言葉とは思えなかったのだ。きっと考え過ぎだろう。同じスイートルームに泊まらせてもらっているが、京一は二人と一緒に部屋を出てレストランに行くことはなかった。星奈は祐実を連れて、五時二十分頃、下にあるレストランに着いた。その時には、京一がすでに中で二人を待っていた。「すみません、お待たせしてしまって」京一は立ち上がって、首を横に振り、親子二人のために椅子を引いて座らせてくれた。星奈が想像する白馬の王子様は、京一のような穏やかで紳士的な優しい男性だ。京一は店員を呼び、二人にメニューを渡すように頼んだ。その行動の全てから、言葉では言い表せない謙虚さと優雅さが感じられる。「お母様には、あっさりして高たんぱくの物を注文しよう。消化に良いものを。たとえば、煮魚とか、豆腐料理とか、レバーなど鉄分が豊富なものも体に良いし」星奈は顔をあげて、感謝の気持ちを込めて彼に微笑んだ。祐実はテーブルに並んだ食器を見て感動していた。「本当に綺麗ね。星奈、ほら、ここ、お皿にお花柄もあるわよ」星奈は大らかで、そんな母親を恥ずかしいと思うことはなく、優しく答えた。「本当だね。京一さんに感謝しなくっちゃ、彼が私たちをここに食事に誘ってくれたんだよ」星奈は母親にウインクしてみせた。彼女はハキハキした性格で聡明、それに透明感ある美しい顔立ちをしている。京一はそんな彼女を温かく見つめ、視線をそらすことができなかった。祐実は無邪気な様子で京一に言った。「イケメンのお兄さん、私たちをこんな素敵なレストランに連れてきてくださって、どうもありがとう。それに、お部屋もあんなに豪華だなんて。本当に感謝してもしきれないわ」星奈は呆れてしまった。京一は手で口元を押さえて、笑いを隠そうとしていた。「おば様、私のことは『榊さん』でも、星奈さんと同じように『京一さん』でもいいので、そう呼んでくださいね」星奈は戸惑っている祐実に教えた。「お母さん、さっきの呼び方じゃ、ちょっとあれでしょ。まるで街角でナンパしてる若い子みたいじゃないの」京一は我慢できずに軽く笑い声を漏らした。それも善意のある笑みだ。祐実はこの
星奈の瞳が輝いた。「あの、脳とデバイスを接続する技術ですよね。本当に実現可能なのでしょうか?」「すぐには難しいだろうけど、将来的にはバイオテクノロジー分野では必然的な流れになるだろうね」星奈は思わずため息をもらした。「すごい」京一は笑った。「君は興味がある?」星奈は真剣な表情で頷き、魅力的な大きな瞳を輝かせた。「だったら、今後会社でBCIに関連するプロジェクトを開始する時には、積極的に参加してもらいたい。だけど、もちろん社内選抜はあるよ」「本当ですか?だったら、絶対に努力します」星奈はとても驚いた顔で喜んでいた。彼女は大学に入ってから、ずっとこの課題に注目していた。BCIの可能性が拡大すれば、人類に大きな貢献ができる。これは火星や月に人類が降り立つことと同じくらい意味のあることだ。同じく医科大学の優秀人材だった彼女にも、理想と追い求めるものがあった。「ちょうど、おじい様から、君とお母様が空港にいると聞いて、ここまで迎えに来たんだ」「榊先生が?」星奈は少し恥ずかしくなってきた。大輔は本当に彼女のことを家族のように思ってくれているらしい。孫にわざわざ空港まで迎えに行かせるほどなのだ。「なんだか、申し訳ないです。京一さんにご迷惑かけてしまって」「そんな迷惑だなんて、ただ高速も今通れないし、山崩れも起きたみたいだから、俺たちも涼名川で、待つしかないけどね」「分かりました」オーラのある大物経営者と一緒にいるなら、彼女ももちろん彼の言葉を聞くしかない。やがて車は京一の泊まる五つ星ホテルに到着した。豪華なロビーは、多くの人でごった返していた。多くのビジネス客が、涼名川に留まることになり、フロントには焦った様子の人たちが列を作っていた。運転手が長い列に並んでやっと戻ってきたと思ったら、仕方なくこう言った。「社長、もう満室だそうです」京一は眉を吊り上げた。星奈は言った。「大丈夫です。母と他のところを探してみます。きっと他のホテルに空きがあると思います」すると京一は言った。「俺はスイートを予約したんだ。部屋には寝室が二つあって、それぞれに洗面所と風呂がついてる。リビングを挟んでいるし、廊下を通って部屋に入るタイプだ。もし、嫌じゃなかったら、お母様と一緒に俺と同じ部屋でもい
ここ数日、蒼士は星奈に何度も電話をかけたが、一向に繋がらなかった。彼は、不愉快に思い、彼女は一体何をごねているのだと思っていた。彼自身は以前星奈の電話やメールにほとんど返事しなかったことを、ほぼ覚えていないらしい。彼は陰険な表情で、病院のオフィスに戻ると、同僚がしている世間話を耳にした。「ニュースだと、南西のほうは大雨らしいね」「らしいね、伏方市(ふしかたし)とか、涼名川市とか、全部毎年災害が起こりやすい地域だよね」蒼士はその言葉に、顔色を大きく変えた。スマホを取り出してニュースを確認し始めた。同僚は蒼士のその反応をおかしく思った。蒼士は滅多なことで慌てることのない、山のようにどっしりと構えた人間だ。普段、とても厳格な人で、今のような姿は一度も見たことがない。「蒼士?どうかしたのか?」……星奈は空港で、窓の外のバケツをひっくり返したような大雨を見つめ、心の中で思った。ホント、次から次に……母親がようやく退院でき、親子は荷物をまとめて、峯崎市に戻るところだった。まさか、南西部で集中豪雨となり、至る所で洪水、土砂崩れが起きている。フライトは全てキャンセルとなり、鉄道も運休している。星奈はスーツケースを引き、母親を連れて空港を出たが、タクシーも出払っている。祐実は困った顔で言った。「星奈、どうしましょう。今日は帰れそうにないわね」星奈は子供のような母親を慰めた。「大丈夫よ、どこか休める所を探そう。娘を信じて、ね」祐実は瞳を輝かせて、笑顔で愛しそうに娘を見つめた。「もちろん、信じてるわよ。私の娘はすごいんだもの。あなたがいるから、お父さんも二度と私を殴ったりできないわ」星奈は神経が震えた。強い憎しみに、彼女は無意識に奥歯を噛みしめ、手のひらに爪が食い込むほど、強く拳を握りしめていた。大雨の中、星奈は気を強く持ち、その美しい顔の瞳には、冷徹さを宿していた。彼女はまっすぐに背筋を伸ばし、降りかかる雨から母親を守っていた。この時、黒の高級車の窓が開いた。美しいフォルムの車体は雨によって洗い流され、さらに光沢を増していた。そして車内に、大人の落ち着きを持つ人物の端正な顔が見えた。「片桐さん」雨音にかき消されて、男の艶やかで低い声が、遠くのほうから微かに聞こえて
蒼士は母親がどうして突然、義母の事に関心を示すのか不思議に思った。義母の開頭手術はあまり良い結果ではなかったが、今のところ悪化しないための治療を続け、家に帰って静養すればいいところまで来ている。退院の手続きならまだだ。蒼士は答えた。「言っただろう、彼女が帰ってきてからだって」麻衣子は彼の言葉に安心し、星奈は別に騙そうとしているわけではないと思った。息子夫婦が離婚することになったのだから、彼女はもちろん息子側に立っている。そして彼女は当たり前のようにこう尋ねた。「結婚する時の結納金は、星奈さんも全部お母様の治療費にあてたのでしょう?」「ああ」「結婚してからあなた達の収入は天と地ほどの差があった。彼女のお母様の病気もかなり治療費がかかる病気で、生活費も何もかも、全部あなたが負担していたでしょ。彼女との結婚はあなたのほうが損をしたのよ。それに、片桐家が出した結納金も少なくはない。あの親子に何か借りを作ることもない」麻衣子は慎重に念を押した。「彼女がもしまた何か要求してきたら、特に金銭面でね、その時はあなたも彼女に譲る必要はないからね。片桐家は別に慈善活動家ではないのだから。彼女の母親の病を少し気にかけてあげるくらいで、もう十分尽くしてあげていると思うわ」そこまで聞き、蒼士はますます不愉快になってきた。「母さん、今日は一体どうしたんだ?普段、家庭内の些細な事に口を挟むのは嫌っているじゃないか」「だって彼女が欲を出して、もっと要求してくるんじゃないかって心配なのよ」なんといっても、蒼士と星奈の差は月とスッポン、天と地の差なのだから。結婚当初、星奈は結婚資金は一切出さなかった。これが片桐家では敏感な話題になっている。もちろん片桐家は金銭的な面を気にしているわけではない。しかし、なんの取柄もない嫁をもらうと、やはりメンツに関わる。彼ら上流社会の間で、長いこと笑い話にされてしまった。だから、片桐家は自然と星奈に不満を抱いている。蒼士のことを考えて、この夫婦の仲を壊さないように、口に出してこなかっただけだ。蒼士は冷ややかな声で言った。「昨日の夜は、よく休めなかったみたいだね」麻衣子は息子のその言葉に声を失い、胸が詰まる思いだった。彼女は心の中で、他人の家庭事情に口を挟むのが好きではない