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第3話

Auteur: 魚骨
愛華は役所から出てきた。手続きが完了するまで、あと一ヶ月待たなければならない。一ヵ月を待てば、自由になれる。

ヴィラに戻ると、中から物音が聞こえてきた。

「このカーテンの色、気に入らないわ。青に変えて」

「このマホガニーのテーブルは古臭すぎる。大理石のものに変えて」

「それからこれ」詩織はテーブルの上の茶器セットを指さした。「私、お茶は好きじゃないの。ワインが好きだから、ここをワインバーに改造して」

愛華の喉が苦くなった。この家は、彼女が一つ一つ飾り付けてきたものだ。

カーテンは彼女と恭平が特注したもので、マホガニーのテーブルは父がくれた結婚祝いだった。

そしてあの茶器セットは、愛華がお茶好きだからと、恭平が結婚初年度に贈ってくれた誕生日プレゼントだった。

しかし今の恭平はソファに寄りかかり、詩織があちこち指図するのを、少しも怒る様子なく眺めている。

その口元には、甘やかすような笑みが浮かんでいた。「君みたいな気性じゃ、この先誰が相手にしてくれるかな」

詩織は彼を一瞥し、唇を尖らせた。「ここに住めって言ったのはあなたでしょ。後悔するなら、今すぐ出て行くわ!」

そう言うと、背を向けて去ろうとした。

恭平は慌てて立ち上がり、彼女の手を引いた。そして顔を上げると、入口に立つ愛華に気づいた。

恭平は眉をひそめ、咎めるように言った。「愛華、どうしてそんなにわがままなんだ!黙って病院を出て行くなんて、何かあったらどうするつもりだ?」

その言葉に愛華は口角を引きつらせた。今の恭平が彼女を心配しているようには到底見えなかった。

もし自分がこのままいなくなったら、恭平はもっと喜ぶのではないだろうか?

愛華の心は乱れに乱れた。

「あなたの謝罪動画、見たわ」詩織は恭平の腕に自然に絡みついた。「恭平さんがあなたのために口添えしてくれたから、仕方なく許してあげる」

彼女は愛華を一瞥した。「契約はしたけど、私たちは対等な関係よ。もし私が不機嫌になったら、あなたが今後何かあっても、私に輸血を頼もうなんて思わないで」

恭平が隣で説明した。「詩織にここに住んでもらえば、君が前回のような問題に遭遇しても、すぐに対応できるだろう」

愛華は頷いた。心が麻痺するほど痛ましい。

どうせもうすぐ出て行くのだ。この家がどうなろうと、もう関係ない。

愛華の無表情な顔を見て、恭平の顔色が悪くなった。愛華がまだ自分を恨んでいるのだと思ったのだろう。

「午後の件は君に非があったんだ。詩織も許してくれたんだから、この件は終わりだ。これ以上、詩織にちょっかいを出すなよ」

恭平が詩織を庇う姿を見て、愛華は奇妙なデジャブを覚えた。

昔、愛華が過ちを犯して父に叱られた時も、恭平はいつもこうして前に立ち、彼女を自分の後ろに庇ってくれたものだ。

だが今、愛華は警戒される側になった。

愛華は突然、ひどく疲れた。彼女の言い分など、恭平は聞く気もないだろう。

恭平と詩織の視線の中で、おとなしく頷き、自分の寝室へと向かった。

あと一ヶ月。荷物をきれいに片付けなければならない。この家にはもう二度と戻ることはないだろう。

恭平が特注したペアリング、毎年の結婚記念日のプレゼント、手作りのぬいぐるみ......

愛華はそれらを一つ一つ、段ボール箱に詰めていった。

本棚の中央からアルバムを取り出した。中には、彼女と恭平の七年間の思い出が詰まっていた。

最高地点に達した観覧車の中で、恭平がひざまずいてプロポーズし、二人は愛のキスを交わした。

夜空に咲き乱れる華やかな花火の下で、恭平は目を閉じて願う彼女の姿をこっそり撮った。

午前四時の海辺の日の出は、二人が約束した新年の最初の祝い事だった。

......

愛華は震える手で、二人の愛の証をめくっていったが、それはひどく遠く、見知らぬものに感じられた。

胸が締め付けられ、涙が黄ばんだ写真を濡らした。

「何をしている?」

背後から恭平の声がした。

愛華は何食わぬ顔でアルバムを段ボール箱に入れ、目元の涙を拭った。「いらないものを片付けてるの」

恭平は彼女の背中を見ても疑う様子はなかった。「会社に行ってくる。僕がいない間、詩織に迷惑をかけるなよ」

低い声には、かすかな脅しと不信感が込められていた。

愛華の片付ける手が止まり、やがて淡々と答えた。「わかった」

彼女の落ち着いたリアクションに、恭平は眉をひそめた。

何かがおかしいと感じたが、結局何も言わなかった。

恭平が去ると、愛華は片付けた荷物を抱えて庭へ行き、燃え盛る火鉢に投げ込んだ。

炎が段ボール箱に燃え移った瞬間、愛華は心臓が砕け散るような思いだった。

ひざまずいてプロポーズする写真が高温で丸まり、二人の笑顔はついに闇の中に消え去った。

「さっき部屋でいらないものを見つけたから、ついでに一緒に燃やしちゃおう」

詩織の声に、愛華は振り返った。

愛華は相手にしたくなかったので、背を向け去ろうとした。その瞬間、見慣れたものが火鉢に投げ込まれるのを見た。

愛華の体は震え、無意識に手を伸ばした。

銀色のディスクが火鉢に投げ込まれ、プラスチックのケースが嫌な匂いを放つ。愛華の頭は真っ白になった。

それは、愛華の母が亡くなる前に、愛華のために手ずから録音してくれたディスクで、母が愛華に語りかける言葉が残されていた。

指先から皮膚が焼ける痛みが伝わり、愛華の目元は瞬時に赤くなり、既に真っ黒に焼けたディスクを取り出した。

ディスクはもう再生できない。愛華の目は怒りで赤く染まった。

彼女は振り返り、詩織の顔を思い切り平手打ちした。

「何をしているんだ?!」

戻ってきた恭平が、ちょうどその光景を目撃した。

詩織は顔を覆い、すぐに悲しそうに言った。「ゴミを燃やそうと思っただけなのに、彼女がいきなり私を叩いたの。お金があるからって、こんな風に人を侮辱していいわけ?」

恭平は顔を真っ青にし、愛華に向ける視線は恐ろしいほど冷たかった。「愛華、謝れ」

「嫌よ!」愛華は崩れ落ちるように叫んだ。「あれは母の形見よ!恭平、あなたも見たことがあるはずでしょ!」

恭平は一瞬固まり、視線を黒焦げのディスクに向けた。

詩織はすぐに泣きながら訴えた。「知らなかったの......」

そして助けを求めるように恭平を見た。

恭平は眉をわずかに動かし、声はいつもの平坦なものに戻った。「詩織は来たばかりで状況を知らなかったんだ。知らなかったんだから仕方ない。もう燃えてしまったんだから、これからは気をつければいい」

その一言で軽く片付けられ、愛華はその場に立ち尽くし、爪が手のひらに深く食い込んだ。

火傷の痛みと胸の鈍痛が絡み合い、愛華は目を赤くして、目の前にいる七年間愛した男を見つめた。

恭平は気まずそうに愛華の視線を避け、怯えて泣く詩織を連れて部屋に戻った。

愛華は地面に落ちた黒焦げのディスクを見つめた。外側のプラスチックケースには、彼らが手書きした「最愛のママ」という文字が残っていた。

愛華はふと、母が亡くなる前、恭平が彼女の手を固く握り、病床の前で誓ったことを思い出した。

「義母さん、安心してください。これからは僕が必ず、愛華をしっかり守ります」

愛華はもう耐えきれず、震えながらその場にしゃがみ込んだ。

お母さん、恭平は約束を破ったわ......
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