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その愛は、二度と春を迎えない

その愛は、二度と春を迎えない

By:  ヒット作連発作家Completed
Language: Japanese
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婚約者・三浦悠生(みうら ゆうせい)の不妊に振り回され、長い年月と大金を費やして治療を続けた末、私はようやく、跡取りを切望されていた彼の子を授かった。 けれど結婚式の前夜、ローカルで話題になっている投稿が目に飛び込んできた。 【今日もクールな社長に特別扱いされちゃいました!】 動画の中で、結城陽菜(ゆうき ひな)は愛嬌たっぷりに語っていた。 「社長って普段はすっごく怖いんですけど、会議中にこっそり机の下で靴を踏んじゃったんです。そしたら笑ってこっちを見てきて、あとでメッセージで『こら、ふざけるな』って送ってきたんですよ!」 コメント欄はすっかり盛り上がっていた。 【え、これもう完全に脈ありじゃん!氷の社長がデレるの、陽菜ちゃんにだけでしょ!】 【社長の身につけてるものチェックして!陽菜ちゃん専用の匂わせアイテムとか絶対ありそう!】 さらに下へスクロールすると、投稿者の返信に一枚の写真が添えられていた。 そこには、鈍い銀色のネクタイピンが写っていた。陽菜の胸元に留められている。 【これ、彼がくれたプレゼントなんです。これを見るたびに俺を思い出せ、って言ってくれました】 私はそのネクタイピンを見つめたまま、しばらく黙り込んだ。 それは、私・九条彩葉(くじょう あやは)が悠生のために自分の手で磨き上げた、婚約の贈り物だった。 そのピンの内側には、今も私と悠生の指紋を重ねて作ったハートが刻まれている。

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Chapter 1

第1話

婚約者・三浦悠生(みうら ゆうせい)の不妊に振り回され、長い年月と大金を費やして治療を続けた末、私はようやく、跡取りを切望されていた彼の子を授かった。

けれど結婚式の前夜、ローカルで話題になっている投稿が目に飛び込んできた。

【今日もクールな社長に特別扱いされちゃいました!】

動画の中で、結城陽菜(ゆうき ひな)は愛嬌たっぷりに語っていた。

「社長って普段はすっごく怖いんですけど、会議中にこっそり机の下で靴を踏んじゃったんです。そしたら笑ってこっちを見てきて、あとでメッセージで『こら、ふざけるな』って送ってきたんですよ!」

コメント欄はすっかり盛り上がっていた。

【え、これもう完全に脈ありじゃん!氷の社長がデレるの、陽菜ちゃんにだけでしょ!】

【社長の身につけてるものチェックして!陽菜ちゃん専用の匂わせアイテムとか絶対ありそう!】

さらに下へスクロールすると、投稿者の返信に一枚の写真が添えられていた。

そこには、鈍い銀色のネクタイピンが写っていた。陽菜の胸元に留められている。

【これ、彼がくれたプレゼントなんです。これを見るたびに俺を思い出せ、って言ってくれました】

私はそのネクタイピンを見つめたまま、しばらく黙り込んだ。

それは、私・九条彩葉(くじょう あやは)が悠生のために自分の手で磨き上げた、婚約の贈り物だった。

そのピンの内側には、今も私と悠生の指紋を重ねて作ったハートが刻まれている。

鏡の中の私は、純白のウェディングドレスをまとっていた。けれどその白さが、その瞬間だけはやけに目に刺さった。

あのネクタイピンは、先月、私が悠生に贈ったものだった。

覚えている。あのとき彼は受け取ると、ちらりと見ただけで、何気なく引き出しに入れた。

「こういう無駄なものは、もう作らなくていい。俺の妻になるんだから、家のことをちゃんと回すほうに気を使え」

その声はひどく冷たく、まるで不出来な書類を淡々と採点しているようだった。

私は、彼がこのネクタイピンを気に入らなかったのだと思っていた。

けれど今、そのネクタイピンは陽菜の襟元におさまり、彼女が誇らしげに見せびらかす特別な証になっていた。

画面を見た瞬間、胸の奥に、鈍い衝撃が走った。耳の奥で、鈍い音がいつまでも響いていた。

十年そばにいても、彼の心は私に向かなかった。冷たい人なのだと思っていた。でも違った。彼の優しさは、最初から私にだけ向けられていなかったのだ。

その瞬間、喉の奥がひりついて、私は思わず笑ってしまった。

ウェディングドレスを脱ぎ、私は悠生に電話をかけた。

「どこにいるの?」

「会議中だ」

彼の声はいつもどおり冷たく、わずかに苛立ちを含んでいた。

スマホを握る私の指は、力を込めすぎて白くなっていた。

「今夜、パーティーがあるの。御影隼人(みかげ はやと)も来る。子どもの頃、母があなたと一緒に火事の中から助けた……」

けれど私の言葉は、向こうから乱暴に遮られた。

「忙しい。ひとりで行け」

諦めきれず、私の声はわずかに震えた。

「でも彼は今、都内でも有数の御影家の当主なの。だから一度会っておいたほうが……」

「ツー……」

やはり最後まで言わせてもらえないまま、彼は電話を切った。

受話口には冷たい通話終了音だけが残った。

けれど……電話が切れる直前、私はたしかに、甘ったるい不満げな声を聞いた。

「社長、誰ですか?ほんと空気読めないですね」

胃の中がひっくり返るように荒れ、吐き気が喉まで突き上げてきた。

スマホを握りしめ、私は彼の位置情報をたどって向かった。

そこは最高級の会員制ラウンジだった。少し多めにチップを渡すと、悠生のいる個室まで案内された。

でも中には入らなかった。ただ扉の外に立った。

会社にいると言ったその人が、個室の中で酒を片手に、楽しげに談笑している。

私はただ、扉の外からそれを見ていた。

そして彼の隣に座っているのは、動画に出ていた陽菜という女の子だった。

「悠生、このインターンの子、相当お気に入りみたいだな。お前が女の子相手にそんな顔するなんて珍しいじゃん」

悠生の幼なじみがグラスを掲げ、からかうように言った。

「でもさ、家にいる例の婚約者ちゃんは知ってんの?三浦家で十年も面倒見てやったんだろ。妬いたりしないわけ?」

「妬くも何も、あれはばあさんが勝手に決めた恩返しみたいなもんだろ。悠生が結婚してやるだけ、ありがたいと思うべきじゃない?」

「だよな。元は家政婦の娘だろ?昔、母親が火事の中に飛び込んで、ばあさんと悠生を助けたってだけでさ。なのに今まで、いい暮らしさせてもらって、いい服まで着せてもらって。ばあさんも甘すぎるんだよ。命の恩があるからって、結婚までしてやる必要あるか?」

そう言った途端、中からどっと笑い声が上がった。

全身の血が凍りついたようだった。

私は悠生をじっと見つめた。たった一言でいい、否定してくれることを願いながら。

けれど、何もなかった。

男はただ薄く笑みを浮かべ、グラスの酒を飲み干した。

陽菜が甘えるように悠生の腕を揺らした。

「そうですよ、社長みたいに素敵な人がこんなに早く結婚しちゃったら、悲しむ人がどれだけいると思ってるんですか」

そう言うと、別の幼なじみがまた笑い出した。

「自分のことを言ってるんだろ」

すると陽菜は、ますます拗ねたように唇を尖らせた。

「社長、見てくださいよ。みんな私をいじめるんです」

悠生の腕を揺らしながら、彼女はひどく甘えた声を出した。

男はグラスを置き、ようやく口を開いた。

「言いたいことはそれだけか?」

悠生は一同を見回し、その声には一片の温度もなかった。

個室の中は一瞬で静まり返った。

私でさえ息を止め、心臓がうるさいほど鳴った。

幼なじみはすぐに笑って、その場を取り繕った。

「冗談だって。そんな怖い顔すんなよ、悠生。たださ、俺たちも気になるんだよ。お前、陽菜ちゃんにはそんな顔するくせに、彩葉にはずいぶん冷たいじゃん」

「十年だろ?お前が彩葉に笑いかけてるところなんて、一度も見たことないぞ」

「あの子、悪い子じゃないんだろうけどさ。見てて退屈なんだよな。陽菜ちゃんのほうがよっぽど可愛いし、話してても楽しいだろ」

「で、明日いよいよ結婚式だろ?本当に彩葉と結婚する気あるのか、はっきりしろよ。こっちも段取りがあるんだからさ。いっそ陽菜ちゃんの言うとおり、ばあさんに正直に話せば?相続のためにそこまで我慢することないだろ」

言葉が途切れ、私は悠生をまっすぐ見つめた。

ただ、答えが欲しかった。

純粋に、それだけだった。

彼が何を言っても、その先のことは考えていた。

揺れるグラスの中で、赤ワインの色が、揺れるたびに彼の顔へ淡く映った。

彼は誰のことも見ず、ただ手の中のグラスを回し続けた。

やがて、悠生がゆっくりと口を開いた。
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ちいこ
ちいこ
主人公は彼のどこが好きだったんだろ 10年もの間、一度も優しくせず、主人公に会いたくて会いに来たこと一度もなかったってわかってるのに
2026-05-31 10:47:15
2
0
松坂 美枝
松坂 美枝
クズ男の遅すぎる悔恨が… 読んでてずっと苦い感じがした 隼人くんが報われるといいなあ
2026-05-31 10:40:32
2
0
ノンスケ
ノンスケ
いくら家が決めた気に入らない結婚だったとしても、冷たすぎるでしょう。結婚相手に対して関心もなければ、秘書にも甘すぎる。去られてから慌ててもね。
2026-06-01 05:29:27
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かとうゆう
かとうゆう
ギャグかなと思うくらい、避難した先の家が簡単にクズどもに見つる。シェルターにならん。しかもヒロイン応対するもんだから、別の意味で肝が冷えた。DVありかつ会話が通じない相手には絶対対面しちゃだめ、本当に。 ともかく、クズ男が、もう1話から最期までクズ過ぎた。 下にみた相手に非道の限りを尽くす権力者男はグッノベにあふれてるけど、制裁をうけてもここまで言動や態度が1ミリも改善されないクズDV男は逆に珍しい。 おばあちゃん、クズ男を野放しにしすぎ。世情にも疎い、婚約者DV常習、後継者にすがるただの異常者ボンボンにしかならなかったよ....
2026-05-31 13:54:27
3
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第1話
婚約者・三浦悠生(みうら ゆうせい)の不妊に振り回され、長い年月と大金を費やして治療を続けた末、私はようやく、跡取りを切望されていた彼の子を授かった。けれど結婚式の前夜、ローカルで話題になっている投稿が目に飛び込んできた。【今日もクールな社長に特別扱いされちゃいました!】動画の中で、結城陽菜(ゆうき ひな)は愛嬌たっぷりに語っていた。「社長って普段はすっごく怖いんですけど、会議中にこっそり机の下で靴を踏んじゃったんです。そしたら笑ってこっちを見てきて、あとでメッセージで『こら、ふざけるな』って送ってきたんですよ!」コメント欄はすっかり盛り上がっていた。【え、これもう完全に脈ありじゃん!氷の社長がデレるの、陽菜ちゃんにだけでしょ!】【社長の身につけてるものチェックして!陽菜ちゃん専用の匂わせアイテムとか絶対ありそう!】さらに下へスクロールすると、投稿者の返信に一枚の写真が添えられていた。そこには、鈍い銀色のネクタイピンが写っていた。陽菜の胸元に留められている。【これ、彼がくれたプレゼントなんです。これを見るたびに俺を思い出せ、って言ってくれました】私はそのネクタイピンを見つめたまま、しばらく黙り込んだ。それは、私・九条彩葉(くじょう あやは)が悠生のために自分の手で磨き上げた、婚約の贈り物だった。そのピンの内側には、今も私と悠生の指紋を重ねて作ったハートが刻まれている。鏡の中の私は、純白のウェディングドレスをまとっていた。けれどその白さが、その瞬間だけはやけに目に刺さった。あのネクタイピンは、先月、私が悠生に贈ったものだった。覚えている。あのとき彼は受け取ると、ちらりと見ただけで、何気なく引き出しに入れた。「こういう無駄なものは、もう作らなくていい。俺の妻になるんだから、家のことをちゃんと回すほうに気を使え」その声はひどく冷たく、まるで不出来な書類を淡々と採点しているようだった。私は、彼がこのネクタイピンを気に入らなかったのだと思っていた。けれど今、そのネクタイピンは陽菜の襟元におさまり、彼女が誇らしげに見せびらかす特別な証になっていた。画面を見た瞬間、胸の奥に、鈍い衝撃が走った。耳の奥で、鈍い音がいつまでも響いていた。十年そばにいても、彼の心は私に向かなかった。冷たい人なのだと思
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第2話
「結婚する」あまりにもあっさりした声だった。それなのに、その一言は重く胸に沈んだ。個室の中では、幼なじみたちがすぐに口笛を吹いた。「ほらな。十年も一緒にいるんだ、今さら切れないって」「あー、陽菜ちゃんは気にしなくていいよ。彩葉なんて形だけの嫁でしょ。悠生が本当に可愛がってるのは、どう見てもお前だから」悠生はそれきり黙った。けれど、その態度だけでわかった。私の話をこれ以上続ける気など、彼にはないのだと。彼にとって私は、人ではなかったのだと思う。十年前の恩を理由にそばに置かれた、面倒な荷物。ただ、それだけだった。ふいに、十年前の火事が脳裏に蘇った。燃え盛る炎の中で、母は悠生と隼人を必死に外へ押し出した。けれど母自身は、崩れ落ちた梁の下敷きになり、その場から逃げられなかった。あの火事のあと、私は三浦家に引き取られた。けれどその代わりに、私は母を失った。「このいちご、おいしそう」陽菜の甘ったるい声が、また響いた。彼女は一粒のいちごを手に取り、すぐに置いた。幼なじみたちがはやし立てる。「食べたいなら食べればいいじゃん」けれど陽菜は眉をひそめて、それを置き、甘えるように悠生を見上げた。「やだ。きれいじゃないもん。社長に洗ってもらったいちごが食べたいんです」背を向けて立ち去ろうとしていた私は、その一言に思わず足を止めた。子どもの頃から、悠生は家事など一切したことがない。いつだって私が皮を剥き、洗った果物を、彼の手元まで運んでいた。私は彼を見つめた。せめて一瞬でも、煩わしそうな表情を見せるのではないかと思った。けれど彼は、そうしなかった。「洗ってくる」悠生はグラスを置き、本当に立ち上がった。そして振り返り、個室の扉を開けた。目が合った瞬間、空気が凍りついた。悠生の目にあった笑みは一瞬で消え、驚きに変わり、すぐに苛立ちと嫌悪の色に変わった。「何しに来た?」私は答えず、ただ彼をまっすぐに見つめた。けれど口調だけは、自分でも驚くほど皮肉めいていた。「悠生。私が贈ったネクタイピンが、どうしてあの子の胸元にあるの?」彼は私の問いに、少しも動じなかった。ただ、厄介なものを見るような目を私に向けた。「彩葉、みっともない真似はやめろ」「みっともない?」思わず笑いがこぼ
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第3話
驚きに揺れる隼人の目を見ながら、私は無意識に、まだ何の変化もない下腹へ手を添えていた。たしかに、悠生に子どもができないことは、誰よりも私がよく知っている。三年前、検査結果を受け取ったばかりの彼は、書斎にあるものをすべて叩き壊した。医師に、精子の運動率が極めて低く、自然妊娠はほぼ不可能だと言われたからだ。だから妊娠検査薬が陽性を示したとき、私は奇跡が起きたのだと思った。本当は結婚式で、彼に直接伝えるつもりだった。それに、三浦家を取り仕切るおばあさまにも、きっと喜んでもらえると思っていた。あの人はもう何年も、ひ孫の顔を見る日を待ち望んでいた。けれど今は……私はカップを置き、隼人を見た。「逃げるのを手伝って」隼人の瞳がまた小さく揺れた。「でも……明日、結婚式だろ……」私は目を伏せたまま、この十年のことを淡々と話した。三浦家で暮らし、居場所を失わないように、何もかも悠生に合わせてきたこと。それなのに最後には、母の命の見返りとして引き取られただけの存在みたいに扱われたこと。「誰のことも恨んでいない。見誤ったのは私だから」少し間を置いて、私はかすれた声で言った。「あなたと彼に仕事上の付き合いがあるのも知ってる。迷惑なら、今の話は聞かなかったことにして。ただ……彼には言わないで」隼人は長いこと黙っていた。「どうしたいのか言ってくれ。俺が手配する」驚いて顔を上げると、視線が合った彼は笑った。「俺に手伝わせてくれ。あのとき君のお母さんが助けてくれなかったら、俺は火の中で死んでいたんだ」隼人と計画を決めて別れたあと、私はそのまま三浦家の別邸へ戻った。けれど玄関の扉を開けた瞬間、私は固まった。リビングでは、酔った陽菜が悠生にもたれかかっていた。赤くなった顔で彼を見上げ、ふざけるようにネクタイを引っ張っている。「社長……好きです……すごく好き……」悠生は陽菜を押しのけなかった。むしろ片手で腰を支え、酔った彼女をそっと受け止めている。その目は、私が見たこともないほど優しかった。十年一緒にいても、私には一度も向けられなかった眼差しだった。私に気づくと、悠生は陽菜越しにこちらを見た。その優しさは一瞬で消え、見慣れた冷淡さに戻った。「彼女は飲みすぎた。ゲストルームを片づけてこ
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第4話
悠生の手が、はっと強ばった。彼は私の両脚の間を伝っていく血の跡を見下ろした。その瞬間、悠生の顔から怒りが消えた。代わりに浮かんだのは、驚きと戸惑い、そして恐怖だった。手の力が抜け、私はそのまま床に崩れ落ちた。下腹の痛みが、さらに強くなる。十年間、私に冷たい顔しか見せなかった悠生が、私が痛みにうめいたその一瞬だけ、わずかに動揺したように見えた。「彩……葉?」けれど私は顔を上げ、血の味にまみれた笑みを口元に浮かべた。「驚いた?あなたに子どもができたのよ、悠生」笑っているうちに、涙と血が混ざり合い、白いスカートの上へ落ちた。「でもこの子は、あなたには渡さない。さっき私を殺したくてたまらないって目をしていたでしょう。あれで、最後の決心がついたの」その瞬間、悠生の喉仏が激しく上下した。唇が震え、何かを言おうとしているようだったのに、声は出なかった。やがて彼は震える体でこちらへ歩み寄り、私の下腹へ手を伸ばした。「そんなのあり得ない!」入口から、甲高い声が飛んだ。陽菜がいつの間にか戸口に立っていた。悠生の白いシャツを羽織り、顔に浮かんだ衝撃は、すぐに傷ついたような表情へ変わっていく。「社長、彼女は嘘をついてます!ご自分の体のこと、わかっているでしょう?妊娠なんて、そんな……」彼女は口元を押さえ、目を赤くし、苦しそうに震えた。「私、本当に社長とは何もないんです。どうしてそんな嘘までついて、気を引こうとするんですか……真実を知ったあと、社長がもっと傷つくとは思わないんですか?」悠生の瞳が揺れた。悠生は振り返り、私を見た。その目に一瞬だけ浮かんだ動揺が、ゆっくりと消えていく。そして代わりに、いつもの冷たさと、あきれたような失望が戻ってきた。「そうだな、彩葉。俺はもう、お前と結婚すると言った。それでもまだ足りないのか?子どもまででっち上げて、俺を縛るつもりか?」全身の血が頭へ逆流していくようだった。「信じないなら病院で検査を……」パシン。頬に鋭い痛みが走った。次の瞬間、体ごと横へ弾かれ、背中がウェディングドレスのラックに激しくぶつかった。金属の支柱が倒れ、真っ白なドレスが降ってきた。その裾は、血にまみれた私の体を覆い隠した。悠生はそんな私を、上から冷たく見下ろしていた。
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第5話
会場は、水を打ったように静まり返った。三百人を超える招待客の視線が、巨大スクリーンと悠生のあいだを落ち着きなく行き来している。空気まで張りつめたような沈黙の中、おばあさまの数珠が切れた。玉が、大理石の床にひとつ、またひとつと散っていく。そのうちのいくつかは、悠生の革靴の先まで転がって止まった。おばあさまの手は宙に浮いたままで、切れた数珠だけが指先から力なく垂れ下がっていた。彼女は悠生を見ていなかった。見つめていたのは、巨大スクリーンに映る妊娠診断書だった。【暴行による流産】「彩ちゃん」おばあさまの声は、ひどくかすれていた。椅子の肘掛けに手をついて立ち上がろうとしたけれど、足が震えていた。そばにいた介護士が慌てて支えようとする。けれどおばあさまは彼女を押しのけ、一歩ずつ壇上へ向かってきた。「おいで」裸足の私は、冷たい壇上を踏みしめながら、一歩ずつおばあさまのもとへ歩いた。ウェディングドレスについた血はすでに黒ずみ、固くなって肌に張りついている。おばあさまは震える手で私の手を握った。そして、ドレスの裾に残る血の跡を見た瞬間、身体を大きく揺らした。そっと私の頬に触れ、そのまま何も言わず私を背にかばうように引き寄せた。それから振り返り、悠生を見た。「そこに正座しなさい」低い声だった。けれど式場の誰ひとり、息をすることすらできなかった。悠生はその場に立ち尽くしていた。顎に力が入り、横顔がこわばっている。まさか、ここまで大ごとになるとは思っていなかったのだろう。「おばあさま、俺は……」「正座しなさいと言ったの」おばあさまは声を荒げなかった。けれど、その場にいる誰もが、その意味を聞き取っていた。これは祖母が孫を叱っているのではない。三浦家の当主が、跡取りに命じているのだ。悠生の膝は曲がらなかった。彼の視線はおばあさまを越え、私に落ちた。その目には、いろいろな感情が浮かんでいた。怒り。信じられないという困惑。そして、衆目にさらされた屈辱。悠生は数秒、私を見つめた。それから、三百人を超える招待客の視線の中で、ゆっくりとその場に正座した。パシン!おばあさまの手が、悠生の頬を打った。年老いた身体で振り絞った、重い一打だった。打ち下ろし
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第6話
隼人が車のエンジンをかけた。彼は、私がどこへ行きたいのかを尋ねなかった。車が500メートルほど走ってから、私はようやく、自分がずっとあのエコー写真を握りしめていることに気づいた。紙は手のひらの汗で湿っていた。そこに写る、丸まった小さな影。私の子どもは、もう輪郭がわからなくなるほどぼやけていた。「彩ちゃん」隼人はハンドルを握る手に力を込めた。指の節が白くなっている。彼はすぐには何も言わなかった。長い沈黙のあと、隼人がようやく口を開いた。声は少しかすれていた。「ごめん。君にも、君のお母さんにも、ずっと申し訳ないと思ってた」私は隼人の横顔を見た。街灯の光がその輪郭を照らし、影になった表情はひどく沈んで見えた。「あのとき、君を連れて逃げていればよかった」車はあるマンションの前で止まった。隼人名義の物件で、三浦家が把握している住所のどれにも含まれていない場所だった。エレベーターの中で、彼はずっと何も言わなかった。ただ目的の階に着くと、先に外へ出て、部屋の鍵を開け、振り返ってスリッパを私の足元に置いた。「冷蔵庫に食べるものがある。先にシャワーを浴びて、服を着替えて」彼は廊下の奥を指した。「ゲストルームは整えてある。寝具も新しい」玄関に立ち尽くしたまま、私は自分の裸足と、ドレスに残ったまだらな血の跡を見下ろしていた。「ありがとう。この先は、もう迷惑をかけないから」隼人が私の言葉を遮った。その声は抑えられていて、まるで少しでも言いすぎれば私が崩れてしまうのを恐れているようだった。「今の君は体調がかなり悪い。医者は少なくとも一か月は静養が必要だと言っていた。ほかのことは、回復してから考えればいい」私はそれ以上問い返さなかった。知りたくなかったわけではない。ただ、今の自分には何もできないとわかっていたからだ。シャワーを浴び終え、私はゲストルームのベッドにもたれ、天井を見つめたまま長いことぼんやりしていた。スマホは一晩中震え続けた。三十七件の不在着信。全部、悠生からだった。その合間に、いくつかメッセージも届いていた。【どこにいる】【彩葉、逃げれば済むと思うな】【御影隼人に送らせて戻ってこい】いちばん新しいものは、午前三時十二分に届いていた。
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第7話
「おばあさま」スマホを握ったまま、私は思ったより落ち着いた声で答えた。電話の向こうで数秒の沈黙があり、長く重いため息が聞こえた。「彩ちゃん、今どこにいるの?」「安全な場所です」「そう」おばあさまはそれ以上問い詰めず、少し間を置いた。「彩ちゃん、おばあさまにひとつだけ、正直に答えてちょうだい。あの子は……本当にいたの?」私の指がわずかに丸まり、爪が手のひらに食い込んだ。「本当です」電話の向こうは、長い長いあいだ静まり返った。沈黙が長すぎて、通話が切れたのかと思った。そのとき、受話口の向こうで、押し殺したようなすすり泣きが聞こえた。おばあさまは声を上げて泣かなかった。けれど喉の奥で必死にこらえている嗚咽は、どんな号泣よりも胸に刺さった。「何週だったの?」「七週です」また沈黙が落ちた。それから、おばあさまの声が変わった。慈愛深い祖母の声ではなかった。三浦家を取り仕切る人間としての、冷えた声だった。「彩ちゃん、よくお聞き。悠生名義の株式については、七割分の議決権を弁護士に押さえさせた。今日から悠生は、三浦グループで勝手なことは一切できない。何を動かすにも、まず私を通すことになる」私は口を開きかけた。「おばあさま、そこまでしていただかなくても……」「あなたのためじゃない」おばあさまは私の言葉を遮った。その声には怒りがこもっていた。「この世に生まれてくることすらできなかった、私のひ孫のためよ。三浦悠生に、跡を継ぐ資格はない」その一言一言が、重く、鋭く、胸に突き刺さった。私は何も言えなかった。涙が音もなくこぼれ、膝の上に置いた椀の縁へ落ちた。「あなたのお母さんが亡くなる前、私はあの人の手を握って約束したの。彩ちゃんを、実の孫だと思って守るって」おばあさまの声が、少しだけ柔らかくなった。「それなのに、この十年、私は何を見ていたんだろうね。あんなろくでなしを、野放しにしてしまった」「おばあさま……」「止めないで」彼女は何度も咳き込んだ。そばにいる介護士が、早く休むよう慌てている声が聞こえた。「彩ちゃん、安心して体を休めなさい。ほかのことは、おばあさまが片づけるから」電話は切れた。私はスマホを置き、すっかり冷めたお粥を一口ずつ食べた。最後ま
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第8話
翌朝早く、隼人は出かける前に、玄関に紙袋を置いていった。中には着替え一式が入っていた。サイズはぴったりで、値札もまだ切られていない。それから、服の下には葉酸のサプリが一箱入っていた。私はそれを手に取ったまま、しばらく動けなかった。隼人は、忘れていたのかもしれない。もう子どもはいない。これを飲む必要も、もうないのだと。あるいは、忘れていないのかもしれない。ただ、どう向き合えばいいのかわからないだけで。私は葉酸の箱を紙袋へ戻した。捨てはしなかった。午前十時、インターホンが鳴った。私は玄関のモニターを確認した。悠生だった。彼は昨日と同じ濃紺のスーツ姿だった。ネクタイは曲がり、シャツの襟元のボタンも外れている。目の下には濃い隈ができていて、一睡もしていないのが見て取れた。その隣には、運転手の山本が白い百合の花束を抱えて立っていた。インターホンがもう一度鳴った。それから彼の声が、ドア越しにくぐもって届いた。「彩葉、開けろ」私は玄関に立ったまま、動かなかった。「中にいるのはわかっている」彼の声は低く抑えられていた。廊下を通る人に聞かれるのを恐れているようだった。「彩葉、話をしよう」私は靴を履き、扉の前まで行って、ドアを開けた。けれど開けたのは、半分の顔が見える程度の細い隙間だけだった。私を見た瞬間、彼の目がわずかに揺れた。本当に開けるとは思っていなかったのだろう。「何を話すの?」悠生は隙間から見える私の顔を見つめ、喉仏を上下させた。「子どものことは、俺……」「子どもはもういない」私は言った。「話すことなんてない」悠生は唇をきつく結び、顎をこわばらせた。「彩葉、戻ってこい」「どこへ?」「家だ」その声には、ひどくぎこちないものが混じっていた。命令ではなかった。けれど、頼みごとでもなかった。命令することに慣れきった人間が、初めて命令が通じないと知り、それでも代わりに何を使えばいいのかわからない。そんな声だった。「あそこは私の家じゃない」私は言った。「一度も、そうだったことはない」悠生の目が細められた。彼は手を伸ばして扉を押した。けれどドアチェーンがそれを止めた。「お前と御影隼人はいったいどういう関係だ」
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第9話
よかったじゃないか。悠生は知ったのだ。子どもは本当にいたこと。そして、自分にはもう二度と、その機会が巡ってこないかもしれないこと。七週。心拍だって、もう確認できていた。彼が自分の手で奪ったのは、確かに存在していたひとつの命だった。彼があのカルテを見たとき、どんな顔をしたのかは知らない。けれどその夜、彼からの電話は次から次へとかかってきた。以前のような、命令めいた詰問ではなかった。一度目、私は出なかった。二度目も、出なかった。三度目も、やはり出なかった。四度目のとき、彼は音声メッセージを送ってきた。私は再生しなかった。けれど、隼人のスマホが鳴った。表示されていたのは、固定電話の番号だった。隼人は電話に出て、数秒聞いたあと、顔色をわずかに変えた。彼は私を一瞥し、バルコニーへ出て、扉を閉めた。ガラス扉越しに、彼が背を向け、片手を手すりについたまま、長いこと話しているのが見えた。戻ってきたときには、彼の表情は、いつもの落ち着きを取り戻していた。「誰?」「三浦が固定電話からかけてきた」隼人は腰を下ろし、感情のない声で言った。「君を連れて戻ってこい、と」私は何も言わなかった。「断った」「何て言ってた?」隼人は湯呑みを手に取って一口飲み、置いた。「君を返さないなら、御影家のこの街での取引を全部潰す、と言っていた」「怖い?」隼人は少し笑った。その笑みは嘲りではなく、本当に少しおかしいと思っているようなものだった。「彩ちゃん、御影家は三浦の三倍はある。あいつに脅される筋合いはないよ」私も少し笑い、視線を落として手元の婚約解消書類を読み続けた。翌日の午前、私はリビングで書類の記入を終え、名前を書いた。ペンを置いた、その瞬間。インターホンがまた鳴った。モニターを確認した。今度は悠生ではなかった。陽菜だった。彼女はすっかり雰囲気を変えていた。ベージュのニットワンピースに、きれいに巻いた髪。手には上品な紙袋を提げ、顔には作り込んだような笑みを浮かべていた。私は扉を開けた。今度は大きく開けた。陽菜の笑顔は、まるで親戚の家を訪ねてきたかのように晴れやかだった。「彩葉さん、この前は失礼しました。今回は私が自分で来ました。社長は関係あ
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第10話
陽菜が帰ってから二時間もしないうちに、あるハッシュタグがローカルのトレンドに上がっていた。【#三浦グループ社長結婚式中止の裏側】タグを開くと、いちばん上に載っていたのは、結婚式で巨大スクリーンに映し出されたあの数枚の写真だった。どの招待客が隠し撮りしたのかはわからない。けれど角度ははっきりしていて、妊娠診断書の文字までくっきり読めた。コメント欄は炎上していた。【つまり社長が秘書と浮気して、婚約者を殴って流産させたってこと???昼ドラすぎるでしょ】【待って、この秘書って前にショート動画上げてた子じゃない?見たことある!「今日もクールな社長に特別扱いされちゃいました!」とか言ってた子!】【見つけた見つけた!この子だ!動画まだ消してない!みんな見に行って!】騒ぎが広がるのは、思っていたよりずっと早かった。陽菜がネクタイピンを見せびらかしていた動画は、すぐに掘り返された。コメント欄は、恋愛をはやし立てる甘い言葉から、彼女を責める声で埋め尽くされていった。さらに、過去の投稿まで次々と晒された。【この子の投稿、全部匂わせじゃん。社長と特別な関係ですって言いたいの、見え見え】【一番引いたのこれ。婚約者が流産した日に「その席、最初から私のものだったのかも」って投稿してる。無理すぎる】私はそれ以上見なかった。スマホを横に置いた瞬間、画面がまた光った。登録していない番号から、ショートメッセージが届いていた。【彩葉さん、お願いです。投稿を消すように言ってください。あの写真、私が流したんじゃありません。信じてください】陽菜だった。私は二秒だけ見て、メッセージを削除した。午後三時、隼人から電話がかかってきた。「三浦グループの広報が全力でトレンドを抑え込もうとしている。でも君の件はもう広まっている。何社かのメディアがこっちに接触してきて、君に取材したいと言っている」「相手にしなくていい」「うん、俺もそう伝えた」隼人は少し間を置いた。「それから、もうひとつ。心の準備をしておいて」「何?」「三浦悠生が午後、三浦家の当主と大喧嘩した。婚約解消に同意しないそうだ」私はスマホを握ったまま、数秒黙った。「彼が同意しなくても関係ない」「わかってる」隼人の声は落ち着いていた。「弁護士
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