キッチンには、味噌汁の湯気がゆっくりと立ち上っていた。朝の日差しがカーテン越しに差し込み、柔らかな光が二人の手元を照らしている。まな板の上で包丁がトントンとリズムよく動き、卵を割る音が静けさの中に響いた。
唯史は、卵焼きを巻きながら、自分の手の動きを意識していた。手首を返し、フライパンを傾ける。その一連の作業は、何度も繰り返してきたはずだった。けれど、今日はほんの少しだけ感覚が違っていた。身体は覚えているのに、心がどこかざわついている。昨夜までのことが、まだ体の奥に残っていた。
「…焦げへんように気をつけや」
佑樹が、後ろから声をかけた。声は柔らかく、低めだった。唯史は、一瞬だけ手を止めた。箸を持つ指先がわずかに震えたのを、自分で感じた。けれど、それを気づかれたくなくて、すぐにまた卵焼きに視線を戻した。
「わかってる」
軽く返事をしながら、唯史は笑みを作った。その笑顔は、鏡で見たらきっとぎこちなかっただろう。でも、それでよかった。少しずつ、日常に戻っていくしかなかった。
味噌汁の鍋から、ふわりと出汁の匂いが広がる。鰹と昆布の香りが、部屋全体を包み込んでいた。唯史は、その匂いを深く吸い込みながら、心の中で「普通の朝」を作ろうとしていた。
「焼き魚、ええ感じやで」
佑樹が、グリルから鮭を取り出しながら言った。トングを使って、皿に丁寧に盛り付ける。その動きは、いつも通りだった。佑樹は料理が得意というわけではないけれど、こういう簡単なことは器用にこなす。
「ありがとう」
唯史は、卵焼きを最後まで巻き終えて、まな板の上に置いた。包丁で切り分けるとき、手元が一瞬だけぶれた。けれど、すぐに持ち直した。
「…なんや、まだ緊張してるんか?」
佑樹が、笑いながら言った。その目尻が、ふわっと緩んでいた。
「してへんわ」
唯史は、少しだけ強めに言い返した。でも、心の奥では確かに緊張していた。少し前の夜のことが、まだ体の奥に残っている。温泉旅館の夜、佑樹と肌を重ねた記憶が、ふっと蘇る。けれど、それを表には出さず、箸で卵焼きを並べた。
「まあ、そりゃそう
河川敷に並んで座るのは、何年ぶりやろか。唯史は、ぼんやりと空を見上げながら、そんなことを考えていた。十五年という時間が、気がつけばあっという間に過ぎていた。中学生の頃、何も考えずにここでだらだらと過ごしていたあの時間が、今になってやけに鮮やかに蘇ってくる。夕方の風が頬を撫でる。草がそよいで、カサカサと小さな音を立てている。川面には橙色の空が映り込んでいた。水面は静かで、時折小さな波が立つ。それがゆらゆらと揺れて、まるで二人の記憶までも撫でているようだった。隣には、佑樹がいる。昔と変わらない顔をしているけれど、あの頃よりも少し大人びた横顔だった。肩幅も広くなって、手も大きくなった。けれど、笑ったときの目尻のしわは、昔と同じだった。「なあ、唯史」佑樹が、ぽつりと声をかけた。その声は低くて、けれどどこか柔らかい響きがあった。「なんや」「この場所、変わらんな」「せやな」唯史は、口元に小さな笑みを浮かべた。目はまだ遠くを見ている。視線の先には、川と空と、淡く染まる夕焼けしかない。けれど、その景色が心地よかった。中学生の頃、この河川敷で何度も佑樹と並んで座った。部活の帰り、くだらない話をしたり、ただ黙っていたり。そんな時間が、確かにあった。「思い出すな。昔のこと」「せやな。あのときは、ようここ来てたわ」佑樹の声は、どこまでも穏やかだった。その声を聞きながら、唯史は自分の胸の奥に静かな波紋が広がるのを感じた。あの頃は、まだ何も考えていなかった。ただ、毎日が続いていくもんやと思ってた。「なあ、唯史。あのとき、俺ら何しゃべってたっけな」「そんなもん、覚えてへんわ」唯史は、ふっと笑った。けれど、その笑いは自然なものだった。昔のことを思い出しても、もう胸が苦しくなることはなかった。「でも、こうやってまた並んで座ってるんやな」「せやな」佑樹は、唯史の横顔を見つめたまま、目尻をやわらかく緩めた。その視線に気づいていながら、唯史はあえて目をそらした。風が少し強くなった。髪が揺れて、唯史は無
夜は、静かに深まっていた。リビングのテレビを消して、二人は自然な流れで寝室へと向かった。特に決めたわけでもないのに、佑樹が電気を消し、唯史がカーテンを閉める。その一つ一つの動作が、もう当たり前の習慣になっていた。ベッドのシーツは、少しだけ冷たかった。けれど、それも一瞬のことだった。佑樹が隣に潜り込んでくると、布団の中に熱が広がった。そのぬくもりに、唯史は思わず目を閉じた。「寒ない?」佑樹が小さな声で聞いた。その声は、喉の奥でかすれていた。仕事終わりの疲れが、声にも表れている。でも、その低い声は、唯史の耳に心地よく響いた。「うん、大丈夫や」そう答えた唯史は、佑樹の背中に手を回した。肩甲骨のあたりから、ゆっくりと手のひらを滑らせる。滑らかな肌に、指先が自然と馴染んだ。もう、そこにためらいはなかった。かつては緊張で固くなっていた手も、今は何の抵抗もなく佑樹に触れられる。佑樹が、唯史の腕を引き寄せた。体と体が重なり合い、呼吸が混ざる。唯史の吐息が、佑樹の首筋にかかった。微かな湿度と温度が、二人の間に静かに溶けていった。「好きやで」佑樹が、耳元でそう囁いた。その声は、少しだけ掠れていた。けれど、その言葉は真っ直ぐに胸の奥に届いた。唯史は、何も言わなかった。ただ、佑樹の背中を撫で続けた。肩の筋肉をなぞるように、ゆっくりと手のひらを動かす。その動作は、まるで自分の存在を確かめるような、あるいは佑樹の存在を自分の内側に取り込むような感覚だった。唇が佑樹の首筋に触れた。ほんの一瞬、呼吸が止まる。けれど、次の瞬間にはまた自然なリズムに戻っていた。「なあ、唯史」佑樹が、小さな声で呼んだ。「ん」「このままずっと、こうしてたいな」「……せやな」その返事は、もう迷いのないものだった。心の奥で、何かがゆっくりと満たされていくのを感じた。これが、自分の場所なんだと実感する。性的な行為だけじゃない。佑樹の肌に触れ、息を感じることで、「所有」と「愛情」が重なり合う感覚が確かにそこにあった。佑樹の指が、
台所からは、煮物の香りが漂っていた。唯史は鍋の蓋を少しずらして、湯気を逃がしながら、味見用の小皿に汁をすくった。箸の先で舐めて、舌の上に広がる味を確かめる。ちょうどいい濃さだった。だしの旨味と、薄口醤油の香りが舌に残る。時計を見ると、そろそろ佑樹が帰ってくる時間だった。炊飯器のタイマーがちょうど鳴る。ふたを開けると、湯気がふわりと立ち上り、白いごはんがふっくらと炊き上がっていた。玄関の鍵が回る音がした。靴が脱がれる音と、ドアが静かに閉まる気配。唯史は、鍋の火を止めたまま、台所からリビングを覗いた。「ただいま」佑樹の声がした。その声は、低くて、どこか疲れが混じっているのに、温かさを含んでいた。「おかえり」唯史は、自然にそう言った。言葉を交わすその瞬間に、どこか安心する気持ちが胸に広がる。昔は「おかえり」と言うだけで心がざわついていたのに、今はそれが当たり前になりつつあることに、少しだけ戸惑いを覚えた。佑樹は、ネクタイを緩めながらリビングに入ってきた。スーツのジャケットをソファに軽く置き、シャツの袖をまくる。動作のひとつひとつが、日常の風景に溶け込んでいた。「今日は煮物か」「せや。あと、焼き鮭と味噌汁もある」「完璧やん」佑樹は、そう言って笑った。その笑顔を見ていると、唯史の胸が少しだけ緩んだ。けれど、同時に微かな緊張も残っていた。この生活が、いつまで続くのか、そんな考えが頭の隅にこびりついていた。二人は、テーブルに並んで座った。ごはんをよそい、味噌汁を手渡す。そのやりとりも、いつの間にか慣れたものになっていた。「いただきます」「いただきます」声が重なった。箸を動かしながら、唯史は佑樹の横顔をちらりと見た。佑樹は、黙々とごはんを食べている。けれど、その表情は穏やかだった。眉間に皺はなく、口元もやわらかく緩んでいる。「うまいな、これ」「そらそうや」「ほんま、毎日これでええわ」佑樹の言葉は、何気ないものだった。けれど、それを聞いた瞬間、唯史の胸の奥に何かがじんわりと広がっ
朝食を終えた後、二人は自然にそれぞれの動きに移った。佑樹は立ち上がり、食器を流しに運ぶ。その後ろ姿を唯史は、黙って見ていた。シンクに立つ佑樹の背中は広く、肩はしっかりとした厚みを持っている。その形を見ているだけで、胸の奥がじわりと熱くなった。「片付けは俺がやるから」佑樹がそう言いながら、食器を洗い始めた。水の音が流れ、スポンジの泡立つ音が部屋に響く。「ええよ、俺やるわ」唯史が言ったが、佑樹は首を横に振った。「朝はええって。俺がやる」その声は、低めで、いつもよりさらに柔らかかった。唯史は、唇の端をほんの少しだけ上げた。けれど、目の奥にはまだ少しだけ不安が残っていた。キッチンの片付けが終わると、佑樹は寝室に向かった。クローゼットからスーツを取り出し、シャツを羽織る。唯史は、リビングのソファに座ったまま、その様子を見つめていた。ネクタイを締める佑樹の姿は、いつもと変わらないはずだった。けれど、どこか違って見えた。昨夜までの肌と肌を重ねた時間が、まだ唯史の体の奥に残っていた。そのせいか、佑樹の指先がネクタイを結ぶ動作一つとっても、妙に色っぽく見えた。「俺、今日は在宅やから」唯史は、ぽつりと言った。言葉は自然に出たけれど、心の中では少しだけ戸惑いがあった。こんな風に、普通の会話ができることが、まだ信じられなかった。「そっか」佑樹は、ネクタイを締め終えて、鏡の前で軽く整えた。その後、唯史の方を振り返り、にこっと笑った。「じゃあ、晩ごはん楽しみにしてるわ」その声もまた、低くて穏やかだった。佑樹の目尻が微かに緩んで、笑い皺ができた。その笑顔に、唯史は心の中で少しだけほっとした。「何がええ?」「なんでもええよ。唯史が作るなら、全部うまいし」その言葉に、唯史はまた唇の端を上げた。でも、胸の奥ではまだざわつきが残っていた。佑樹が玄関に向かう。鞄を肩にかけ、靴を履く。その背中を、唯史は黙って見つめた。いつもと同じようで、どこか違う。その違いに、まだ慣れていなかった。「行ってくるな」
キッチンには、味噌汁の湯気がゆっくりと立ち上っていた。朝の日差しがカーテン越しに差し込み、柔らかな光が二人の手元を照らしている。まな板の上で包丁がトントンとリズムよく動き、卵を割る音が静けさの中に響いた。唯史は、卵焼きを巻きながら、自分の手の動きを意識していた。手首を返し、フライパンを傾ける。その一連の作業は、何度も繰り返してきたはずだった。けれど、今日はほんの少しだけ感覚が違っていた。身体は覚えているのに、心がどこかざわついている。昨夜までのことが、まだ体の奥に残っていた。「…焦げへんように気をつけや」佑樹が、後ろから声をかけた。声は柔らかく、低めだった。唯史は、一瞬だけ手を止めた。箸を持つ指先がわずかに震えたのを、自分で感じた。けれど、それを気づかれたくなくて、すぐにまた卵焼きに視線を戻した。「わかってる」軽く返事をしながら、唯史は笑みを作った。その笑顔は、鏡で見たらきっとぎこちなかっただろう。でも、それでよかった。少しずつ、日常に戻っていくしかなかった。味噌汁の鍋から、ふわりと出汁の匂いが広がる。鰹と昆布の香りが、部屋全体を包み込んでいた。唯史は、その匂いを深く吸い込みながら、心の中で「普通の朝」を作ろうとしていた。「焼き魚、ええ感じやで」佑樹が、グリルから鮭を取り出しながら言った。トングを使って、皿に丁寧に盛り付ける。その動きは、いつも通りだった。佑樹は料理が得意というわけではないけれど、こういう簡単なことは器用にこなす。「ありがとう」唯史は、卵焼きを最後まで巻き終えて、まな板の上に置いた。包丁で切り分けるとき、手元が一瞬だけぶれた。けれど、すぐに持ち直した。「…なんや、まだ緊張してるんか?」佑樹が、笑いながら言った。その目尻が、ふわっと緩んでいた。「してへんわ」唯史は、少しだけ強めに言い返した。でも、心の奥では確かに緊張していた。少し前の夜のことが、まだ体の奥に残っている。温泉旅館の夜、佑樹と肌を重ねた記憶が、ふっと蘇る。けれど、それを表には出さず、箸で卵焼きを並べた。「まあ、そりゃそう
布団の中は、まだ熱がこもっていた。汗ばんだ肌が重なり合い、互いの体温がゆっくりと馴染んでいく。けれど、誰も動こうとはしなかった。唯史は、佑樹の胸の上に頭を預けたまま、静かに呼吸をしていた。耳の奥に、佑樹の心臓の音が聞こえる。一定のリズムで、どくんどくんと鳴っている。その鼓動を聞いていると、自分の体も自然に同じリズムで呼吸をしていることに気づいた。部屋の中は、夜の静けさに包まれていた。障子の隙間から、月の光が細く差し込んでいる。外では、虫の声がかすかに聞こえた。その音が、やけに遠く感じられるほど、唯史の意識は佑樹に集中していた。「なあ」唯史は、喉の奥で呟いた。声はかすれていた。唇が、まだ少しだけ震えていた。「これからも、ずっと一緒なんやろな」それは、問いかけというよりも、自分に言い聞かせるような言葉だった。佑樹の腕の中で、唯史は目を閉じた。けれど、佑樹はすぐに答えてくれた。「当たり前やん」その声は、低くて、優しかった。胸の奥に染み込むような響きだった。佑樹の腕が、唯史の背中をぎゅっと抱き寄せた。その力が、ほどよく強くて、心地よかった。唯史は、佑樹の胸に顔を埋めた。額が肌に触れる。汗ばんだ感触が、妙に安心感を与えた。佑樹の心臓の音は、まだ続いていた。そのリズムが、自分の鼓動と重なっていく。「これが俺の帰る場所なんや」唯史は、心の中でそう思った。声には出さなかったが、その言葉は胸の奥に確かに響いていた。今まで、自分はどこに帰ればいいのかわからなかった。家族のもとにも、元の生活にも、帰る場所が見つからなかった。けれど、今は違った。佑樹の腕の中が、自分の居場所だった。佑樹の指が、唯史の髪を撫でた。その指先は、やさしくて、どこか頼りがいがあった。唯史は、目を閉じたまま、その手の感触を受け止めた。涙は、もう出なかった。けれど、胸の奥はまだじんわりと熱かった。「唯史」佑樹が、小さな声で名前を呼んだ。その声は、どこまでも柔らかかった。「ん」唯史は、目を閉じたまま応えた。声はかすれていたけれど、不思議と落ち着いていた。「これから