Share

夜のアルバム

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-26 17:24:37

唯史は、古びたアルバムを膝の上に置いた。

かつて自分が使っていた部屋は、今はもう物置のようになっていた。

押し入れの隅から引っ張り出したそのアルバムには、厚い埃がかかっていた。

手のひらで軽く払うと、埃がふわりと舞った。

その細かい粒子が、部屋の薄暗い明かりの中でゆらゆらと漂う。

まるで時間が逆流していくような感覚だった。

ページをめくるたびに、古い写真が現れる。

中学時代の制服姿。運動会、文化祭、修学旅行。

どの写真にも、自分の顔があった。

笑っている。

誰かの肩に手をかけて、無邪気に笑っている。

唯史は、その笑顔をじっと見つめた。

けれど、その顔はどこか他人のもののように感じられた。

「これ、ほんまに俺か?」

そう心の中で問いかけた。

けれど、答えは返ってこなかった。

まるで、写真の中の自分が、別の世界の住人みたいだった。

ページをめくると、女子に囲まれている写真が出てきた。

女の子たちが、唯史の腕に抱きついたり、頬にキスをしたりしている。

「ほんまモテてたなあ」

誰に言うでもなく、そう呟いた。

その声は、少しだけ自嘲気味だった。

けれど、その写真を見ても、何の感情も湧いてこなかった。

懐かしさも、誇らしさも、嬉しさも。

ただ、無表情で眺めるだけだった。

「ほんまに誰か好きやったこと、あったんかな」

その言葉が、ふいに口から漏れた。

声に出してしまったことに、少しだけ驚いた。

けれど、その問いは、ずっと心の奥に沈んでいたものだった。

恋愛。

好きになるという感情。

あの頃から、周りはみんなそれを自然にやっていた。

誰が好き、誰と付き合った、誰と別れた。

そんな話題が日常だった。

けれど、自分はいつもその輪の外にいた気がする。

モテることはあった。

告白されることも多かった。

けれど、誰かを「好きになる」という感情が、自分には欠けていた。

あのとき、

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 十五年目の同窓会~ただ、君の隣に帰るために   キスと告白

    川の水音が、静かに耳の奥に残る。夜風は湿っていて、けれど冷たくはなかった。煙草の火はほとんど消えかけていた。唯史は、それを指先でつまみ、足元の地面に押し付けた。煙がふっと途切れた。佑樹が、ふと隣を向いた。視線を感じる。けれど、唯史は目を合わせなかった。ただ、夜の川面を見つめたまま、沈黙を続けていた。「離婚したんやろ」佑樹が、静かに言った。声は低く、しかしはっきりと響いた。「まあな」唯史も、低い声で返した。淡々とした答えだった。それ以外に、何も言えなかった。「……そっか」佑樹はそれだけ言って、また少し黙った。その沈黙が、夜風に溶けていく。二人の間には、何もない時間が流れた。だけど、その時間は妙に濃かった。呼吸の音が聞こえるほど、近い距離だった。佑樹が、ゆっくりと唯史の方に身体を向けた。その動きを、唯史は視界の端で捉えた。けれど、身体は動かなかった。動けなかった。次の瞬間、佑樹の手が唯史の肩に触れた。その手は、驚くほど優しかった。重くもなく、強くもなく、ただそこに置かれただけ。けれど、その一瞬で、唯史の心臓は大きく跳ねた。「佑樹……」言いかけたその瞬間、佑樹が唇を重ねてきた。一切の前触れもなく。けれど、その動きは迷いがなかった。唇が触れた瞬間、唯史の胸の奥が大きく波打った。心臓の音が、自分でも聞こえる気がした。柔らかい感触。佑樹の唇は、思ったよりも温かかった。唯史は、目を閉じなかった。開いたまま、目の前の夜空を見つめていた。星はなかった。ただ、黒い空が広がっていた。唇が離れた。佑樹は、目を逸らさなかった。まっすぐに、唯史を見つめていた。

  • 十五年目の同窓会~ただ、君の隣に帰るために   河川敷への誘い

    「そろそろ、お開きやなあ」幹事の一言で、座敷の空気が少し緩んだ。誰かが立ち上がり、会計の話を始める。スマホで割り勘アプリを開くやつ、財布を取り出すやつ。その光景が、唯史には遠く感じられた。「唯史、外ちょっと行こか」佑樹が、唐突に声をかけてきた。その声は、周囲のざわめきとは別の場所から聞こえてくるようだった。「……ええよ」唯史は、軽く頷いた。心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。会計は他のやつらに任せて、二人は店を出た。赤提灯の灯りが、背中に揺れている。湿った夜風が、二人の間を通り抜けた。「懐かしいなあ、ここ」佑樹がそう呟きながら、駅前の通りを歩き出す。唯史も、その後をついていった。足元には、まだ雨上がりの水たまりがいくつも残っていた。靴の底が、湿ったアスファルトを踏むたび、じんわりと水気を吸う音がした。駅から少し歩いたところに、河川敷への階段がある。二人は、そこを下りた。草の匂いが、雨で湿った夜に漂ってくる。川の流れが、低い音で続いていた。「ここ、変わってへんな」佑樹がぽつりと言った。「せやな」唯史は短く返した。でも、心の奥はざわついていた。この場所に来るのは、いつぶりやろ。中学の頃、よくここで二人でだべってた。部活の帰りに、缶ジュース片手に座って、どうでもいい話をしていた。その時間が、やけに長かったような気もするし、あっという間に過ぎたような気もする。「タバコ、吸う?」佑樹がポケットから煙草を取り出した。唯史は一瞬だけ迷ったが、頷いた。「……一本だけもらおか」佑樹がライターで火をつける。オレンジ色の火が、ふっと揺れた。その火を分けてもらい、唯史も煙草に火をつける。「こんなとこで吸う

  • 十五年目の同窓会~ただ、君の隣に帰るために   懐かしさと疎外感

    飲み会はさらに盛り上がっていた。テーブルの上には、ビールのジョッキがいくつも並び、枝豆や唐揚げの皿はすでに半分以上が空になっていた。座敷のあちこちから笑い声が響く。箸を持った手が賑やかに動き、話題は尽きなかった。「うちのガキがな、こないだ初めて自転車乗れたんや」「マジで?お前の子供、もうそんな大きいんか」「七つやからな。ほんま、早いわ」誰かがスマホを取り出して、子供の写真を見せる。画面には、補助輪なしで自転車を漕いでいる小さな子供が映っていた。それを見て、周りは「可愛いなあ」と口々に言った。「ウチもそろそろ二人目やねん」「え、マジ?はよ作らな俺も負けるわ」そんな会話が、途切れなく続く。家庭の話。子供の話。仕事の愚痴と、妻との会話。当たり前のように交わされるその言葉たちが、唯史には遠い世界のものに聞こえた。グラスの底を見つめる。氷はもう溶けかけて、薄まったハイボールの残りが揺れている。指先でグラスをくるりと回した。カランと小さな音がした。それが、やけに響いた気がした。「帰りたいな」心の中で、そう呟いた。けれど、席を立つことはできなかった。まだ時間が早い。みんなが盛り上がっている中で、自分だけ「もう帰るわ」と言うのは、なんだか悪い気がした。隣では、遥がまだ佑樹にちょっかいを出していた。「佑樹って、昔からそうやんな。女子の扱い、うまいんか下手なんか、ようわからんとこ」遥は笑いながら、佑樹の肩を軽く叩く。佑樹は苦笑して、それを受け流している。適度な距離感。それが、佑樹らしかった。「せやろか。別に意識したことないけどな」佑樹の声が、柔らかく響く。その声を聞いた瞬間、唯史の視線は自然と佑樹の方へ向かっていた。自分でも気づかないうちに、目で追っている。そんな自分に、唯史は戸惑った。

  • 十五年目の同窓会~ただ、君の隣に帰るために   遥の視線

    「きゃー、懐かしい顔ぶれやなあ」そんな声とともに、店の入口から遥が入ってきた。瞬間、座敷の空気が少しだけ華やいだ。視線が一斉に彼女へと向けられる。遥は、昔から目立つ存在だった。今も変わらず、いや、むしろその派手さは増していた。茶髪のセミロングを軽く巻き、目元は濃いめのアイライン。赤いネイルがグラスを持つ手元を鮮やかに彩っている。服装はカジュアルにまとめているが、胸元の開き具合が絶妙だった。男たちは、冗談交じりに「綺麗になったなあ」と囁き合い、女たちは少し距離を置くような目を向ける。遥はその全てを分かったうえで、笑っている。「私さ、最近彼氏に浮気されてさー、別れたばっかりやねん」遥は、グラスを片手に笑いながらそんな話題を投げ込んだ。その声は明るいが、目の奥は少しだけ冷めている。自分を消費することに慣れている女の目だった。「えー、また?遥ってほんま男運ないよなあ」誰かが茶化すと、遥は肩をすくめて笑った。「せやねん。まあ、私も見る目ないんやろなあ」その言葉に、場がまた笑い声に包まれる。けれど、唯史はその輪の中に入れなかった。グラスを指先で回しながら、ただ黙ってその様子を見ていた。「佑樹、久しぶりやなあ」遥が、隣に座っていた佑樹に話しかけた。声のトーンが少しだけ変わる。女が男に向ける「興味」の色が混ざった声だった。「かっこよなったなあ。バレー部のときからモテてたけど、今もすごいやろ」そう言って、遥は佑樹の肩に手を置いた。爪の赤が、佑樹のシャツの肩口にちらりと映える。その手は、軽いはずなのに、妙に目立った。「いやいや、そんなんちゃうわ」佑樹は苦笑して、遥の手をそっと外した。けれど、その仕草は決してきつくはなかった。適度に距離を保つ、昔からの佑樹らしい対応だった。「今は地元で仕事してんの?」「まあな。工場やけどな

  • 十五年目の同窓会~ただ、君の隣に帰るために   佑樹との再会

    ガラガラと入口の引き戸が開いた。湿った夜風が一瞬だけ店内に入り込み、座敷の空気を微かに揺らした。その風と一緒に、懐かしい声が耳に届く。「唯史、来とったんか」その声を聞いた瞬間、唯史の胸の奥が小さく「トン」と跳ねた。自然と顔を上げると、そこには佑樹が立っていた。バレー部のエースだった頃の面影を、そのまま大人に引き伸ばしたような姿だった。背が高い。昔から高かったが、さらに伸びた気がする。肩幅が広く、身体つきはがっしりしている。けれど、表情は変わらない。あの頃と同じ、少しだけ照れたような笑い方だった。「おー、唯史」佑樹が近づいてきた。座敷の端に座る唯史の前に立つと、自然に手を差し出してきた。唯史も、手を伸ばした。二人は握手を交わす。その瞬間、佑樹の手のひらが温かいと感じた。大きくて、包み込むような手。それが、唯史の指先から腕へ、そして胸の奥までじんわりと伝わる。「変わらんなあ、お前は」佑樹が笑いながら言った。その笑顔は、昔と同じだった。唯史は、少しだけ唇の端を上げた。「お前は変わりすぎや」そう言いながらも、目の奥では揺れが走っていた。佑樹の姿が、昔のままなのに、大人になっている。その違和感と懐かしさが混ざり合って、唯史の胸を締めつけた。「いや、そりゃ十五年も経ったらなあ」佑樹は照れたように肩をすくめた。その仕草も、あの頃と同じだった。「仕事は?こっち戻ってきたん?」「まあな。いろいろあってな」「いろいろって、離婚か」佑樹はさらっと言った。けれど、その言い方には責める感じはなかった。ただ、事実を知っているだけ、という表情だった。「まあ、そうや」唯史は短く答えた。それ以上、何も言わなかった。言いたくなかった。けれど、佑樹の目は、

  • 十五年目の同窓会~ただ、君の隣に帰るために   昼の静けさと、ひとりの時間

    昼下がりのリビングには、静かな時間が流れていた。唯史はソファに腰をかけ、パソコンの画面を睨んでいた。キーボードを打つ音だけが部屋に響く。そのリズムは一定で、時折途切れながらも続いていた。窓の外からは柔らかな陽射しが差し込み、カーテンの隙間から光の筋が床に伸びている。画面に映る文字は、書類のチェックだった。けれど、集中力は長くは続かなかった。ふと手を止め、唯史は視線を上げた。リビングのテーブルには、佑樹がいつも使っているマグカップが置かれている。底に少しだけ残ったコーヒーが、光に反射して小さく揺れた。その隣には、佑樹が昨夜脱ぎ捨てたネクタイが、きちんと畳まれずに置かれていた。いつもなら「ちゃんと片付けろよ」と文句を言っていたはずだった。けれど、今日はそのだらしなさが、なぜか愛しく思えた。唯史は、ゆっくりと背もたれに体を預けた。首筋に汗が滲むほどではないが、微かな湿度が肌にまとわりつく。パソコンの電源を切り、静かな部屋に耳を澄ました。時計の秒針の音が聞こえる。その単調なリズムが、逆に心を落ち着かせた。視線は自然と、部屋のあちこちへと移っていった。佑樹のスニーカーが玄関に並び、洗面台には佑樹の歯ブラシが立てかけられている。リビングの片隅には、佑樹が読みかけの本が開かれたまま置かれていた。「…完全に、ここは佑樹の生活やな」ぽつりと呟いた声は、誰にも聞かれないまま空気に溶けた。けれど、その言葉が自分の胸に深く響いた。昔のことを思い出す。希美と暮らしていた頃のこと。あのときも、同じように朝食を作り、夜になればテレビを見ていたはずだった。でも、今思えば、あの生活にはどこか空白があった。帰る場所は家だったけれど、心はいつも別の場所を探していた。希美の隣にいながら、自分はどこか遠くにいるような気がしていた。「…あのときは、帰る場所がなかったんやな」唯史は、ふとそんなことを思った。結婚して、家庭を持ったはずだったのに、自分の居場所はどこにもなかった。仕事に逃げ、夜遅くまで帰らずに過ごしていた日々。希美と並んで寝ても、触れることさえできなかった。触れたくても、心が拒否していた。けれど、今は違った。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status