朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。佑樹の家のリビングには、いつもと変わらない穏やかな空気が流れている。けれど、唯史の胸の奥は、どこかざわついていた。窓の外には、秋晴れの空が広がり、うろこ雲が薄く棚引いている。静かな風がガラス越しに揺れているのを見ていると、なぜか胸の奥が少しだけ締めつけられるような気がした。
「唯史、味噌汁、もうええ感じやろか」
佑樹の声が、後ろから聞こえた。その声は、いつもより少しだけ低くて、柔らかかった。唯史は、鍋の中を見つめたまま、木のおたまで軽く味噌汁をかき混ぜた。白い味噌がゆっくりと溶けていく。湯気がふわりと立ち上り、その中に佑樹の気配が混じっている気がした。
「うん、多分、もうええと思う」
唯史はそう言いながら、視線を鍋から離さなかった。味噌汁をかき混ぜる手が、わずかに震えているのに気づいた。けれど、そのことを佑樹には気づかれたくなくて、意識的に手元を見つめ続けた。
テーブルの上には、すでに焼き上がった鮭が二切れ並べられていた。隣には納豆と小鉢の漬物。それは、ただの朝ごはんだった。特別なものではない。ただ、二人で作るというだけで、妙に胸が落ち着かなかった。
佑樹が冷蔵庫から卵を取り出し、無造作に器に割り入れる。その手つきは慣れていて、力強さと優しさが同時にあった。唯史は、その横顔をちらりと盗み見た。佑樹の肩越しに見える首筋、シャツの襟元からのぞく鎖骨のライン。昨日の夜、あの場所に唇を押し当てた記憶が、ふっと頭をよぎる。
「なあ」
佑樹が、不意に口を開いた。声は、やっぱり少し低かった。
「俺ら、付き合うってことでええんちゃう?」
その言葉に、唯史の手がぴたりと止まった。おたまを持ったまま、味噌汁の表面を見つめる。湯気が、目の前でゆらゆらと揺れている。心臓が、ひとつ跳ねた。
「え…」
唯史は、思わず声を漏らした。けれど、それ以上の言葉が出てこなかった。
佑樹は、背中越しに笑った。いつものように、柔らかく、けれど少しだけ照れくさそうな笑い方だった。
「もう、ええやろ。昨日までみたいに、曖昧なん、やめよ」
川面を撫でる風は、少し冷たくなってきた。日はすっかり傾き、空は藍色と橙色のグラデーションに染まっている。川の流れる音と、草が揺れるかすかな音だけが耳に残る。二人は並んだまま、言葉を交わさずにその時間を共有していた。唯史は、自分の呼吸が静かになっていくのを感じた。胸の奥にあったざわめきが、少しずつ消えていく。こんな風に何も話さずにいられるのは、相手が佑樹だからだと、はっきりとわかっていた。ふと、体が自然に動いた。唯史は、隣にいる佑樹の肩に、そっと頭を寄せた。ゆっくりと体重をかけると、佑樹の体がわずかに沈む。その感触が、胸の奥にじんわりと広がった。風が、二人の髪を揺らした。唯史は、目を伏せたまま、唇をかすかに噛んだ。けれど、その吐息は穏やかだった。胸の奥にある感情は、もう逃げ場を求めていなかった。「…俺、お前のこと愛してるわ」その言葉は、ぽつりと零れ落ちた。思い切った告白ではなかった。ただ、心の底にたまっていたものが、自然に流れ出たような感覚だった。佑樹は、すぐには返事をしなかった。唯史の頭の上に、佑樹の視線が落ちる気配がする。けれど、何も言わず、ただ肩を寄せてきた。その重みが、唯史の胸をさらに温かくした。心臓がどくんと鳴る。けれど、それは不安からくるものではなく、安心に近い震えだった。「せやろな」佑樹が、低い声で答えた。喉の奥でくぐもったようなその声は、まるで体の奥底から出てきたようだった。目が細まり、微笑みながらのその言葉は、唯史の胸に静かに沁みた。「……なんや、それ」唯史は、少しだけ笑った。けれど、その声には、どこか涙が混じっているような気がした。「分かってたで」佑樹は、肩にかけた唯史の頭を、軽く自分の肩に押し当てた。その動作は、何も言わなくても全てを受け止めるような、包み込む優しさだった。「言葉にするのって、やっぱり難しいな」唯史は、ぽつりと呟いた。「でもな、今日ここで言えてよかったわ」「そやな」佑樹は、それだけを返した。その短い言
河川敷の草が、風に揺れていた。夕暮れが進み、橙色の空が次第に藍色へと移り変わっていく。二人は並んだまま、しばらく黙って座っていたが、その沈黙が不思議と心地よかった。「なあ、覚えてる?」唯史が、ふと口を開いた。声はかすかに震えていた。けれど、すぐに笑いでごまかした。唇の端を上げると、胸の奥のざわめきが少しだけ和らいだ。「何を?」佑樹は、隣で低い声で答えた。視線を逸らさず、唯史の横顔をじっと見ている。その目は、昔と変わらず、まっすぐだった。「中学のとき、部活終わってから、よくここ来てたやん」「来てたな」「俺、あのとき何考えてたんかなって、今思うねん」唯史は、川面を見つめながら続けた。水面は穏やかで、空の色を映して揺れている。過ぎてきた時間が、その水面に重なるように思えた。「部活も、勉強も、なんもかんも、ようわからんままやってたわ」「みんなそんなもんやろ」佑樹は、肩をすくめた。けれど、その目はやさしく細められていた。「でもな、あの頃の俺、自分が誰なんか、ほんまようわかってなかった」唯史の声は、また少しだけ震えた。けれど、今度はごまかさなかった。そのまま、静かに言葉を続けた。「周りに合わせて、笑って、適当に恋の話して。…でも、ほんまは、何もわかってへんかった」「そうなんやな」佑樹は、低い声で答えた。その声には、責める気配も、同情もなかった。ただ、静かに受け止めるだけの温度があった。「お前はどうやったん?」唯史は、横目で佑樹を見た。佑樹の顔は、夕暮れの影に包まれていたが、目だけは光っていた。「俺は最初から唯史が好きやったけどな」その言葉は、さらりと出た。けれど、その一言には、十五年分の重みがあった。「…ほんまに?」「ほんまや」佑樹は、視線を逸らさなかった。落ち着いた声で、まるで当たり前のことのように言う。そのまっすぐな目を見ていると、唯史の胸がぎゅっと締めつけられるような気がした。
河川敷に並んで座るのは、何年ぶりやろか。唯史は、ぼんやりと空を見上げながら、そんなことを考えていた。十五年という時間が、気がつけばあっという間に過ぎていた。中学生の頃、何も考えずにここでだらだらと過ごしていたあの時間が、今になってやけに鮮やかに蘇ってくる。夕方の風が頬を撫でる。草がそよいで、カサカサと小さな音を立てている。川面には橙色の空が映り込んでいた。水面は静かで、時折小さな波が立つ。それがゆらゆらと揺れて、まるで二人の記憶までも撫でているようだった。隣には、佑樹がいる。昔と変わらない顔をしているけれど、あの頃よりも少し大人びた横顔だった。肩幅も広くなって、手も大きくなった。けれど、笑ったときの目尻のしわは、昔と同じだった。「なあ、唯史」佑樹が、ぽつりと声をかけた。その声は低くて、けれどどこか柔らかい響きがあった。「なんや」「この場所、変わらんな」「せやな」唯史は、口元に小さな笑みを浮かべた。目はまだ遠くを見ている。視線の先には、川と空と、淡く染まる夕焼けしかない。けれど、その景色が心地よかった。中学生の頃、この河川敷で何度も佑樹と並んで座った。部活の帰り、くだらない話をしたり、ただ黙っていたり。そんな時間が、確かにあった。「思い出すな。昔のこと」「せやな。あのときは、ようここ来てたわ」佑樹の声は、どこまでも穏やかだった。その声を聞きながら、唯史は自分の胸の奥に静かな波紋が広がるのを感じた。あの頃は、まだ何も考えていなかった。ただ、毎日が続いていくもんやと思ってた。「なあ、唯史。あのとき、俺ら何しゃべってたっけな」「そんなもん、覚えてへんわ」唯史は、ふっと笑った。けれど、その笑いは自然なものだった。昔のことを思い出しても、もう胸が苦しくなることはなかった。「でも、こうやってまた並んで座ってるんやな」「せやな」佑樹は、唯史の横顔を見つめたまま、目尻をやわらかく緩めた。その視線に気づいていながら、唯史はあえて目をそらした。風が少し強くなった。髪が揺れて、唯史は無
夜は、静かに深まっていた。リビングのテレビを消して、二人は自然な流れで寝室へと向かった。特に決めたわけでもないのに、佑樹が電気を消し、唯史がカーテンを閉める。その一つ一つの動作が、もう当たり前の習慣になっていた。ベッドのシーツは、少しだけ冷たかった。けれど、それも一瞬のことだった。佑樹が隣に潜り込んでくると、布団の中に熱が広がった。そのぬくもりに、唯史は思わず目を閉じた。「寒ない?」佑樹が小さな声で聞いた。その声は、喉の奥でかすれていた。仕事終わりの疲れが、声にも表れている。でも、その低い声は、唯史の耳に心地よく響いた。「うん、大丈夫や」そう答えた唯史は、佑樹の背中に手を回した。肩甲骨のあたりから、ゆっくりと手のひらを滑らせる。滑らかな肌に、指先が自然と馴染んだ。もう、そこにためらいはなかった。かつては緊張で固くなっていた手も、今は何の抵抗もなく佑樹に触れられる。佑樹が、唯史の腕を引き寄せた。体と体が重なり合い、呼吸が混ざる。唯史の吐息が、佑樹の首筋にかかった。微かな湿度と温度が、二人の間に静かに溶けていった。「好きやで」佑樹が、耳元でそう囁いた。その声は、少しだけ掠れていた。けれど、その言葉は真っ直ぐに胸の奥に届いた。唯史は、何も言わなかった。ただ、佑樹の背中を撫で続けた。肩の筋肉をなぞるように、ゆっくりと手のひらを動かす。その動作は、まるで自分の存在を確かめるような、あるいは佑樹の存在を自分の内側に取り込むような感覚だった。唇が佑樹の首筋に触れた。ほんの一瞬、呼吸が止まる。けれど、次の瞬間にはまた自然なリズムに戻っていた。「なあ、唯史」佑樹が、小さな声で呼んだ。「ん」「このままずっと、こうしてたいな」「……せやな」その返事は、もう迷いのないものだった。心の奥で、何かがゆっくりと満たされていくのを感じた。これが、自分の場所なんだと実感する。性的な行為だけじゃない。佑樹の肌に触れ、息を感じることで、「所有」と「愛情」が重なり合う感覚が確かにそこにあった。佑樹の指が、
台所からは、煮物の香りが漂っていた。唯史は鍋の蓋を少しずらして、湯気を逃がしながら、味見用の小皿に汁をすくった。箸の先で舐めて、舌の上に広がる味を確かめる。ちょうどいい濃さだった。だしの旨味と、薄口醤油の香りが舌に残る。時計を見ると、そろそろ佑樹が帰ってくる時間だった。炊飯器のタイマーがちょうど鳴る。ふたを開けると、湯気がふわりと立ち上り、白いごはんがふっくらと炊き上がっていた。玄関の鍵が回る音がした。靴が脱がれる音と、ドアが静かに閉まる気配。唯史は、鍋の火を止めたまま、台所からリビングを覗いた。「ただいま」佑樹の声がした。その声は、低くて、どこか疲れが混じっているのに、温かさを含んでいた。「おかえり」唯史は、自然にそう言った。言葉を交わすその瞬間に、どこか安心する気持ちが胸に広がる。昔は「おかえり」と言うだけで心がざわついていたのに、今はそれが当たり前になりつつあることに、少しだけ戸惑いを覚えた。佑樹は、ネクタイを緩めながらリビングに入ってきた。スーツのジャケットをソファに軽く置き、シャツの袖をまくる。動作のひとつひとつが、日常の風景に溶け込んでいた。「今日は煮物か」「せや。あと、焼き鮭と味噌汁もある」「完璧やん」佑樹は、そう言って笑った。その笑顔を見ていると、唯史の胸が少しだけ緩んだ。けれど、同時に微かな緊張も残っていた。この生活が、いつまで続くのか、そんな考えが頭の隅にこびりついていた。二人は、テーブルに並んで座った。ごはんをよそい、味噌汁を手渡す。そのやりとりも、いつの間にか慣れたものになっていた。「いただきます」「いただきます」声が重なった。箸を動かしながら、唯史は佑樹の横顔をちらりと見た。佑樹は、黙々とごはんを食べている。けれど、その表情は穏やかだった。眉間に皺はなく、口元もやわらかく緩んでいる。「うまいな、これ」「そらそうや」「ほんま、毎日これでええわ」佑樹の言葉は、何気ないものだった。けれど、それを聞いた瞬間、唯史の胸の奥に何かがじんわりと広がっ
朝食を終えた後、二人は自然にそれぞれの動きに移った。佑樹は立ち上がり、食器を流しに運ぶ。その後ろ姿を唯史は、黙って見ていた。シンクに立つ佑樹の背中は広く、肩はしっかりとした厚みを持っている。その形を見ているだけで、胸の奥がじわりと熱くなった。「片付けは俺がやるから」佑樹がそう言いながら、食器を洗い始めた。水の音が流れ、スポンジの泡立つ音が部屋に響く。「ええよ、俺やるわ」唯史が言ったが、佑樹は首を横に振った。「朝はええって。俺がやる」その声は、低めで、いつもよりさらに柔らかかった。唯史は、唇の端をほんの少しだけ上げた。けれど、目の奥にはまだ少しだけ不安が残っていた。キッチンの片付けが終わると、佑樹は寝室に向かった。クローゼットからスーツを取り出し、シャツを羽織る。唯史は、リビングのソファに座ったまま、その様子を見つめていた。ネクタイを締める佑樹の姿は、いつもと変わらないはずだった。けれど、どこか違って見えた。昨夜までの肌と肌を重ねた時間が、まだ唯史の体の奥に残っていた。そのせいか、佑樹の指先がネクタイを結ぶ動作一つとっても、妙に色っぽく見えた。「俺、今日は在宅やから」唯史は、ぽつりと言った。言葉は自然に出たけれど、心の中では少しだけ戸惑いがあった。こんな風に、普通の会話ができることが、まだ信じられなかった。「そっか」佑樹は、ネクタイを締め終えて、鏡の前で軽く整えた。その後、唯史の方を振り返り、にこっと笑った。「じゃあ、晩ごはん楽しみにしてるわ」その声もまた、低くて穏やかだった。佑樹の目尻が微かに緩んで、笑い皺ができた。その笑顔に、唯史は心の中で少しだけほっとした。「何がええ?」「なんでもええよ。唯史が作るなら、全部うまいし」その言葉に、唯史はまた唇の端を上げた。でも、胸の奥ではまだざわつきが残っていた。佑樹が玄関に向かう。鞄を肩にかけ、靴を履く。その背中を、唯史は黙って見つめた。いつもと同じようで、どこか違う。その違いに、まだ慣れていなかった。「行ってくるな」