尾崎の指先が、テーブルの上に並べられたカードの一枚に触れる。触れるか触れないか、そんな微かな動きだったが、その仕草には確かな意味が滲んでいた。指が止まったのは、逆位置で出た「杯の5」だった。五つの杯のうち、三つが倒れてこぼれている。けれど残りの二つは、まだ立っていた。
カードの角をなぞるように撫でてから、尾崎はかすかに息を吸った。
「……これ、希望なんですか」
声はとても低かった。けれど掠れてはいなかった。問いかけというよりも、呟きに近く、それでも確かに、佐野の耳に届くだけの力はあった。
佐野はすぐには答えなかった。視線をそっと尾崎に向けたまま、何かを言いかけて、そのまま言葉を口にするのをやめる。その代わりに立ち上がり、背後の棚から一客の茶碗を手に取り、丁寧に湯を注ぐ。茶筅がわずかに器の中で揺れ、淡い泡が湧いて、静かに一杯の抹茶が出来上がる。
彼の手元は終始穏やかで、しかしどこか、何かを振り切るような動きが混じっていた。道具に触れるたびに、気持ちを整えているような、あるいは、伝えるべき言葉を代わりに沈めているような所作だった。
茶碗を尾崎の前にそっと置く。器の縁から立ち上る湯気が、二人の間に淡い曇りを生んだ。
「……熱いうちに、飲んでな」
佐野はそう言って、やっと尾崎と目を合わせた。
その目はまっすぐだった。けれど、その奥には言葉にならないためらいがあった。伝えるべきことと、踏み込んではいけない一線。その狭間に立つ者の目をしていた。何かを言いたいと思いながら、あえて沈黙を選ぶ者の視線だった。
尾崎は少しのあいだ視線を逸らしていたが、やがてふいに顔を上げた。佐野の目をまっすぐに捉えたその瞬間、ほんのわずかに眉が動いた。予期せぬやわらかさに触れたような驚きが、そこにあった。
「希望って……そんなに静かなもんなんですね」
口にしたのは、問いではなく実感に近かった。
佐野は微かに笑った。口元だけがわずかに緩み、けれど声にはならなかった。
尾崎は視線を落とし、茶碗に指を添える。器の温もりが掌に広
店内に残っていた最後の客が出ていき、暖簾の揺れが静まったあと、カフェには夜の気配がゆっくりと満ち始めていた。外の気温はぐっと下がり、木枠の窓ガラスにわずかに水気が滲んでいる。薄明かりの中、佐野はテーブルの上を拭いていたが、尾崎の席だけはまだそのままにしていた。尾崎は変わらず静かに座っていた。背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、空になった湯呑をじっと見つめている。その指先は既に冷えきっているのに、器を持つ手だけが、しがみつくようにそこに留まっていた。佐野はその様子を、少し距離を置いて眺めていた。声をかけようかと迷い、けれど迷ったまま、無言で一歩踏み出した。「……お代は、ええよ。今日は、うちの都合いうことで」佐野の言葉は、わざとらしくない軽さを装っていた。けれどその軽さの下にあるものが、嘘ではないこともまた、伝わってしまう気配を帯びていた。尾崎はゆっくりと顔を上げた。視線が佐野の目を正面から捉えたのは、それが初めてかもしれなかった。口を開きかけたが、何かを言おうとして、それをやめる。そして、無言のまま深く頭を下げた。その仕草には、礼以上の何かがあった。感謝というには深すぎて、謝罪というには穏やかすぎる。ただ、今の自分にできるすべての誠意を、その身振りに込めていた。佐野はその頭の角度を黙って見つめた。何も言わず、ただその沈黙に身を置いた。人の痛みに触れるというのは、あまりにも無力なことや、と佐野は思った。占いをしていても、答えが出るわけじゃない。ましてや、傷を癒す方法なんて、どこにも書いていない。けれど、そばにいることはできる。それだけは、嘘じゃなくできることやと、そう信じてきた。ふと、尾崎が立ち上がった。少し硬い動きだったが、それでもきちんとした所作で椅子を戻し、背中を佐野に向ける。その背に、何かを背負っているような重さが見える。けれどそれは、少しだけ、歩ける重さに変わり始めているようでもあった。「……気ぃつけて、帰りや」佐野の声が追いかけるように響いた。決して大きくない声だったが、奥にあるものが揺れていた。
尾崎の指先が、テーブルの上に並べられたカードの一枚に触れる。触れるか触れないか、そんな微かな動きだったが、その仕草には確かな意味が滲んでいた。指が止まったのは、逆位置で出た「杯の5」だった。五つの杯のうち、三つが倒れてこぼれている。けれど残りの二つは、まだ立っていた。カードの角をなぞるように撫でてから、尾崎はかすかに息を吸った。「……これ、希望なんですか」声はとても低かった。けれど掠れてはいなかった。問いかけというよりも、呟きに近く、それでも確かに、佐野の耳に届くだけの力はあった。佐野はすぐには答えなかった。視線をそっと尾崎に向けたまま、何かを言いかけて、そのまま言葉を口にするのをやめる。その代わりに立ち上がり、背後の棚から一客の茶碗を手に取り、丁寧に湯を注ぐ。茶筅がわずかに器の中で揺れ、淡い泡が湧いて、静かに一杯の抹茶が出来上がる。彼の手元は終始穏やかで、しかしどこか、何かを振り切るような動きが混じっていた。道具に触れるたびに、気持ちを整えているような、あるいは、伝えるべき言葉を代わりに沈めているような所作だった。茶碗を尾崎の前にそっと置く。器の縁から立ち上る湯気が、二人の間に淡い曇りを生んだ。「……熱いうちに、飲んでな」佐野はそう言って、やっと尾崎と目を合わせた。その目はまっすぐだった。けれど、その奥には言葉にならないためらいがあった。伝えるべきことと、踏み込んではいけない一線。その狭間に立つ者の目をしていた。何かを言いたいと思いながら、あえて沈黙を選ぶ者の視線だった。尾崎は少しのあいだ視線を逸らしていたが、やがてふいに顔を上げた。佐野の目をまっすぐに捉えたその瞬間、ほんのわずかに眉が動いた。予期せぬやわらかさに触れたような驚きが、そこにあった。「希望って……そんなに静かなもんなんですね」口にしたのは、問いではなく実感に近かった。佐野は微かに笑った。口元だけがわずかに緩み、けれど声にはならなかった。尾崎は視線を落とし、茶碗に指を添える。器の温もりが掌に広
佐野の指先が、カードの束を静かに撫でるように持ち上げ、滑らかにシャッフルする。音は小さく、それでも畳の上に広がる空気をふるわせるには十分だった。指の動きは流れる水のように一定のリズムを刻み、無駄な力も焦りもなかった。ただ淡々と、だが丁寧に、時を重ねるようにカードを混ぜてゆく。尾崎はその音に耳を澄ませながら、まぶたを閉じていた。閉じた目の奥には、何も見えないはずの闇が、なぜか薄く濁っていた。自分の中に溜まり続けたものが、ようやくどこかに流れ出そうとしているのか、それとも、もっと深く澱のように沈んでいくのかは、まだわからなかった。カードが静かに切られ、並べられていく。佐野の手つきは変わらず落ち着いていて、尾崎の前に一枚、また一枚と、意味を持った象徴が置かれていく。部屋の空気が、少しずつ重たくなった気がした。「……いこか」佐野の低い声が、そっと響いた。「これは“過去”の位置。塔」小さな沈黙が落ちる。佐野は目の前のカードに視線を落としたまま、指先をほんの少しだけ添える。「壊れるもんは、壊れてまう。どれだけ気ぃ張っても、守ろう思ても、避けられへん崩壊ちゅうもんがあるんやな」言葉は柔らかいが、どこか芯のある響きだった。尾崎はまだ目を閉じたまま、うっすらと唇を引き結んでいた。息を飲む音が微かに混じり、喉の奥がぴくりと動く。「こっちが“現在”。剣の3」今度は、佐野が少しだけ息を継ぐのがわかった。視線を上げ、尾崎のまぶたの震えを見つめたまま、口を開く。「痛みがまだ残ってる。たぶん…ずっと、心の真ん中に刺さったまんまなんやな。それ、抜いたら傷になるん、わかってるから…余計に抜かれへん」尾崎の指先が、膝の上でわずかに動いた。力を入れたようで、すぐに脱力したようでもあった。まぶたの端がかすかに震え、まつげの下で何かが揺れる。「ほんで……“未来”。杯の5、逆位置」佐野の声は、それまでよりもさらに低く、まるで自分の
午後五時を過ぎた《茶庭 結》は、雨上がりの湿気をほんの少しだけ残しながら、ほの暗い明かりに包まれていた。格子越しに差し込む光はすでに弱く、店内に吊るされた小さな行灯の明かりが、畳の縁を淡く照らしていた。土間を過ぎた先、奥の間では佐野が茶を点てていた。小さな湯の音と、茶筅が擦れる柔らかな音が静けさの中に溶けていた。誰の言葉もない時間が、ここでは自然のものとして流れていた。尾崎がふいに現れたのは、その音がちょうど一度途切れたときだった。暖簾をそっとくぐったその動きも、足音も、まるで誰かに許可を得るような遠慮が感じられた。店内にいた数人の客がちらと視線を向けたが、尾崎の存在が騒がれることはなかった。尾崎は何も言わなかった。いつものように、正面の畳の小空間へと進み、低く身をかがめて席に着く。その動きには迷いがなかったが、なにかを押し込めるような静けさが、所作の隅々に滲んでいた。佐野はその姿を、そっと視線の端で捉えていた。だがすぐに目を戻し、目の前の茶碗に集中したまま、言葉を発さなかった。尾崎が何を求めてここへ来たのか、言葉では尋ねない。ただ、そこにいること。それだけで、充分なこともあると佐野は知っていた。茶を点て終え、盆に乗せて尾崎の席までゆっくりと歩く。茶碗が尾崎の前にそっと置かれると、そのときになって初めて、佐野は口を開いた。「…占い、久しぶりに見てみよか?」声は低く、やわらかく、無理のない問いかけだった。誘うというよりも、尾崎が自分の意志で踏み出せるように、ただ扉を開けておくような響きだった。尾崎は、一瞬だけその言葉の意味を噛みしめるようにまばたきをし、それからほんの少しだけ目を伏せた。頷くまでの時間は短くもなく、長すぎるわけでもなく、ただ一つの感情が確かに生まれるのを、彼自身が待っていたようだった。そして、ほんのわずかに首を縦に動かした。言葉では何も返さなかったが、その頷きには、過去を抱えた人間がもう一度“何か”を信じてみようとする覚悟があった。佐野はそれを見て、小さくうなずき返した。指先が自然にカードの入った木箱へと向かい、静かな手つきで蓋を開けた
深夜のオフィスの記憶は、まるで冷え切ったフィルムのようだった。色彩はほとんど抜け落ち、蛍光灯の淡い光だけが机の上の書類を照らしていた。回想の中の尾崎は、無人のフロアにただ一人立っていた。いつも聞こえていたコピー機の音も、電話のベルも、誰かが椅子を引く音さえもしない。無音の中で、時計の針が小さく動く音だけが時の流れを主張していた。尾崎の目の前にあったのは、一枚のメモ。印刷された文字ではなく、鉛筆で走り書きされた短い文だった。「尾崎さんが言った通りにしました」差出人の名前は記されていなかった。だが、その筆跡を尾崎は知っていた。鈴木慶吾。かつて、隣の席で笑っていた男。尾崎が信頼し、仕事を託していた相手だった。尾崎の右手は、そのメモの端を指先でなぞっていた。力はこもっていなかった。握りつぶすでもなく、破るでもなく、ただ、触れていた。まるでそれが、自分の一部になってしまったかのように。その日、社内のプロジェクトが一つ決定した。尾崎が三ヶ月かけて練り上げた企画が、ついに承認されたのだと知らされたのは、会議の数時間後だった。だが、それが自分の名前ではなく、鈴木の手柄として通っていたことを、尾崎はこの深夜のオフィスで初めて知った。鈴木からのメモが、すべてを物語っていた。「言った通りにしました」。それは、忠実な実行の報告ではなかった。あのとき尾崎が鈴木に見せた資料、説明したコンセプト、懸念点までも含めて、すべてを「自分の言葉」として上に提出したという意味だった。驚きは、最初の一瞬だけだった。そのあとに来たのは、冷たい理解だった。尾崎はゆっくりと椅子に腰を下ろした。背もたれにもたれることなく、背筋をまっすぐに保ったまま、空の書類トレーを見つめていた。目の奥がじんと熱を帯びる感覚はあった。だが、それは涙ではなかった。怒りでもなかった。ただ、内側から何かが削り取られていくような感覚だった。自分がここで過ごしてきた時間、そのすべてが、他人の言葉で塗り替えられた現実に変わってしまった。尾崎の記憶の中で、鈴木の声が蘇る。あの柔らかい口調。何気ない会話の合間に交わした約束や、仕事の相談。裏切るような素振りは、一度も見せなかった。むしろ、信頼に応えよう
カーテンを閉めきった部屋の中は、午後の光をすっかり遮って、夜のような静けさを宿していた。点けられた天井灯は弱く、机の端に置かれたスマートフォンのバックライトだけが、画面に浮かぶ文字と、それを見つめる尾崎の顔を青白く照らしていた。息は浅く、ほとんど無意識のうちに繰り返されているだけだった。目は画面を見ているようで、どこも見ていない。ただ、そこに在る言葉の重さだけを、ぼんやりと心の奥で受け止めていた。「君のせいじゃないと思いたい。でも、たぶん無理だった」下書きフォルダに保存されたまま、送信されることのない短い一文。送信ボタンには一度も指がかかったことがない。宛名には「鈴木慶吾」の文字。何度も消しては打ち直し、結局、何も変わらなかった文面が、ただそこに残っていた。指先がスマホの端にかすかに触れた。熱も冷たさも感じない。ただ、自分の身体とこの世界を結ぶ、唯一の接点のように思えた。椅子に沈むように背を預けたまま、尾崎は動かずにいた。時間だけが、音もなく通り過ぎていく。「裏切られた」と、明確に言葉にしたことはなかった。口にすれば、それが事実になってしまうから。けれど、あの時感じた喉の奥の乾いた痛みや、胸に沈んでいくような冷えは、今でもたしかに残っている。会議室の静寂。白い壁。無言の時間。そのあとで届いた、短く平坦なメール。「尾崎くんの案、採用されたよ。上には僕からってことで通してある」。その文面を見た瞬間、どこかで、心の中の何かが音を立てて崩れた。「俺の、せいだったのか」そう思ったのは、自分だったか、鈴木だったか。今ではもう、わからない。だがあの瞬間、自分が何を信じていたのか、何のために働いていたのか、そのすべてが空になったような気がした。飲みかけのコーヒーに手を伸ばす。白いマグカップの表面にうっすらと水滴がにじんでいる。口をつけようとしたその瞬間、わずかに指が震えた。まるで、何かに拒まれるような感覚。唇に触れた液体は、すでにぬるく、苦味だけが残っていた。喉を通ることなく、舌の奥で引っかかっていた。スマートフォンの光が、まだその一文を映し出している。尾崎は目を細め、画面を見つめた。そこに何かを探して