LOGIN「あ……あなた……」那月が顔を上げると、その瞳がかすかに恐怖で揺れていた。円香は笑いながら手を振り、相手の言葉をあっさりと遮った。「私がどうして知ってるのかって顔ね。でもそんなことはどうでもいいのよ。今あんたが必死に考えるべきは、これをどうやって世間に説明するか、でしょ?うちの杏奈に不用意に手を出すから、こういうことになるのよ……」口の端をにやりと持ち上げ、どこか投げやりで危うい笑みを浮かべた。「……あんたの人生ごと地獄へ道連れにしてやるわ!」那月は本気で怖気づき、視線を激しく泳がせながら消え入りそうな声で呟いた。「……わ、わかったわ」「よろしい」円香は乱暴に那月の頭を撫で回し、にこにこしながら聞いた。「じゃあ、次に自分が何をすべきかはわかるわよね?」那月は重い体を引きずるようにして立ち上がると、周囲からの奇妙な視線を浴びながら、ふらふらと杏奈の前へ歩み寄った。そのままゆっくりと深く頭を下げ、しばらく顔を上げようとはしなかった。「三浦杏奈さん……先ほどのことは全て、私の身勝手な過ちです。どうか……お許しください」杏奈がまだ言葉を探しているうちに、アレーナが甲高い声を上げた。「那月、なんであんたがあの女に謝るの!?もしこの暴力女が怖いなら、もうお兄ちゃんに連絡したから。すぐに助けに来てくれるわ。怖がることなんて何もないのよ?」アレーナが無理やり那月を引き起こそうとしたが、あっさりと振り払われた。アルバートソンズの持つ武器密売の勢力は確かに巨大だ――けれどそれは、あくまで海の向こうでの話である。ここ濱海市で吉川家を敵に回すこと、しかも吉川美南の名誉を決定的に傷つけるような形で――そんな愚行を犯せば、明日の朝陽を待たずして、横井家の面々は社会的に終わるだろう。「三浦さん、どうかお許しください!」那月が震える声で再び深く頭を下げた。実際、事態がここまで転がるとは、杏奈自身も予想していなかった。どう対処すればいいのか、自分でも判断がつかない。許す?――そんな都合のいい気持ちには、到底なれない。しかし許さないままでは、この場の空気はいつまでも凍りついたまま、せっかくの今夜のパーティーが完全に台無しになってしまう。感情を押し殺し、場を収めるために許すと言おうと口を開きかけたそのとき――穏やかだが芯
言い終えて、紗里は顔を上げ、いじらしく作った笑みを見せた。今日の装いと相まって、男なら誰もが守りたくなるような雰囲気を見事に醸し出している。しかしあいにく、彼女の前に立っているのは、生来冷淡で薄情な蒼介だった。一拍おいて、蒼介はあろうことか頷いた。「何かあれば小林に連絡してくれ」紗里の顔が完全に凍りついた。精巧な笑みが崩れそうになるのを、かろうじて堪える。小林洸平に……?自分の用件は、彼にとって今やただの面倒ごとに落ちたのか。直接動くことすら惜しんで、秘書に任せきるというのか。「蒼介……」何か言おうと引きつった作り笑いで口を開いたが、蒼介はもうその場を離れていた。圧倒的な存在感の背中が、あっという間に人の波に溶けて消える。紗里の表情から、一切の偽装がすっと剥がれ落ちた。瞳に宿った暗い光は、凍てつくほど冷たく濁っていた。彼がこれほど急いで向かう先が誰のもとかなぞ、嫌というほど分かっていた。「三浦杏奈……いつまでも身の程をわきまえないのなら、恨みっこなしよ」冷えきった囁きは夜風に溶け、誰の耳にも届くことはなかった。……同じ頃、翠嵐園の豪奢な宴会場。杏奈たちが中に入った瞬間、円香が矢のように飛び出した。パァン――!次の瞬間、空気を裂くような鋭い張り手の音が、華やかな会場全体に響き渡った。その場にいた全員が目を丸くした。こんな格式高い場所で、大勢の面前で手を出す人間がいるとは、誰も想像すらしていなかった。円香は周囲の視線など気にも留めなかった。呆然としている那月の髪をわし掴みにして引きずり起こす。頭皮ごと引っ張られ、那月が苦痛の呻きを漏らした。アレーナが凍りついたまま見守る中、円香の手がパシッ、パシッ、パシッと容赦なく那月の頬を打ち据えた。「陰湿な手ばかり使って、人を唆して、人の命まで弄ぶつもりだったわよね?前から言ってたでしょ!あんたのことは、私が直々に引き取りに来るってね!手加減すると思わないことね」一言発するごとに、平手の力が増した。数発で、那月の顔はみるみる赤く腫れ上がった。「はなして……っ!」那月はもつれた声で無様に喚いた。ようやく正気に戻ったアレーナが怒声を上げた。「今すぐあたくしの親友を放して!でないと……きゃっ!」言い終える前に、円香の手がアレーナに向かって鋭く振
翠嵐園の門外、華やかな人々が溢れる中で、二列に並んだ照明が白く柔らかな光を放っていた。その温かな光の中で、円香がふと露骨に眉をひそめた。「げっ、最悪」翔真がそれに気づき、笑いながら聞いた。「天敵でも見つけたの?」円香は口を尖らせた。「目障りな女がいるだけよ」杏奈はその一言で察し、円香の視線を辿った。やはりそこには、紗里がいた。柔らかな光の中、紗里は純白の和装をまとい、長い髪をシンプルな木の簪でふんわりとまとめていた。まるで俗世から切り離されたかのような清らかさで、儚げで純粋でありながら、どこか一本芯の通った強さも感じさせる。いつもの華やかで隙のない姿とは大きく異なり、その計算された落差は周囲の多くの視線を引きつけていた。容姿の印象的な変化に驚嘆する者もいれば、その隣に凛と背筋を伸ばし、深淵のような絶対的な気を放つ男の前で、あわよくば顔を売ろうとする者もいた。杏奈がそちらを見た瞬間、蒼介も何かを感じ取ったのか、静かに視線を上げた。人波を越えた視線が、杏奈のそれとぶつかる。薄い唇がわずかに弧を描いた――愉悦が宿り、その黒曜石のような瞳には、今や彼女の姿だけを映していた。その反応に、周囲でずっと彼の様子を窺っていた人々が一斉に振り返った。その視線の先には、エントランスの階段の中央で、二つの照明が交差して杏奈を照らし出していた。鮮やかな真紅のシルクドレス。ごくシンプルな裁断でありながら、彼女の曲線美を息を呑むほど鮮やかに浮かび上がらせる。艶やかな黒髪が肩にゆるりと流れ落ち、流れる眼差しには凛とした鋭さが宿っていた。見下ろすように佇むその姿は、この場を支配する女王のようで、人々に自然と畏敬の念を抱かせながら、同時に引き寄せられずにはいられない強烈な存在感を放っていた。いつの間にか、紗里の周りに群がっていた人々は、吸い寄せられるように階段の下へと移動していた。仰ぎ見る瞳に、濃い驚嘆の色が溢れる。次々と上がるざわめきが、今この瞬間の昂ぶりを余すところなく伝えていた。「あの方は……三浦杏奈さん!」「少し前のネットの騒動、私も追ってたわ。あんなひどい目に遭った杏奈さんが、まさかここで見られるなんて。今日は来た甲斐があったわ」「あんな美しい人を陥れようとするなんて、本当に信じられない。私なら、まともに顔も合わせられないわ」
杏奈たちも人波に交じって歩みを進めていたが、その顔に浮かれた表情はなかった。「冴さん、大丈夫かな」円香が心配そうに呟いた。杏奈は無理に笑みを作り、安心させるように答えた。「月島さんが言っていたでしょう。彼女は海外の警護学校で腕を磨いたトップクラスのボディーガードだって。きっと……大丈夫よ」「まあまあ、二人とも」事情を把握した玲子が、浮き足立っている二人をなだめるように言った。「あの子が突如として現れ、間一髪で円香を助けられたこと自体が、実力の証明じゃない。今は取り越し苦労をするより、これからのことを考えなさい」円香が反射的に聞いた。「これからって?」玲子は小さく溜め息をついた。「もう……翔真がまだ来ていないでしょう。もしまたアレーナたちに遭遇したら、誰が矢面に立つのよ」濱海市において、あの狂人アルバートソンズと真っ向から渡り合える人間などそう多くはない。ましてや、何のメリットもないのに、杏奈のためにわざわざ彼の機嫌を損ねようとする者などいるはずがなかった。翔真がこれ以上遅れるようなら、玲子は引き返すことも考え始めていた。噂をすれば影。一台の重厚で落ち着いた、権力を代表する国産車が人々の視界に滑り込んできて、翠嵐園の入口の前にすっと停まった。ドアが開き、仕立ての良い白いスーツを纏った翔真がゆっくりと降り立った。周囲の驚きと戸惑いの視線を涼しい顔で受け流しながら、長身をまっすぐに伸ばして立つその姿には、初対面の時の穏やかさはなく、人の上に立つ者特有の静かな威圧感が漂っていた。ただそこに立ち、視線を一度流しただけで、周囲の人々を圧倒してみせたのだ。「翔真~~こっちよ!」ピンと張り詰めた空気をあっさりと破る、どこか弾んだ声が飛んだ。翔真が振り返ると、こちらに向かってぶんぶんと手を振る円香の姿があった。苦笑をこぼしながらも、胸の奥にじわりと広がる温もりは、彼だけが知っていた。衆人環視の中、翔真は車から離れ、ゆっくりと円香の隣へ歩み寄った。「来て嬉しそうだね」円香はこくこくと大げさに頷いた。「そりゃそうよ」――あなたが来てくれれば杏奈に勝算が生まれる。そんな図々しい打算は、さすがに心の内だけに留めておいた。すっかり「便利な切り札」として扱われていることを知らない翔真は、笑いを隠しきれない彼女の目を見
杏奈が叫んだが、手を伸ばすよりも矢の方がはるかに速かった。助手席で状況を把握できていなかった玲子に至っては、なおさら反応できるはずもない。間一髪――暗い路肩の草むらから風のように人影が飛び出し、鋭い金属音が夜気にキンと高く響き渡った。必殺の勢いで飛んできた矢が、その刀身に見事に阻まれ、火花を散らして激しく弾き飛ばされる。チン、チン、チン……アスファルトに弾かれ、虚しく転がる鉄矢の音が、乾いた音を立てて、夜の闇の底へと消えていく。しばらくの不気味な静寂の後、ゆっくりと全員の意識が現実に引き戻された。杏奈は早鐘のように鳴る胸を押さえつけながら、事態を呑み込めず呆然としている円香をとっさに抱きしめた。「よかった、無事でよかった……」それは円香を安心させるための言葉だったのか、それとも恐怖に震える自分自身に言い聞かせているのか、杏奈にも分からなかった。玲子もすぐに振り返り、極度の緊張で強張った声で聞いた。「な、何があったの?今、何か凄まじい音がしたけど……っ」円香の視線がゆっくりと動いた。驚愕からようやく我に返ってきたようだ。杏奈は彼女が泣き崩れるのではないかと思っていた。しかし当の円香は口角をにっと吊り上げ、清々しいほどの顔でぽつりと言った。「最高にスリリングじゃない〜〜〜!」杏奈「…………」まだ状況が掴めていない玲子もは?と驚いた。誰か、今何が起きたのか教えてくれない?「円香、怖くなかったの?」杏奈は本気で尋ねた。円香は首を横に振り、瞳を輝かせた。「最初の一瞬だけびっくりしたけど、あとはもうアドレナリンが一気に高まって、走り回りたくなるほど興奮していたわ」……杏奈には、やはり親友のこの常軌を逸した思考は、一生理解できそうになかった。それでも本当に怖がっていないこと、トラウマの様子がないことを確認して、ようやく安堵の息を吐いた。「ねえ、あの人は誰?」円香が不意に聞いた。杏奈が視線を追うと、車の外に一人の女が立っていた。先ほど矢を弾き落とし、今もなお周囲を鋭く警戒しているその人だった。車内から漏れる微かな明かりが、傷だらけの女の横顔を浮かび上がらせる。漆黒の戦闘服は夜の闇に溶け込み、肘には戦術ナイフ、手には冷たい輝きを放つ短刀を逆手に握っていた。血と硝煙、本物の戦場の空気が色濃く漂い
「それが難しいんです」理玖はひどく困惑した様子だった。「当人たちが認めない限り、確認のしようがなくて。それに……」一拍置いてから、言葉を濁すように続けた。「アルバートソンズがすでに濱海市に入っているこの状況で、これ以上踏み込んだ調査を続けるとなると……」最後まで言わずとも、その先に待つ結末は火を見るよりも明らかだった。白昼堂々、札束で人を従わせようとした狂人の顔が脳裏をかすめ、杏奈は眉をひそめたが、すぐに表情を緩めた。「分かりました。調べてくれてありがとう」「お礼なんていりませんよ。これは僕なりの恩返しのつもりで動いたんですから」理玖はそう言って、他愛のない雑談を少し交わしてから電話を切った。通話が終わったのを見て、円香が身を乗り出してきた。「杏奈、那月のやつが裏で糸を引いてたの?」杏奈は静かに頷いて、事の経緯を手短に話した。聞き終えた円香は目の色を変えて、怒りでわなわなと拳を震わせた。「今夜会ったら、絶対に……!」怒鳴りかけた言葉が途切れた、まさにその瞬間だった。次の信号待ちで真横に並んだ銀白色のリンカーン・リムジン――その後部座席の窓越しに、花がほころぶような笑みを浮かべた那月の姿が不意に現れたのだ。こちらが視線を向けると同時に、那月の方も窓を開け放ち、杏奈たちを見つけた。気まずいそぶりなど微塵も見せず、むしろ明るい声で語りかけてくる。「杏奈、それに円香さんも。こんなところで会うなんて、本当に奇遇ね」円香はこれ以上ないほどの笑みを貼り付けて答えた。「本当に奇遇よね。ちょうどあんたのことを探してたところだったのよ」那月の笑みがわずかに引きつった。何か言いかけた次の瞬間、その表情をすっと怯えたようなか弱い表情へと変貌させる。変わった、と円香がいぶかしんだ刹那、窓の縁から、激しい怒りに顔を歪ませた女が身を乗り出してきた。アレーナだった。「杏奈!よくも友達だって思ってた私をそんな目に遭わせたわね、最低じゃない!言っておくけど、あたくしの親友にまたちょっかい出したら、絶対許さないからね!」浴びせられたあまりの言葉に、杏奈は一瞬、頭の中が真っ白になった。友達?誰が?アレーナとそこまでの親交があったなど、杏奈自身まったく理解できなかったことだった。苦笑をこらえながら、できる限り穏やかな声でなだ







