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第92話

Author: 幸月
裕司の懸念を余所に、杏奈の瞳に怯えの色は一欠片もなかった。「先輩、心配しないで。こんなこと、もう慣れっこだわ」

蒼介の傍らで、何年もの月日を耐え忍んできたのだ。根も葉もない噂話など、今の彼女にとって、そんな雑音など意識の端に上せる価値すらなかった。

覚悟はしていたし、準備も整えていた。けれど、ルミエールの重厚な門をくぐった瞬間、肌に突き刺さるような異様な視線と、ひそひそ話という名の卑屈な毒が、執拗に杏奈の肌を蝕んだ。

ここはルミエール。光の名を冠し、至高の輝きを生み出す場所。かつての聖域は、今やどろりとした悪意が澱む、泥沼のような有様に成り果てていた。

周囲の人間は、彼女の冷徹な心中など知る由もない。余裕を崩さず辺りを見回す杏奈の姿に、野次馬たちの口調は、好奇という名の薪を得てさらに勢いを増していく。

「あれが噂の、コネで入ったっていう新人?」

「へえ、なかなかの美人じゃないか。あんな美貌、武器にするなっていう方が無理だろ。俺が社長でも……へへっ!」

「やめろよ、下卑た顔して。反吐が出る」

「私たちは爪を剥ぎ、夜を徹する思いでここを勝ち取ったのに、どうしてあの女だけあん
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