LOGIN大学入試が終わったあとのクラス会で、私たちは試験前に自分宛てに書いた手紙を、順番に読み上げていた。 高瀬怜司(たかせ れいじ)の番になると、彼は言った。 「僕が書いたのは、ラブレターなんだ」 思わず顔が熱くなり、私はうつむいた。入試が終わったら付き合おうと、彼は私に言ってくれたから。 みんなが一斉にはやし立てた。誰もが憧れる彼の心を射止めたのは、いったい誰なのか。 「絶対、紗絵でしょ。クラス一の美人だし、前からお似合いだと思ってたんだよね」 「私もそう思う!紗絵、怜司が理想のタイプだって言ってたし!」 「怜司、早く読んでよ。みんなで祝ってあげるからさ」 白石紗絵(しらいし さえ)は両手で顔を覆っていた。耳の付け根が、ほんのり赤くなった。 怜司は照れたように笑うだけで、否定しなかった。 せっかちな学級委員長がつかつかと近づき、怜司の手から手紙をさらった。 「学年トップの高瀬怜司が誰にラブレターを書いたのか、見せてもらおうか」 便箋を広げた委員長は、最初の1行に目を走らせるなり叫んだ。 「告白の相手は、紗絵だ!」 カラオケの個室が、静まり返った。直後、耳が痛くなるほどの歓声が上がる。 「クラス一の美人と学年トップって、最高の組み合わせじゃん!」 「おめでとう!」 誰かが隣の紗絵をせかした。 「ほら、紗絵も何か言いなよ!」 紗絵は顔を覆ったまま、耳までほんのり赤くして、小さな声で言った。 「怜司、私にも何も言ってくれなかったから……」 秘密がようやく明かされたかのように、はにかんだ笑みを浮かべる。 みんな笑っていた。みんな、2人をはやし立てていた。 私だけが、ただ呆然とそれを見ていた。頭の先から足元まで、冷えきっていた。
View More洗面所から戻ってきた千夏が、机の前でぼんやりしている私を見て、どうしたのかと聞いた。「なんでもない」便箋をそろえて木箱に戻し、蓋を閉めた。その夜、ベッドに横になっていると、スマホが震えた。航からだった。【明日は冷えるみたいだから、暖かくしてね】【うん】そう返した。スマホを枕元に置き、寝返りを打った。一瞬、不思議な気分になった。ずっと前に読んだ本を、もう一度手に取ったような。最後のページを閉じる頃には、結末はとうにわかっている。もう、何も覆らない。……やがて、私たちは大学を卒業した。航は建築設計事務所に入り、私は出版社で文芸編集の仕事に就いた。凪瀬の古い通りにある家で、2人で暮らすようになった。古い家で、木の階段は踏むときしんだけれど、窓からは大きなキンモクセイが見えた。秋には、部屋いっぱいに甘い香りが満ちた。たまに帰省すると、恵理さんに会うこともあった。年を取り、髪は半分以上白くなったけれど、元気にしていた。仕事はどう、体は大丈夫、と笑って尋ねては、私の手をぽんとたたいた。「元気なら、それでいいのよ」怜司がどうしているかは、一度も聞かなかった。知るのが怖いのではない。本当に、知りたいと思わなくなっていた。何年かたった頃、実家で古い物を整理していて、高校の卒業写真を見つけた。裏返すと、高校3年のときに彼が書いた言葉があった。【人と争わず世に馴染み、時に合わせてしなやかに生きる】あの頃は意味がわからず、彼に尋ねることもしなかった。今、読み返してみて、ふと腑に落ちた。しばらく眺めてから、写真をアルバムに挟み直し、閉じた。窓の外ではキンモクセイが咲いていた。とても、いい匂いだった。遠い日の午後を思い出した。怜司は教室の前の廊下に立ち、顔の片側だけに午後の日差しを受けていた。こちらを振り向いて、何も言わずに私を見た。あのまなざしは種のように、何年も私の心に埋まっていた。やがて芽を出し、葉を広げ、花を咲かせた。そして、散った。今、あの土には別の草木が育っている。彼にも負けないものが。違う。誰と比べても、引けを取らないものが。あの手紙の箱は、ずっと取ってある。古い本棚のいちばん奥にしまっていたものを、その後、引っ越しのときにもう一度見つけた。蓋を開け、何通か適当に取り出して
4月も半ばになると、暖かくなってきた。桜の木に新しい葉が出始めた。淡い緑の葉に日が透けて、葉脈まで見えた。ある日、千夏が部屋のドアを開けて言った。「そういえば、下の寮母さんのところに夕花宛ての箱があったから、持ってきたよ」小ぶりの四角い紙箱で、クラフト紙に包まれていた。宛名は怜司の字だった。整っていて、力があり、1画ずつ丁寧に書かれていた。千夏はフェイスパックをしていて、私の様子が変わったことには気づかなかった。机に箱を置いて椅子に座り、包み紙を外した。中には、こげ茶色の木箱があった。表面はなめらかに磨かれ、角にもささくれひとつない。ずいぶん時間をかけたものだとわかった。手に取って蓋を開けると、手紙がきれいに重ねられていた。日付順に並んでいる。いちばん上の封筒には、濃紺のリボンがきちんと蝶結びにされていた。私はそのリボンをほどいた。最初の日付は9月12日。高校1年の頃だった。【夕花へ今日、クラス分けがあった。夕花の席は、僕より2列前だった。ポニーテール、よく似合ってた。でも、言う勇気がなかった】2通目は、11月3日。【夕花へ中間試験の順位、15も上がったね。今日は1日ずっと笑ってた。隣の席の子とたくさん話して、僕にもひと言、話しかけてくれた。『怜司、物理のノート見せて』って。いいよ、と答えた。本当は雑に書いたノートだったけど、返してくれたときに『すごく役に立った』って言ってくれたから、また嬉しくなった。夕花より、僕のほうが嬉しかった。そう伝えたかった。でも、言えなかった】3通目は、12月20日。【夕花へ今日、物理の問題を聞きに来たとき、すぐそばまで顔を寄せてくれたね。髪が僕の腕に触れた。ほんのかすかに、猫のしっぽに撫でられたみたいだった。心臓がすごい速さで打ってたのに、夕花は何も気づかなかった】1通ずつ、封を開けた。高校1年から2年まで、どの手紙にも私のことが書いてあった。新しい通学かばんに替えた日。国語の試験でクラス1位を取ったとき。800メートル走では、いつも3周目でペースが落ちること。笑うと右側に八重歯がのぞくこと。自分でも覚えていないことまで、そこにはあった。高校2年の後期から、手紙の調子が変わり始めた。【夕花へ今日のバスケの試合、少し見ただけで帰
怜司は、15歩ほど後ろをついてきた。近すぎもせず、遠すぎもしない距離だった。私はコーヒーとパンを買い、窓際の席に座った。彼は反対側のカウンターでおにぎりを買うと、私からテーブルを3つか4つ隔てた席に座った。食べ終えて寮に戻ると、彼は建物の下で5分ほど立ってから、帰っていった。日曜の夜、外から戻ってきた千夏が言った。「下の男の子、あそこの街灯のところで、もう2時間近く立ってるよ」私は何も言わなかった。「本当に、会いに行かなくていいの?」「行かない」2週目も、彼は来た。同じ道を歩き、同じだけ距離を取っていた。今度はみかんの袋を持ってきて、図書館で私がいつも座る机のそばに置いていった。袋には付箋が貼られていて、文字はなく、みかんの絵が1つだけ描かれていた。彼の字なら見慣れている。でも、みかんの絵を描くなんて、怜司らしくない。不器用に、気を遣いながら機嫌を取ろうとするのは、彼のやり方ではなかった。それでも、彼はそうしていた。3週目、彼が来た日は雨だった。凪瀬の3月の雨は強くはないけれど、細かく降り続く。顔に当たり続けると、しだいにつらくなる。その日の午後、私は航と一緒にいた。校門まで来たところで、怜司が目に入った。傘も差さず、肩はすっかり濡れていた。額に髪が貼りつき、頬を雨粒が伝っている。私が航と並んで出てきたのを見ると、彼はさっと目をそらした。「行っておいで」航は傘を私に渡し、自分は雨の中に立った。体を横に向け、急に大事な用事でもできたようにスマホを取り出している。私は航を見てから、怜司の前へ行った。「いったい、何がしたいの?」「会いたいんだ」先週と同じ言葉を繰り返した。雨に濡れたせいで、声が少し震えていた。「もう、会ったよね」「うん」「じゃあ、帰って」彼は動かなかった。その顔を見つめた。眉のあたりから雨が流れ落ち、目に入っても、彼はまばたきもしない。唇の色も悪く、具合が悪そうに見えた。「怜司、前はこんな人じゃなかったよね」口にして、自分でもはっとした。そのとおりだと、急に実感したのだ。昔の怜司なら、たった1人の女の子のために、新幹線で3時間半もかけて別の街まで来たりしない。雨の校門で午後いっぱい待ったりしない。捨てられた犬のように、誰も開けてくれないとわか
また震えた。それでも出ずにいると、今度はメッセージが届いた。【あけましておめでとう】ただ、それだけだった。10秒あまり眺めてから、画面を下にして机に置き、読書に戻った。大学へ戻る前の晩、マンション近くのコンビニへ、道中に食べるお菓子を買いに行った。1月も終わりで、夜風はまだ冷たい。厚手の上着を着ていても寒かった。自動ドアが開くたび、店内に冷気が吹き込んできた。レジでスマホをかざして支払い、店を出ると、入口に怜司がいた。指に煙草を挟んでいる。コンビニの白い照明の下で、煙が薄く漂っていた。前は、吸わなかったのに。私が振り向いたのを見ると、彼は慣れた手つきで火を消した。「こんな時間に買い物?」彼が先に口を開いた。声は、冬休み前よりもかすれていた。「明日、大学に戻るから。少し買っておこうと思って」「そっか」私はうなずいた。「じゃあ、帰るね」袋を持って歩き出した。「夕花。紗絵とは付き合ってないって、この前も言ったけど」背後から声が届いた。「もう一度、言っておきたい。今まで一度も付き合ってないし、これからも絶対にない」私は振り返らなかった。「入試が終わったら付き合おうって、あの約束を忘れたことはない」夜風に紛れかけた言葉も、ひとつ残らず聞こえた。今の私には、その言葉がひどく軽かった。何の重みもなかった。どうして、そんなに手放せないのだろう。昔の、私みたいに。……翌朝、スーツケースを引いて家を出ると、マンションの入口にタクシーが止まっていた。私が呼んだ車ではなかった。その横に、怜司が立っていた。温かいカフェラテを1杯と、サンドイッチを2つ持っている。昨夜よりも目の下の隈が濃く、目も赤く充血していた。「送るよ」「大丈夫。タクシーならすぐつかまるから」スマホでもうタクシーを呼んでいた。運転手の到着まで、あと3分と表示されている。「怜司、央星に戻って、ちゃんと勉強して。もう来ないで」「来たいから来るんだ」……車が走り出し、私はバックミラーに目を向けた。怜司は同じ場所で、まだカフェラテのカップを持って立っていた。ミラーの中で、姿が小さくなっていく。やがてぼやけた点になり、角を曲がると見えなくなった。凪瀬に戻ると、いつもの日々が待っていた。
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