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南風の吹く夕暮れに、さよなら

南風の吹く夕暮れに、さよなら

By:  観月明Completed
Language: Japanese
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大学入試が終わったあとのクラス会で、私たちは試験前に自分宛てに書いた手紙を、順番に読み上げていた。 高瀬怜司(たかせ れいじ)の番になると、彼は言った。 「僕が書いたのは、ラブレターなんだ」 思わず顔が熱くなり、私はうつむいた。入試が終わったら付き合おうと、彼は私に言ってくれたから。 みんなが一斉にはやし立てた。誰もが憧れる彼の心を射止めたのは、いったい誰なのか。 「絶対、紗絵でしょ。クラス一の美人だし、前からお似合いだと思ってたんだよね」 「私もそう思う!紗絵、怜司が理想のタイプだって言ってたし!」 「怜司、早く読んでよ。みんなで祝ってあげるからさ」 白石紗絵(しらいし さえ)は両手で顔を覆っていた。耳の付け根が、ほんのり赤くなった。 怜司は照れたように笑うだけで、否定しなかった。 せっかちな学級委員長がつかつかと近づき、怜司の手から手紙をさらった。 「学年トップの高瀬怜司が誰にラブレターを書いたのか、見せてもらおうか」 便箋を広げた委員長は、最初の1行に目を走らせるなり叫んだ。 「告白の相手は、紗絵だ!」 カラオケの個室が、静まり返った。直後、耳が痛くなるほどの歓声が上がる。 「クラス一の美人と学年トップって、最高の組み合わせじゃん!」 「おめでとう!」 誰かが隣の紗絵をせかした。 「ほら、紗絵も何か言いなよ!」 紗絵は顔を覆ったまま、耳までほんのり赤くして、小さな声で言った。 「怜司、私にも何も言ってくれなかったから……」 秘密がようやく明かされたかのように、はにかんだ笑みを浮かべる。 みんな笑っていた。みんな、2人をはやし立てていた。 私だけが、ただ呆然とそれを見ていた。頭の先から足元まで、冷えきっていた。

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Chapter 1

第1話

「森川夕花(もりかわ ゆうか)、何ぼうっとしてるの?ほら、席を空けて!」

誰かが私の名前を呼んだ。反応する間もなく腕を引かれ、立たされる。みんなはさっきまで私がいた席――怜司の隣に、紗絵を押しやった。

全身が冷え切るって、こういうことなんだ。真夏だというのに、個室の冷房は18度。しかも私は、冷たい風が吹きつけるエアコンの真下に立っている。体のどこにも、ぬくもりなんて残っていなかった。

去年の今日を、懸命に思い出す。

校舎の廊下の曲がり角で、怜司は私の行く手をふさいだ。口元の笑みを抑えるようにして、こう言ったのだ。

「夕花、入試が終わったら、付き合おう」

入試が終わったら、付き合おう。

その言葉を、私はもう一年近く、何度も心の中で繰り返してきた。

あのときの表情も、言葉のひとつひとつの響きも、曲がり角に差していた光も、漂っていた石けんの匂いも。何もかも、はっきりと。

けれど今、はやし立てるみんなの向こうで、怜司は少しかがんで紗絵の話を聞いていた。ずっと笑みを浮かべたまま。

不意に、学級委員長に肩をたたかれた。

「森川もスマホのライトつけて、上に掲げてよ。みんなで2人を祝うんだから!」

そのとき初めて、部屋の明かりが消えているのに気づいた。みんなスマホのライトをつけ、2人を囲んでいた。

目の奥が熱く、痛い。声が震えないようこらえながら、私は言った。

「ちょっと、お手洗い」

逃げるように部屋を飛び出した。洗面台で冷たい水を顔にかけて、ようやく胸の鈍い痛みが少しずつ引いていった。

トイレのドアが開き、紗絵と隣の席だった長谷川真帆(はせがわ まほ)が入ってきた。個室には入らず、洗面台に寄りかかって、小首をかしげながら私を眺める。

「あれ、こんなところでこっそり泣いてたの?」

私は何も答えず、蛇口を閉めた。

「自分の立場、わかってない人っているよね。どう頑張ったって釣り合わないのに」

そう言ってから、真帆はゆっくりと付け足した。

「紗絵と怜司は、住む世界が同じなの。あんたには無理。諦めなよ」

真帆が出ていき、ドアが閉まると、また私だけになった。

洗面台に両手をついて、鏡に映る自分を見る。平凡で、どこにでもいるような顔だった。

だから、怜司への想いは誰にも悟られぬよう、完璧に隠し通してきたつもりだ。

彼のほうからあの言葉をくれなければ、きっと私は学生時代を通して、成績表の順位が彼に近づく、それだけのことで密かに胸を躍らせていられたはずなのに。

こんなに惨めな思いをせずに、すんだのに。

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ひとみ
ひとみ
え?紗絵が好きやったんよね?ラブレター書いてたし、コッソリ写真とかももってたんやろ?付き合えばよかったんちゃう?なんか付き合うって言ったから責任感じてる風にしか聞こえんかった。
2026-10-12 20:30:43
8
0
松坂 美枝
松坂 美枝
あーーーおま、お前何やってんの?何をしちゃったの?何もしなかったーーーあーーーという読後感だった(笑) なんかもう、取り返しのつかない青春の苦さを押し付けられた感じ… しなやかに生きた結果がこれか(笑)
2026-10-12 09:57:48
13
0
雨降る雪降る
雨降る雪降る
サッパリ分からん。何したいの?何したく無いの?無意識に突っ走ってみたー青春ってか。
2026-10-16 06:53:15
1
0
haya
haya
結局、何で写真こっそり持ってたりしたの? ヒロインが好きなくせに意味分からない…。
2026-10-12 21:05:59
6
0
佳美
佳美
意味不明 なんか少しは回収して欲しかった
2026-10-22 20:08:56
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11 Chapters
第1話
「森川夕花(もりかわ ゆうか)、何ぼうっとしてるの?ほら、席を空けて!」誰かが私の名前を呼んだ。反応する間もなく腕を引かれ、立たされる。みんなはさっきまで私がいた席――怜司の隣に、紗絵を押しやった。全身が冷え切るって、こういうことなんだ。真夏だというのに、個室の冷房は18度。しかも私は、冷たい風が吹きつけるエアコンの真下に立っている。体のどこにも、ぬくもりなんて残っていなかった。去年の今日を、懸命に思い出す。校舎の廊下の曲がり角で、怜司は私の行く手をふさいだ。口元の笑みを抑えるようにして、こう言ったのだ。「夕花、入試が終わったら、付き合おう」入試が終わったら、付き合おう。その言葉を、私はもう一年近く、何度も心の中で繰り返してきた。あのときの表情も、言葉のひとつひとつの響きも、曲がり角に差していた光も、漂っていた石けんの匂いも。何もかも、はっきりと。けれど今、はやし立てるみんなの向こうで、怜司は少しかがんで紗絵の話を聞いていた。ずっと笑みを浮かべたまま。不意に、学級委員長に肩をたたかれた。「森川もスマホのライトつけて、上に掲げてよ。みんなで2人を祝うんだから!」そのとき初めて、部屋の明かりが消えているのに気づいた。みんなスマホのライトをつけ、2人を囲んでいた。目の奥が熱く、痛い。声が震えないようこらえながら、私は言った。「ちょっと、お手洗い」逃げるように部屋を飛び出した。洗面台で冷たい水を顔にかけて、ようやく胸の鈍い痛みが少しずつ引いていった。トイレのドアが開き、紗絵と隣の席だった長谷川真帆(はせがわ まほ)が入ってきた。個室には入らず、洗面台に寄りかかって、小首をかしげながら私を眺める。「あれ、こんなところでこっそり泣いてたの?」私は何も答えず、蛇口を閉めた。「自分の立場、わかってない人っているよね。どう頑張ったって釣り合わないのに」そう言ってから、真帆はゆっくりと付け足した。「紗絵と怜司は、住む世界が同じなの。あんたには無理。諦めなよ」真帆が出ていき、ドアが閉まると、また私だけになった。洗面台に両手をついて、鏡に映る自分を見る。平凡で、どこにでもいるような顔だった。だから、怜司への想いは誰にも悟られぬよう、完璧に隠し通してきたつもりだ。彼のほうからあの言葉をくれなけ
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第2話
気持ちを落ち着かせて個室のドアを開けると、ちょうど帰ろうとしていた怜司と紗絵に鉢合わせた。怜司が口を開く。今夜、私に向けた最初の言葉だった。「紗絵を送ってくる。みんなは続けてて」私は何も感じないまま、うなずいた。「森川は、どこの大学に出願したの?」学級委員長の声が部屋中に響いた。「成績いいし、ずっと央星大学に行きたいって言ってたよね。試験、どうだった?」今度は全員の視線が私に集まった。ドアのところまで行っていた怜司も。自分の声が、静かに響くのを聞いた。「央星には行かない。凪瀬大学に行きたいんだ」央星大学は、初めから怜司の夢だった。私の夢ではなかった。怜司の足が止まった。ほんの一瞬だけ。紗絵が袖を引くと、彼は何事もなかったように一緒に部屋を出ていった。彼が本気にしていないのはわかっていた。あれだけ長く自分を追いかけてきた私が、諦めるはずはない。その自信があるのだ。主役の2人が帰っても、騒ぎは続いた。歌い始める人、じゃんけんで盛り上がる人、集まってトランプをする人。ソファに座っていると、スマホがまた震えた。見ると、塾の先生からの確認メッセージだった。明日までに、出願校最終確認を済ませるようにと書かれている。画面を消した。私の中では、もう答えが出ていた。お開きになってから、私は1人で歩道をゆっくりと家へ向かった。マンションの前まで来たところで、私は足を止めた。怜司が、そこに立っていた。足音に気づいた怜司が、顔を上げた。目が合った。中学2年の頃から見つめてきた、世界でいちばんきれいだと思っていた瞳が、今夜はなぜか、知らない人の目のように見えた。心臓がドクンと大きく跳ねた。けれど、今度はときめきではない。胸が、痛かった。「帰ったんだ」私たちの家は、廊下を挟んで玄関が向かい合っている。私は3歩ほど離れたところで立ち止まり、うん、とだけ答えた。「怜司」呼び止めると、彼が振り返った。ふわりと香水が匂う。少し頭がくらむほどの、紗絵の香りだった。私は尋ねた。「今夜のあの手紙……どういうこと?」街灯の下で、怜司の表情がわずかに変わった。気まずさが一瞬、顔をよぎる。「学級委員長が読んだだろ」「あなたが書いたんだよね」「うん」「本当に、紗絵に宛てて書いたの?
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第3話
彼は黙り込んだ。なんだか、おかしかった。こんなに長く好きだった人には、自分の本心を認める勇気さえなかったのだ。もう、この人に何かを言い続ける気にはなれなかった。階段に向かおうと背を向けると、腕をつかまれた。「そうやって、僕を追い詰めるんだね」心底失望したとき、人は取り乱さない。その瞬間、初めてわかった。私は怜司のスマホを取り上げた。彼が反応するより先にケースを外し、背面との隙間から紗絵の証明写真を抜き取る。掲示されていた順位表からちぎり取ったような写真だった。大切にしまっていたのだろう。傷ひとつついていない。入試が終わった日、偶然目にしたものだ。友達同士で交換した写真かもしれない。たまたま拾っただけかもしれない。自分をだます理由をいくつも探したけれど、どれも苦しい言い訳にしかならなかった。それ以来、あの写真のことは考えないようにしてきた。今、このときまで……手の震えを、うまく止められなかった。「本当に、私の思い違い?紗絵が好きじゃないって、言えるの?」彼を見据えて、答えを待った。けれど怜司は一瞬あっけに取られただけで、すぐに私の手から写真を取り返した。そして、写真の端を、傷つけないようにそっと整えた。心が、一気に底まで沈んだ。目の前の人に期待するものは、もう何もなくなった。踵を返して、階段を上った。ほとんど同時に、背後で足音がした。彼が追いかけてきたのは、たった1歩。さっき個室でそうしたように、それきり足を止めた。私の名前を呼ぶ声がした。今度は、振り返らなかった。……部屋に入った途端、床にしゃがみ込んだ。体から力が抜けていた。長いことそのままでいて、しびれた脚をどうにか伸ばし、ようやく立ち上がった。机の隅にある卒業写真に目が留まった。手に取って、じっくりと眺める。みんなの中で、怜司は隠そうともせず紗絵を見つめていた。優しく、まっすぐに。その隣には、私と怜司だけで撮った写真があった。彼の顔には、何の感情も浮かんでいない。仕方なく撮影に付き合っただけなのが、隠しようもなく伝わってきた。好きか、そうでないか。写真には、こんなにはっきり写るのだ。写真を裏返して机に置いた。そうすれば、胸に込み上げる切なさまで押さえ込めるような気がした。そのとき、パソコンのメッセージアプリのアイ
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第4話
ピコン、と澄んだ通知音が鳴り、画面に文字が表示された。【出願情報の登録が完了しました】それを見ている自分が、驚くほど穏やかだった。彼と同じ街ではない。彼を見かけたり、彼の話を耳にしたりするかもしれない大学でもない。机の端には、付箋が貼ってあった。かつて私が、丁寧に書き写した言葉。【あなたのいるほうだけを、目指していたい】その言葉に支えられて、私は迷いもなく彼を追いかけていた。長い、長い時間、その1行を見つめた。最後は、ごみ箱に捨てた。……翌朝、玄関のドアを開けると、向かいのドアも開いた。怜司がすっと背筋を伸ばして立っている。手には、まだ温かそうな朝食の袋があった。少しぎこちない顔で、彼は袋を差し出した。「1人分、多く買っちゃったから」聞き覚えのある言葉だった。前は、私がよく口にしていた。袋にちらりと目を向けたが、受け取らなかった。「いらない」自分でも淡々とした声だと思った。彼はゆっくり手を引っ込めた。「昨日は、態度が悪かった」私は目を伏せた。「そんなこと、言わなくていい。もう私には関係ないから」「夕花!」怜司がさらに何か言いかけたとき、彼の母親の恵理(えり)さんが部屋から出てきた。「夕花ちゃん」そばに来て、親しげに私の手を取る。その目には、抑えきれない期待が浮かんでいた。恵理さんは、小さい頃から私をとてもかわいがってくれた人だ。怜司と同じように突き放すことはできず、私はきちんと挨拶した。恵理さんは挨拶を返すと、にこやかに言った。「ご縁ってあるものね。夕花ちゃんも怜司も央星に行くんでしょう?お互い助け合えるし、おばさん、すごく安心だわ」私は口を開きかけた。出願校を変えたことを、どう伝えよう。けれど恵理さんは怜司をちらりと見て、意味ありげに続けた。「昔から仲がよかったものね。大学でも、この子を見ていてくれる?変な遊びを覚えたりしないように」2人をくっつけたいのだと、言葉の端々から伝わってきた。居心地が悪くなって、私は口を挟んだ。「おばさん、実は私……」急に怜司が眉を寄せた。「母さん、考えすぎ。夕花だって自分の勉強で忙しいんだから」央星には出願していない。そのひと言は、出てこなくなった。気持ちを顔に出さないよう、恵理さんにどう
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第5話
彼が息をのむのが聞こえた。「どうして?」遠くの木を見つめ、少し黙った。口を開いたとき、自分でも驚くほど落ち着いていた。「怜司を追いかけるの、もう疲れたんだ。今は、自分の進みたい道が見つかったから」電話の向こうが静かになった。その隙に、私は通話を切った。5分後、また電話がかかってきた。今度は出ず、そのまま彼の番号を着信拒否にした。……合宿は、想像していたより厳しかった。凪瀬大学の特プロは、郊外の研修施設で行われた。毎朝6時に起き、宿舎に戻れるのは夜11時。同じグループには、さまざまな専攻の学生がいた。みんな課題やレポートに追われていて、誰かの過去を詮索する暇などなかった。この忙しさは、今の私にちょうどよかった。体が疲れるほど、心のわだかまりが少しずつ薄れていった。半月たっても、持ってきた3冊のうち、読み終えたのは1冊だけだった。毎晩、眠る前に少しずつ読んだものだ。肌は少し日焼けしたけれど、家を出た頃より気持ちはずっと元気になっていた。プログラムが終わる頃には、3月も半ばになっていた。私たちは大学に戻り、入学手続きをした。凪瀬大学の構内は緑が豊かで、アオギリの枝葉が空を覆っていた。木陰の道を歩くと、ほっとした。授業が始まった最初の週、自分にひとつ約束した。もう、怜司のことは考えない。無理に忘れようとするのではなく、目の前のことに気持ちを向ける。授業に出る。本を読む。サークルに参加する。週末には寮のルームメイトと大学の裏手の古い商店街を歩き、湯気の立つ肉うどんを食べた。帰り道で200円のデージーの花束を買い、部屋の窓辺に飾る。そうして、毎日が過ぎていった。10月、肌寒くなってきた頃には、自分が確かに変わったと感じていた。学食がおいしくて、生活も規則正しくなったからだろう。以前のように、風に吹かれたら飛ばされそうな体つきではなくなった。頬の幼い丸みも抜けて、輪郭がすっきりしてきた。ある日、私がお風呂から上がると、ルームメイトの小野寺千夏(おのでら ちなつ)が顔をのぞかせた。「わあ!夕花、いつの間にそんなにきれいになったの?」大げさな言い方だったけれど、嘘ではないとわかっていた。急に変わったわけではない。穏やかな日々の積み重ねが、少しずつ私を整えてくれたのだ。月末、文芸サークルに入
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第6話
怜司との、始まることのなかった恋は、少しずつ記憶の隅に埋もれていく。私は、そう思っていた。けれど怜司は、まるでそう思っていなかった。クリスマスの日。航と校門のそばのカフェでレポートを書いていた私は、窓の向こうに、ここにいるはずのない姿を見つけた。怜司が、凪瀬大学の校門に立っていた。濃いグレーの、薄手の上着を着ている。ずいぶんやせていた。春よりも頬骨が目立ち、少し伸びた髪は風で乱れている。人の行き交う校門で、彼の視線だけが、まっすぐこのカフェの窓に向いていた。私に、気づいている。航が私の視線を追った。「知り合い?」うなずいてペンを置き、「ちょっと行ってくるね」と言って、ドアを押した。12月の風は湿って冷たく、頬が少し痛んだ。怜司の前に立つと、彼は私を見下ろした。その目に浮かんでいるものが、私には読み取れなかった。「どうして来たの?」「夕花に会いに」かすれた声だった。風邪をひいているようにも、長いこと誰とも話していなかったようにも聞こえた。私が何か言う前に、彼は切り出した。「夕花、僕は紗絵と付き合ってない」風に流された細かな雪が、彼の顔を打った。声は少しこわばり、どこか、わかってもらえないことを訴えるような響きがあった。「会いたかった。でも、電話番号は変わってるし、メッセージもブロックされてる。あのとき言ったことは、覚えてる。入試が終わったら付き合おうって。全部、覚えてるよ。一度も忘れてない」言い終えた彼は、私を見つめた。肩にも髪にも雪が降り積もるのに、その場から動かなかった。私はその瞳を見ていた。その黒い瞳を思い出しては、何度眠れない夜を過ごしただろう。「うん」返したのは、それだけだった。彼は戸惑ったように唇を開いた。「信じてない?」「信じてるよ」遠く離れた央星大学から、わざわざ飛行機で凪瀬まで来て、雪の中で長々と作り話をする必要はないだろう。けれど、信じるかどうかと、気になるかどうかは別のことだった。私がそれ以上何も言わないとわかると、彼はさらに声を落とした。「夕花、これから毎週末、来るから」私は彼の目を見た。「何しに来るの?」「夕花に会いに」「私、彼氏がいる」怜司は私の向こう、カフェのほうを見た。航が座っている。暖かな黄色の明
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第7話
「温かいうちに飲んで」カップを両手で包み、ひと口飲んだ。温かな甘みが舌の先から喉の奥へとじんわりと溶け広がっていく。「私、大丈夫だから」「わかってる」その夜、寮まで送ってくれる途中で、航がふと口を開いた。今日の学食は少し塩辛かったね、とでも言うような調子だった。「今日の人って、前に好きだった人?」少し考えてから、答えた。「いつか付き合うんだと思ってた人」……冬休みに入る前、航と海へ行った。そこで、好きだと告げられた。言葉は返さず、私は彼の手のひらに自分の手をのせた。それが答えだった。冬休みが始まると、私は実家へ帰った。同じマンションに住んでいるのだから、帰れば怜司と顔を合わせることになるだろう。覚悟はしていた。けれど最初に会ったのは、怜司ではなく、恵理さんだった。ある夕方、母と近くの公園を散歩して戻ると、マンションの下で恵理さんに会った。「夕花ちゃん」呼びかける声が、少し震えていた。母は私を見て、手の甲を軽くたたいた。「お話ししてらっしゃい」そう言って、先に階段を上っていった。私は恵理さんと、マンションの下のベンチに腰を下ろした。しばらく黙ったあと、恵理さんがため息をついた。長く、重いため息だった。ずっとためていたものの出口が、ようやく見つかったように。「夕花ちゃん、怜司は昔から口下手でね。この学期だけで10キロ以上やせて、帰ってきても、ほとんど話さなくなったの」私はうつむき、膝に置いた自分の手を見た。どこから話せばいいのかわからなかった。恵理さんの声は低く、いろいろなことを見てきた人の静かな響きがあった。「小さい頃から一緒で、お互いのこともよくわかっているでしょう。いつか2人が一緒になってくれたら、それがいちばんだと思ってた。あの子、悪い子じゃないのよ。ただ不器用すぎて、自分の気持ちもわからないのね」「おばさん」私はその手をそっと握った。「そんなふうに言わないでください。恋愛に、どちらが悪いということはないですから」恵理さんは首を振り、またため息をついた。「夕花ちゃん、これから幸せになってね。誰と一緒にいても、自分を大事にするのよ」「はい。そうします」恵理さんは立ち上がって、私に微笑み、それから歩いていった。1人でベンチに座り
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第8話
また震えた。それでも出ずにいると、今度はメッセージが届いた。【あけましておめでとう】ただ、それだけだった。10秒あまり眺めてから、画面を下にして机に置き、読書に戻った。大学へ戻る前の晩、マンション近くのコンビニへ、道中に食べるお菓子を買いに行った。1月も終わりで、夜風はまだ冷たい。厚手の上着を着ていても寒かった。自動ドアが開くたび、店内に冷気が吹き込んできた。レジでスマホをかざして支払い、店を出ると、入口に怜司がいた。指に煙草を挟んでいる。コンビニの白い照明の下で、煙が薄く漂っていた。前は、吸わなかったのに。私が振り向いたのを見ると、彼は慣れた手つきで火を消した。「こんな時間に買い物?」彼が先に口を開いた。声は、冬休み前よりもかすれていた。「明日、大学に戻るから。少し買っておこうと思って」「そっか」私はうなずいた。「じゃあ、帰るね」袋を持って歩き出した。「夕花。紗絵とは付き合ってないって、この前も言ったけど」背後から声が届いた。「もう一度、言っておきたい。今まで一度も付き合ってないし、これからも絶対にない」私は振り返らなかった。「入試が終わったら付き合おうって、あの約束を忘れたことはない」夜風に紛れかけた言葉も、ひとつ残らず聞こえた。今の私には、その言葉がひどく軽かった。何の重みもなかった。どうして、そんなに手放せないのだろう。昔の、私みたいに。……翌朝、スーツケースを引いて家を出ると、マンションの入口にタクシーが止まっていた。私が呼んだ車ではなかった。その横に、怜司が立っていた。温かいカフェラテを1杯と、サンドイッチを2つ持っている。昨夜よりも目の下の隈が濃く、目も赤く充血していた。「送るよ」「大丈夫。タクシーならすぐつかまるから」スマホでもうタクシーを呼んでいた。運転手の到着まで、あと3分と表示されている。「怜司、央星に戻って、ちゃんと勉強して。もう来ないで」「来たいから来るんだ」……車が走り出し、私はバックミラーに目を向けた。怜司は同じ場所で、まだカフェラテのカップを持って立っていた。ミラーの中で、姿が小さくなっていく。やがてぼやけた点になり、角を曲がると見えなくなった。凪瀬に戻ると、いつもの日々が待っていた。
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第9話
怜司は、15歩ほど後ろをついてきた。近すぎもせず、遠すぎもしない距離だった。私はコーヒーとパンを買い、窓際の席に座った。彼は反対側のカウンターでおにぎりを買うと、私からテーブルを3つか4つ隔てた席に座った。食べ終えて寮に戻ると、彼は建物の下で5分ほど立ってから、帰っていった。日曜の夜、外から戻ってきた千夏が言った。「下の男の子、あそこの街灯のところで、もう2時間近く立ってるよ」私は何も言わなかった。「本当に、会いに行かなくていいの?」「行かない」2週目も、彼は来た。同じ道を歩き、同じだけ距離を取っていた。今度はみかんの袋を持ってきて、図書館で私がいつも座る机のそばに置いていった。袋には付箋が貼られていて、文字はなく、みかんの絵が1つだけ描かれていた。彼の字なら見慣れている。でも、みかんの絵を描くなんて、怜司らしくない。不器用に、気を遣いながら機嫌を取ろうとするのは、彼のやり方ではなかった。それでも、彼はそうしていた。3週目、彼が来た日は雨だった。凪瀬の3月の雨は強くはないけれど、細かく降り続く。顔に当たり続けると、しだいにつらくなる。その日の午後、私は航と一緒にいた。校門まで来たところで、怜司が目に入った。傘も差さず、肩はすっかり濡れていた。額に髪が貼りつき、頬を雨粒が伝っている。私が航と並んで出てきたのを見ると、彼はさっと目をそらした。「行っておいで」航は傘を私に渡し、自分は雨の中に立った。体を横に向け、急に大事な用事でもできたようにスマホを取り出している。私は航を見てから、怜司の前へ行った。「いったい、何がしたいの?」「会いたいんだ」先週と同じ言葉を繰り返した。雨に濡れたせいで、声が少し震えていた。「もう、会ったよね」「うん」「じゃあ、帰って」彼は動かなかった。その顔を見つめた。眉のあたりから雨が流れ落ち、目に入っても、彼はまばたきもしない。唇の色も悪く、具合が悪そうに見えた。「怜司、前はこんな人じゃなかったよね」口にして、自分でもはっとした。そのとおりだと、急に実感したのだ。昔の怜司なら、たった1人の女の子のために、新幹線で3時間半もかけて別の街まで来たりしない。雨の校門で午後いっぱい待ったりしない。捨てられた犬のように、誰も開けてくれないとわか
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第10話
4月も半ばになると、暖かくなってきた。桜の木に新しい葉が出始めた。淡い緑の葉に日が透けて、葉脈まで見えた。ある日、千夏が部屋のドアを開けて言った。「そういえば、下の寮母さんのところに夕花宛ての箱があったから、持ってきたよ」小ぶりの四角い紙箱で、クラフト紙に包まれていた。宛名は怜司の字だった。整っていて、力があり、1画ずつ丁寧に書かれていた。千夏はフェイスパックをしていて、私の様子が変わったことには気づかなかった。机に箱を置いて椅子に座り、包み紙を外した。中には、こげ茶色の木箱があった。表面はなめらかに磨かれ、角にもささくれひとつない。ずいぶん時間をかけたものだとわかった。手に取って蓋を開けると、手紙がきれいに重ねられていた。日付順に並んでいる。いちばん上の封筒には、濃紺のリボンがきちんと蝶結びにされていた。私はそのリボンをほどいた。最初の日付は9月12日。高校1年の頃だった。【夕花へ今日、クラス分けがあった。夕花の席は、僕より2列前だった。ポニーテール、よく似合ってた。でも、言う勇気がなかった】2通目は、11月3日。【夕花へ中間試験の順位、15も上がったね。今日は1日ずっと笑ってた。隣の席の子とたくさん話して、僕にもひと言、話しかけてくれた。『怜司、物理のノート見せて』って。いいよ、と答えた。本当は雑に書いたノートだったけど、返してくれたときに『すごく役に立った』って言ってくれたから、また嬉しくなった。夕花より、僕のほうが嬉しかった。そう伝えたかった。でも、言えなかった】3通目は、12月20日。【夕花へ今日、物理の問題を聞きに来たとき、すぐそばまで顔を寄せてくれたね。髪が僕の腕に触れた。ほんのかすかに、猫のしっぽに撫でられたみたいだった。心臓がすごい速さで打ってたのに、夕花は何も気づかなかった】1通ずつ、封を開けた。高校1年から2年まで、どの手紙にも私のことが書いてあった。新しい通学かばんに替えた日。国語の試験でクラス1位を取ったとき。800メートル走では、いつも3周目でペースが落ちること。笑うと右側に八重歯がのぞくこと。自分でも覚えていないことまで、そこにはあった。高校2年の後期から、手紙の調子が変わり始めた。【夕花へ今日のバスケの試合、少し見ただけで帰
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