Share

第2話

Author: 観月明
気持ちを落ち着かせて個室のドアを開けると、ちょうど帰ろうとしていた怜司と紗絵に鉢合わせた。

怜司が口を開く。今夜、私に向けた最初の言葉だった。

「紗絵を送ってくる。みんなは続けてて」

私は何も感じないまま、うなずいた。

「森川は、どこの大学に出願したの?」

学級委員長の声が部屋中に響いた。

「成績いいし、ずっと央星大学に行きたいって言ってたよね。試験、どうだった?」

今度は全員の視線が私に集まった。ドアのところまで行っていた怜司も。

自分の声が、静かに響くのを聞いた。

「央星には行かない。凪瀬大学に行きたいんだ」

央星大学は、初めから怜司の夢だった。私の夢ではなかった。

怜司の足が止まった。

ほんの一瞬だけ。

紗絵が袖を引くと、彼は何事もなかったように一緒に部屋を出ていった。

彼が本気にしていないのはわかっていた。あれだけ長く自分を追いかけてきた私が、諦めるはずはない。その自信があるのだ。

主役の2人が帰っても、騒ぎは続いた。歌い始める人、じゃんけんで盛り上がる人、集まってトランプをする人。

ソファに座っていると、スマホがまた震えた。見ると、塾の先生からの確認メッセージだった。明日までに、出願校最終確認を済ませるようにと書かれている。

画面を消した。私の中では、もう答えが出ていた。

お開きになってから、私は1人で歩道をゆっくりと家へ向かった。マンションの前まで来たところで、私は足を止めた。怜司が、そこに立っていた。

足音に気づいた怜司が、顔を上げた。

目が合った。中学2年の頃から見つめてきた、世界でいちばんきれいだと思っていた瞳が、今夜はなぜか、知らない人の目のように見えた。心臓がドクンと大きく跳ねた。

けれど、今度はときめきではない。

胸が、痛かった。

「帰ったんだ」

私たちの家は、廊下を挟んで玄関が向かい合っている。

私は3歩ほど離れたところで立ち止まり、うん、とだけ答えた。

「怜司」

呼び止めると、彼が振り返った。ふわりと香水が匂う。少し頭がくらむほどの、紗絵の香りだった。

私は尋ねた。

「今夜のあの手紙……どういうこと?」

街灯の下で、怜司の表情がわずかに変わった。気まずさが一瞬、顔をよぎる。

「学級委員長が読んだだろ」

「あなたが書いたんだよね」

「うん」

「本当に、紗絵に宛てて書いたの?」

「そうだよ」

そこまで答えると、彼の声に急に苛立ちがにじんだ。

「余計なことは考えなくていい。約束は守るから」

「約束?」

思わず乾いた笑いが漏れた。

「私に何を約束したの?」

彼がわずかに眉をひそめた。

私は大きく息を吸った。

「今夜、学級委員長があの手紙を読んでも、止めなかったよね。みんながあなたと紗絵をはやし立てていたときも、ひと言も否定しなかった。そのうえ家まで送って、あんなに長く2人きりでいて」

少し顔を上げて、彼を見た。

「最初から最後まで、私のことなんて一度も見なかった。

凪瀬大学に出願するって言ったときだけは見たけど。あれは私を見ていたの?それとも、まだ自分を追いかけてくるか確かめていただけ?

怜司、入試が終わったら付き合うっていう約束は、嘘だったの?」

彼の目を見つめているうちに、こらえきれず涙がこぼれた。

怜司は顔を上げ、眉を寄せたまま、しばらく何も言わなかった。

そのとき、彼の口元に気づいた。街灯はそれほど明るくなかったけれど、口の端についた薄い赤い跡は見えた。

今夜、紗絵がつけていたリップと、まったく同じ色だった。

私の視線に気づいた怜司が、一瞬動きを止めた。すぐに手で口元をぬぐい、その手に目を落としてから、ポケットに戻した。

私はうつむいた。どうしても声が詰まった。

「もう、わかった」

束の間、空気まで動きを止めたようだった。

次に口を開いたとき、彼の声は柔らかくなっていた。

「夕花、そういうことじゃないんだ」

少し間を置いて、続けた。

「約束をなかったことにするつもりはない。ただ、紗絵は……」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 南風の吹く夕暮れに、さよなら   第11話

    洗面所から戻ってきた千夏が、机の前でぼんやりしている私を見て、どうしたのかと聞いた。「なんでもない」便箋をそろえて木箱に戻し、蓋を閉めた。その夜、ベッドに横になっていると、スマホが震えた。航からだった。【明日は冷えるみたいだから、暖かくしてね】【うん】そう返した。スマホを枕元に置き、寝返りを打った。一瞬、不思議な気分になった。ずっと前に読んだ本を、もう一度手に取ったような。最後のページを閉じる頃には、結末はとうにわかっている。もう、何も覆らない。……やがて、私たちは大学を卒業した。航は建築設計事務所に入り、私は出版社で文芸編集の仕事に就いた。凪瀬の古い通りにある家で、2人で暮らすようになった。古い家で、木の階段は踏むときしんだけれど、窓からは大きなキンモクセイが見えた。秋には、部屋いっぱいに甘い香りが満ちた。たまに帰省すると、恵理さんに会うこともあった。年を取り、髪は半分以上白くなったけれど、元気にしていた。仕事はどう、体は大丈夫、と笑って尋ねては、私の手をぽんとたたいた。「元気なら、それでいいのよ」怜司がどうしているかは、一度も聞かなかった。知るのが怖いのではない。本当に、知りたいと思わなくなっていた。何年かたった頃、実家で古い物を整理していて、高校の卒業写真を見つけた。裏返すと、高校3年のときに彼が書いた言葉があった。【人と争わず世に馴染み、時に合わせてしなやかに生きる】あの頃は意味がわからず、彼に尋ねることもしなかった。今、読み返してみて、ふと腑に落ちた。しばらく眺めてから、写真をアルバムに挟み直し、閉じた。窓の外ではキンモクセイが咲いていた。とても、いい匂いだった。遠い日の午後を思い出した。怜司は教室の前の廊下に立ち、顔の片側だけに午後の日差しを受けていた。こちらを振り向いて、何も言わずに私を見た。あのまなざしは種のように、何年も私の心に埋まっていた。やがて芽を出し、葉を広げ、花を咲かせた。そして、散った。今、あの土には別の草木が育っている。彼にも負けないものが。違う。誰と比べても、引けを取らないものが。あの手紙の箱は、ずっと取ってある。古い本棚のいちばん奥にしまっていたものを、その後、引っ越しのときにもう一度見つけた。蓋を開け、何通か適当に取り出して

  • 南風の吹く夕暮れに、さよなら   第10話

    4月も半ばになると、暖かくなってきた。桜の木に新しい葉が出始めた。淡い緑の葉に日が透けて、葉脈まで見えた。ある日、千夏が部屋のドアを開けて言った。「そういえば、下の寮母さんのところに夕花宛ての箱があったから、持ってきたよ」小ぶりの四角い紙箱で、クラフト紙に包まれていた。宛名は怜司の字だった。整っていて、力があり、1画ずつ丁寧に書かれていた。千夏はフェイスパックをしていて、私の様子が変わったことには気づかなかった。机に箱を置いて椅子に座り、包み紙を外した。中には、こげ茶色の木箱があった。表面はなめらかに磨かれ、角にもささくれひとつない。ずいぶん時間をかけたものだとわかった。手に取って蓋を開けると、手紙がきれいに重ねられていた。日付順に並んでいる。いちばん上の封筒には、濃紺のリボンがきちんと蝶結びにされていた。私はそのリボンをほどいた。最初の日付は9月12日。高校1年の頃だった。【夕花へ今日、クラス分けがあった。夕花の席は、僕より2列前だった。ポニーテール、よく似合ってた。でも、言う勇気がなかった】2通目は、11月3日。【夕花へ中間試験の順位、15も上がったね。今日は1日ずっと笑ってた。隣の席の子とたくさん話して、僕にもひと言、話しかけてくれた。『怜司、物理のノート見せて』って。いいよ、と答えた。本当は雑に書いたノートだったけど、返してくれたときに『すごく役に立った』って言ってくれたから、また嬉しくなった。夕花より、僕のほうが嬉しかった。そう伝えたかった。でも、言えなかった】3通目は、12月20日。【夕花へ今日、物理の問題を聞きに来たとき、すぐそばまで顔を寄せてくれたね。髪が僕の腕に触れた。ほんのかすかに、猫のしっぽに撫でられたみたいだった。心臓がすごい速さで打ってたのに、夕花は何も気づかなかった】1通ずつ、封を開けた。高校1年から2年まで、どの手紙にも私のことが書いてあった。新しい通学かばんに替えた日。国語の試験でクラス1位を取ったとき。800メートル走では、いつも3周目でペースが落ちること。笑うと右側に八重歯がのぞくこと。自分でも覚えていないことまで、そこにはあった。高校2年の後期から、手紙の調子が変わり始めた。【夕花へ今日のバスケの試合、少し見ただけで帰

  • 南風の吹く夕暮れに、さよなら   第9話

    怜司は、15歩ほど後ろをついてきた。近すぎもせず、遠すぎもしない距離だった。私はコーヒーとパンを買い、窓際の席に座った。彼は反対側のカウンターでおにぎりを買うと、私からテーブルを3つか4つ隔てた席に座った。食べ終えて寮に戻ると、彼は建物の下で5分ほど立ってから、帰っていった。日曜の夜、外から戻ってきた千夏が言った。「下の男の子、あそこの街灯のところで、もう2時間近く立ってるよ」私は何も言わなかった。「本当に、会いに行かなくていいの?」「行かない」2週目も、彼は来た。同じ道を歩き、同じだけ距離を取っていた。今度はみかんの袋を持ってきて、図書館で私がいつも座る机のそばに置いていった。袋には付箋が貼られていて、文字はなく、みかんの絵が1つだけ描かれていた。彼の字なら見慣れている。でも、みかんの絵を描くなんて、怜司らしくない。不器用に、気を遣いながら機嫌を取ろうとするのは、彼のやり方ではなかった。それでも、彼はそうしていた。3週目、彼が来た日は雨だった。凪瀬の3月の雨は強くはないけれど、細かく降り続く。顔に当たり続けると、しだいにつらくなる。その日の午後、私は航と一緒にいた。校門まで来たところで、怜司が目に入った。傘も差さず、肩はすっかり濡れていた。額に髪が貼りつき、頬を雨粒が伝っている。私が航と並んで出てきたのを見ると、彼はさっと目をそらした。「行っておいで」航は傘を私に渡し、自分は雨の中に立った。体を横に向け、急に大事な用事でもできたようにスマホを取り出している。私は航を見てから、怜司の前へ行った。「いったい、何がしたいの?」「会いたいんだ」先週と同じ言葉を繰り返した。雨に濡れたせいで、声が少し震えていた。「もう、会ったよね」「うん」「じゃあ、帰って」彼は動かなかった。その顔を見つめた。眉のあたりから雨が流れ落ち、目に入っても、彼はまばたきもしない。唇の色も悪く、具合が悪そうに見えた。「怜司、前はこんな人じゃなかったよね」口にして、自分でもはっとした。そのとおりだと、急に実感したのだ。昔の怜司なら、たった1人の女の子のために、新幹線で3時間半もかけて別の街まで来たりしない。雨の校門で午後いっぱい待ったりしない。捨てられた犬のように、誰も開けてくれないとわか

  • 南風の吹く夕暮れに、さよなら   第8話

    また震えた。それでも出ずにいると、今度はメッセージが届いた。【あけましておめでとう】ただ、それだけだった。10秒あまり眺めてから、画面を下にして机に置き、読書に戻った。大学へ戻る前の晩、マンション近くのコンビニへ、道中に食べるお菓子を買いに行った。1月も終わりで、夜風はまだ冷たい。厚手の上着を着ていても寒かった。自動ドアが開くたび、店内に冷気が吹き込んできた。レジでスマホをかざして支払い、店を出ると、入口に怜司がいた。指に煙草を挟んでいる。コンビニの白い照明の下で、煙が薄く漂っていた。前は、吸わなかったのに。私が振り向いたのを見ると、彼は慣れた手つきで火を消した。「こんな時間に買い物?」彼が先に口を開いた。声は、冬休み前よりもかすれていた。「明日、大学に戻るから。少し買っておこうと思って」「そっか」私はうなずいた。「じゃあ、帰るね」袋を持って歩き出した。「夕花。紗絵とは付き合ってないって、この前も言ったけど」背後から声が届いた。「もう一度、言っておきたい。今まで一度も付き合ってないし、これからも絶対にない」私は振り返らなかった。「入試が終わったら付き合おうって、あの約束を忘れたことはない」夜風に紛れかけた言葉も、ひとつ残らず聞こえた。今の私には、その言葉がひどく軽かった。何の重みもなかった。どうして、そんなに手放せないのだろう。昔の、私みたいに。……翌朝、スーツケースを引いて家を出ると、マンションの入口にタクシーが止まっていた。私が呼んだ車ではなかった。その横に、怜司が立っていた。温かいカフェラテを1杯と、サンドイッチを2つ持っている。昨夜よりも目の下の隈が濃く、目も赤く充血していた。「送るよ」「大丈夫。タクシーならすぐつかまるから」スマホでもうタクシーを呼んでいた。運転手の到着まで、あと3分と表示されている。「怜司、央星に戻って、ちゃんと勉強して。もう来ないで」「来たいから来るんだ」……車が走り出し、私はバックミラーに目を向けた。怜司は同じ場所で、まだカフェラテのカップを持って立っていた。ミラーの中で、姿が小さくなっていく。やがてぼやけた点になり、角を曲がると見えなくなった。凪瀬に戻ると、いつもの日々が待っていた。

  • 南風の吹く夕暮れに、さよなら   第7話

    「温かいうちに飲んで」カップを両手で包み、ひと口飲んだ。温かな甘みが舌の先から喉の奥へとじんわりと溶け広がっていく。「私、大丈夫だから」「わかってる」その夜、寮まで送ってくれる途中で、航がふと口を開いた。今日の学食は少し塩辛かったね、とでも言うような調子だった。「今日の人って、前に好きだった人?」少し考えてから、答えた。「いつか付き合うんだと思ってた人」……冬休みに入る前、航と海へ行った。そこで、好きだと告げられた。言葉は返さず、私は彼の手のひらに自分の手をのせた。それが答えだった。冬休みが始まると、私は実家へ帰った。同じマンションに住んでいるのだから、帰れば怜司と顔を合わせることになるだろう。覚悟はしていた。けれど最初に会ったのは、怜司ではなく、恵理さんだった。ある夕方、母と近くの公園を散歩して戻ると、マンションの下で恵理さんに会った。「夕花ちゃん」呼びかける声が、少し震えていた。母は私を見て、手の甲を軽くたたいた。「お話ししてらっしゃい」そう言って、先に階段を上っていった。私は恵理さんと、マンションの下のベンチに腰を下ろした。しばらく黙ったあと、恵理さんがため息をついた。長く、重いため息だった。ずっとためていたものの出口が、ようやく見つかったように。「夕花ちゃん、怜司は昔から口下手でね。この学期だけで10キロ以上やせて、帰ってきても、ほとんど話さなくなったの」私はうつむき、膝に置いた自分の手を見た。どこから話せばいいのかわからなかった。恵理さんの声は低く、いろいろなことを見てきた人の静かな響きがあった。「小さい頃から一緒で、お互いのこともよくわかっているでしょう。いつか2人が一緒になってくれたら、それがいちばんだと思ってた。あの子、悪い子じゃないのよ。ただ不器用すぎて、自分の気持ちもわからないのね」「おばさん」私はその手をそっと握った。「そんなふうに言わないでください。恋愛に、どちらが悪いということはないですから」恵理さんは首を振り、またため息をついた。「夕花ちゃん、これから幸せになってね。誰と一緒にいても、自分を大事にするのよ」「はい。そうします」恵理さんは立ち上がって、私に微笑み、それから歩いていった。1人でベンチに座り

  • 南風の吹く夕暮れに、さよなら   第6話

    怜司との、始まることのなかった恋は、少しずつ記憶の隅に埋もれていく。私は、そう思っていた。けれど怜司は、まるでそう思っていなかった。クリスマスの日。航と校門のそばのカフェでレポートを書いていた私は、窓の向こうに、ここにいるはずのない姿を見つけた。怜司が、凪瀬大学の校門に立っていた。濃いグレーの、薄手の上着を着ている。ずいぶんやせていた。春よりも頬骨が目立ち、少し伸びた髪は風で乱れている。人の行き交う校門で、彼の視線だけが、まっすぐこのカフェの窓に向いていた。私に、気づいている。航が私の視線を追った。「知り合い?」うなずいてペンを置き、「ちょっと行ってくるね」と言って、ドアを押した。12月の風は湿って冷たく、頬が少し痛んだ。怜司の前に立つと、彼は私を見下ろした。その目に浮かんでいるものが、私には読み取れなかった。「どうして来たの?」「夕花に会いに」かすれた声だった。風邪をひいているようにも、長いこと誰とも話していなかったようにも聞こえた。私が何か言う前に、彼は切り出した。「夕花、僕は紗絵と付き合ってない」風に流された細かな雪が、彼の顔を打った。声は少しこわばり、どこか、わかってもらえないことを訴えるような響きがあった。「会いたかった。でも、電話番号は変わってるし、メッセージもブロックされてる。あのとき言ったことは、覚えてる。入試が終わったら付き合おうって。全部、覚えてるよ。一度も忘れてない」言い終えた彼は、私を見つめた。肩にも髪にも雪が降り積もるのに、その場から動かなかった。私はその瞳を見ていた。その黒い瞳を思い出しては、何度眠れない夜を過ごしただろう。「うん」返したのは、それだけだった。彼は戸惑ったように唇を開いた。「信じてない?」「信じてるよ」遠く離れた央星大学から、わざわざ飛行機で凪瀬まで来て、雪の中で長々と作り話をする必要はないだろう。けれど、信じるかどうかと、気になるかどうかは別のことだった。私がそれ以上何も言わないとわかると、彼はさらに声を落とした。「夕花、これから毎週末、来るから」私は彼の目を見た。「何しに来るの?」「夕花に会いに」「私、彼氏がいる」怜司は私の向こう、カフェのほうを見た。航が座っている。暖かな黄色の明

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status