LOGIN私、糸賀一花(いとが いちか)と静間理玖(しずま りく)は、物心ついた頃からずっと一緒に育った。 両家の親も、大学を卒業したら私たちは自然に付き合うものだと思っていた。 理玖も人前でためらうことなく、いつもこう言っていた。 「一花は怖がりだから、俺がいないとダメなんだよ」 私は、その言葉を十年以上ずっと信じていた。 大学に入って最初の学科の食事会。 同じ学科で美人だと評判の久留宮茉白(くるみや ましろ)が、飲み物を手に理玖の隣へ座り、笑いながら聞いた。 「幼なじみがいるって聞いたけど、恋人なの?」 周りに冷やかされ、私は頬が熱くなるのを感じながら、理玖がうなずくのを待った。 けれど、理玖は一瞬だけ間を置いた。 「違うよ。小さい頃から近所に住んでて、妹みたいなもんだ」 誰かが茉白を肘でつついた。 「ってことは、まだチャンスあるじゃん」 茉白は目を細めて笑った。 「じゃあ、これからよろしくね」 理玖は避ける様子もなく、笑って答えた。 「うん」 その瞬間、高校の体育祭の練習で日焼けしないようにと、理玖が夜遅くまで開いている店を探して日焼け止めを買ってきてくれたことを思い出した。 進路を決めたときには、私の手を握って「大学に行っても、ずっと一緒だから」と言ってくれたことも。 それでも、茉白が笑えば、私との十数年は「妹みたいなもの」のひと言で片づいてしまうらしい。 帰り道、追いかけてきた理玖は言い訳した。 「茉白って、思ったことをそのまま口にするタイプだろ。あそこで否定して、恥をかかせたくなかっただけ」 「じゃあ、私が恥をかくのはいいの?」 理玖は眉をひそめた。 「一花、いつからそんなこと気にするようになったんだよ」 私は、それ以上何も言わなかった。 その夜、SNSに載せていた理玖との写真を、すべて非公開にした。 その日から、私もただの近所の人になることにした。
View More袋を握ったまま、私は言った。「ありがとう」「あと……」理玖は少し言いよどんだ。「俺たちの写真、消してない」何も言わずに理玖を見る。「前は、周りに言わないほうが一花のためだと思ってた。変に噂されたりしないようにって」理玖は少し苦く笑った。「でも違ったんだよな。俺が勝手に、一花はずっとそばにいるって思い込んでただけだった。だから、関係をはっきりさせなくても、いちいち説明しなくても平気だって思ってた」声が低くなる。「でも、一花だって、ちゃんと言葉にしてほしかったし、大事にしてほしかったんだよな」少し間が空いた。「ずっと」私は理玖を見つめ、最後に一言だけ返した。「理玖。もう終わったことだよ」理玖はうなずいた。「分かってる」「理玖も、これからは自分のこと大事にして」「うん」もう一度、搭乗案内のアナウンスが流れた。私は振り返り、保安検査場へ向かった。ゲートを通る前に、1度だけ後ろを見る。理玖はまだそこにいた。追いかけてはこなかった。ただ、こちらに向かって小さく手を振っていた。……それからの1年、理玖から連絡が来ることはほとんどなくなった。たまに年末なんかに、『体に気をつけて』と短いメッセージが届く。私は、『ありがとう』とだけ返した。蒼士に告白されたのは、翌年の春だった。論文発表を終えた日。階段に腰を下ろし、資料を足元に置いていると、蒼士がペットボトルの水を差し出した。「常温だよ」受け取る。「ありがとう」蒼士も隣に座った。「一花、話したいことあるんだけど」「うん」「好きだよ」手の中で、ペットボトルが小さく音を立てた。蒼士は私ではなく、まっすぐ前を見ている。両手は膝の上に置いたままだった。「一花が誰かに世話してもらわなきゃいけないからじゃない。こっちで1人なのがかわいそうだからでもない」少し間を置く。「自分でちゃんと道を探そうとする一花が好き」私は黙って聞いていた。「一花が嫌じゃなければ、これからは隣で一緒に探したい」手元のキャップを見つめた。「蒼士」「うん」「私、すぐには付き合えないかもしれない」「いいよ」「まだ昔のこと、全部整理できたわけじゃない」「知ってる」「すご
理玖から、もう1件メッセージが届いた。『前に言ってたよな。初雪は一緒に見ようって』返事はしなかった。数分後、今度は音声メッセージが届く。『一花。今日、前によく行ってた鍋焼きうどんの店に行った』少し間があった。『店の人、まだ一花のこと覚えてたよ。「いつもの女の子は?」って聞かれた。一花が好きだった鍋焼きうどん、三つ葉抜きで頼んだ』そこで、理玖の声が一度途切れた。『半分くらい食べたところで、やっと思い出した。もう一花、ここにいないんだって』少しだけ息を吐く音がする。『俺、なんでずっと、一花はどこにも行かないって思ってたんだろうな』そこで再生を止めた。向かいにいた蒼士が聞く。「元カレ?」私は首を振った。「違う」「じゃあ、何?」少し考えた。「昔から、いるのが当たり前だった人」蒼士は軽くうなずいた。「当たり前って、変わるもんだよ」「うん」「俺も前は、変えられないと思ってたことがあったし」「どんな?」「夜更かしするとか、朝飯食べないとか」少し間を置いて、笑う。「1人のほうが楽だって思ってたのも、そうかな」「今は?」「ある人に会って変わった」私は本へ目を落とした。「その人、大変そう」「うん。かなり」蒼士も笑った。「来たばっかりで道に迷うし、放っておくとパンばっか食べてるし」冬休みに入る前、1度国内へ帰った。空港には両親が迎えに来ていた。母は私を見るなり抱きしめ、背中を軽く叩いた。「痩せたんじゃない?」父がキャリーケースを受け取る。「向こう、飯ないのか?」「あるよ」「じゃあ、なんで痩せるんだ」「勉強が大変だから」すると父が、何気ない調子で言った。「そういや理玖、少し前まで毎日のように来てたぞ」母がすぐに父を睨んだ。父は口を閉じる。私はマフラーを巻き直しながら聞いた。「今も来るの?」「前ほどじゃないわ」父が鼻を鳴らした。「来たって入れないけどな」帰国した翌日。醤油を買いに家を出て、近所のコンビニまで行くと、店の前に理玖が立っていた。手には、焼き芋の入った紙袋を提げている。私を見ると、理玖はその場で固まった。「一花」軽くうなずく。「久しぶり」目元がみるみ
私は理玖を見た。「私が怖がりなのも、胃が弱いのも、夜道が苦手なのも覚えてるよね」理玖は黙っている。「でも、何か選ばなきゃいけないときは、いつも私に我慢させた」「一花なら分かってくれるって思って、説明もしなかった」「私が離れないって思ってたから、後回しにしても平気だと思ってた」理玖が唇をきつく結んだ。「違う」「違わないよ」自分でも驚くほど、声は静かだった。「理玖が私のことを好きなのは分かってる。でも、私がずっと同じ場所にいるって決めつけてた」理玖は何か言おうと口を開いたものの、言葉は出てこなかった。私はノートパソコンのバッグを持ち上げた。「もう帰って」「帰らない」「じゃあ、好きにして」翌日、SNSに写真を1枚投稿した。青い屋根のメイン棟を撮った写真だった。添えた言葉は短い。【新生活1週目】投稿して1分もしないうちに、理玖から「いいね」がついた。けれど、すぐに消えた。そのあと、DMが届く。『あの男に撮ってもらったの?』『通りすがりの人』そう返すと、すぐにまた通知が来た。『一花。俺、しんどい』前なら、理玖が具合悪いと言えばすぐに駆けつけていた。薬と白湯、それから理玖が好きなシュガーレスのミントタブレットを持って。今は一言だけ返した。『病院行って』返事はすぐに来た。『前はそんなこと言わなかっただろ』それ以上は返さなかった。夜になると、茉白からフォローリクエストが届いた。承認すると、長いメッセージが送られてきた。『一花ちゃん、ごめんね。私、本当に理玖を取ろうと思ってたわけじゃないの。ただ、理玖って優しいし、一緒にいると安心できて、それでだんだん何でも頼るようになっちゃった。一花ちゃんが嫌がってるのも途中から分かってた。でも、何も言わないから、勝手に大丈夫なんだって思ってた』数分後、またメッセージが届いた。『理玖が一花ちゃんを追いかけて行って、やっと分かった。理玖がずっと好きだったのは、一花ちゃんだったんだね』『知ってる』そう返した。画面には何度も「入力中」と表示されては消えた。しばらくして、ようやく届く。『それなら、理玖のこと許す?』私は画面を見つめた。そして返した。『許さない』……
理玖が蒼士を見た。「俺たちのことだから、他人は口出さなくていい」蒼士は理玖には目を向けず、私だけを見ていた。私は理玖の手を振りほどく。「大丈夫」理玖の手が力なく下がり、指先がきゅっと丸まった。蒼士にスープジャーを差し出す。「昨日、スープありがとう」蒼士はそれを受け取った。「午後のグループワーク、忘れないでね」「分かった」蒼士がその場を離れると、理玖が低い声で聞いた。「グループワークって、あいつと同じグループなの?」「そう」「一花、俺に当てつけてる?」「ここで授業受けてたら、グループ組むくらい普通でしょ」「でも、前のお前なら……」「前ならしなかったこと、今はいっぱいしてるよ」理玖は私を見たまま、しばらく何も言わなかった。やがて、小さく聞く。「……俺、どうしたらいい?」「帰って」「それ以外で」「ないよ」長い沈黙のあと、理玖は足元に保温バッグを置いた。「俺が来たのは無駄だったってことでいい。せめて焼き芋だけは持ってって。このまま持って帰りたくない」私は袋を見つめた。結局、かがんで持ち上げる。「みんなに分けるね」理玖の口元がわずかに歪んだ。「好きにすれば」午後のグループワークでは、焼き芋を食べやすい大きさに分けてテーブルに置いた。みんながそれぞれ手を伸ばしていく。蒼士も1切れ取ろうとして、私を見た。「糸賀さんは食べないの?」「甘すぎるから」蒼士は伸ばしかけた手を引っ込めた。「じゃあ、俺もいいや」……理玖は大学の近くにホテルを取り、それから毎日のようにメッセージを送ってきた。『朝はちゃんと温かいもの食べろよ』『今日は冷えるから、いつもより厚着して』『前に好きだって言ってたスープ買った。寮の受付に預けてある』どれにも返事はしなかった。しばらくして、寮の受付から連絡が入った。取りに行くと、預けられていたスープはまだ温かかった。受付の人が私を見て聞く。「これ、彼氏さんから?」私は首を振った。「違います」受付の人は少し意外そうな顔をした。「そうなの?じゃあ、次からは受け取らないほうがいい?」「すみません。次からは断ってもらえますか?」その夜、寮の前には理玖がいた。図書館か
reviews