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第237話

Author: 青山米子
その狂信的な眼差しに見つめられ、一葉は不意に、離婚の日に感じた、自分の体が自分の意志に反するあの感覚を思い出し、背筋が凍る。

どうしようもない不安と恐怖が、胸の底から湧き上がってきた。

怖い。

もしも本当に、彼の言う通り、記憶が戻った時、またどうかしてこの男を愛してしまったら?愚かにも、またこの手に引き戻されてしまったら?

それだけは、絶対に受け入れられない!

その恐怖を振り払いたい一心で、一葉の頭に衝動的な考えが過った。今すぐここを離れて、誰でもいい、見知らぬ男の腕に抱かれて一夜を明かし、この呪縛を根こそぎ断ち切ってしまおうか、と。

一葉は、自分自身の性格をよく理解していた。

祖母に育てられた影響か、その考え方はどこか古風で、一度愛した相手には、とことん一途になってしまう質だった。

だからこそ、確信があった。もし今、他の男と一夜を共にすれば。

万が一、いつか記憶が本当に戻ってしまったとしても。どれだけ愚かしくも彼を愛し、その愛が骨の髄まで染み込んでいようと、死ぬほど彼を手放せなくなっていようと、この裏切りが、二度と言吾との道を繋がせることはないだろう。

いや、百歩譲って、記憶を取り戻した未来の自分が常軌を逸し、この裏切りさえも乗り越えて、再び言吾と結ばれたとしよう。

それでも、二人が幸せになることなどあり得ない。

心に深く刺さったこの「棘」は決して抜けることはなく、事あるごとに二人を苛み、蝕み続けるはずだ。

記憶を取り戻した自分も、今の自分自身であることに変わりはない。だが、一葉には、そんな未来の自分が幸せになることすら許せなかった。あんなにも愚かな恋愛脳に支配される自分も、あれだけの仕打ちをした言吾が最終的に幸福を手に入れることも、断じて受け入れられない。

そう考えれば考えるほど、決意は固まっていく。今すぐこの場を離れ、誰か適当な男と寝てしまおう!

記憶を取り戻した自分が、また愚かな恋に溺れないという保証がないのなら、今のうちに、復縁への道を完全に破壊してしまえばいい。

そうと決まれば、やることは一つ。ひとまずは言吾の要求を呑むふりをして彼を油断させ、その隙に、未来の可能性を根こそぎ絶ってしまおう。

一葉がそう心に決め、偽りの承諾を口にしかけた、その時だった。

まるで心の中を全て見透かしたかのように、言吾が静かに口を開いた。「
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