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第307話

作者: 青山米子
記憶を失った言吾は、その気性までもが、まるで少年の頃に戻ってしまったかのようだった。

彼は思うように動けず、獅子堂家の監視の目もかいくぐらねばならないというのに、治療に訪れるたび、一葉のためにささやかなサプライズを用意してくれるようになった。

その姿は、かつて彼が一葉に想いを伝えていた頃を彷彿とさせた。

まるで、二人が新婚だった、あの頃のように。

どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、彼は心を砕いて一葉を喜ばせようとしてくれた。ある時は一輪の花を、ある時は彼女が見たがっていた映画のチケットを、そしてまたある時は、彼女の大好きな菓子を。

あの頃の二人は貧しく、彼がくれるものはどれもささやかなものばかりだった。それでも、一葉はそのたびに感動で涙が溢れたものだ。

そこに込められた彼の真心と、その愛に。

かつて無情と冷たさだけを宿していた彼の瞳は、今、燃えるような熱と誠実さで満ちている。ただでさえ情熱的な眼差しが、今はひたすらに真っ直ぐ一葉だけを捉え、まるで彼女が彼の世界のすべてであり、唯一の存在なのだと語りかけてくるかのようだった。

彼の、唯一の存在に。

そんなひたむきな想いを向けられて、抗える者などいるだろうか。抗うどころか、その深い愛情の中に溺れてしまいたいとさえ願ってしまう。

その眼差しに見つめられるたび、一葉は思わずにはいられなかった。もし、あの忌まわしい出来事がなければ。もし、優花という存在がいなければ。今頃、自分たちは世界で一番幸せな夫婦になれていたのだろうか、と。

けれど、この世に「もしも」は存在しない。

言吾がくれるささやかなサプライズを、一葉はすべて、素直に受け取った。

二人はまるで、恋が始まったばかりの頃のような、最も胸がときめき、最も幸せだったあの時に、再び戻ったかのようだった。

もとより、一葉は思い悩んで立ち止まるような性分ではない。いつまでも葛藤の中に身を置くことなど、彼女自身が許さなかった。

だから、今の彼がそうであるように、過去のあらゆる苦しみを忘れ、この束の間の時間に身を委ねることに決めたのだ。

言吾の足が治るまで。

彼の足が治った時、決断を下そう。

彼への愛を、今度こそ完全に断ち切るか。それとも、彼から受けた心の傷を、すべて赦すか。

彼にもう一度だけ、機会を与えることを。

こんな風に心を揺らして
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