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第308話

Author: 青山米子
彼女が望むのは常に、権力の頂点に立つこと。

彼女の傍らに立つ男は、すっと眉を上げた。「ならば殺さず、逃げ場もないほどに追い詰めてから網を張り、我々の駒として使えばよろしいのでは?」

紫苑は、ふっと笑みを漏らした。

だが、何も答えはしない。

撮りたいものは撮れた。これ以上、見ている必要もない。彼女は窓の外から視線を外し、部屋のソファへと戻り腰を下ろした。

一碗の燕の巣のスープを飲み干してから、ようやく向かいに腰掛けた男へと視線を移す。

「深水言吾の回復速度から見て、完治まで、おそらく半月もかからないでしょうね。頼んでおいた準備は、もう整っているの?」

「当然だ!あんたに頼まれた仕事で、俺がしくじったことがあったかい?」

紫苑は満足げに唇の端を吊り上げた。「それならいいわ」

男は、彼女があまりに平然と、何の躊躇いも苦悩も見せずに笑うのを見て、ちっと舌打ちをする。「紫苑さんも、たいしたもんだな。よくもまあ、あんなものを切り捨てられる」

紫苑は伏し目がちに自身のお腹をそっと撫でただけで、やはり何も答えなかった。

その夜、獅子堂家──

言吾が車椅子を支えに立てるようになったと知り、父である獅子堂宗厳はことのほか喜んだ。

感激のあまり、思わず身をかがめて言吾を強く抱きしめるほどだった。「烈、その調子だ!父さんはお前がすぐに完治すると信じているぞ!」

「待っているからな。完全に治して、父さんと一緒に会社へ行こうじゃないか!」

幼い頃に捨ててしまった次男に対する罪悪感も手伝ってか、これほど優秀に育った彼の姿は、宗厳の心を掴んで離さなかった。一日も早く、彼に実権を譲りたいとさえ考えている。

父からの惜しみない愛情を、言吾も肌で感じていた。

彼が何かを言い返そうと、視線を落とした、その時だった。

母の文江が、部屋に入ってきた。

普段あれほど威厳に満ち、何者をも寄せ付けぬ雰囲気の夫が、今はどうだ。感極まって言吾を抱きしめ、あろうことか、その目まで潤ませているではないか!

その光景を目にした瞬間、文江はとっさに拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込む痛みさえ、感じない。

心の、狂おしいほどの痛みが、肉体的な感覚の一切を麻痺させていたからだ!

認められるものか。あんなにも手塩にかけ、慈しんで育てた愛しい我が子が、あっけなく逝ってしまったばかりか、今こう
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