Masuk完結後、直之の一周忌を迎えた菜乃香のお話です。 今回は①ですが、②で完結します。
「ママね、おばあちゃんにいっぱい愛してもらったの」 だから、その分も。 母からもらったものを、この子へ渡していきたい。 抱きしめてもらった記憶を。 心配してもらった記憶を。 何度失敗しても、帰れば受け止めてもらえた安心を。 全部、この小さな命へ繋いでいきたい。 ふと、なおちゃんのことが頭をよぎった。 この子は、なおちゃんという人のことも知らない。 恐らく、これから先も話すことはない。 菜乃香が建興の妻になる前、長い間愛していた人。 菜乃香を深く傷つけ、同時に、菜乃香が確かに愛した人。 けれど、それでいいのだと思う。 この子は、知らなくていい。 大人たちの間にあった、正しくない恋も。 菜乃香が抱え続けた罪悪感も。 誰かの死を自分のせいだと思い込み、生きることを諦めかけた日々も。 この子には、この子の人生だけを歩いてほしい。 過去の重さではなく、これから出会う喜びを両手いっぱいに抱えてほしい。 ただ一つだけ言えるとすれば。 母も、なおちゃんも。 今はもう会えなくなってしまった人たちとの時間があったから、今の自分がいる。 たくさん間違えて。 傷ついて。 それでも、建興と出会い、この子を抱くところまでたどり着いた。「あなたがここにいてくれることが、ママはすごく嬉しいよ」 菜乃香がそう言うと、ひなたが小さく声を漏らした。 言葉にはならない、柔らかな声。 そのまま菜乃香の胸元へ顔を擦り寄せる。 菜乃香は微笑んで、その小さな身体を抱き締めた。「二人で何の話してるの?」 背後から声がして振り返ると、建興が立っていた。「内緒」「僕にも?」「ふたりだけの話だから」「えー、もう僕だけ仲間外れ?」 建興が困ったように眉を下げる。 菜乃香が笑うと、建興は二人のそばへ近付き、後ろから菜乃香ごと我が子を包むように腕を回した。「そろそろ窓から離れよう。冷えてきた」「うん」 三人分の体温が重なる。 ひなたが、父親の声に反応するように顔を動かした。「パパもここにいるよ」 建興がそう語り掛けながら、小さな頬へ指先で触れる。 ひなたはその指を掴もうとするように、手を伸ばした。 まだ思うように動かせない手。 何度か宙を掻いた後、ようやく建興の人差し指へ触れ、ぎゅっと握る。「掴んだ」 建興が嬉しそうに笑
帰宅してしばらくすると、ひなたは疲れたのか、すぐに眠ってしまった。 建興が買ってきたものを片付けている間に、菜乃香はリビングの棚から古いアルバムを取り出した。 ひなたが生まれてから、菜乃香は自分の幼い頃の写真を見返すことが増えた。 畳の上に敷かれた布団で眠っている写真。 母に抱かれて笑っている写真。 父の膝の上で、難しそうな顔をしている写真。 どれも自分なのに、今の菜乃香にはまるで知らない赤ちゃんの写真に見える。「何見てるの?」 建興が隣へ腰を下ろした。「私が赤ちゃんの頃のアルバム」「見せて」 建興と二人、ページをめくる。 若い頃の母が、赤ん坊の菜乃香を抱いて笑っている。 少し疲れたような顔をしているのに、腕の中の我が子を見る瞳は優しい。「お義母さん、若いな」「当たり前でしょう」「菜乃香に、似てる」「お母さんと私?」「ううん。ひなたが……キミの小さいころに」 建興はそう言って、眠っている我が子と写真の中の菜乃香を見比べた。「目元とか、菜乃香そっくりだ」「そうかな」「鼻は僕かも」「そこは自信あるんだ?」「僕の小さい頃の写真も今度持ってくるよ」 建興が笑いながらページをめくった時、一枚の写真が菜乃香の目に留まった。 母が、赤ん坊の菜乃香の小さな手を自分の指へ絡ませている。 写真の中の菜乃香は眠っているのに、指だけはしっかりと母のそれを握っていた。 菜乃香は無意識に、眠っているひなたの手へ触れた。 小さな手のひらへ人差し指を添える。 すると、眠ったままのひなたが反射的に指を握った。「……同じだ」 菜乃香がつぶやくと、建興も写真を見た。「本当だな」 その瞬間、胸の奥に温かなものが込み上げてきた。 会わせたかった。 母に、この子を抱いてほしかった。 その小さな手に指を握らせて、笑ってほしかった。『なのちゃんにそっくりね』 そんなふうに言ってもらいたかった。 叶わなかった願いが、今も胸の中に残っている。 けれど、写真の中で母に手を握られていた幼子が、今は自分の子供に手を握られている。 あの日母から注がれた愛情が、自分の中でなくならずに残っていて――。 今度は菜乃香の手を通して、この子にそれが流れていくような気がした。「お母さんも、こうしてたんだね」 目元が熱くなり
母も、こんなふうに自分の寝顔を眺めていたのだろうか。 きっと、眺めていたのだと思う。 ひなたの寝顔は、不思議なくらい人を立ち止まらせる。 ただ目を閉じ、口を少し開けて眠っているだけなのに。 息をしていることを確かめるように、何度も胸元の上下を見てしまう。 頬に触れたいと思いながら、起こしてしまいそうで指を引っ込める。 この子が無事に生まれ、今ここで眠っている。 それだけのことが、奇跡みたいに感じられる。 *** 昼前になって、三人で買い物へ出掛けた。 外は薄曇りだったけれど、雨の心配はなさそうだった。 ひなたをチャイルドシートへ乗せる時、建興はベルトの締まり具合を何度も確認する。「苦しくないかな」「指が二本入るくらいだから大丈夫」「でも、首のところ擦れない?」「カバーも付いてるから平気だよ」 毎回同じやり取りをしているのに、建興は納得するまで確認しないと気が済まないらしい。「心配性だね」「菜乃香にだけは言われたくないな」「私はたっくんほどじゃないよ」「夜中、この子が静かに寝てたら、生きてるか心配になって何度も鼻の下へ指を当ててるのは誰?」 見られていたのかと思い、菜乃香は言葉に詰まる。「……だって、静か過ぎると不安になるでしょう?」「僕も同じ」 そう言われてしまえば、何も返せない。 二人で顔を見合わせた後、どちらからともなく笑った。 ひなたは後部座席で、自分の両親がそんなやり取りをしているとも知らず、天井を見つめながら手足を動かしていた。 ショッピングモールへ到着すると、建興が抱っこ紐でひなたを抱いた。 菜乃香が抱くと言ったのだけれど、「家では菜乃香がずっと抱いてるんだから、外では僕の番」と譲らなかったのだ。 父親の胸元へ収まったひなたは、珍しそうに周囲を見回している。 明るい照明。 行き交う人たち。 店内放送や、カートの車輪が床を滑る音。 どれもひなたにとっては新鮮なのだろう。 大きな瞳を忙しなく動かす姿に、通りすがりの年配女性が微笑み掛けてくれた。「可愛いわね。何ヶ月?」「四ヶ月です」 建興が答えると、女性はひなたの顔を覗き込みながら、懐かしそうに目を細めた。「一番可愛い時ねぇ。すぐ大きくなるから、今のうちにたくさん抱っこしてあげてね」「はい」 女性が去った後も、建興はひなたを
「ううん。大きくなったなって思って」「……まだ四ヶ月だけどな」「四ヶ月も、だよ。生まれた時はもっと小さかったもの」 ひなたの頭をそっと撫でながら、菜乃香は思う。 自分も、こうして誰かの腕の中で育ったのだ。 夜中に泣けば抱き上げられて。 お腹が空けば乳をもらって。 眠れなければ背中を撫でてもらった。 菜乃香自身に、その頃の記憶はない。 けれど母は、菜乃香が赤ちゃんだった頃のことを何度も話してくれた。『なのちゃんはね、夜泣きがすごかったのよ』 そう言いながら、母は少しも嫌そうな顔をしなかった。『お父さんなんて、一度寝たら全然起きないでしょう? お母さん一人で毎晩ずっと抱っこして、部屋の中をぐるぐる歩いたの』『大変だった?』『そりゃあ大変だったわよ。でもね、腕の中を見下ろすと、なのちゃんが何にも知らない顔で笑ってるでしょう? それを見ると、まぁいいかって思えたの』 その話を聞いた時、菜乃香はただ笑っていた。 自分が母親になった今なら、少しだけ分かる。 眠くて。 身体が重くて。 どうして泣いているのか分からなくて、途方に暮れる夜もある。 それでも腕の中の小さな身体が、自分だけを頼るように胸元へ顔を寄せてくると、放り出すことなど出来なかった。 大変だったと語りながらも、母が笑っていた理由が、今なら分かる気がする。「お母さんに、聞きたいことがいっぱいあったな……」 思わず声に出すと、建興が菜乃香の方へ顔を向けた。「育児のこと?」「うん。それもあるし……。私が赤ちゃんだった頃のこと、もっと色々聞いておけば良かった」 眠る時間や、好きだった抱かれ方。 初めて寝返りをした日。 初めて声を上げて笑った時。 離乳食は何を喜んで食べて、何を嫌がったのか。 母が生きていた頃には、いくらでも聞く機会があると思っていた。 母親になったら自然に分かるものだと思い込んでいたところもある。 けれど、実際は分からないことばかりだった。 ひなたが泣くたび、何をしてほしいのだろうと悩む。 熱を出せば、どうしてあげれば苦痛が少しでも和らげられるのか分からず、不安になる。 そんな時、電話を掛ければ答えてくれる母がいたなら、どれほど心強かっただろう。「聞けなかった分は、二人で考えよう」 建興が静かに言った。「僕も分からない
まだ夜が明けきらないうち、すぐそばから小さな声が聞こえた。「ふぇ……」 泣き声と呼ぶには、まだ頼りない声。 それでも菜乃香は、まるで耳元で呼ばれたように目を覚ました。 寝返りを打つより先に、隣へ敷いたベビー布団へ視線を向ける。 薄暗がりの中、生後四か月余りの我が子――ひなたが小さな両手を顔の横に持ち上げ、眉間へしわを寄せていた。閉じたまぶたの下で瞳が動き、「へ」の字に結ばれた口から、もう一度「ふぇ」と声が漏れる。 本格的に泣き出す前の合図だ。 菜乃香はそっと掛け布団をめくった。 すぐ隣では、夫の建興が規則正しい寝息を立てて眠っている。 昨夜もひなたが泣き出したあとには目を覚まして、オムツを替えたり、授乳を終えた菜乃香に代わって寝かしつけたりしてくれた。起こせばきっと、眠たい目を擦りながらでも手伝ってくれる。 けれど今は、まだ声をかけるほどでもない。(たっくんは、もう少し寝かせてあげよう) 音を立てないように布団を抜け出し、菜乃香はひなたの傍らへ膝をついた。「どうしたの?」 小さな声で話しかけながら頬へ触れる。 するとひなたは、母親の来たことが分かったみたいに口をもごもごと動かした。けれど次の瞬間には、堪えきれなくなったように顔をくしゃりと歪める。「ふぇっ、あ……」「はいはい。お腹が空いたのかな?」 泣き声が大きくなる前に、菜乃香は小さな身体を抱き上げた。 胸元へ引き寄せた途端、柔らかな頬が寝間着に擦りつけられる。温かな重みと、微かに甘い赤ちゃん特有の匂いが腕の中へ収まって、菜乃香は眠気の残る目を細めた。「菜乃香……?」 背後から、掠れた声が聞こえた。 振り返ると、建興が眩しそうに目を細めながら上体を起こしている。「ごめん。起こしちゃった?」「ううん……。ひなた、泣いてた?」「少しぐずっただけ。多分、おっぱいかな」 建興は眠そうに何度か瞬きをしてから、布団を抜け出した。「じゃあ、授乳してる間におむつ替えの支度して待ってる」「まだ寝てていいよ?」「一度起きたら、もう寝られないから」 そう言いながら大きなあくびをする建興に、菜乃香は小さく笑った。 生後四ヶ月を迎えた二人の子供は、最近になってようやく夜中にまとめて眠ってくれる日が増えてきた。 とはいえ、毎日必ずというわけではない。
花屋に入ると、空気がふっと変わった。 切り花特有の青い匂いと、ほのかに甘い香り。 店内は静かで、雨のせいか他にお客さんはいなかった。 私はゆっくりと花を見て回る。 白い百合。 淡いピンクのガーベラ。 紫がかったトルコ桔梗。 トルコ桔梗を見た瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。 お母さんが好きだった花。 元気だった頃、よく玄関先に飾っては、 「綺麗でしょう? お母さん、この花が一番好きなの」 そう言って、嬉しそうに笑っていた。 あの頃は、そんな日常がずっと続くものだと、疑いもしなかった。 なおちゃんの顔も浮かぶ。 なおちゃんは、生花よりも、道端に咲いているような名も知らない花を好む人だった。 「菜の花を見るとさ、菜乃香だなって思うんだ」 私が、「でも……私の〝か〟はお花じゃなくて香りだよ?」っていうと、「それもそうか……」って笑ってたっけ。 私は迷った末に、派手ではない、小さな黄色い花を選んだ。 菜の花に少し似た、細かな黄色い花。花屋では〝ソリダコ・ゴールデンロッド〟と書かれていたけれど、私には春の土手を思わせる野の花に見えた。 それだけだとなんだか殺風景に見えたから、お母さんが好きだったトルコ桔梗も一緒に包んでもらうことにした。お母さんが好きなのはブルー系だったけど、「ソリダコと合うのは白ですね」って店員さんが教えてくれたから、それにしてもらった。 「これでお願いします」 店員さんは用途を聞くこともなく、「少しだけ緑も足しますね」とユーカリの葉を添えてくれた。 店員さんのおかげで、とても綺麗な花束が出来上がる。 「ありがとうございます」 可愛らしくラッピングされた花を手に、私は花屋を後にした。 ――これは、お墓に持っていく花じゃない。 なおちゃんは不倫相手だった。 私が彼のお墓やご仏前に手を合わせることはできない。それは奥様や息子さん、そうして彼のお母さまの特権だ。 私の彼への弔いは、私の心の中にだけで処理しなきゃいけない。 花を置く場所は、決めてある。 リビングの片隅のローチェストの上。窓に近いそこは、明るい日差しが差し込む場所。窓の外の空の先に、きっとなおちゃんのお墓がある。そう思える場所だった――。 *** 家に戻って、花を花瓶に移す。 小







