夕方のアトリエは、昼間の賑わいを終えて、静かな余韻に包まれていた。外の通りにはまだ人の気配があったが、店の中はガラス越しに沈みゆく光が射し込み、カウンターテーブルには温かいランプの灯りが映る。志乃と瑞希は向かい合って座っていた。ふたりの間には、各々のマグカップがひとつずつ置かれている。白いカップの縁からは、まだほんのりと湯気が上がっていた。
志乃は、両手でマグカップを包むようにして、その温度を指先に感じている。瑞希も同じようにカップを持ち、ゆっくりと息をつく。今日の花仕事の話や、お客さんのちょっとしたエピソードをひとしきり交わした後、ふたりの間にしばしの静寂が訪れる。けれどその静けさが苦痛ではなく、むしろどこか心地よいものとして、空気の中に漂っていた。
「きっと私たち、もう前に進んでるよね」と瑞希がぽつりと言う。指先はカップの取っ手から離れ、無意識に自分の手首をなぞる。柔らかな花の香りがその肌に残っていることを、ふと意識する仕草だった。
志乃は、目の前のカップに視線を落としたまま、頬杖をつく。指先であごの下をそっと撫でる動きは、どこか子どもっぽく、それでいて大人の余裕を帯びている。「うん」と静かにうなずき、「少しだけ、世界の見え方が変わった気がする」と返した。その声には、かつての苦さや迷いがほとんど残っていない。過去の痛みや喪失を消そうとはせず、それらをちゃんと携えたうえで、新しい景色を見ているような声音だった。
ふたりは、多くを語らない。あの夜の涙や、胸の奥に走った痛みを蒸し返すことはしない。目を合わせて、どちらからともなく小さく笑った。カップを包む指先が、ほんの少し緩む。会話が途切れても、気まずさはどこにもなく、むしろ一緒に過ごすだけで呼吸が落ち着くのが不思議だった。
「最近、また短い旅行に行こうかなって思ってる」
と志乃が言う。
「ひとりでどこかに行くの、昔は不安だったけど、今はなんだか楽しみなの」
瑞希は目尻に小さな笑い皺を寄せる。
「どこに行くの?」
「まだ決めてない。海でも、山でもいいかなって」
志乃は肩を竦める。
「どこでも、景色がきれいなところなら」
「だったら、帰
夜の帳がゆっくりと都心を包み、志乃は自宅マンションのベランダに立っていた。仕事から帰り、軽く夕食を済ませてシャワーを浴びる。バスタオルで髪を拭いたあと、ワインをほんの少しグラスに注いで、深い息をつく。ベランダの手すりにもたれ、はるか遠くの街の灯りをぼんやりと眺める。窓ガラス越しの部屋には、温かみのあるライトが灯り、グリーンの葉を伸ばす観葉植物が静かに影を落としている。夜風は、昼間の熱気を忘れさせるほどに涼しかった。静かな空気に、遠くから救急車のサイレンが響く。カーテンの隙間から洩れる明かりと、手にしたワイングラスの冷たさ。目を閉じて深呼吸をすると、ほんのりとした葡萄の香りが喉奥に広がる。志乃は、遠ざかりつつある記憶に、そっと指先を触れるように思い出す。あの夏の日々――強い日差し、潮の匂い、騒がしくも愛おしいバーベキューや、夜の海辺で見上げた星空。笑い声とささやかな会話、すれ違う視線の奥にあった、小さな違和感や胸のざわめき。時には、どうしようもない孤独がこみ上げてきた夜もあった。それでも、誰かと寄り添って生きていこうと必死で踏みとどまっていた日々。すべては、今となっては遠い出来事。忘れたいわけじゃない。でも、あのころの痛みも、幸せも、もう自分の中で静かに沈殿し、波風の立たない湖底に眠る思い出に変わりつつあった。「人生は、たった一度きりだ」と、志乃は小さく呟く。 その言葉が夜空に吸い込まれていく。もう誰にも届かなくていい。自分にだけ、そっと響けばよかった。失ったものは多い。けれど、今はもう、怖くない。少しずつ、自分自身で選んだ日常に、ささやかな誇りや充実を見いだせるようになっていた。どこかに向かう途中で何かを落としたとしても、それでも、歩いていくしかないのだと、今なら思える。街の明かりを見下ろしながら、明日の予定をぼんやり思い浮かべる。明日は朝から社内会議。午後には瑞希のアトリエにも寄る予定だ。新しい服もそろそろ買いに行きたいし、ちょっとした贅沢で好きなケーキ屋にも寄ろうか――そんな、ごく普通の明日。何の事件も、波乱もない日常。でも、だからこそ愛おしいと思えるのだろう。志乃は胸の奥に、うっすらとした痛みを感じていた。それは決して消えない傷跡かもしれない。でも
初夏の昼下がり、ビルの谷間を抜けていく風は少しだけ湿気を含んでいた。志乃は仕事帰りの混雑した通りを歩いていた。駅へ向かう人の群れの中、手にした鞄がふいに重く感じられ、歩幅がひとつだけ緩やかになる。目の前の交差点の信号が青に変わり、列をなして歩く人々に合わせて、ゆっくりと前へ進む。コンクリートの街路樹の葉が、頭上でさらさらと揺れる音がした。そのとき、不意に視界の端に人影が映った。反対側の歩道を、背筋の伸びたひとりの男が歩いている。薄いグレーのシャツの袖が風に揺れて、陽射しに透けて見える。長い脚、白く整った首筋。志乃は、ほんの一瞬だけその横顔に目を留めた。塩屋――そう気づくまでに時間はかからなかった。歩道の向こう側で、塩屋もまた、わずかに顔を上げる。その視線がまっすぐに志乃を捉える。ふたりの目が重なったのは、ほんの数秒にすぎなかったが、その短い間に、言葉にならないさまざまな感情が行き交った気がした。微笑みはない。声もない。ただ、どちらも一歩も引かず、まっすぐ前を向いていた。塩屋の表情に、あの日の迷いや、後ろめたさの影はなかった。静かで穏やかな瞳。志乃もまた、すっと背筋を伸ばす。その場で歩みを止め、呼吸を整えるように一度だけ目を閉じる。通り過ぎる人の流れが途切れた一瞬、ふたりの間にだけ静けさが満ちた。塩屋は軽く顎を引き、淡い微笑みを浮かべて、そのまま前を向く。そして何もなかったように、さりげなく人の波に紛れて歩き出す。志乃は小さく息を吐き、ほんの少しだけ唇を引き結ぶ。そのまま自分の歩調で、前を向いて再び歩き出した。ビル街のガラス窓に映る自分の姿をちらりと見る。もう何も失うものはないというより、すでにすべてが新しい日常の一部になったのだと、志乃は思った。誰かに見せるためでも、証明するためでもなく、ただ自分自身のために生きる。その覚悟が、今の歩幅を支えていた。すれ違った後も、志乃の心にざわつきは残らなかった。むしろ、深い静けさの中にわずかな温かさが漂っている。あの夏の終わりに抱いた悔しさや、痛みはもう遠く、胸の奥で静かな波紋となって消えていく。振り返りたい衝動はなかった。ただ、前を向いて歩く。肩に当たる光が少しだけ柔らかく感じられる。ビルとビルの隙間から吹く風
夕方のアトリエは、昼間の賑わいを終えて、静かな余韻に包まれていた。外の通りにはまだ人の気配があったが、店の中はガラス越しに沈みゆく光が射し込み、カウンターテーブルには温かいランプの灯りが映る。志乃と瑞希は向かい合って座っていた。ふたりの間には、各々のマグカップがひとつずつ置かれている。白いカップの縁からは、まだほんのりと湯気が上がっていた。志乃は、両手でマグカップを包むようにして、その温度を指先に感じている。瑞希も同じようにカップを持ち、ゆっくりと息をつく。今日の花仕事の話や、お客さんのちょっとしたエピソードをひとしきり交わした後、ふたりの間にしばしの静寂が訪れる。けれどその静けさが苦痛ではなく、むしろどこか心地よいものとして、空気の中に漂っていた。「きっと私たち、もう前に進んでるよね」と瑞希がぽつりと言う。指先はカップの取っ手から離れ、無意識に自分の手首をなぞる。柔らかな花の香りがその肌に残っていることを、ふと意識する仕草だった。志乃は、目の前のカップに視線を落としたまま、頬杖をつく。指先であごの下をそっと撫でる動きは、どこか子どもっぽく、それでいて大人の余裕を帯びている。「うん」と静かにうなずき、「少しだけ、世界の見え方が変わった気がする」と返した。その声には、かつての苦さや迷いがほとんど残っていない。過去の痛みや喪失を消そうとはせず、それらをちゃんと携えたうえで、新しい景色を見ているような声音だった。ふたりは、多くを語らない。あの夜の涙や、胸の奥に走った痛みを蒸し返すことはしない。目を合わせて、どちらからともなく小さく笑った。カップを包む指先が、ほんの少し緩む。会話が途切れても、気まずさはどこにもなく、むしろ一緒に過ごすだけで呼吸が落ち着くのが不思議だった。「最近、また短い旅行に行こうかなって思ってる」と志乃が言う。「ひとりでどこかに行くの、昔は不安だったけど、今はなんだか楽しみなの」瑞希は目尻に小さな笑い皺を寄せる。「どこに行くの?」「まだ決めてない。海でも、山でもいいかなって」志乃は肩を竦める。「どこでも、景色がきれいなところなら」「だったら、帰
瑞希の朝は、切り花の香りと共に始まる。店先の扉を開けると、初夏の空気がふわりと入り込んでくる。明るいガラス張りのアトリエ。以前よりも少しだけ広い空間に、所狭しと並ぶバケツと花瓶。芍薬やアジサイ、カスミソウ、バラの束。水の中に浮かぶ茎の緑色が朝の光に透けて見える。その中を歩きながら瑞希は、ふとスカーフを首筋で結び直す。柔らかな布が肌に触れ、気持ちがしゃんと引き締まる。手早く作業台の上を片付け、開店前の空気をゆっくり吸い込む。若いスタッフたちが集まってくる気配がガラスの向こうから伝わってくる。瑞希は少し背筋を伸ばし、髪を後ろでまとめ直す。店内に響く声や笑いが、毎日少しずつ自分の背中を押してくれているような気がしていた。「おはようございます」「おはよう」明るく挨拶を交わしながら、スタッフひとりひとりの顔を見て、今日の担当や注文の確認をしていく。瑞希の声は、どこか淡々としているのに、指示を出すときには不思議と柔らかさが混じる。スタッフたちが手際よく作業を始めるのを見て、瑞希も手袋をはめた。水に手を浸して茎を切ると、少しだけ手首に花の香りが移る。無意識のうちにその手首を鼻先に近づけて、そっと香りを確かめる。注文のウエディング装花を作る時間は、頭の中が空っぽになる瞬間でもある。瑞希は花束を組み上げながら、過去のことを考える余地を自分に与えないように集中する。手が花の輪郭を探り、一本ずつバランスを整えていく。白いバラに淡いグリーンを添え、リボンをふわりと巻きつける。その仕事ぶりは、かつてよりもはるかに力強い。けれど、花の茎を傷つけないように添える指の感触は、驚くほどやさしい。午後には客が絶え間なく訪れ、贈答用のブーケやアレンジメントの相談が続く。注文を受け、完成した花束を差し出すとき、相手の笑顔を見るのが今の瑞希のささやかな喜びになっていた。忙しさに追われていると、喪失や過去の痛みは、かすかな波音のように遠ざかる。スタッフの休憩時間、ふと鏡を覗くと、スカーフの結び目がほどけかけていた。慣れた手つきでそれを結び直し、軽く額の汗を拭う。店内のガラスに映る自分の顔は、どこか穏やかで、芯の強さが滲んでいた。日が傾き、閉店時間が近づく。忙しさの中でも、瑞希は必ず作る
朝は、静かに部屋の隅から始まった。携帯のアラームが鳴り、志乃はぼんやりと天井を見つめる。まだ少し薄暗い室内、ひとりきりのベッドで伸びをすると、肩からふわりと布団がずり落ちる。起き上がり、足を床につけると、少しだけ新しい生活の重さと軽さが交錯して感じられる。ベッドサイドのカーテンをそっと開ける。窓の外には、やわらかな初夏の朝日が差し込んでいた。高層マンションの窓から見下ろす街路樹の緑が揺れている。誰かの気配も、隣に温もりもないこの空間が、少しずつ志乃に馴染み始めていた。洗面所で顔を洗い、鏡の前に立つ。水気を拭いながら、目の下のクマを軽く押さえる。髪をひとつに束ね、整える指先が少しだけ迷いなくなった気がする。前よりも、強くなった。そう思いながら、鏡の奥に映る自分を見つめる。頬の輪郭が少しシャープになり、まなざしもどこか凛としてきたように見える。キッチンでコーヒーメーカーのスイッチを入れる。コポコポと湯が落ちる音と、立ちのぼる香りに、小さな幸せを感じるようになったのは最近のことだ。カップを手にし、窓辺に腰かける。ひと口、熱いコーヒーを啜ると、胸の奥のどこかがじんわりと温まる。「最近、明るくなったよね」と職場で言われた言葉がよみがえる。志乃は口元だけで微笑む。たしかに、あの夜から、世界の色は少し変わった。喪失の痛みがまったく消えたわけじゃない。ふとした瞬間、誰もいない食卓の空席や、休日の午前中の静けさが胸に刺さる。それでも、毎朝のルーティンと、今やらなければならない仕事、そして小さな目標――そういうものが、志乃を一歩ずつ未来に連れ出してくれている。クロゼットからアイロンをかけたシャツを選び、袖を通す。カフスボタンをとめながら、出社の準備を終える。カバンを肩にかけて部屋を見渡すと、ダイニングテーブルの上に小さな観葉植物が一つ、静かに葉を伸ばしているのが目に入った。少しだけ笑みがこぼれる。この緑もまた、自分がひとりで育てているもの。水やりも、葉の手入れも、誰かに委ねることなく、志乃自身の手でこなしてきた。出社の道すがら、晴れやかな空に目を細める。バスに乗り込み、窓の外を流れる街の景色に、何度も見たはずの並木道や小さな店の看板が、なぜか今日はほんの少し新しく見える。人
薄いカーテン越しに、春の朝日がゆっくりと室内に差し込む。海の向こうに夜明けの気配が満ちて、波音もやさしく遠ざかっていく。シーツの中、須磨は塩屋の体温を腕に感じながら、まどろみの底から静かに目を覚ました。頭上には、ぼんやりとした青白い天井。肩にかかる重さと、首元に感じる呼吸のぬくもり。すぐ隣で塩屋が眠っているのだと気づき、須磨はほんの少しだけ、身体を寄せた。塩屋も同じ頃に目を覚ましたのだろう。須磨の腕の中で、そっとまぶたを開き、まだ眠気の残る瞳で須磨を見つめ返す。互いの髪が額に触れ合い、その微かな刺激が、ふたりをさらに近づけた。言葉はなかった。ただ、静かで、やわらかな空気だけがそこにあった。塩屋は寝返りを打ち、須磨の胸に顔をうずめる。須磨はその後頭部に手を添え、指先でゆっくりと髪を梳いた。夜の間に何度も抱き合い、泣き、笑い、ようやくたどり着いた安堵の朝。何かを約束するわけではない。ただ、「今ここにいること」が、全てだった。しばらく、誰も動かない。須磨は塩屋の髪を梳き、耳の裏に唇を落とす。塩屋は小さく微笑んで、腕を須磨の腰に回す。そのまま、互いの鼓動を感じ合うように目を閉じた。外から差し込む朝焼けの光が、ふたりの肌をやさしく包み込んでいる。「なんだか夢みたいだね」と塩屋がぽつりとつぶやく。声はかすかに震えているが、もう不安はなかった。「夢じゃないよ」と須磨が答え、塩屋の頬に指を滑らせる。塩屋はその指に頬を寄せ、すこし照れたように目を伏せた。何もいらない。過去の痛みも喪失感も、ふたりの間に流れる静けさのなかで、もう特別な重さを持たなかった。いずれ、それも優しい思い出へと変わっていく。塩屋は須磨の髪をそっと撫で返す。光の中で、ふたりの微笑みが重なった。窓の外には、昨日までと同じ海と空が広がっている。だけど、今朝はすべてが違って見える。長い夜を超えて、ようやく手に入れた温もり。ふたりは何度も見つめ合い、何度も微笑んだ。塩屋が「ありがとう」と小さくささやき、須磨は無言でその手を握りしめる。もう、未来を誓う必要はなかった。ただ、今ここにいる――その実感だけが、胸いっぱいに広がる。朝の光の中で見つめ合うふたりの表情には