Se connecter全てが終わった後のパーティー会場は、大きな熱気に包まれていた。
ヴァレンティンの演奏はゲストたちの心に深く刻まれた。彼らは口々に「素晴らしい体験だった」「これほどのホテルは世界にもない」と絶賛しては、グラスを傾けている。そこへ郷田会長が歩み寄ってきた。その隣にピンク色のドレスの女――白河麗華の姿はもうない。
「……完敗だ。素晴らしい演奏だった」
郷田は、隼人の前で足を止めた。
「あの気難しいヴァレンティンを、あそこまで手懐けるとはな。まぐれでできることではない。正直、驚いた」
「運が良かっただけです」
隼人は笑ってみせた。
「謙遜するな。建物だけ立派な成金ホテルかと思っていたが、中身(ソフト)も一級品だったようだ。認識を改めるよ。黒崎君はホテルの心を理解している」
郷田はグラスを少しだけ掲げて、隼人と、その半歩後ろに控える小夜子に視線を向けた。
「いい奥さんをもらったな、黒崎君」
「ええ。私
「どうぞ、それをご覧ください」 探偵の男が手で促したので、御子柴は封筒から数枚の写真と報告書を引き出した。 1枚目の写真には、派手な化粧をしてパチンコ台の前に座る中年の女が写っている。「黒崎翔吾の実母、真澄です。多額の借金を抱え、現在はその日暮らし。何より面白いのは、翔吾本人が黒崎家の嫡子ではなく、真澄が不倫した時に産んだ『不義の子』だという事実ですよ」「ほう」 探偵が舌なめずりをする。 御子柴は冷笑を浮かべ、次の写真を手に取った。 そこには、金髪で特攻服を着た少女時代の山内実加の姿と、酒に酔った赤ら顔で路上に座り込む柄の悪い男が写っている。「山内実加は筋金入りの不良少女。おまけに、元夫はDVでの逮捕歴があるゴロツキです。現在も金に困っているようで、元妻の居場所を探り回っています」 御子柴は写真を束ねて、デスクの端でトントンと揃えた。 社長である黒崎隼人の弟、翔吾の汚れきった生まれ。 彼の相棒である実加の過去。 これらを世間に晒せば、美しくクリーンなアーク・リゾーツのブランドイメージは、泥にまみれる。「ご苦労。報酬は指定の口座に振り込んでおく」「毎度あり。で、このネタ、どこに売り込みます?」「一番部数を持っていて、最もえげつない記事を書く週刊誌だ。ネットに強い所が良い。明日にでもリークしろ」 御子柴の口元が、三日月の形に歪んだ。(これであの目障りな兄弟も、やかましい女も、すべて終わりだ) そう確信した。◇ 翌日の昼下がり。アーク・リゾーツ本社の社員食堂は、多くの従業員で賑わっていた。 高い天井まで届く大きな窓からは、東京の摩天楼がどこまでも広がっている。 窓際のテーブル席で、翔吾と実加は向かい合ってランチをとっていた。 翔吾のトレイには、カロリー計算が完璧になされた日替わり定食が並んでいる。 対する実加のトレイには、大盛りのカツカレーと山盛りのサラダが乗っていた。
――サンクチュアリの温かな空気とは対極にある、無機質な空間がある。 グラン・ヘリックス日本支社の社長室は、白とグレーだけで統一され、人間の体温を一切感じさせない。 立派な造りのデスクの前に立つ御子柴玲二は、手元のタブレット端末を忌々しげに睨みつけていた。 画面には、台風によって完全に倒壊したリゾート建設現場の損害報告書が表示されている。 報告書の数字はもちろん、添付された無惨な現場の写真が目立つ。 巨額の損失と工期の大幅な遅れは、誰の目にも明らかだった。 このままでは、御子柴の支社長としての手腕と判断を問われる。 最悪、進退問題にもなるだろう。「……チッ」 御子柴は舌打ちを漏らすと、タブレットをデスクに放り投げた。ガタンと乾いた音が室内に響く。 嵐の夜を思い出すと、せせらぎ亭で出された雑炊の味が、ふいに舌の上に蘇った。 冷え切った体を芯から温めた、あの素朴だが優しい出汁の味が。 その記憶が蘇るたび、御子柴のプライドはズタズタに引き裂かれる。 圧倒的な資本と最新鋭のAIを誇る自分が、あんな時代遅れのボロ宿に助けられたのだ。 彼にとってあの夜の出来事は、「恩」ではなく「屈辱」に変わっていた。「人間の熱、だと……。虫酸が走る」 御子柴はスーツのポケットに手を突っ込み、ギリッと拳を握った。爪が手のひらに食い込む。 市場競争での真っ当な勝負など、もはやどうでもよかった。 アーク・リゾーツの、そして黒崎隼人と小夜子の掲げるあの温かな理想を、根底から破壊してやりたい。 彼の掲げるAIこそ最上なのだと、知らしめてやりたい。(いいや、必ず破壊しなければならない。あんなものは認められない。認めてたまるか。私の効率は何よりも至高なのだと、証明する必要がある!) 御子柴は考える。 黒崎隼人や小夜子の脇は甘くない。 そう簡単に追い落とすことはできないだろう。 しかし、最近急激に頭角を現し
「ありがとうございます。ですが、僕1人の力ではありません。実加さんの直感、現地の従業員たちの経験。それらの変数が組み合わさった結果です」 翔吾は落ち着いた口調で言って、中指で眼鏡を押し上げた。 隼人の口元が、わずかに緩む。「その変数とやらを考慮できるのであれば、お前はもう一人前だ」 兄からのまっすぐな称賛を受けて、翔吾の胸の奥にじんわりと温かい重みが広がる。(ああ、僕はやっと居場所を見つけた。ここにいてもいいのだ) 翔吾は満たされた思いで、兄と義姉へ向かって頭を下げた。◇ 数日後、翔吾はフロントのバックオフィスで、見慣れたタブレット端末と向き合っていた。 画面にはサンクチュアリの全客室の稼働状況と、スタッフの配置データが表示されている。「……東館の清掃チーム、連続稼働時間が規定値を超えかけています。西館から2名、サポートに回してください。それから到着予定のVIPのお客様ですが、お連れ様が妊娠中との情報が入りました。アメニティをノンカフェインのものに変更し、クッションを多めに配置するよう手配を」 翔吾の指示は的確で、何より血が通っていた。 以前のように、スタッフをただの「数字」として扱うことはない。 疲労度や感情の機微といったデータ化しにくい要素を、彼独自のアルゴリズムで補完しているのだ。 同僚のホテルマンたちも、翔吾の指示に戸惑うことなく、軽快な足取りで動いていく。 同じ頃、客室フロアでは実加がハウスキーピングの業務に当たっていた。 真新しいシーツを広げ、空気をはらませてベッドにふわりとかける。シワ一つない完璧な仕上がりだ。 実加はベッドの下にしゃがみ込み、視線を這わせた。 ホコリ一つない絨毯の上に、小さなウサギのぬいぐるみが落ちているのを見つける。「おっと、こいつは迷子だな。この客室は連泊だから、今日もお客様は戻ってくる」 実加はぬいぐるみを拾い上げると、丁寧にブラッシングをして形を整
黒崎翔吾がホテル『サンクチュアリ』のロビーへ足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気の質感が変わったのを感じた。(やっぱりここは別世界だ) 翔吾は無意識に、わずかに緩んでいたネクタイの結び目を正した。 館内を支配しているのは、厳密に制御された温度とサンクチュアリの象徴である百合の芳香である。 吹き抜けの高い天井が音を効率よく吸い込んで、客たちのざわめきは柔らかな残響となって空間に溶けていた。 毛足の長い絨毯がすべての足音を飲み込んでいる。行き交う人々はまるで水面を滑るかのように滑らかに移動していた。 そこには、一点の淀みもない。 フロントに立つスタッフの背筋の角度も、ベルボーイが荷物を運ぶ際の洗練された歩幅に至るまで、完璧だ。 すべての動きが、サンクチュアリという巨大な精密機械の歯車として、機能美に満ちあふれていた。 そしてそれでいて、ここは機能だけの冷たさがあるわけではない。 都会的な洗練された雰囲気と、まるで家に帰ってきたかのような温かさが同居している。 里山の古い木々や土の匂いとは対極にある、磨き上げられた聖域の気配がそこにある。(経験を積んだ今だから分かる。このホテルは並大抵じゃない。隼人兄さんと小夜子義姉さんが作り上げた、素晴らしいホテルだ) 翔吾は背筋を伸ばした。 自分もサンクチュアリ空気の一部となるべく、鋭い視線をフロントへと向けた。◇ 山内実加は、従業員専用の通路を小走りで進む。金髪のメッシュが入った髪が肩の高さで弾んだ。 向かう先は、社内保育所「こぐまの森」だ。 ガラス張りのドアを開けると、色鮮やかなジョイントマットの上で、小さな塊がもぞもぞと動いていた。「理玖……!」 実加の声に、生後7ヶ月になる息子が顔を上げる。「あうー!」 ぱぁっと顔を輝かせた理玖は、小さな手足をごそごそと動かして、実加の方へ向かって突進してきた。 ハイハイだ。先月、せ
小夜子は自分のカップを口に運ぶ前に、翔吾のタブレットの画面に目を落とした。 数ヶ月先まで、予約カレンダーは緑色の「満室」マークで埋め尽くされている。 あの嵐の夜を乗り越え、御子柴の妨害を退けたこの宿は、もはや泥舟などではない。 誰にも負けない人気を誇る、アーク・リゾーツの立派な看板の一つへと成長を遂げていた。「素晴らしい成果ですね。翔吾さんの論理と、実加さんの熱。あなたたちがこの宿にもたらしたものは、計り知れません」 小夜子の言葉に、翔吾は少し照れくさそうに視線を逸らした。 実加は「へへっ」と鼻の下をこする。 小夜子はカップをテーブルに置き、居住まいを正した。 凛とした彼女の瞳が、2人の顔をまっすぐに見据える。「せせらぎ亭の再生ミッションは、これで一区切りがつきました」 その言葉に、スタッフルームの空気が少しだけ引き締まった。「ここに集う従業員の皆様は、もう立派にこの宿を回していけます。私たちが手綱を握り続ける必要はありません」 小夜子はふっと表情を和らげ、明確な次なるステップを告げた。「東京の本社に戻りましょう」 翔吾の目が、わずかに見開かれる。 実加も、ハッとして身を乗り出した。「戻るって……ウチら、また東京のホテルで働けるんスか?」「ええ、もちろん。あなたたちはこの現場で、ホテルマンとして最も大切なものを学び取りました。次は、アーク・リゾーツの中核である『サンクチュアリ』で、その力を存分に発揮していただきます」 小夜子の力強い言葉が、彼らの胸の奥に火を灯した。 実加が勢いよく立ち上がり、拳を突き上げる。パイプ椅子がガタッと鳴った。「っしゃあ! チビも待ってるし、東京でも暴れてやるぜ!」「暴れないでください。……ですが僕も今の自分なら、本社の巨大なシステムの中で、より人間的な価値を生み出すアルゴリズムを構築できる確信があります」 翔吾も立ち上がり、決意に満ちた表情でタブレッ
料理を口に運んだ客たちは、たちまち笑顔になった。「大根、口でとろけたぞ……! こんな甘い野菜、初めてだ」「このカブの葉っぱのご飯も、お代わりしたいくらい美味しいわね。お腹いっぱいなのが悔しい」 高級な和牛も、高級魚の鯛もない。 けれど地元の人々が育てた生命力あふれる野菜と、板前の職人魂が込められた「里山懐石」は、客の胃袋と心を確実に満たしていた。 翔吾はホールの隅に立ち、タブレットで空いたグラスの数や食事のペースを確認しながら、実加や仲居たちへ目配せで次の配膳を指示している。 おかげで客で満杯の食堂も、大きな混乱はなく次々と料理が運ばれていった。 どこを切り取っても、活気と笑顔があふれている。 客はもちろんのこと、スタッフたちもだ。 誰もが、この宿の復活を心から喜んでいた。◇ 夜が更けて、館内が静けさを取り戻した頃。 帳場の裏にあるスタッフルームで、翔吾と実加は本日の最終データを突き合わせていた。「……本日の売上目標、120パーセント達成。クレーム数ゼロ。顧客満足度のアンケートスコアも、先週の平均値を上回っています」 翔吾がタブレットをテーブルに置き、眼鏡を中指で押し上げた。「しゃあっ! 今日も完璧だったな!」 実加はパイプ椅子に深く腰掛けて、両手を頭の後ろで組んで大きく背伸びをする。 翔吾はそんな実加を見て、少しわざとらしく眉をしかめてみせた。「あなたの無駄口の多さは相変わらず非効率ですが……まあ、お客様の滞在時間を伸ばし、追加の飲料オーダーを引き出した点は、評価してあげますよ」「なんだよ、素直に褒めりゃいいじゃんか。お前の裏回しも、今日はまあまあイケてたぜ。インテリ」「まあまあ、ではありません。完璧なシステム、アルゴリズムです」 翔吾がむっとした顔で言い返す。 相変わらず憎まれ口を叩き合っている
バンッ! 乾いた音が、アーク・リゾーツ社長室の空気に響いた。黒崎隼人がタブレット端末をデスクに叩きつけたのだ。「あり得ん」 彼は眉間に深いしわを刻み、低い声で唸った。「幽霊だと? 21世紀のこの時代に、そんな非科学的な理由で稼働率が30パーセントも落ちるなど……断じてあり得ん!」 隼人のタブレットには、傘下のビジネスホテル『アーク・イン品川』のクチコミ画面が映っている。 彼は怒りを隠そうともせず、タブレットを睨みつけた。『アーク・イン品川』は先日リニューアルオープンし
証拠は揃った。 ペーパーカンパニーへの架空発注。横領。私的流用。被害総額は億単位に上るだろう。隼人は受話器に手を伸ばした。「警察に通報する。業務上横領で逮捕させてやる」「お待ちください」 小夜子が、その手を上から押さえた。ひやりとするほど冷たい手だった。「警察沙汰にすれば、ホテルの信用に関わります。スキャンダルになれば株価も下がりますわ。それでは旦那様の損になります」「……では、見逃せと言うのか?」「いいえ。もっと合理的で、残酷な方法がございます」 小夜子は薄く微
「このお部屋の清掃に使っている洗剤と、リニューアル工事の際に壁紙用に使った糊。残っていれば、今すぐお持ちいただけますか?」 支配人は目を白黒させた。「洗剤……ですか? 業務用の一般的なものですが……。糊、接着剤も、倉庫に少し残っているかと」「結構です。持ってきてください」 支配人が慌てて部屋を出て行こうとする中、隼人が声を荒げた。「おい、待て。それが何の関係があるんだ?」 未だ事態を掴めていない隼人は、不満そうに妻を睨んだ。
『拝啓、黒崎社長。私は不幸な話が好きですが、それ以上に「売れる記事」が好きです。編集長に確認したところ、「今のトレンドはスキャンダルよりギャップ萌えだ」とのこと。 それにあなたのような鉄仮面にとって、悪口を書かれるよりも、「愛妻家のツンデレ」として世間に愛される方が、よほど屈辱的で精神的ダメージが大きいでしょう? せいぜい恥じ入ってちょうだい。これが私なりの復讐よ』 クシャリ、と紙が潰れる音がした。隼人がメモを握り潰していた。「あの女……!計算尽くか……!」 確かに高橋の読み通りだった。隼人にとって、これほど恥ずかしい刑罰はない







