LOGIN「すみません。企業内保育園はここですか?」
戸口に数人の人影が現れた。
見れば、ホテル・サンクチュアリの制服を来た男女である。男性もいるが、どちらかというと女性が多い。「はい、そうですよ。どうしましたか?」
小夜子が応対すると、彼らはぺこりと頭を下げた。
「社内通知で保育園がオープンしたと聞きまして。私たちも保育園に通う子を抱える親です。ぜひ利用したいと思い、見学に来ました」
「そうでしたか。さあ、どうぞ」
小夜子は微笑んで、手招きをした。
ぞろぞろと入ってきた彼らは、広くて清潔な空間に目を見開いている。
ベテランのシッターから保育方針を聞かされて、頷いていた。「素晴らしいです。職場の敷地内に保育園があれば、通うのがどれだけ楽になるか」
「将来的には病児保育も引き受けてくださるのですね。助かります」
彼らは興奮した様子で話し合っていた。
小夜子が言う。「では、増える人数に合わせ
理玖は床に、母の実加は椅子に座っている。 実加は客室清掃スタッフの制服姿で、髪を後ろでキッチリと束ねて後れ毛一つ出していない。 彼女の服からは、業務用の柑橘系洗剤の匂いがほのかに漂っていた。 前方には小夜子が立っていた。タイトスカートのスーツに身を包み、手にはマイクを握っている。 マイクを通した小夜子の声が、プレイルームの壁に反響した。「本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。これより、サンクチュアリの裏側を巡る公式職場見学ツアーの概要をご説明いたします」 小夜子は手元の資料をめくった。「ホテルという巨大な組織は、お客様の目に見える華やかな表舞台だけでは機能しません。その土台を支える、数多くの裏方部門が存在します。本日は子供たちに、ご両親がどのような環境で、どのような役割を担ってホテルを支えているのかを学んでもらいます。これは情操教育の一環でもあり、また、従業員の皆さんも自分たちの部署以外の理解を深める機会でもあります」 保護者たちが頷いた。実加も真剣な顔つきで話を聞きながら、理玖の背中を見つめた。 サンクチュアリは大きなホテルだ。 それだけに、従業員と言えど自分の担当部署以外のことは詳しくない。(子供用の解説ツアーだが、良い機会だ) 実加はそう考えている。 小夜子はホワイトボードに貼られた館内図を指し示した。赤いマーカーで順路が引かれている。「本日のルートは、購買・検収部門、施設管理部門、システム管理部門の3箇所です。その後はウェディング部門とレストラン部門へ向かいます。ホテルを物理的、情報の両面から支える中枢神経とも言える部署です。普段は関係者以外立ち入り禁止のエリアですが、本日は特別にご案内します。各部門の責任者が業務内容を解説いたしますので、子供たちは質問があれば遠慮なく聞いてください」「はーい!」 子供たちの間から、わぁっと歓声が上がる。 引率の若手スタッフが、首から下げるお揃いの小さなネームプレートを配って回った。 そこには手書きで「ゲスト」と書かれている。
理玖は唇を噛んだ。 遊び半分の探検が、どれだけ危険で迷惑な行為だったのかを突きつけられる。 だが隣に座る3歳児は違った。 美夕は出されたカップを両手で持ち、陶器から伝わる温かさを小さな指先で確かめている。 ハーブティーを一口すすると、ほうっと息を吐き出した。「でも、おかあさま。げんばをみないと、けいえいできないわ。おへやがきれいにされてるか、ちぇっくするのはたいせつなことよ」 3歳児の堂々たる反論に、理玖は思わず口を半開きにした。(美夕ちゃん、あのお説教を聞いてまだ言い返せるの? 心が強すぎ) 小夜子は手元のスケジュール帳に視線を戻して、わずかに頬を緩めて柔らかく微笑んだ。 厳しくも冷静な支配人という仮面が外れて、そこには1人の親として、教育者としての表情がある。「なるほど、現場を知るのが経営の基本。その通りですね」 小夜子は万年筆を置く。優しく微笑みながら理玖と美夕を見下ろした。「ならば、コソコソと隠れるのではなく、正面から堂々と視察できる機会を設けましょう。来週、『従業員家族向けの公式職場見学ツアー』を開催します。あなたたちには、第1回のゲストとして参加してもらいます」 小夜子の即断即決に、理玖は目を丸くした。(小夜子おばちゃん、怒らないどころか新しいイベントを企画しちゃったよ。経営者って、頭がいいんだな……。普通なら正座のお説教なのに) 理玖は隣でティーカップを傾ける美夕と、手帳に予定を書き込んだ小夜子を交互に見比べた。「さて。そうと決まれば具体的な計画を詰めなければなりません。理玖くん、美夕。ホテルのどこが特に見たいですか?」 問われて理玖ははっと顔を上げた。 見たい場所はたくさんある。でも彼が一番興味があるのは、もちろんあそこだ。「父ちゃんが働いているところを見たいです!」「ええ、了解しました。翔吾さんのシステム部はもちろん見学に組み込みましょう」「わたしは、レストランとちゅうぼう。おしょくじはだいじ」
夕暮れの光が窓の向こうで何層にも重なり、東京の街並みをオレンジ色に染め上げている。 ホテル・サンクチュアリ最上階の社長室にて、来客用の本革ソファに、理玖と美夕は並んで座らされていた。 理玖が緊張のあまり姿勢を正そうと少し動くたび、柔らかな革が体重で沈み込み、キュッと軋む音が立つ。 座面の反発力は、5歳の子供の軽い体には強すぎた。足が床に届かず、宙ぶらりんになっているのがさらに居心地を悪くさせている。 小夜子はのデスクから離れ、サイドテーブルに置かれたティーセットに向かっていた。 コポポ……とお湯を注ぐかすかな音がする。カモミールとミントの爽やかな香りが、微かに漂った。 小夜子が歩み寄った。2人の前にティーカップを置く。 陶器のカップがソーサーに当たるカチンという硬質な音が、広い部屋に響いた。 理玖は両手を膝の上で重ねて縮こまっていた。(怒られる。絶対に怒られる) 小夜子は普段は優しいが、仕事に対してはとても厳しい。理玖はよく知っている。『小夜子師匠は優しそうに見えても、実はおっかなくてさー』 母の実加が実感を込めて話していたのを思い出す。 怖いもの知らずの実加があれだけ恐れるのだ。どれほど怖いのかと理玖はビクビクした。 けれど小夜子は表情を変えなかった。 向かいのシングルソファに腰を下ろすと、足を揃える。2人を正面から見つめた。「理玖くん、美夕。従業員専用通路は、カードキーを持ったスタッフしか入れない構造になっています。なぜだか分かりますか?」 小夜子の声は一定のトーンを保っている。怖い声ではないはずなのに、理玖は威圧感を感じた。「わかんないです」 理玖は言葉に詰まり、ふるふると首を横に振った。「ホテルには毎日、何百人ものお客様がいらっしゃいます。中には、悪意を持って入り込む人間がいるかもしれません。バックヤードは、そうした外部の人間からホテルの安全とお客様のプライバシーを守るための砦なのです」 小夜子はカップに手を伸ば
社長室の内部はとても広かった。 床から天井まである壁一面の窓からは、東京の街並みが一望できる。 夕暮れ時のオレンジ色の光が部屋全体を染め上げて、空中に漂う微細な埃をキラキラと光らせていた。 遠くには、テールランプを光らせて行き交う車の列が見えた。「わあ……! すごいね、美夕ちゃん!」 理玖は思わず窓からの光景に釘付けになったが、美夕は別の場所を見ていた。 部屋の中央には、磨き上げられたマホガニーのデスクが鎮座している。 その奥には、黒革の大きなエグゼクティブチェアがあった。 美夕はデスクの裏に回り込み、椅子の肘掛けを掴んでよじ登った。 小さな体が分厚い革の座面に深く沈み込む。「ふむ」 美夕は満足そうに頷くと、デスクの上に置かれた書類をポンポンと叩いた。「こんごの、じんざいいくせいけいかくについてですが」 おっとりとした、しかし妙に堂に入った口調で架空の経営会議がスタートした。「りくくん。そこにすわりなさい」 理玖は来客用のソファに腰を下ろした。 本革のソファは柔らかく、体がすっぽりと包み込まれる。「えっと、人材育成?」「ええ。きゃくしつのせいそうすたっふの、すきるあっぷが、きゅうむです」 先ほど実加の仕事を見たばかりだからか、美夕の指摘は的を射ている。 理玖はよくわからないまま、真面目な顔で相槌を打った。「そうだな。母ちゃんの掃除はすごかったし」 2人の小さな経営陣は、夕暮れの社長室で真剣な議論を始めた。「みかさんほどのすきるのしゃいんは、あまりいません。ぜんたいのれべるあっぷが、ひつようなのです」「うん。客室、いっぱいあったもんね。いくら母ちゃんがすごくても、全部は無理そう」 ――その時だった。 厚いじゅうたんに吸収されながらも、かすかな足音が聞こえてきた。「…………!」
(美夕ちゃん、すごい。あんなに素早く隠れられるなんて、絶対に将来、小夜子おばちゃんより怖い大人になるぞ……) 理玖は、隣で平然としている3歳児のためらいのなさ、判断の早さに圧倒され、ただ感服するしかなかった。「つぎへいくわよ」 美夕は立ち上がり、リネン室のドアをそっと開けた。 廊下に実加たちの姿は既にない。 2人は再び低い姿勢で移動を開始した。 目指すは、ホテルの最上階だ。 だが、サンクチュアリは高層ホテル。階段で登るにはあまりにも階層がありすぎる。「しゃちょうしつにいきたいけど。かいだんでのぼるのは、たいへんすぎね」「エレベーターに乗る? 大人に見つかっちゃいそうだけど」 美夕と理玖が従業員用通路のエリアに戻ると、客室清掃用のサービスエレベーターの扉が開いていた。 中には補充用のタオルやアメニティが積まれた大きなカートが置かれている。 スタッフは別の部屋へ搬入作業に行っているらしく、エレベーター内は無人だ。「ちゃんすよ」 美夕が走り出す。 理玖も慌てて後を追い、エレベーターの中へ滑り込んだ。 2人は大きなカートの裏側に体を丸めて隠れる。「んしょ。てがとどかない」 エレベーターの高層階ボタンは、幼児の手の届かない高い位置にあった。 美夕はもちろん、理玖も背伸びしてみたが無理だった。「ぼくも届かないよ」「それなら……」 美夕は周囲を見渡し、壁際に置かれていたプラスチック製の予備カゴを見つけた。 カゴをひっくり返し、操作パネルの下に置く。 その上に乗ると、彼女は一番上のボタンを迷わず押した。「あっ、なるほど」 理玖が感心していると、ボタンが点灯しエレベーターの扉が閉まった。 上昇を知らせるモーター音が、箱の中に響いた。 胃が持ち上がるような浮遊感とともに、エレベーターは最上階を目指す。 移動中、誰
理玖は口をパクパクさせた。 家でエプロンをつけて夕飯を作る母の姿とは全く違う。 翔吾と口喧嘩をして笑っている姿とは天と地の差だ。 プロフェッショナルとしての緊張感が、彼女の全身から発散されていた。「佐藤さん、こっち来て」 実加がベッドから離れ、バスルームの方へ声をかけた。 若い清掃スタッフが小走りでやって来る。「ここの鏡の水滴の拭き残し、お客様はすぐ気付くからね。手首のスナップをきかせて、一定の方向に向かって拭き上げるんだ」「はい!」 実加はマイクロファイバーの布巾を手に取り、手本を見せた。 素早くも効率的な動作で、汚れがしっかり落ちている。 部下の佐藤が驚きの声を上げた。「わっ、すごいです。こんなに早くきれいにできるなんて……。さすがチーフです」「おだてても何も出ないぞ。このやり方はウチの師匠直伝なんだ。師匠はもっとすごいからな」 実加の表情は自信に満ちており、頼もしいチーフの顔つきだった。(ぼくの母ちゃん、めちゃくちゃかっこいいじゃないか) 理玖は胸の奥が熱くなるのを感じた。 先日の「しさつ」では、父・翔吾の働きぶりは見たけれど、実加は歩いているのを見かけただけだった。 こうして実際に仕事をし、部下に指導をしているところを見るのは初めてだ。「すげえ……母ちゃ……」 感嘆の言葉が、思わず口からこぼれそうになる。 その瞬間。 両側から小さな手が伸びてきて、理玖の口を塞いだ。 美夕だ。 実加が指示を終えて、廊下側の清掃用具を確認するために振り返る気配がした。 カツ、カツ。 パンプスの硬い足音が、客室の入り口へ向かって響き始める。 実加がドアの枠から顔を出そうとした。 美夕は理玖の服の裾を強く引っ張り、すぐ背後にある半開きのドアへと飛び込んだ。 そこは各フロアに設置されている







