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last update Data de publicação: 2026-03-18 06:32:09

 保育園・こぐまの森がオープンした日の夜のこと。

「理玖ー! 母ちゃんだぞ!」

 ホテルの仕事を終えた実加が、保育園に駆け込んできた。

 ベビーベッドに寝かされている息子を抱き上げる。頬ずりをして、赤ん坊特有の甘い匂いを胸に吸い込んだ。

 仕事中は割り切って切り替えていたけれど、実加は理玖が心配で仕方がなかった。

 小夜子とシッターを信頼はしている。危険なことは何もないと頭では分かっている。

 それでも理玖が生まれて初めて、何時間も離れ離れになった。

 母親の姿が見えずに泣いていたらどうしよう。

 慣れない環境で体調を崩してしまったらどうしよう。

 ちゃんとミルクは飲めているだろうか。

 おむつかぶれをしていないか。

 予想もできないような事故が起きていたら……?

 考え始めたらきりがなかった。

「いい子にしてたか? 元気だったか?」

 たった数時間とはいえ、離れ離れになっていた息子

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   217

    「よし。これならチビも置ける」 実加はニヤリと笑い、手の甲で汗を拭った。「どうだ、師匠!?」「……初心者としては及第点ですね。甘い部分はこれからしごいて差し上げましょう」 小夜子はそう言って、掃除機を受け取った。 見る間に始まる舞い踊るような掃除に、実加は再び目を見開く。「うわ、しまった! まだそんなにホコリが!」 実加はぎゅっと手を握りしめた。「さすがだぜ、師匠。でも必ず追いついてみせるからな!」「ふふふ。楽しみですね」◇ 翌日の夜。実加は遅番のシフトに入っていた。 チェックアウトしたばかりの客室に、清掃に入る。老夫婦が泊まっていた部屋だ。 リネンを交換しようとして、枕を持ち上げた時だった。 コロン。 何かが床に落ちた。 拾い上げてみると、古びた布袋だった。色褪せた赤色のお守り。 刺繍はほつれ、何度も握りしめられたのか、手垢で黒ずんでいる。「……なんだこれ」 ゴミとして捨てようとして、実加の手が止まった。 汚い。ボロボロだ。 けれど、ただのゴミじゃない。 実加には分かった。これは、誰かがとてに大切にしていたものだ。擦り切れるまで身につけているものだ。 理玖の産着を、彼女が捨てられないのと同じように。 時計を見る。チェックアウトから経過した時間は、10分。 まだ間に合うか?「やるしかねーわ!」 フロントに内線している時間は惜しい。実加はお守りを握りしめて、部屋を飛び出した。 廊下を全力疾走する。 支給品の黒いパンプスが、かかとに食い込んで痛い。「邪魔だッ!」 実加は走りながらパンプスを脱ぎ捨てた。 ストッキングごしの足裏に、冷たい床の感触が伝わる。 エレベーターは待てない。非常階段を駆け下りる。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   216

    「……無理だ」 実加の声がかすれる。 小夜子は座ったままの実加を見下ろした。「お客様は、単なる『金づる』ではありません。誰かの大切な家族です」「……家族」 小夜子の言葉は、実加の心を揺らした。「ホテルとは、人間が無防備になる場所です。自宅でくつろぐように、あるいはそれ以上の安全を保証しなければなりません。靴を脱ぎ、服を脱ぎ、眠る場所。一番無防備な状態の人間を、細菌や危険から守る。それがハウスキーピングの仕事です」 小夜子はしゃがみ込み、実加と視線を合わせた。「想像しなさい。ここを使う人の顔を。その人が安心して呼吸できる空間を作るのです。それが『プロ』の流儀(プライド)です」 実加は自分の手を見る。 さっきまでは、ただの労働だと思っていた。 適当にやって、金がもらえればいいと思っていた。 だが、違った。 彼女が雑な仕事をすれば、誰かを傷つける凶器になる。 そんな事は考えたこともなかった。 実加には誰よりも大事な息子がいるのに、他の人の家族に目を向けられていなかったのだ。 実加は拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込むが、痛みは悔しさではない。決意だった。「……教えてくれ、師匠」 実加は顔を上げた。その瞳に、ヤンキー特有のギラついた闘志が宿る。「あたしの掃除じゃ、チビを守れねえ。完璧なやり方、叩き込んでくれ」 小夜子はニッコリと微笑んだ。◇ そこからは、修行の時間だった。 実加は客室に戻ると、鬼の形相でモップを構える。「オラオラ汚れぇ! 死角はそこかよ!」「そこだけではありませんよ。よく見なさい」「おうよ、師匠!」 口汚い言葉を吐きながらも、その手つきは繊細だ。まるで理玖を抱く時のように。 ベッドの下。這いつくばって覗き込んだ。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   215

    (動き、はやっ!?) 小夜子の動きは、掃除というよりも舞踏に近かった。 スポンジがバスタブの曲線を描く。無駄な往復運動が一切ない。一筆書きのように汚れを絡め取っていく。 シャワーで泡を流すと同時に、左手の水切りワイパーが走る。 キュッ、という小気味よい音とともに、水滴が一瞬で消滅した。 蛇口カランの磨き上げは、マイクロファイバークロスが残像に見えるほどの高速回転。 舞踏を通り押して何かの武芸の型のようですらある。 3分とかからなかった。 蛇口のステンレスが、鏡のような輝きを取り戻した。 掃除前もそこまで汚れているように見えなかったのだが、こうしてみれば違いは一目瞭然だ。 小夜子は息一つ乱さずにエプロンを外した。「……す、すげーけど」 実加は素直に驚いたが、同時に反発心も湧いた。「そこまでやる必要あんのかよ? 客なんてどうせ汚すんだろ。また明日には水垢だらけだ」「……」 小夜子は無言でバスルームを出て、ベッドルームへと歩いた。 ふかふかのカーペットの上で足を止める。「座りなさい」「あ?」「床に座って。ここを触りなさい」 言われるがまま、実加はあくらをかき、カーペットに手を触れた。 触れるのは、高級そうな柔らかな毛足だけ。「別に、ゴミなんて落ちてねえよ。きれいじゃん」「そう見えるかしら」 小夜子は冷ややかに言った。「実加さん。あなたはここで、理玖君をハイハイさせられますか?」 実加の手が止まった。 理玖。彼女の生後6ヶ月の息子である。 まだハイハイはできないけれど、最近はよく手足をばたつかせている。 活発な子だから、もう少しでハイハイを始めるだろうとベビーシッターの保育士が言っていた。 ハイハイを始めたら、理玖は楽しそうに動き回るだろう。 好奇心旺盛な子だから、落ち

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   214:清掃の流儀

     ホテル・サンクチュアリの客室フロア、リネン室の前。 そこには今、一触即発の空気が漂っていた。「やり直し!」 ベテラン指導係の女性が、厳しい声を張り上げた。 彼女が指差す先には、山内実加が清掃を終えたばかりのツインルームがある。「シーツの四隅、甘い。シワが寄ってるわ。それに鏡。よーく見なさい、拭き跡が残ってるじゃない!」 実加は振り返ると、台車のハンドルを握りしめた。「あぁ?」 ドスの利いた声が出そうになるのを、慌てて喉の奥で押し殺した。「見た目はきれいじゃんか。そんなもん、虫眼鏡で見なきゃ分かんねーよ」「その雑な根性がダメなのよ!」 指導係はバインダーで実加の肩を小突いた。「やり直しをしないなら、あなたにはこの仕事は務まりません。ここは一流ホテルなの。ヤンキー上がりの小娘が、片手間でやっていい仕事じゃないわ。辞めなさい」 実加のこめかみに青筋が浮かぶ。 (うっぜえ……) 実加はぎりりと奥歯を噛み締めた。 右足が勝手に動きそうになる。このババアのすねを蹴り飛ばして、あの偉そうなバインダーをへし折ってやりたい。 だが、廊下の天井隅にある監視カメラの黒いレンズが目に入った。 器物破損は弁償。傷害沙汰は即解雇。 契約書の条項が脳裏をよぎる。 (チビのためだ。我慢しろ、実加) 実加は深く息を吐き出すと、視線を逸らした。「……チッ。細かいことウダウダと」「なんですって!?」「なんでもねーですよ。やりゃあいいんだろ、やりゃあ」 実加は乱暴にワゴンを回転させようとする。 と、その時。「そこまで」 凛とした声が、廊下の空気に響く。 いつの間にか、背後に白河小夜子が立っていた。 完璧な姿勢。足音もなく忍び寄るその姿は、まるで幽霊か忍者のようだ。「総支配人&

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   213

     これまで翔吾は常に比較され、評価される対象だった。 毒母にとっては、金を引き出すための道具。 父にとっては、過ちで生まれた不必要な息子。 そして兄にとっては、出来の悪い弟。 そこには常に条件があった。優秀であれば愛する。金になれば愛する。 けれどこの赤ん坊は違う。 ただミルクをくれた、抱っこしてくれた、それだけの理由で、全幅の信頼と笑顔を向けてくる。「必要とされる」という感覚が、じんわりと胸の奥に広がっていく。 翔吾の強張っていた肩の力が抜けた。 彼は指を握り返すと、少しぎこちない笑みを浮かべた。「悪くない飲みっぷりですね」「あうー!」 理玖はご機嫌な様子で、無邪気な笑みを浮かべた。◇ 翌朝。 カーテンの隙間から差し込む朝日で、実加は飛び起きた。「やっべ、寝てた! チビ!?」 慌ててベビーベッドを確認する。 理玖は機嫌よく、天井のメリーを見つめて手足をバタつかせていた。「あれ、おかしいな……。夜中の授乳をしなかったのに、泣いていない。おむつも汚れていない?」 ふとサイドテーブルを見て、実加は目を丸くした。 そこには、きれいに洗浄・消毒され、乾燥スタンドに立てられた哺乳瓶があった。 さらに、その横にはメモ用紙が置かれている。『ミルク摂取時刻01時34分。摂取量180ミリリットル。排泄あり(おむつ交換済み)』 定規で引いたような几帳面な文字だった。「うそだろ……」 実加が呆然としていると、リビングのドアが開いた。制服に着替えた翔吾が入ってくる。 実加はメモを片手に彼を指差した。「おいメガネ! これ、あんたがやったのか?」 翔吾は視線を合わせずに答えた。「騒音でマニュアルが覚えられなかったからです。あくまで自分の環境を守るために対処し

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   212

     翔吾はベビーベッドを覗き込んだ。 彼には母親違いの弟妹がいる。もう10年以上前のことだが、赤子の世話の経験はあった。 おむつのインジケーターを見る。変色はない。濡れてはいないようだ。 室温は23度。適温だ。  ならば原因は一つ。空腹である。(ミルクを与えれば、泣き止むだろう) これは人助けではない。環境改善のためのタスク処理だ。 翔吾はそう定義付けて、キッチンへと向かった。  棚から粉ミルクの缶と哺乳瓶を取り出す。缶の裏面に記載された調乳方法を一読する。 翔吾の瞳から、眠気が消えた。 彼の脳内でスイッチが切り替わる。「70度以上のお湯で溶かし、人肌まで冷却……」 ケトルでお湯を沸かす。電子スケールの上に哺乳瓶を置き、粉ミルクをスプーンですくった。 彼の手つきは、ミルク作りというよりも化学実験のそれだった。  スプーンの縁で粉をすりきり、0.1グラムの誤差も許さずに投入する。 お湯を注ぐ角度も計算済みだ。  泡立てないように、かつ粉が溶け残らないように、手首のスナップを利かせて哺乳瓶を回転させる。 すっかりミルクが溶けたのを確認し、彼は呟いた。「攪拌(かくはん)、完了、と」 次は冷却プロセスだ。流水に哺乳瓶をさらして、秒単位で温度を下げる。  仕上げに自分の手首の内側にミルクを一滴垂らした。「37.5度……適温。完璧だ」 教科書通りのミルクが完成した。 ◇  翔吾は哺乳瓶を持ってベビーベッドに戻った。「待たせたね。今、ミルクをあげますよ」 泣き叫び続けていた理玖を抱き上げる。 その瞬間、翔吾の体が強張った。柔らかい。小さい。そして、温かい。  子供の頃、妹と弟を抱き上げたことはある。けれどこんなに小さかっただろうか。 壊れ物を扱うように、ぎこちない手つきで抱える。  既に首が座っているとはいえ、落としたら終わり

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   33

     あんな歪んだネクタイで、何千人もの社員の上に立つ社長業が務まるのだろうか。だらしない結び目は、ビジネスで戦う相手に隙を見せることになるのではないか。「完璧」を知っている人間にとって、目の前の「不完全」を放置することは、物理的な不快感を伴う。 隼人が舌打ちをして、ネクタイを乱暴に引っ張ろうとした瞬間。小夜子の体は、思考よりも先に動いていた。「……失礼いたします」 小夜子は一歩、踏み出す。隼人が鏡越しに振り返った。怪訝そうに眉を寄せている。「何だ?」「ネクタイが曲がってお

    last updateÚltima atualização : 2026-03-19
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   38

     小夜子は冷静に分析した。 この山道でパソコンの画面に目を凝らせば、誰でもそうなる。このまま無理を続ければ、あと数キロもしないうちに身体的な限界を迎えてしまうだろう。そして、月影への到着はまだ先だ。「お飾りの妻」として連れてこられた以上、余計な口出しは無用だ。空気のように気配を消し、彼の仕事の邪魔をしないことが契約上の義務である。 けれど目の前の人の不調を放置するのは、小夜子の性分に合わなかった。実家での過酷な労働の中、自分自身のコンディションを維持するために培った知恵が、脳内の引き出しから飛び出してくる。 小夜子は音を立てずにバッ

    last updateÚltima atualização : 2026-03-19
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   31

    「胃薬をお探しでしたら、棚の2段目にございます。……ですが、もしよろしければ」 小夜子はダイニングテーブルの椅子を引いた。「薬を飲む前に、少しお腹を温めてはいかがですか? 空きっ腹に薬は、胃を荒らしますので」 押し付けがましさのない、淡々とした提案だった。 隼人は拒絶しようとした。他人が作った食事など、信用ならない。 幼少期、冷え切った弁当やコンビニの味しか知らなかった彼にとって、家庭的な温かさなどというものは、煩わしい幻想でしかなかった。 けれど胃の痛みとひどい空腹が、理

    last updateÚltima atualização : 2026-03-19
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   39

     かき乱されていた平衡感覚が、香りによって繋ぎ止められる感覚。 隼人の呼吸が次第に深くなり、整っていった。強張っていた肩の力が抜け、シートの背もたれに深く体を預けた。 小夜子はその様子を見届けると、すぐに視線を窓の外に戻した。「私は空気ですので。どうぞ、お気になさらず」 恩着せがましさは少しもない。ただそこに不具合があったから、修繕しただけだと言わんばかりの態度だった。 隼人はハンカチで顔を覆ったまま、複雑な思いを噛み締めていた。(……またか) 朝食の味噌汁

    last updateÚltima atualização : 2026-03-19
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