INICIAR SESIÓNカチリ、と箸を置く音が、静かなダイニングに響いた。
現在の時刻は朝7時。窓の外には都会の空が白々と広がっている。小夜子は隼人の前に置かれた茶碗の中をそっと盗み見た。一粒の米も残っていない。
今朝の献立は土鍋で炊いた白米、焦げ目をつけないよう黄金色に焼き上げた出汁巻き卵、脂の乗った銀鮭の塩焼き、小松菜と油揚げの煮浸し、そして豆腐とわかめの味噌汁である。 旅館の朝食を模した「完璧な和定食」だ。隼人はナプキンで口元を拭い、水を一口飲んだ。「美味い」とは言わない。「ごちそうさま」とも言わない。
けれど完食された食器こそが、何よりも彼の心を語っていた。契約結婚から3週間。この奇妙な同居生活には、一つのルーティンができあがっていた。
小夜子が朝食を作り、隼人が無言で平らげる。ただそれだけの繰り返し。 けれど小夜子にとって、それは確かな成果を確認する時間でもあった。(顔色が良くなった)
小夜子は隼人の横顔を観察する。初めて会った時の土気
初夏の風が、せせらぎ亭の開け放たれた窓を吹き抜けていく。 山の緑の匂いと、帳場の奥から漂う一番出汁の豊かな香りが混ざり合い、館内には心地よい空気が満ちていた。 嵐の夜の影響は既に消えている。 黒崎隼人は小夜子とスタッフらの無事を確かめた後、東京で仕事をこなすために帰っていった。 山内実加の小さな息子、理玖もシッターに連れられて戻っている。(見違えるような活気です) 黒崎小夜子は藤色の着物の袖を整え、帳場の隅からロビーを見渡した。 視線の先には、チェックアウトを待つ宿泊客の列ができている。「いい宿だったね」「本当に。寂れた感じだと思ったら、何だか安心できる空気でさ」「また来たいよね!」 誰もが満足げな顔つきで、スマートフォンで館内の写真を撮ったり、同行者と楽しげに語り合ったりしていた。 彼らの背景にあるのは、従業員総出で手作りしたリニューアル空間だ。 黄ばんでいた壁のシミは、味わい深いレトロな和紙と真っ白な漆喰で美しく覆い隠されている。 破れていた障子は新しいものに張り替えられた。木枠の歪みは計算し尽くされたミリ単位の調整で完璧に直されていた。 軋んでいた廊下の床板は、毎日丹念に米ぬかで磨き上げられている。 今では飴色の艶を放ち、歩くたびに足の裏へ木の温もりを伝えてくれる。 最新鋭の設備ではない。 高価で豪華な内装でもない。 しかし、人の手によって丁寧に手入れされた空間は、訪れる客に実家のような安心感を与えていた。「302号室のお客様、チェックアウトの手続きを完了いたしました。次回のご予約も承りました。紅葉の季節も、当館は素晴らしい景色をご用意しております」 フロントカウンターでは、黒崎翔吾が淀みない対応を見せていた。 彼の手元には、常に最新型のタブレット端末がある。 画面には、顧客の宿泊データ、大浴場の混雑状況、厨房の配膳タイミングなどが、リアルタイムのグラフとなって表示されていた。 翔吾はそれを素早く読み取って、最
ここで結果を出さなければ、翔吾はまた無能の烙印を押されて「家族」から追い出されてしまう。 居場所を見つけられないままに、大学を退学する羽目になる。 それはどうしても受け入れられなくて、翔吾は足掻いた。 しかし、この数週間のせせらぎ亭での日々、さらには昨夜の極限状態の中で彼を救ったのは、彼が見下していたはずの非合理的な感情であり、小夜子や実加の持つ確かな体温だった。 温かいお湯に包まれて満天の星空を見上げていると、これまで自分を守っていた冷たい論理の鎧が、すっかり溶け落ちてしまったような感覚になる。 心の奥底に初めて芽生えた穏やかな感情に背中を押されるように、翔吾は自然と口を開いていた。「せせらぎ亭に出張してからこの数週間、色々なことがありました」 翔吾の声からは、以前のような冷たさも、自分を虚勢で大きく見せようとする焦りも消え去っていた。「僕はこれまでずっと、黒崎社長のような完璧で、一切の隙のない経営者になりたいと思ってきました。データと論理だけで、すべての問題を解決できると信じていたんです」「…………」 隼人は口を挟まず、目を閉じたまま弟の言葉に耳を傾けている。「でも、違いました。せせらぎ亭の皆と働き、御子柴と対峙して、はっきりと分かったんです。数字と計算式だけでは、人は動かせない。お客様の本当の笑顔は引き出せない」 翔吾は隣に座る兄へ、まっすぐに視線を向けた。「僕は、黒崎社長のような論理的な思考を持ちつつも……小夜子さんや、ここの従業員たちが持っている『優しさ』や『熱』を併せ持つ人間になりたい。それが、僕の目指す新しい経営の形です」 隼人は無言でまぶたを開けた。 湯気の中で、兄弟の視線が交差する。 隼人は弟の視線を受け止めたまま、わずかに微笑んだ。 そしてお湯の中から大きな手を出てし、翔吾の肩をバンッと力強く叩いた。「痛っ……」「お前ならできるさ。俺だって、小夜
「主人の留守中、『家』を嵐から守り抜き、中にいる『家族』たちに温かい食事を提供して命を繋ぐ。それこそが家政婦としての最重要任務ですわ。皆さんと……特に翔吾さんと実加さんと力を合わせて、完璧にこなして見せましたけれど、何かご不満でも?」 いたずらっぽく小首を傾げる最愛の妻を見て、隼人は大きく息を吐き出す。ついに目元を柔らかく崩した。「いや……。さすがは、俺の見込んだ最高の女だ」 隼人は小夜子の頬に愛おしげに手を添える。 その白い額に深く、熱を込めた口づけを落とした。「ありがとう、小夜子。俺の誇りだ。お前が家を守ってくれるからこそ、俺はどんな逆境でも戦える」「ええ。あなたのお帰りを、いつでも完璧な状態でお待ちしておりますわ」 夕闇が迫る控え室で、2人は固く手を取り合う。「でも今回は、皆さんの力があってこそ乗り越えられました。特に翔吾さんです。彼は本当に頑張りましたよ。是非、話を聞いて差し上げてください」「そうか、翔吾が……。そうだな。あいつはずっと孤独に生きてきた。せめて俺が兄として横に立たねば」 夫婦の手は自然に伸びて、互いの背中に回される。 2人は長いこと、相手の無事と体温を分かち合っていた。◇ その日の夜。 猛烈な雨と風が空気中の塵をすべて洗い流した夜空は、吸い込まれるような深い漆黒のキャンバスへと変わっていた。 見上げれば、こぼれ落ちそうなほど無数の星々が眩い光を放ち、天の川の淡い光の帯が山の稜線からくっきりと立ち上っている。 荒れ狂っていた大自然が本来の優しさを取り戻し、雄大な気配で山全体を包み込んでいた。 その満天の星空の下、せせらぎ亭の絶景露天風呂は、既に完全に再生を果たしている。 もちろん、まだ客はいない。 けれど湯船に浸かる人影があった。 黒崎隼人と翔吾の兄弟だった。 心地よい湯の音が、夜の里山に響いている
翔吾は眼鏡の奥の目を細め、素直な言葉を紡いだ。「それこそが、AIには弾き出せない最大の付加価値を生む変数だと、今は認めざるを得ません」「へっ。もっと素直に褒めりゃいいのによ」 実加は涙を腕で乱暴に拭い、ニカッと笑い返した。「お前のその小難しい計算も、まあ、結構役に立つって分かったよ、相棒」「あうー!」 理玖が母と相棒の絆を喜ぶように、機嫌の良い声を上げた。◇ 午後になると、物資の搬入と従業員たちの安否確認も一段落して、せせらぎ亭は落ち着きを取り戻し始めていた。 ロビーからは実加たちの声が聞こえてくる。 嵐の夜がいかに恐ろしかったか、でももう笑い話になったと、理玖に話して聞かせているようだ。「小夜子。少しいいか」 それまで忙しく陣頭指揮を取っていた隼人が、小夜子の手を取った。「はい、社長。何の御用でしょうか?」 隼人は答えず、妻の手を引いて帳場へと向かった。 無人の帳場はしんと静まり返っている。 扉が閉まった瞬間、隼人が纏っていた「完璧なトップ」としての隙のないオーラが解けた。 彼はそのまま白い割烹着姿の小夜子を力強く、けれど優しく抱き寄せた。「隼人さん……?」「小夜子。本当に、怪我はどこにもないんだな? 無理をして隠していないか?」 普段の冷静沈着な隼人からは想像もつかない、切迫した声だった。 小夜子の背中に回された大きな腕には、はっきりとした安堵と、拭い去れない恐怖の余韻がこもっている。「道路が寸断され、ここが完全に孤立したと報告を受けた時……俺は、自らの無力さを呪った。お前をこんな山奥の嵐の中に残してしまったことを」 小夜子は、自分を抱きしめる夫の広い背中にそっと手を添えて、穏やかな微笑みを浮かべた。「何をおっしゃいますか。あなたはアーク・リゾーツの社長です。本社で全社的な危機管理の
「帰るぞ」 隼人が率いてきた車の一団の後ろには、グラン・ヘリックスのロゴが入った車が数台、続いていた。 部下たちが慌ただしく迎えの車へ向かう中、御子柴はすれ違いざまに隼人を鋭く睨みつけた。「だが、ビジネスの戦いが終わったわけではない。次こそは必ず君たちを叩き潰す。それこそどんな手段を使っても、だ」「望むところだ。お互い、最高のリゾートを目指そうじゃないか」「ハッ。せいぜい甘いことを言っていろ」 隼人が余裕のある笑みを返すと、御子柴は舌打ちをして、そのまま車へと乗り込んだ。 ワゴン車が土煙を上げて去っていくのを、従業員たちは無言で見送った。「やった……。おい、やったぞ! アタシらの宿が、黒船を追い返したんだ!」 実加の歓声を皮切りに、ロビーが大きな喜びに包まれた。 仲居たちが抱き合い、板前と番頭が肩を叩き合って喜んでいる。「実加さん」 ふわりと百合の香りを漂わせ、小夜子が穏やかな微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。 その後ろには、隼人の車から降りてきた見慣れたシッターの女性と――。「あー、あー!」 シッターに抱き抱えられた、小さな赤ん坊の姿があった。「チビ……! 理玖!!」 実加は弾かれたように駆け寄って、理玖を両腕で力強く抱きしめた。 柔らかくて温かい、小さな体。ミルクとベビーパウダーの甘い匂いが胸いっぱいに広がる。「ごめんな、ずっと会えなくて! 母ちゃん、この宿をすっげえきれいにしたんだぞ! どうだ、かっこいいだろ!」 実加の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。 理玖は不思議そうに目をパチパチさせた後、実加のメッシュの入った髪を小さな手で掴み、きゃあきゃあと嬉しそうに笑った。 シッターがニコニコと笑って言った。「理玖くんは、この前ついにハイハイを始めたんですよ」「えっ、マジすか。チビ、母ちゃんにハイハイ見せてくれよ」「だあ!」
玉砂利を踏みしめる複数の車のタイヤ音が近づき、せせらぎ亭の門の前に3台の黒いワゴン車が停車した。「……我が社の緊急車両だろう。手回しが早い」 御子柴は安堵とも疲労ともつかない息を吐き、立ち上がった。 グラン・ヘリックスの危機管理チームならば、自社のトップを救出するために道路が開通した瞬間に一番乗りで駆けつけて当然だ。 彼がそう確信して玄関へ向かおうとした時のことだった。 先頭の車のドアが音を立てて開き、磨き上げられた革靴が的確に地面を踏みしめた。 降りてきたのは、御子柴の部下ではなかった。 嵐の爪痕が残る泥だらけの風景とは完全な対極にある、一切のシワもないスリーピースの高級スーツ。 高身長で均整のとれた体躯から放たれる、周囲の空気を一瞬で支配するような圧倒的なオーラ。 男はカフスボタンに軽くと触れて身なりを整えると、鋭くも底知れぬ深さを持つ瞳で、せせらぎ亭の建物を、そして玄関口で呆然と立ち尽くす御子柴を見据えた。「兄さん……いえ、黒崎社長!」 翔吾が弾かれたように声を上げる。 アーク・リゾーツ社長、黒崎隼人だった。 隼人の後ろの車からは、彼が自ら手配し、最速で駆けつけたアーク・リゾーツの精鋭スタッフたちが、大量の飲料水や食料、毛布などの救援物資を次々と下ろし始めていた。 それを見たせせらぎ亭の従業員たちが、歓声を上げる。「道が開通したと聞いて、急いで物資を積んで来たが……どうやら、皆無事のようだな」 隼人はロビーを見渡し、最後に、汚れた浴衣姿で立つ御子柴へと視線を定めた。「これは驚いた。グラン・ヘリックスの日本支社長殿が、うちの宿で寛いでおられるとは」「……嫌味な男だ。相変わらずな」 御子柴は忌々しげに顔をしかめながらも、言い訳を一切せずに隼人と真っ向から対峙した。「私の負けだ、黒崎社長」 御子柴の言葉に、番頭や板前たちが絶句する。
隼人は無表情のまま、冷ややかに麗華を一瞥した。ゴミを見るような目だ。だが麗華はその視線の意味を理解しない。むしろ自分の美しさに圧倒されて言葉を失っているのだと勘違いして、さらに言葉を重ねた。「いいこと? 結婚してあげてもいいけれど、条件があるわ。まず、その無礼な態度を改めること。私の前ではひざまずいて挨拶なさい。それから、あなたの資産の管理権は全て私とお母様に――」「黙れ」 短く鋭利な一言が、麗華の妄言を断ち切った。隼人は書類をテーブルに叩きつけた。「勘違いするな。私が欲しいのは『白河の戸籍』という看板だけだ。お前個人のわ
車内は深海の底のような静寂に包まれていた。 唯一の光源は、隼人の手元にあるタブレット端末が放つ蒼白い電子の光だけ。その冷たい青い光が、彫刻のように整った、しかし険しい彼の横顔を闇の中に浮かび上がらせていた。 小夜子はシートの端、ドアに張り付くようにして身を縮めていた。 高級な本革の香りが鼻孔をくすぐる。自分の纏う埃っぽい匂いがそれに混ざるのではないかと心配になって、呼吸さえ浅く保つ。 隣に座る夫――小夜子の所有者は、苛立っていた。指先が画面を叩く音が、鋭いリズムとなって車内に響く。 彼は明らかに殺気立っていた。それは、
(ここは人が暮らす場所ではないわ。まるで氷の城ね) そんな小夜子の迷いなど意に介さず、隼人はさっさとリビングへと進んでいく。 彼は上着を脱ぎ捨て、ソファの背もたれに無造作に掛けた。 広大なリビングの中央に鎮座する、黒い革張りのソファ。 隼人はそこに深く腰掛けて、ガラステーブルの上の瓶とグラスを手に取った。中にはウィスキーだろう、琥珀色の液体が満ちている。 カラン、と氷がグラスに当たる硬質な音が、広い空間に反響する。酒が注がれる音だけが、この部屋の沈黙を埋めていた。 隼人はグラスを傾け、氷越しに小夜子を見据えた
(それなら、私にもできる) 今までこの家で、感情のない「機能」として扱われてきたのと同じだ。期待されないということは、失望されることもないということ。愛されないということは、憎まれることもないということ。 それは今の小夜子にとって、これ以上ないほど気楽で救いのある条件だった。 隼人は懐から小切手帳を取り出した。万年筆が走る音だけが、静まり返った部屋に響く。「3」と、「0」が8つ。ビリリ、と紙を切り離す音がした。それは、小夜子と白河家の縁を断ち切る音のように聞こえた。 隼人が小切手をテーブルに置く。父と義母が、浅ましくそれに飛びつ







