تسجيل الدخولあんな歪んだネクタイで、何千人もの社員の上に立つ社長業が務まるのだろうか。だらしない結び目は、ビジネスで戦う相手に隙を見せることになるのではないか。
「完璧」を知っている人間にとって、目の前の「不完全」を放置することは、物理的な不快感を伴う。
隼人が舌打ちをして、ネクタイを乱暴に引っ張ろうとした瞬間。小夜子の体は、思考よりも先に動いていた。「……失礼いたします」
小夜子は一歩、踏み出す。隼人が鏡越しに振り返った。怪訝そうに眉を寄せている。
「何だ?」
「ネクタイが曲がっております。恐れ入りますが、少し失礼してもよろしいでしょうか」
隼人は口を開きかけた。「自分でやる」と言おうとしたのだろう。
だが彼は腕時計をさっと見て、小さく舌打ちをした。もう時間がない。 隼人は無言で顎をしゃくった。許可の合図だ。 小夜子は音もなく近づいた。ハイヒールを履いていない小夜子の頭は、長身の隼人の胸元あたりにしかない。わずかに背伸びをし翔吾は無意識のうちに拳をきつく握りしめた。 彼はずっと都会育ちだった。 何もない山の中で、電気という文明の利器を奪われるのがこんなに恐ろしいとは思ってもみなかった。 手元のスマホを見れば、台風直撃のニュースや気象図が表示されている。当分、この状態のままだろう。 手のひらにじっとりと嫌な汗がにじんだ。 シュッ。 暗闇の中で、小さな摩擦音が聞こえた。 ぽっ、と。 オレンジ色の小さな炎が浮かび上がる。「落ち着きなさい。パニックを起こしてはいけません」 小夜子だった。 彼女は一切の無駄のない動きでマッチをこすり、テーブルの上に用意してあったランタンに火を灯した。 非常用の古いランタンだった。 温かな光が小夜子の顔を照らし出す。 その表情には、普段と全く変わらない平穏があった。「実加さん、懐中電灯を。番頭さんは、各部屋の雨戸に異常がないか、見回りをお願いします」 小夜子の淀みない指示に、硬直していた実加がハッと息を吹き返す。「お、おう! 懐中電灯だな、すぐ点ける!」「俺も見回りに行ってくる。こんな風じゃ、古い雨戸が吹き飛びかねねえ」 実加は用意していた懐中電灯を手に取り、明かりを灯す。 仲居や番頭たちにそれぞれ手渡すと、館内には光が戻った。 懐中電灯を手に、番頭が足早に廊下へ向かう。 小夜子はカセットコンロを取り出して、あらかじめ汲んでおいた水で手際よくお湯を沸かし始めた。 やがて沸いたお湯で、急須から湯呑みへ温かいお茶が注がれる。「翔吾さん。どうぞ」 小夜子が、ランタンの光とともに一杯のお茶を差し出した。「……ありがとうございます」 翔吾は湯呑みを受け取り、両手で包み込んだ。 陶器越しに伝わる熱が、冷え切っていた指先をじんわりと温めていく。 一口飲むと、ほうじ茶の香ばしい匂いが鼻腔を抜ける。 高ぶっていた心拍数が、
「お願いします。飲料水の確保も忘れずに。水道が止まるリスクも計算に入れてください」『おう、任せとけ!』 せせらぎ亭の従業員たちは、誰1人として無駄な動きを見せなかった。 翔吾は的確にデータを分析し、指示を飛ばす。 実加は持ち前の行動力で、次々と必要な作業をこなしている。 小夜子はいつでもブレない方針を示して、彼らの道をしっかりと照らしている。 翔吾と実加がせせらぎ亭に出張してきて、数週間。 この期間で培われたチームワークが、緊急事態において完璧に機能していた。◇ 午後5時になると、翔吾の予想通り嵐はせせらぎ亭を直撃した。 ゴオォォォォ……ッ! 獣の咆哮のような風の音が、山の木々を激しく揺らしている。 横殴りの雨が、古い木造建築の壁や雨戸を容赦なく打ち据えた。 バリバリという凄まじい雨音に、従業員同士の会話すらまともに聞き取れない。「すっげえ風だな……。建物、もつのかよ」 実加が窓の隙間から外を覗き込もうとして、強風でガタガタと鳴る窓枠に肩をビクッと跳ねさせた。 その直後だった。 キュイィィィン! キュイィィィン! けたたましい電子音が、帳場にいる全員のポケットから一斉に鳴り響いた。 不協和音を奏でるような、神経を刺激する音。スマートフォンに届いた緊急速報のアラートだ。 翔吾は即座に端末を取り出して、画面に表示された文字を読み上げた。「……麓に通じる県道で、大規模な土砂崩れが発生。道路が完全に寸断されたとのことです」「なんだって!?」 番頭が顔面を蒼白にさせる。「あの道は、ここから下界に下りる唯一のルートだぞ。それが通れねえってことは……」「ええ」 翔吾は画面から目を離し、薄暗いロビーを見渡した。「我
せせらぎ亭の帳場に、重苦しい空気が立ち込めていた。 といっても、経営上の問題ではない。 大盛況の夕食から数日後のこと。 週末の賑わいが嘘のように、窓の外の空は分厚い鉛色の雲に覆われている。昼間だというのに、館内は薄暗い。「最新の気象データを受信しました」 黒崎翔吾はフロントカウンターに立って、タブレット端末の画面を鋭い視線で見つめていた。 画面には、巨大な渦を巻く台風の予想進路図が表示されている。「記録的な勢力です。現在の移動速度から計算すると、本日の午後5時には、この山間部が完全に暴風域に入ります。風速は30メートルを超える予測だ」 翔吾の報告を聞き、藤色の着物姿の小夜子が頷いた。 彼女の表情に動揺はない。女将としての凛とした佇まいのまま、周囲に集まった従業員たちを見渡した。「これより、当館は台風に備えた緊急対応態勢に入ります。お客様の安全、そして従業員の皆さんの命を守ることを最優先とします」「女将、今週末も予約で満室のはずですが……」 番頭が不安そうに声を上げる。 翔吾は即座に首を横に振った。「すべてキャンセルします。先ほど、ご予約いただいていたすべてのお客様に連絡を入れ、宿泊のお断りと全額返金の手続きを完了させました」(利益の損失は痛い。だがここで無理に営業を強行し、万が一の事態が起きれば、せせらぎ亭のブランドは完全に崩壊する。安全という絶対の価値を守ることこそが、最も合理的な判断だ) 翔吾は自らの下した決断に、少しの後悔も抱いていなかった。「よし、客がいねえなら気兼ねなく作業できるな!」 山内実加が、腰に巻いた道具袋から太い養生テープの束を取り出した。「番頭さん、仲居の姉さんたち! 窓ガラスの補強からやるぞ。テープは米の字に貼るんだ。万が一割れた時に、ガラスが飛び散らねえようにするためだかんな!」「おう、分かった! 俺は雨戸を全部閉めて回る!」「私たちも行きましょう!」 番頭が足早に廊下を駆けてい
翌日の夕食時、せせらぎ亭の食堂は、満席の客で賑わっていた。 翔吾は作務衣を着込んで、ホールの隅から客席の様子を鋭い視線で観察している。 各テーブルに運ばれていくのは、せせらぎ亭の新たな看板メニュー。 真の『里山懐石』だ。 炭火の入った小さな七輪の上で、肉厚の原木椎茸が炙られている。 熱が加わるにつれて、椎茸の表面にジュワッと黄金色の出汁がにじみ出し、香ばしい醤油の匂いが食堂全体を満たしていた。 メインの鉢には、風呂吹き大根が鎮座している。 何時間もかけて昆布出汁で煮込まれた大根は、箸を少し入れただけで崩れるほど柔らかい。 上には、地元の味噌を使った甘辛い柚子味噌がたっぷりと乗せられている。 小鉢には、大根の皮を細切りにして胡麻油と唐辛子で炒めた金平。 カブの葉とじゃこの混ぜご飯。 葉っぱや皮に至るまで、無駄なものは一切ない。 地のものを、地のやり方で味わい尽くすフルコースだ。「うわぁ……いい香り!」 若い女性客が、椎茸を口に運ぶ。 その瞬間、彼女の目が驚きに見開かれた。「何これ!? お肉みたいにジューシー! 旨味がすごい!」「こっちの大根も食べてみろよ。口の中で溶けたぞ。こんなに甘い大根、初めて食った」 向かいの男性客も、感嘆の声を漏らしながらご飯をかき込んでいる。 あちこちのテーブルから、「美味しい」「すごい」という歓声が上がっていた。 肉や高級魚がないことに不満を漏らす客は、一人としていなかった。(完璧だ) 翔吾は手元の端末に記録されていく、アンケートの速報データを確認した。 食事に対する満足度のスコアは、先週末の数値をさらに大きく上回っている。「大成功だな、インテリ」 空いた皿を下げてきた実加が、翔吾の横に並んで得意げに笑った。「ええ。顧客の期待値を見事に超えました。提供する価値の方向性を変えることで、満足度を最大化させたんです」「相変わら
実加は嬉しそうに大根やナスを手で撫でた。 収穫したばかりの野菜は、スーパーの店頭に並ぶものと比べ物にならないほどの張りがある。「これならきっと、美味い料理が作れるな」 実加はぱっと笑った。その笑顔は屈託なく、愛嬌がある。 くるくると立ち働く彼女に、農家の人々も心を開いてくれた。「ウチ、生後6ヶ月の赤ん坊がいるんスよ。もう離乳食が始まっていて。もう少ししたら、ここの野菜も食わせてやりたいなあ」 実加が言うと、農家の女性が声を上げた。「あら、そうなの! 6か月なら野菜ペーストもいいわね。ニンジンなんておすすめよ。ここの畑のニンジンは甘いから、きっと赤ちゃんも気に入るわ」「わあ、いいっすね! じゃあチビ用に買っていこうかな……」「こら、実加。今日は仕事で来たのを忘れるな」 番頭に釘を刺され、実加は頭を掻いた。「あ、そうだった。野菜があんまり美味そうで、つい。すんません。また来ますんで、その時によろしく」「ええ、待ってるわ」 こうして番頭と実加は、農家から様々な野菜類を仕入れることができた。◇ 夕方、軽トラックがせせらぎ亭の裏口に戻ってきた時、その荷台は文字通り『宝の山』になっていた。「板長! 持ってきたぜ!」 実加が大きな段ボール箱を抱えて厨房に入ってくる。 箱の中を見た板前は、目を大きく見開いた。「こ、こいつは……」 大根は泥付きで、丸太のように太い。 紫色のカブは鮮やかな色合いで、皮が弾けそうなほどの張り。 さらには大人の手のひらほどもある、肉厚で香り高い原木椎茸もある。 形は不揃いで、スーパーに並ぶような見栄えではない。 けれど土の豊かな香りと生命力に満ち溢れたツヤは、どんな高級食材にも劣らない存在感を放っていた。「どうだ板長、これで料理できそうか?」 実加が
「あの宿が元気になってくれるなら、安いもんだ。裏の納屋に、今朝採ってきたばかりの原木椎茸と、珍しい山菜が山ほどある。好きなだけ持っていきな」「マジで!? ありがとー!!」 実加は老人の手を両手で握りしめ、何度も上下に振った。「すまんな、源さん。あいつ礼儀知らずでよ」 実加が納屋に走っていった後、番頭は老人に頭を下げた。 老人は笑う。「構わん、構わん。若いやつはあのくらい元気があった方がいい。しかし急にどうしたね? 宿で俺のキノコを使うなんぞ、今までなかったろうが」「実は事情があってな……」 番頭が御子柴の話をすると、老人はため息をついた。「グラン・ヘリックスっちゅーと、あのでかいリゾートホテルだな。あんなでかい箱モノをおっ立てて、この里山に悪影響が出なけりゃいいがと心配していたんだよ。せせらぎ亭は昔からある、この町の宿だ。潰れずにまた客が来るなら、こんなに嬉しいことはない」「ありがとうよ。……それでキノコと山菜の代金は、いくら払えばいい?」「そういう事情なら、タダでも構わんぞ」「そうはいくかよ。里山と町を心配してくれる源さんが、干上がっちゃどうしようもないだろ。しっかり金を受け取って、これからも働いてくれ。何、心配いらん。予算ならうちの親会社が出してくれる」 番頭がニヤリと笑うと、老人も笑みを返した。「そういうことなら、きっちりもらおうかね。納屋にあるだけというと、こんなもんだが」「よし。受け取ってくれ」 番頭が老人に代金を渡したところで、両手いっぱいにキノコと山菜を抱えた実加が戻ってきた。「番頭さん! 見てくれよ、これ。すげー立派な椎茸と、他にも山菜が山ほどだ。香りがいいんだよ、これ!」「そうじゃろう、そうじゃろう。俺の自慢のキノコだからな」 老人が笑う。 番頭と実加は改めて礼を言って、たくさんの食材を軽トラに積み込んだ。「またいつでも来いよー!」「うん、また来るぜ
(ああ、よかった……) 小夜子は、知らず知らずのうちに止めていた息を、細く長く吐き出した。 この人は、私を殴らない。罵倒しながら過重労働を強いることもない。 そして何より、「愛せ」とか「愛想よく振る舞え」といった、心まで支配するような要求をしてこない。 ただ、「いないものとして扱われる」だけ。 それは実家で受けてきた扱いと同じ。しかも実家よりも遥かに好待遇だ。 雨風をしのげる頑丈な屋根があり、誰にも邪魔されない個室が与えられる。それは小夜子にとって夢のような条件だった。
黒崎隼人の到着まであと30分。 小夜子は本邸の裏手にある衣装部屋に立たされていた。義母が桐の長持(ながもち)から古びた布切れを引っ張り出して、小夜子に向かって放り投げた。「ほら。今日のあんたの衣装よ」 小夜子は、床に落ちそうになったそれを空中で受け止めた。 それは正規の制服ですらない、時代がかった代物。おそらく数世代前の使用人が着ていたと思われる、黒のワンピースと白いエプロンだった。生地は洗濯を繰り返して薄くなり、色はあせている。経年劣化で白い生地は薄いクリーム色に変化していた。 何ともみすぼらしい古着に、だが、小夜子
給湯室で小夜子は茶筒の蓋を開けた。 ふわり。若草のような爽やかな香りが立つ。選んだのは、とある銘柄の最高級の茶葉である。 義母たちは存在すら忘れているだろうが、小夜子が湿気と移り香を避けるため厳重に管理していた逸品だ。(オーダーは『渋い茶』だった) 小夜子は湯温計を見つめる。通常、玉露や上級煎茶は旨みを引き出すために低温で淹れるのが定石だ。 だが、今の黒崎隼人が求めているのは甘ったるい旨みではない。あの悪趣味な客間に充満する腐ったような甘さを断ち切るための、鋭い「刺激」だ。(湯温は、あえて高めの80度)
喉まで出かかった言葉を、小夜子は飲み込んだ。今、口答えをすれば、この場はさらに長引く。 あと1時間もしないうちに黒崎隼人が来てしまう。客人を迎える準備を遅らせるわけにはいかない。 小夜子は額の痛みを無視し、畳に手をついて頭を下げた。「申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」「フン。さっさと準備に戻れ」 父たちは桐箱を大事そうに抱え、客間へと消えていった。 一人残された廊下で、小夜子はようやく身を起こした。額に手をやれば、鈍い痛み。少し腫れている。(良かった、血は出ていない。こ







