LOGIN彼らは再び姿勢を低くして、大理石の床を這うように進む。
大理石は靴下越しにも冷たく、体の熱を奪っていくようだった。その時、エントランスの自動ドアが開き、大きなキャリーケースを引いた10人ほどの宿泊客の集団が雪崩れ込んできた。
楽しげな話し声が、ロビーに反響する。 彼らの進行ルートは、理玖たちが進もうとしていた方向と完全に被っていた。(やばい! 隠れる場所がない!)
理玖は立ち止まり、周囲を見渡した。
さえぎるもののない大理石の床の上では、彼らの姿は丸見えだ。 フロントのスタッフがこちらに気づくのは時間の問題だった。「こっちよ」
美夕が理玖の手を引き、ロビーの中央にある巨大な装飾柱の裏へと駆け込んだ。
柱の根元には、大人の背丈ほどもある立派な観葉植物の鉢植えがいくつも並べられている。「あのしょくぶつのうしろからまわれば、みつからないわ」
美夕の指示に従い、理玖は観葉植物の葉の隙間から客の集団をやり
理玖は口をパクパクさせた。 家でエプロンをつけて夕飯を作る母の姿とは全く違う。 翔吾と口喧嘩をして笑っている姿とは天と地の差だ。 プロフェッショナルとしての緊張感が、彼女の全身から発散されていた。「佐藤さん、こっち来て」 実加がベッドから離れ、バスルームの方へ声をかけた。 若い清掃スタッフが小走りでやって来る。「ここの鏡の水滴の拭き残し、お客様はすぐ気付くからね。手首のスナップをきかせて、一定の方向に向かって拭き上げるんだ」「はい!」 実加はマイクロファイバーの布巾を手に取り、手本を見せた。 素早くも効率的な動作で、汚れがしっかり落ちている。 部下の佐藤が驚きの声を上げた。「わっ、すごいです。こんなに早くきれいにできるなんて……。さすがチーフです」「おだてても何も出ないぞ。このやり方はウチの師匠直伝なんだ。師匠はもっとすごいからな」 実加の表情は自信に満ちており、頼もしいチーフの顔つきだった。(ぼくの母ちゃん、めちゃくちゃかっこいいじゃないか) 理玖は胸の奥が熱くなるのを感じた。 先日の「しさつ」では、父・翔吾の働きぶりは見たけれど、実加は歩いているのを見かけただけだった。 こうして実際に仕事をし、部下に指導をしているところを見るのは初めてだ。「すげえ……母ちゃ……」 感嘆の言葉が、思わず口からこぼれそうになる。 その瞬間。 両側から小さな手が伸びてきて、理玖の口を塞いだ。 美夕だ。 実加が指示を終えて、廊下側の清掃用具を確認するために振り返る気配がした。 カツ、カツ。 パンプスの硬い足音が、客室の入り口へ向かって響き始める。 実加がドアの枠から顔を出そうとした。 美夕は理玖の服の裾を強く引っ張り、すぐ背後にある半開きのドアへと飛び込んだ。 そこは各フロアに設置されている
ドアの隙間から廊下に出ると、従業員用の通路が伸びている。 グレーの床がどこまでも続いていた。 エアコン空調の稼働音が、低い耳鳴りのように空間を満たしていた。「かいだんをのぼるわよ」 美夕は迷いなく、従業員用の非常階段の扉を開けた。 扉は重たかったので、2人で力を合わせて開けた。 5歳の理玖にとって、大人用の階段は一段一段が高い。 よっこいしょ、と声に出さないように足を持ち上げて、金属製の手すりの下の方を掴んで登る。 コンクリートの段差から、ひんやりとした空気が靴下越しに伝わってくる。(ぼくの足、もう疲れてきちゃったのに。美夕ちゃんはどうしてあんなに平気な顔をしてるんだ?) 彼女は3歳児の小さい足で、リズミカルに階段を攻略していく。 何階分登ったことだろう。 理玖は息を切らしながら登りきり、目的の階に到着した。 その先の重い鉄扉を押し開ける。 そこは、客室フロアだった。 従業員用通路の無機質な空気とは打って変わり、高級感のある空間が広がっている。 足元には、ふかふかとした毛足の長いじゅうたんが敷き詰められていた。 色は落ち着いたネイビーブルーで、細かい金色の糸が幾何学模様を描いている。 天井のダウンライトは光量が抑えられ、壁の木目調のパネルを柔らかく照らしていた。 空気清浄機の作動音が、かすかな風の音となって耳に届く。 理玖は絨毯の感触を足の裏で確かめた。 一歩踏み出すごとに、ふんわりと体重が優しく包み込まれる。 足音は全く立たない。「しせいをひくくね」 美夕が低い姿勢のまま、アヒルのような歩き方で進む。 理玖もそれに倣った。まるで小さなアヒルの兄妹だ。 各部屋のドアには、金色の金属プレートでルームナンバーが記されている。 冷たい金属の光沢が、ホテルの格式を物語っていた。 2人が角を曲がると、廊下の先で開け放たれた客室のドアがあった。 中から掃除機の低いモーター音
保育園児たちのお昼寝の時間がやってきた。 ホテル『サンクチュアリ』の裏手に併設された社内保育園「こぐまの森」には、ゆったりとしたテンポのオルゴールのメロディが流れている。 パステルイエローの壁紙には、丸みを帯びた森の動物たちのイラストが規則正しい間隔で並んでいた。 室内は常に一定の温度と湿度が保たれており、肌に触れる空気が心地よい。 子供たちは小さなタオルケットにくるまって、一定のリズムで寝息を立て始めている。 5歳の理玖は目を閉じ、うとうとと眠りに落ちようとしていた。 ふと。 横腹を、つんつんと突かれる感触があった。 薄目を開ける。 隣のマットにいるはずの美夕が、ぱっちりと目を開けてこちらを見下ろしていた。「りくくん、おきて」 ささやき声が耳元まで届く。 理玖はノソノソと上半身を起こした。「どうしたの、美夕ちゃん。おしっこ?」「ちがうわ。きょうは、きゃくしつのしさつよ」 美夕の小さな口から、またしても難しい単語が飛び出した。(しさつ。この前も聞いた言葉だ。嫌な予感しかしないぞ)「客室って、お客さんが泊まるお部屋だろ? 行っちゃだめだって、母ちゃんが言ってた」 理玖は兄貴分としての威厳を保とうと、声のトーンを落として諭した。「ほてるのさーびすのきほんは、きゃくしつにあるの。じょうそうぶがげんばをしらなくて、どうするの」 3歳児の言葉とは思えない論理武装だった。 彼女の母親である小夜子の口調を、完全にコピーしている。「で、でも。ぼくたちは子供だもん。じょうそうぶ? じゃないよ」「じょうそうぶよ」 美夕は言い切った。 社長と総支配人の娘である彼女であれば、上層部と言えなくもないだろう。 しかし理玖は社長の弟の養子だ。微妙すぎる。(ていうか、じょうそうぶって何?) 5歳の理玖は反論の言葉を見つけられなかった。 部屋の隅の事務机では、保育士が
理玖はガラスに額を押し付けたまま、父親の働く姿を見つめた。 先ほど廊下でカートを押していた実加の姿も脳裏に蘇る。 家でエプロンをつけて料理をする母。 膝の上で絵本を読んでくれる父。 その2人が今は全く違う顔をして、この巨大なホテルを動かす歯車の1つとして完璧に機能している。(母ちゃんと父ちゃん、なんだかすごく遠くにいる人みたいだ) 理玖の胸に誇らしさと同時に、少しだけの寂しさが混じった不思議な感情が湧き上がった。 大人の世界はかっこいい。でも、まだ自分には手の届かない遠い場所だ。「しさつ、かんりょうね」 美夕が満足そうに呟いた。 彼女の瞳には、両親たちの作り上げたこのホテルへの強い信頼と誇らしさが宿っている。「帰ろう、美夕ちゃん。おやつの時間になっちゃう」 理玖が促すと、美夕は素直に頷いた。「そうね。つぎのじゅんかいは、またこんどにしましょう」「まだやるつもりなの?」 2人の小さな探検隊は、来た時と同じように姿勢を低くして、再び秘密のルートを引き返し始めた。 ロビーの喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。 シャンデリアの光が、2人の小さな背中を優しく照らしていた。 彼らの靴下が床を擦るわずかな音は、ホテルを満たす活気の中に完全に溶け込んでいった。 保育園に戻った2人が、保育士に叱られるのはそれから10分後のことである。「2人とも、どこへ行っていたの! 心配したのよ。勝手に外に出たら危ないでしょう!」「ごめんなさい」 美夕はしおらしく謝りながらも、「しさつ」に行ったのはとうとう隠し通した。 保育士は外を少しうろついた程度だと思ったらしい。 一通り叱った後は許してくれて、おやつの時間になった。 おやつのボーロを頬張りながら、理玖は先ほど見た両親の姿を頭の中で何度も反芻していた。 いつか自分も、あんな風にかっこよく働けるようになるのだろうか。 プラスチックのコップに入った麦茶を飲み
彼らは再び姿勢を低くして、大理石の床を這うように進む。 大理石は靴下越しにも冷たく、体の熱を奪っていくようだった。 その時、エントランスの自動ドアが開き、大きなキャリーケースを引いた10人ほどの宿泊客の集団が雪崩れ込んできた。 楽しげな話し声が、ロビーに反響する。 彼らの進行ルートは、理玖たちが進もうとしていた方向と完全に被っていた。(やばい! 隠れる場所がない!) 理玖は立ち止まり、周囲を見渡した。 さえぎるもののない大理石の床の上では、彼らの姿は丸見えだ。 フロントのスタッフがこちらに気づくのは時間の問題だった。「こっちよ」 美夕が理玖の手を引き、ロビーの中央にある巨大な装飾柱の裏へと駆け込んだ。 柱の根元には、大人の背丈ほどもある立派な観葉植物の鉢植えがいくつも並べられている。「あのしょくぶつのうしろからまわれば、みつからないわ」 美夕の指示に従い、理玖は観葉植物の葉の隙間から客の集団をやり過ごした。 巨大な葉が視界を遮り、客たちの足元だけが見える。 革靴やハイヒールが通り過ぎるのを、理玖は息を潜めて見つめた。 足音が遠ざかり、フロントの方で応対のやり取りが始まる声が聞こえてくる。「いまよ」 美夕の合図で、2人は観葉植物の影から飛び出した。 壁沿いの目立たないルートをたどり、ロビーの奥へと進む。 美夕のルート計算は完璧だった。 フロントスタッフの視線の死角を突き、客の動線を避けながら、2人は見事にロビーを横断した。「美夕ちゃん、頭いいな……」 理玖が感嘆の声を漏らすと、美夕は得意げに笑った。「ちーふ・こんしぇるじゅの、うごきをよんだの」 彼女は自分の母親の部下たちの働きぶりを、日頃から観察しているらしい。 そうして2人がたどり着いたのは、メインダイニングの入り口付近だった。 ドアの装飾には真鍮が使われており、手の届かない場所にあるそれを理玖は見上げ
美夕は迷いのない足取りで、角を曲がっていく。 彼女の頭の中には、先ほどの画用紙に描かれたフロアマップが完全に入っているらしい。 前方の曲がり角から、車輪が床を転がる微かな音が聞こえてきた。 さらに、柑橘系の洗剤の匂いが鼻をくすぐる。 理玖の頭に、警報が鳴り響いた。(この匂い、母ちゃんの清掃カートだ!)「美夕ちゃん、ストップ!」 理玖が小声で叫ぶより早く、美夕は理玖の袖を引っ張った。 すぐ横にあったリネン室のドアノブを回し、理玖を中へ引きずり込む。 リネン室の中は、真っ白なシーツやタオルが山積みにされていた。 洗い立ての布地の匂いと、少し埃っぽい空気が混ざり合っている。 理玖はシーツの山の影に身を潜めた。 心臓がどくどくと激しく鳴っている。 ドアの隙間から、細い光の線が差し込んでいる。 その光をさえぎるように、清掃カートを押す実加の姿が通り過ぎていった。 制服のスカートを翻し、鼻歌を口ずさみながら歩いている。 その姿は楽しそうで、足取りはキビキビとしていた。 理玖は呼吸のペースを落とし、実加の足音が完全に遠ざかるのを待った。 やがて廊下に再び無音が戻った。「ふう……。危なかったぞ、美夕ちゃん」 理玖が安堵の息を吐くと、美夕はシーツの山から顔を出した。「ルートかんりは、かんぺきよ。さあ、つぎはロビーのしさつね」 彼女は全く悪びれる様子もなく、再び廊下へ出た。 2人は従業員専用の通路を抜け、バックヤードと表の境界にある二重扉を通り抜けた。 目の前に広がったのは、圧倒されるようなスケールを持つホテルのメインロビーだった。 大理石の床が、天井から吊るされた巨大なシャンデリアの光を反射して煌めいている。 空調の効いた空間には、豪華な百合の生花から放たれる甘く強い香りが漂っていた。 併設されたラウンジからは、コーヒー豆のほろ苦い焙煎香が微かに混ざってくる。







