LOGIN(なんだ、これは。彼女はただのお飾りの妻だ。有能なのは理解したが、それ以上は……)
小夜子の顔を直視できず、視線がさまよう。
ふと、隼人の視線が小夜子の手元に止まった。
喜びを噛み締めるように膝の前で組まれたその手。白く美しい形をしているが、その指先は赤く荒れて所々ひび割れていた。旅館『月影』での冷たい水での米研ぎと、泥だらけの野菜洗い。
そして、昨日の寒空の下での墨すり。かじかむ手で何時間も冷たい水を使い続けた代償だ。 この勝利をもたらしたのは、この傷だらけの手だった。隼人の表情が曇った。
「……その手」
「え?」
小夜子はハッとして、慌てて手を背中に隠した。
「申し訳ありません、お見苦しいものを……。すぐにクリームで手入れをいたしますので」
こんなガサガサの手では、パートナーとして失格だと思われたかもしれない。小夜子が
実加は嬉しそうに大根やナスを手で撫でた。 収穫したばかりの野菜は、スーパーの店頭に並ぶものと比べ物にならないほどの張りがある。「これならきっと、美味い料理が作れるな」 実加はぱっと笑った。その笑顔は屈託なく、愛嬌がある。 くるくると立ち働く彼女に、農家の人々も心を開いてくれた。「ウチ、生後6ヶ月の赤ん坊がいるんスよ。もう離乳食が始まっていて。もう少ししたら、ここの野菜も食わせてやりたいなあ」 実加が言うと、農家の女性が声を上げた。「あら、そうなの! 6か月なら野菜ペーストもいいわね。ニンジンなんておすすめよ。ここの畑のニンジンは甘いから、きっと赤ちゃんも気に入るわ」「わあ、いいっすね! じゃあチビ用に買っていこうかな……」「こら、実加。今日は仕事で来たのを忘れるな」 番頭に釘を刺され、実加は頭を掻いた。「あ、そうだった。野菜があんまり美味そうで、つい。すんません。また来ますんで、その時によろしく」「ええ、待ってるわ」 こうして番頭と実加は、農家から様々な野菜類を仕入れることができた。◇ 夕方、軽トラックがせせらぎ亭の裏口に戻ってきた時、その荷台は文字通り『宝の山』になっていた。「板長! 持ってきたぜ!」 実加が大きな段ボール箱を抱えて厨房に入ってくる。 箱の中を見た板前は、目を大きく見開いた。「こ、こいつは……」 大根は泥付きで、丸太のように太い。 紫色のカブは鮮やかな色合いで、皮が弾けそうなほどの張り。 さらには大人の手のひらほどもある、肉厚で香り高い原木椎茸もある。 形は不揃いで、スーパーに並ぶような見栄えではない。 けれど土の豊かな香りと生命力に満ち溢れたツヤは、どんな高級食材にも劣らない存在感を放っていた。「どうだ板長、これで料理できそうか?」 実加が
「あの宿が元気になってくれるなら、安いもんだ。裏の納屋に、今朝採ってきたばかりの原木椎茸と、珍しい山菜が山ほどある。好きなだけ持っていきな」「マジで!? ありがとー!!」 実加は老人の手を両手で握りしめ、何度も上下に振った。「すまんな、源さん。あいつ礼儀知らずでよ」 実加が納屋に走っていった後、番頭は老人に頭を下げた。 老人は笑う。「構わん、構わん。若いやつはあのくらい元気があった方がいい。しかし急にどうしたね? 宿で俺のキノコを使うなんぞ、今までなかったろうが」「実は事情があってな……」 番頭が御子柴の話をすると、老人はため息をついた。「グラン・ヘリックスっちゅーと、あのでかいリゾートホテルだな。あんなでかい箱モノをおっ立てて、この里山に悪影響が出なけりゃいいがと心配していたんだよ。せせらぎ亭は昔からある、この町の宿だ。潰れずにまた客が来るなら、こんなに嬉しいことはない」「ありがとうよ。……それでキノコと山菜の代金は、いくら払えばいい?」「そういう事情なら、タダでも構わんぞ」「そうはいくかよ。里山と町を心配してくれる源さんが、干上がっちゃどうしようもないだろ。しっかり金を受け取って、これからも働いてくれ。何、心配いらん。予算ならうちの親会社が出してくれる」 番頭がニヤリと笑うと、老人も笑みを返した。「そういうことなら、きっちりもらおうかね。納屋にあるだけというと、こんなもんだが」「よし。受け取ってくれ」 番頭が老人に代金を渡したところで、両手いっぱいにキノコと山菜を抱えた実加が戻ってきた。「番頭さん! 見てくれよ、これ。すげー立派な椎茸と、他にも山菜が山ほどだ。香りがいいんだよ、これ!」「そうじゃろう、そうじゃろう。俺の自慢のキノコだからな」 老人が笑う。 番頭と実加は改めて礼を言って、たくさんの食材を軽トラに積み込んだ。「またいつでも来いよー!」「うん、また来るぜ
「それだ!」 実加が両手をポンと叩いた。「そいつらをかき集めりゃ、すっげえ夕食ができるんじゃねえの!」「……お待ちください」 翔吾が片手を上げて、議論を制止した。 彼の頭の中で、新たなビジネスモデルの構築が急速に進んでいる。「それは、経営戦略の観点からも極めて理にかなっています」 翔吾はタブレットを開き、画面を皆に向けた。「現代のリゾート産業において、『地産地消』――ローカル・ガストロノミーという概念は、非常に高い付加価値を生み出します。どこにでもある高級肉を出すよりも、『その土地、その季節でしか味わえない特別な食材』を提供する方が、顧客満足度は飛躍的に向上するんです」 翔吾の論理的な裏付けに、板前の顔が少しずつ上がり始めた。「つまり、ただの寄せ集めの妥協ではないってことか? 俺たち地元民にとってはありふれた食材でも、他の場所から来た客にとっては価値があると?」「ええ。妥協ではありません。これは、せせらぎ亭のブランド価値を高めるための、最強のアップデートです」 翔吾が断言すると、実加が弾かれたように駆け出した。「決まりだな! 番頭さん、軽トラ出すぞ!」「お、おう! 任せとけ!」 番頭が鍵を手に取り、実加の後を追う。 2人の足音が遠ざかるのを見送り、翔吾はタブレットを閉じた。(物理的な供給網が絶たれても、地域との繋がりという『無形のネットワーク』までは断ち切れない。御子柴の計算違いは、そこだ) にわかに活気を取り戻したスタッフたちを、小夜子は静かに見守っていた。◇ 午後になると、せせらぎ亭の軽トラックが、土煙を上げて山道を走っていた。 運転席の番頭がハンドルを握り、助手席では実加が窓を全開にして風を浴びている。「右だ、姉ちゃん! この先の坂を上ったところが、源じいさんの家だ!」 番頭の指示通りに進むと、古い日本家屋が見えてきた。
「チッ。なんてことだよ……」 板前が悔しそうに吐き捨てた。 翔吾は脳内で被害の規模を計算する。 明日の宿泊客は満室。 夕食の提供ができなければ、せせらぎ亭の信用は一瞬にして地に落ちる。 多額の違約金と、最悪の口コミがネット上にあふれ返るだろう。 板前が、フラフラとした足取りで調理台に手をついた。 彼の広い背中が、みるみると小さくなっていくように見える。「終わりだ……」 板前の声が、空っぽの厨房に虚しく響いた。「食材がなけりゃあ、料理人はただのデクノボウだ。明日の客に、出すもんが何一つねえ。……お客様に土下座して、予約をキャンセルしてもらうしか……」 調理台に突っ伏し、板前はがっくりと首を垂れた。 厨房に重苦しい空気が漂う。「おいメガネ、なんとかならねえのか?」「何とかと言われても……」 実加と翔吾も頭を絞るが、良い解決策は浮かばない。 ――と。「キャンセルなど、言語道断です」 凛とした声が、重い空気をまっすぐに貫いた。 入り口に、藤色の着物をまとった小夜子が立っていた。 彼女の歩みには一切の動揺がない。 百合の香りを漂わせながら、小夜子は板前の隣へと歩み寄った。「女将……。でも、肉も魚もねえんです。夕食の献立が作れません」 板前はのろのろと目を上げて、彼女を見る。「高級な和牛や、遠くの海で獲れた鯛が、本当に必要ですか?」 小夜子は厨房の窓を指差した。 そこからは、新緑に彩られた美しい里山の風景が広がっている。「画一的な高級食材がないのなら、この里山にある『宝物』を使えばいいのです」「宝物……?」「ええ。地元の方しか知らない美味しいもの、昔か
「これを見ろ! 明日の夕食に出す予定だった和牛も、鯛も、高級野菜も、何一つ届いてねえんだ! 業者のトラックは、空の箱だけ置いて帰っちまった!」「……届いていない? 発注ミスですか?」「馬鹿野郎、俺がそんなドジを踏むか! 3日前にきっちり発注した。業者の担当も『承知しました』って言ってたんだ! 伝票の控えもある!」 板前の呼吸が荒い。額にはじっとりと嫌な汗が浮かんでいた。(何が起きた?) 翔吾は即座に自分のスマートフォンを取り出し、画面をタップした。馴染みの食材卸業者の番号を呼び出す。 数回のコール音の後、電話は繋がった。「お世話になっております。アーク・リゾーツの黒崎です。せせらぎ亭の明日の納品についてですが――」『あ、ああ……黒崎さん。申し訳ありません!』 電話の向こうの担当者は、ひどく歯切れの悪い声を出した。『うちからは、もうそちらへ食材を回せなくなりました。本当に、申し訳ない!』「回せない? どういうことですか。契約違反ですよ」『上からの絶対の指示なんです。そちらと取引をするなら、今後の大型契約はすべて白紙にするって……。うちみたいな小さな問屋じゃ、逆らえません!』 一方的にまくしたてると、担当者は逃げるように電話を切ってしまった。 ツー、ツー、という電子音が、翔吾の耳元で響く。「相手さん、何だって?」 実加が不審そうな顔をした。「上からの指示で、うちとは取引できないそうです」「はあ? 何だそりゃ? そんなの許されるのか?」「許されませんよ。明らかに契約違反です。……他の業者にも確認しましょう」 翔吾はすぐに別の水産会社、精肉店にも電話をかけた。 けれど答えはすべて同じだった。「急に取引できなくなった」「他を当たってくれ」 と、誰もが怯えたような声で謝絶してくる。
週末の活気から数日が経過した、水曜日の朝。 せせらぎ亭のロビーには、柔らかな春の陽射しが差し込んでいた。 黒崎翔吾はフロントカウンターの定位置に立ち、タブレット端末の画面をスクロールしていた。 視線の先にあるのは、今後の予約状況を示すカレンダーだ。週末だけでなく、平日のマス目にも次々と『予約完了』の文字が埋まり始めている。(SNSのバズ効果は、一過性のものでは終わらなかった。宿泊した顧客の口コミが新たな顧客を呼ぶ、理想的な好循環サイクルに入っている) 翔吾は無意識のうちに眼鏡を押し上げ、小さく息を吐き出した。 胸の奥に確かな達成感が広がっていく。自分たちの提供したサービスが、明確な数字となって表れているのだ。「フンフフーン、フフーン」 軽やかな鼻歌が聞こえてきた。 山内実加が、上機嫌でモップをかけている。金髪のメッシュを揺らし、ステップを踏むように床を磨く姿は、見ているこちらまで明るい気分にさせる。「ずいぶんと楽しそうですね、実加さん」 翔吾が声をかけると、実加はパッと顔を上げて満面の笑みを見せた。「おう、インテリ! 当たり前だろ! 今度の休みの日にな、チビがここへ遊びに来るんだよ!」 実加はモップの柄に体重をかけて、嬉しそうに目尻を下げる。「小夜子師匠が手配してくれたんだ。シッターさんが車で連れてきてくれるって。アタシがピカピカにしたこの宿を見たら、チビのやつ、絶対喜ぶぜ!」 小さな理玖が喜ぶ姿を想像し、翔吾も思わず微笑んだ。「それは良かったですね。ですが、よだれで床を汚されないように注意してくださいよ」「なんだと! ウチのチビのよだれはマイナスイオンが出てるんだよ!」 翔吾の冗談めかした言葉に、実加が口をとがらせて言い返した。 平和なやり取りだ。数日前の、あの重く沈んだ空気が嘘のように、せせらぎ亭には穏やかな時間が流れていた。 だがその平穏は、突如として破られた。「どうなってんだ! ふざけるな!」 厨房の方角から、板前の
「……これで落ちたか」 隼人が低く呟いた。その声には怒りとは違う、どこか粘り気のある感情が混じっていた。 彼はタオルを放り投げたが、小夜子の手は離さなかった。「旦那様……?」 隼人は、小夜子の左手を自分の顔の高さまで持ち上げた。じっと見つめる視線の先にあるのは、伯爵が口づけをした「甲」の部分だ。「まだ、残っている気がする」 彼はそう言うと、ゆっくりと顔を寄せた。小夜子の心臓がドクリと大きく跳ねた。逃げようとする小夜子の手を、隼人が強く握り締め
高橋は立ち上がり、鞄をひっつかんだ。「約束通り、批判記事も過去のネタもボツにするわ。……あーあ、時間の無駄だった」 彼女は隼人を睨みつけ、捨て台詞を吐いた。「覚えてなさいよ。次は必ず、その鉄仮面の下にあるボロを出させてやるから」 高橋は嵐のように去っていった。パタン、とドアが閉まる音が、静寂を取り戻したスイートルームに響く。 隼人はソファの背もたれに深く沈み込み、天井を仰いでいた。顔の赤みはまだ引いていない。「……お前な。あんな恥ずかしい話を、よくもぬけぬけと……」 彼は片手
ホテル『サンクチュアリ』の最上階、VIP用スイートルーム。革張りのローテーブルの中央で、ICレコーダーの赤いランプが点滅を始めた。チカ、チカ、と規則正しく刻まれるリズムは、まるで時限爆弾のカウントダウンのようだ。「では、始めましょうか」 ジャーナリスト・高橋マキが足を組み、手元のメモ帳を開く。 向かいのソファに座る隼人は、石像のように硬直していた。顔色は蒼白で、膝の上で組んだ指は血の気が引いて白くなっている。過去のトラウマであるマスコミへの恐怖と小夜子が何を口走るか分からない不安で、呼吸さえ浅くなっているようだ。 小夜子は、あえて
――左手の甲が、熱い。 アーク・リゾーツ本社、最上階の社長室。小夜子はいつものように、淹れたてのブラックコーヒーを革張りのデスクに置いた。 コーヒーを淹れるのは秘書の役割だったが、いつの間にか小夜子が社長室まで出社し、給仕をすることになっていた。 湯気越しに視界に入った自分の左手を見て、心臓が嫌な音を立てる。 昨夜、洗面所で隼人に押し付けられた唇の感触。それが火傷のように皮膚に残っていた。血管の奥で、ドクンドクンと脈打つ音が聞こえるような気がする。(……メンテナンス、とおっしゃっていたけれど







