Share

67:来訪者

last update Date de publication: 2025-12-26 06:56:41

 午後3時、隼人のアーク・リゾーツが経営するホテル『サンクチュアリ』のメインロビーにて。

 3階まで吹き抜けになった天井からは巨大なシャンデリアが下がり、磨き上げられた大理石の床は鏡のように光を反射している。

 普段なら優雅な時間が流れるこの場所が、今はピリピリとした緊張感に包まれていた。

 総支配人を筆頭に、各部門のトップがずらりと整列している。その中心に立つ隼人が、隣に控える小夜子に聞こえるだけの声でささやいた。

「いいか。ローズベリー伯爵は、欧州で『ホテルの神』と呼ばれる男だ。彼が星をつければ、世界中の富裕層がこぞって押し寄せる。逆に酷評されれば……終わりだ」

 隼人の喉仏がごくりと上下する。

「アーク・リゾーツの社運がかかっている。……絶対に、粗相をするな」

 小夜子は静かに頷いた。今日の小夜子は、淡い藤色の訪問着を着ている。帯の締め付けが背筋を伸ばしてくれていた。

「承知いたしました。私は空気になりますので、ご安

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   308

     料理を口に運んだ客たちは、たちまち笑顔になった。「大根、口でとろけたぞ……! こんな甘い野菜、初めてだ」「このカブの葉っぱのご飯も、お代わりしたいくらい美味しいわね。お腹いっぱいなのが悔しい」 高級な和牛も、高級魚の鯛もない。 けれど地元の人々が育てた生命力あふれる野菜と、板前の職人魂が込められた「里山懐石」は、客の胃袋と心を確実に満たしていた。 翔吾はホールの隅に立ち、タブレットで空いたグラスの数や食事のペースを確認しながら、実加や仲居たちへ目配せで次の配膳を指示している。 おかげで客で満杯の食堂も、大きな混乱はなく次々と料理が運ばれていった。 どこを切り取っても、活気と笑顔があふれている。 客はもちろんのこと、スタッフたちもだ。 誰もが、この宿の復活を心から喜んでいた。◇ 夜が更けて、館内が静けさを取り戻した頃。 帳場の裏にあるスタッフルームで、翔吾と実加は本日の最終データを突き合わせていた。「……本日の売上目標、120パーセント達成。クレーム数ゼロ。顧客満足度のアンケートスコアも、先週の平均値を上回っています」 翔吾がタブレットをテーブルに置き、眼鏡を中指で押し上げた。「しゃあっ! 今日も完璧だったな!」 実加はパイプ椅子に深く腰掛けて、両手を頭の後ろで組んで大きく背伸びをする。 翔吾はそんな実加を見て、少しわざとらしく眉をしかめてみせた。「あなたの無駄口の多さは相変わらず非効率ですが……まあ、お客様の滞在時間を伸ばし、追加の飲料オーダーを引き出した点は、評価してあげますよ」「なんだよ、素直に褒めりゃいいじゃんか。お前の裏回しも、今日はまあまあイケてたぜ。インテリ」「まあまあ、ではありません。完璧なシステム、アルゴリズムです」 翔吾がむっとした顔で言い返す。 相変わらず憎まれ口を叩き合っている

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   307

     翔吾の構築するシステムには、客の感情の動きや従業員の疲労度といった「人間の熱」という変数が、完璧に組み込まれている。 データと人間味の融合が、この宿の運営をかつてないほどスムーズに回していた。「お荷物、お車まで運びますよ! 忘れ物はないッスか?」 玄関口では、実加が大きなキャリーケースを両手に提げて笑っていた。 金髪のメッシュを揺らし、持ち前の体力と根性で次々と客の荷物をさばいていく。「お姉さん、力持ちねえ。昨日もたくさんお話ししてくれて楽しかったわ」「へへっ、ウチ、これくらいしか取り柄がないんで! またウチのチビの話、聞いてくださいね!」 実加がニカッと歯を見せて笑うと、年配の女性客もつられて目を細めた。 彼女の裏表のない明るさと飾らない接客は、古参の仲居たちや板前だけでなく、訪れる客の心をもがっちりと掴んでいる。 ヤンキー気質からくる面倒見の良さが、最高のホスピタリティとして機能していた。(翔吾さんの頭脳と、実加さんの行動力。2人の歯車が見事に噛み合っていますわね) 小夜子は、慌ただしく立ち働く彼らの背中を、一歩引いた場所から頼もしげに見守っていた。◇ 午後になり、新たな客たちが続々と到着した。 せせらぎ亭の連日満室の記録は、今日も更新されていた。 夕暮れ時になって、小夜子が廊下を歩いていると、露天風呂から上がってきたばかりの若い女性客たちの弾むような声が耳に届いた。「もう最高だった! お湯につかりながら見る夕日、やばくない?」「うんうん。あのお風呂の岩の配置、絶妙に景色を切り取っててエモかったー!」「ずっと見ていたいくらいだったもの」「あはは、のぼせちゃうよ!」 彼女たちの頬は上気して、湯上がりの肌が艶めいている。 温泉と絶景を心から楽しんだのが伝わってきて、小夜子の口元に自然と柔らかな笑みが浮かんだ。 あの露天風呂の岩は、実加の直感と翔吾のてこの原理、さらには地元育

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   306:せせらぎ亭の賑わい

     初夏の風が、せせらぎ亭の開け放たれた窓を吹き抜けていく。 山の緑の匂いと、帳場の奥から漂う一番出汁の豊かな香りが混ざり合い、館内には心地よい空気が満ちていた。 嵐の夜の影響は既に消えている。 黒崎隼人は小夜子とスタッフらの無事を確かめた後、東京で仕事をこなすために帰っていった。 山内実加の小さな息子、理玖もシッターに連れられて戻っている。(見違えるような活気です) 黒崎小夜子は藤色の着物の袖を整え、帳場の隅からロビーを見渡した。 視線の先には、チェックアウトを待つ宿泊客の列ができている。「いい宿だったね」「本当に。寂れた感じだと思ったら、何だか安心できる空気でさ」「また来たいよね!」 誰もが満足げな顔つきで、スマートフォンで館内の写真を撮ったり、同行者と楽しげに語り合ったりしていた。 彼らの背景にあるのは、従業員総出で手作りしたリニューアル空間だ。 黄ばんでいた壁のシミは、味わい深いレトロな和紙と真っ白な漆喰で美しく覆い隠されている。 破れていた障子は新しいものに張り替えられた。木枠の歪みは計算し尽くされたミリ単位の調整で完璧に直されていた。 軋んでいた廊下の床板は、毎日丹念に米ぬかで磨き上げられている。 今では飴色の艶を放ち、歩くたびに足の裏へ木の温もりを伝えてくれる。 最新鋭の設備ではない。 高価で豪華な内装でもない。 しかし、人の手によって丁寧に手入れされた空間は、訪れる客に実家のような安心感を与えていた。「302号室のお客様、チェックアウトの手続きを完了いたしました。次回のご予約も承りました。紅葉の季節も、当館は素晴らしい景色をご用意しております」 フロントカウンターでは、黒崎翔吾が淀みない対応を見せていた。 彼の手元には、常に最新型のタブレット端末がある。 画面には、顧客の宿泊データ、大浴場の混雑状況、厨房の配膳タイミングなどが、リアルタイムのグラフとなって表示されていた。 翔吾はそれを素早く読み取って、最

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   305

     ここで結果を出さなければ、翔吾はまた無能の烙印を押されて「家族」から追い出されてしまう。 居場所を見つけられないままに、大学を退学する羽目になる。 それはどうしても受け入れられなくて、翔吾は足掻いた。 しかし、この数週間のせせらぎ亭での日々、さらには昨夜の極限状態の中で彼を救ったのは、彼が見下していたはずの非合理的な感情であり、小夜子や実加の持つ確かな体温だった。 温かいお湯に包まれて満天の星空を見上げていると、これまで自分を守っていた冷たい論理の鎧が、すっかり溶け落ちてしまったような感覚になる。 心の奥底に初めて芽生えた穏やかな感情に背中を押されるように、翔吾は自然と口を開いていた。「せせらぎ亭に出張してからこの数週間、色々なことがありました」 翔吾の声からは、以前のような冷たさも、自分を虚勢で大きく見せようとする焦りも消え去っていた。「僕はこれまでずっと、黒崎社長のような完璧で、一切の隙のない経営者になりたいと思ってきました。データと論理だけで、すべての問題を解決できると信じていたんです」「…………」 隼人は口を挟まず、目を閉じたまま弟の言葉に耳を傾けている。「でも、違いました。せせらぎ亭の皆と働き、御子柴と対峙して、はっきりと分かったんです。数字と計算式だけでは、人は動かせない。お客様の本当の笑顔は引き出せない」 翔吾は隣に座る兄へ、まっすぐに視線を向けた。「僕は、黒崎社長のような論理的な思考を持ちつつも……小夜子さんや、ここの従業員たちが持っている『優しさ』や『熱』を併せ持つ人間になりたい。それが、僕の目指す新しい経営の形です」 隼人は無言でまぶたを開けた。 湯気の中で、兄弟の視線が交差する。 隼人は弟の視線を受け止めたまま、わずかに微笑んだ。 そしてお湯の中から大きな手を出てし、翔吾の肩をバンッと力強く叩いた。「痛っ……」「お前ならできるさ。俺だって、小夜

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   304

    「主人の留守中、『家』を嵐から守り抜き、中にいる『家族』たちに温かい食事を提供して命を繋ぐ。それこそが家政婦としての最重要任務ですわ。皆さんと……特に翔吾さんと実加さんと力を合わせて、完璧にこなして見せましたけれど、何かご不満でも?」 いたずらっぽく小首を傾げる最愛の妻を見て、隼人は大きく息を吐き出す。ついに目元を柔らかく崩した。「いや……。さすがは、俺の見込んだ最高の女だ」 隼人は小夜子の頬に愛おしげに手を添える。 その白い額に深く、熱を込めた口づけを落とした。「ありがとう、小夜子。俺の誇りだ。お前が家を守ってくれるからこそ、俺はどんな逆境でも戦える」「ええ。あなたのお帰りを、いつでも完璧な状態でお待ちしておりますわ」 夕闇が迫る控え室で、2人は固く手を取り合う。「でも今回は、皆さんの力があってこそ乗り越えられました。特に翔吾さんです。彼は本当に頑張りましたよ。是非、話を聞いて差し上げてください」「そうか、翔吾が……。そうだな。あいつはずっと孤独に生きてきた。せめて俺が兄として横に立たねば」 夫婦の手は自然に伸びて、互いの背中に回される。 2人は長いこと、相手の無事と体温を分かち合っていた。◇ その日の夜。 猛烈な雨と風が空気中の塵をすべて洗い流した夜空は、吸い込まれるような深い漆黒のキャンバスへと変わっていた。 見上げれば、こぼれ落ちそうなほど無数の星々が眩い光を放ち、天の川の淡い光の帯が山の稜線からくっきりと立ち上っている。 荒れ狂っていた大自然が本来の優しさを取り戻し、雄大な気配で山全体を包み込んでいた。 その満天の星空の下、せせらぎ亭の絶景露天風呂は、既に完全に再生を果たしている。 もちろん、まだ客はいない。 けれど湯船に浸かる人影があった。 黒崎隼人と翔吾の兄弟だった。 心地よい湯の音が、夜の里山に響いている

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   303

     翔吾は眼鏡の奥の目を細め、素直な言葉を紡いだ。「それこそが、AIには弾き出せない最大の付加価値を生む変数だと、今は認めざるを得ません」「へっ。もっと素直に褒めりゃいいのによ」 実加は涙を腕で乱暴に拭い、ニカッと笑い返した。「お前のその小難しい計算も、まあ、結構役に立つって分かったよ、相棒」「あうー!」 理玖が母と相棒の絆を喜ぶように、機嫌の良い声を上げた。◇ 午後になると、物資の搬入と従業員たちの安否確認も一段落して、せせらぎ亭は落ち着きを取り戻し始めていた。 ロビーからは実加たちの声が聞こえてくる。 嵐の夜がいかに恐ろしかったか、でももう笑い話になったと、理玖に話して聞かせているようだ。「小夜子。少しいいか」 それまで忙しく陣頭指揮を取っていた隼人が、小夜子の手を取った。「はい、社長。何の御用でしょうか?」 隼人は答えず、妻の手を引いて帳場へと向かった。 無人の帳場はしんと静まり返っている。 扉が閉まった瞬間、隼人が纏っていた「完璧なトップ」としての隙のないオーラが解けた。 彼はそのまま白い割烹着姿の小夜子を力強く、けれど優しく抱き寄せた。「隼人さん……?」「小夜子。本当に、怪我はどこにもないんだな? 無理をして隠していないか?」 普段の冷静沈着な隼人からは想像もつかない、切迫した声だった。 小夜子の背中に回された大きな腕には、はっきりとした安堵と、拭い去れない恐怖の余韻がこもっている。「道路が寸断され、ここが完全に孤立したと報告を受けた時……俺は、自らの無力さを呪った。お前をこんな山奥の嵐の中に残してしまったことを」 小夜子は、自分を抱きしめる夫の広い背中にそっと手を添えて、穏やかな微笑みを浮かべた。「何をおっしゃいますか。あなたはアーク・リゾーツの社長です。本社で全社的な危機管理の

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   167

     その重さに押しつぶされそうになった時、隼人の手が伸びてきた。 彼は小夜子の唇の端についた砂糖を親指で拭い、自分の口に含んだ。「バチなど当たるか」 隼人は自分のコーヒーを小夜子に差し出した。「お前が遊べなかった10年分、これから俺が全部埋めてやる」 彼は城を指差した。「次は隣のパークに行くぞ。あそこには世界一の清掃船があるらしいからな。お前の好きな洗剤の話も、いくらでも聞いてやる」 不器用な慰めに、小夜子は目を見開いた。 洗剤の話を聞いてくれる。この世界で、そんなことを

    last updateDernière mise à jour : 2026-04-01
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   160

    「初対面の方に、そのようなご指摘をいただく筋合いはございません。業務の一環ですので」 小夜子は半歩下がって、事務的な笑顔で壁を作った。 だが男は引かなかった。むしろ、その拒絶が面白かったらしい。「業務、か。堅苦しいねえ」 男はクスクスと笑い、名刺を差し出した。『株式会社ネクスト・フロンティア代表取締役社長 高塔蓮』。 新進気鋭のITベンチャーの社長だ。最近、メディアでよく見かける顔だった。小夜子も経済誌で見た覚えがある。「あの黒崎社長の奥様だよね? 噂は聞いているよ。没落した旧家から引き上

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-31
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   158

     小夜子は音を立てないように寝室へ戻り、毛布を持ってきた。そっと近づいて、寝顔を覗き込む。(この方は、ずっと一人で戦ってきたのだわ) 小夜子は思った。彼の強引な求愛も、強い独占欲も。 その前の、誰も寄せ付けない冷たく厳しい態度も。 裏を返せば、それは失うことへの恐怖と冷たい孤独の裏返しなのかもしれない。(旦那様は、ずっと孤独だったとおっしゃっていた) 隼人が話してくれた過去を思い出す。 幼い頃に母親に見捨てられ、冷え切ったアパートで震えていたこと。 生き延びるのに必

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-31
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   153

     電話を切った秘書は、慌てて社長室に飛び込んだ。 ちょうど隼人が社長室を出ようとしたところで、ぶつかりそうになる。 2人は屋上に向かいながら会話をした。「しゃ、社長……。奥様が自ら重労働をしていると報告がありました。すぐに清掃スタッフを向かわせます!」「いや、いい。邪魔をするな」 隼人は誇らしげに口角を上げた。 エレベーターはちょうど屋上に到着し、ガラス張りのドアの向こうに小夜子の姿が見える。「見ろ、あの無駄のない動きを。あいつは今、汚れを殲滅することに無上

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-30
Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status