LOGIN「うっ……」
図星だった。彼らは何の節操もなく、手に入った大金を湯水のように使ってしまったのだ。
投資詐欺のような怪しい儲け話に清次郎が飛びつき、大半を溶かしたという噂も聞いている。「呆れたな。あの金は小夜子のこれまでの人生に対する『対価』だ。それを使い果たしたなら、もうあんたらに用はない」
隼人は警備員にあごをしゃくった。
「つまみ出せ。二度とこのビルに入れるな」
「ちょ、ちょっと! 私たちは名門白河家よ!」
「離しなさい! 小夜子、なんとか言いなさいよ! この恩知らず!」
緑と麗華がわめくが、屈強な警備員たちには敵わない。小夜子は、無様に引きずられていく「家族」たちを静かに見つめていた。
(不思議だわ)
かつては、あのヒステリックな声を聞くだけで胃が縮み、足がすくんでいた。
けれど今、小夜子の胸にあるのは、恐怖ではなく哀れみにも似た静かな感情だけだった。彼らは何も変わっていない。変わったのは(だが、目の前の母親の疲労度を瞬時に察知し、予定になかった貸切風呂のスケジュールを臨機応変に組み上げ、温度を調節することは絶対に不可能だ。そこにいる人間の『思いやり』がなければ、この結果は決して生み出せない) 翔吾の脳内に構築されていた冷たい数式が、温かなものに書き換えられていく。 御子柴が『ゴミ』と切り捨てた感情という変数が、いかに巨大な価値――顧客の生涯価値(LTV)を生み出すか。 翔吾は今、自分自身の体験として、それを完全に理解したのだ。「お疲れ様。見事な采配でしたよ、翔吾さん」 小夜子が音もなく現れた。 温かいお茶の入った湯呑みを、翔吾の前に置く。「総支配人……いえ、女将。ありがとうございます」 翔吾がお茶を一口飲むと、胃の奥まで温かさが広がった。「みんな、スタッフルームに集まっていますよ。あなたも来なさい」 小夜子に促され、翔吾が裏のスタッフルームへ向かうと、そこには実加や番頭、仲居や板前たちが車座になって座っていた。 全員の顔に心地よい疲労感と、大きな仕事をやり遂げた達成感が浮かんでいる。「おう、インテリ! 遅えぞ!」 実加が自分の隣の座布団をバンバンと叩く。 翔吾がそこに座ると、番頭がおもむろに立ち上がった。 番頭の手には、昨日御子柴が置いていった、グラン・ヘリックスの再就職契約書が束になって握られていた。分厚い紙の束だ。 部屋の空気が少しだけ引き締まる。 番頭は契約書を見つめて、ふっと息を吐いた。「あの赤ちゃん連れのお客さん……風呂上がりに、俺の顔を見て『ありがとう』って、泣きそうな顔で笑ってくれたんだ」 番頭の声は、深い感慨に満ちていた。「俺はあの笑顔が見たくて、何十年もこの宿で働いてきた。それを……すっかり忘れてた」 番頭は契約書の束を両手で掴むと、迷うことなく部屋の隅にあるゴミ箱へと投げ捨てた。 バサッ、と重い音が響く。
午後6時。 夕日が山を赤く染め上げる時刻のこと。 若い夫婦は、赤ん坊を連れて露天風呂の暖簾をくぐった。 そこには、他の客の姿は誰一人としていない。 聞こえるのは心地よい湯の流れる音と、山の木々が風に揺れる音だけだ。 夕日に照らされた湯船の隣には、実加が先ほど配置し直した、おむつ替え用の防水マットとベビーベッドが用意されていた。 おかげで夫婦は、赤ん坊の世話に気を取られることなく入浴に進んだ。「うわあ……すごい。絶景だね」 父親が感嘆の声を漏らす。 母親は赤ん坊の服を脱がせて、そっと足先を湯に浸けた。 泣くかと思った赤ん坊は、ちょうどいいぬるめの温度に気持ちよさそうに目を細め、きゃあきゃあと笑い声を上げた。「……よかった。すごく気持ちいいね」 母親が赤ん坊を抱き抱えたまま、肩まで湯に浸かる。 赤ん坊の体にちゃぷちゃぷと湯をかけてやれば、ニコニコと笑顔になった。 山の稜線に沈む黄金色の夕日。 静かで、温かい空間。 肩身の狭い思いをして疲れ切っていた心が、お湯に溶けていくように解きほぐされていく。「いいお湯だったね」 風呂から上がり、部屋に戻った夫婦を待っていたのは、見事な里山懐石だった。 そしてテーブルの中央には、美しい漆塗りの小さな器が置かれていた。 鰹と昆布の豊かな香りが漂う、カボチャとカブの離乳食だ。「あうー!」 赤ん坊は一口食べると、目を丸くして身を乗り出し、もっともっとと口を開けた。「あはは、こんなに食べるの初めてかも」 父親が笑う。 母親は、出汁の効いた煮物を口に運びながら、箸を持つ手を止めた。 温かい食事が、胸の奥まで染み渡る。「……私、この宿に来て本当によかった」「ああ。本当に」 母親の言葉に、父親も深く頷いた。
小夜子の提案に、実加の顔がパァッと明るくなった。「マジっスか!? やったー! チビが来るなら、もっと気合い入れて掃除しねえと!」 先ほどまでの寂しさは吹き飛び、実加の瞳に活力が戻る。 ずっと押し隠していたけれど、実加は小さな息子のことを心配していた。会いたくてたまらない気持ちを、仕事をやり遂げるために抑えていたのだ。 小夜子は小さく頷くと、帳場の方へと視線を向けた。「さて、私と実加さんのサポートはここまでです。ここから先は、彼に任せましょう」◇ 帳場の奥。翔吾の頭脳はフル回転で稼働していた。 タブレットの画面には、全客室の滞在状況と、食堂の利用時間が細かなグラフとなって表示されている。(若年層のグループ客は、17時30分から19時の間に夕食をとる傾向が極めて強い。ならば、その時間帯の露天風呂の利用率は、限りなくゼロに近づく) 翔吾の指先が画面を滑る。 計算式が組み上がり、1つの完璧なタイムスケジュールが導き出された。「番頭さん!」 翔吾が鋭く声をかけると、奥で帳簿をつけていた番頭が顔を出した。「なんだい、若旦那」「18時から18時40分までの間、露天風呂を『貸切風呂』に設定します。先ほどの赤ちゃん連れのご家族をご案内してください」 番頭が目を見開いた。「貸切かい? そりゃあいいが、今からお知らせを出すのは大変だぞ」「問題ありません。ロビーのデジタル掲示板と、客室の案内用タブレットの表示を一括で書き換えます。他の客の動線は、僕がフロントでコントロールします」 翔吾はキーボードを叩きながら、さらに指示を重ねた。「それから、露天風呂の湯温です。赤ちゃんの肌には、通常の設定温度では高すぎます。源泉のバルブを絞り、一時的に38度まで下げてください」「なるほど、そいつは気が利くね。すぐに行くよ!」 番頭が足早に大浴場へと向かう。 翔吾は次に、内線の受話器を取った。厨
同時に、小夜子が夫婦と赤ん坊を部屋に案内する。 赤ん坊はまだ大声で泣き続けていたが、周囲の客も賑やかだ。さほど誰も気にしていない。 数分後、実加が客室に運び込んだのは、大量の追加タオル、おむつ専用の密閉ゴミ箱。 そして、畳の上に敷くための柔らかいジョイントマットだった。「赤ちゃん連れだと、荷物が多くて大変ッスよね。タオルとお尻拭きはいくらでも追加するんで、遠慮なく言ってください!」 実加が手際よくマットを敷きながら言うと、母親の瞳からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。「……ありがとうございます。ずっと、周りに気を遣ってばかりで……。こんなに優しくしてもらったの、久しぶりです」 泣き疲れた赤ん坊が、母親の胸の中でスヤスヤと眠り始めた。 実加はしゃがみ込み、赤ん坊の柔らかい頬を指先でそっと撫でた。 小さく温かい感触が、指先から伝わってくる。「あー、可愛いな……」 実加の口から、無意識のうちに呟きが漏れた。「むにゃ……」 赤ん坊が寝言のように小さく笑う。 その無邪気な寝顔を見つめていると、実加の心にある感情が押し寄せてきた。(チビ……元気にしてるかな) 実加は目を伏せた。 このせせらぎ亭に出張してきてから、もう何日も息子の理玖に会っていない。 アーク・リゾーツ社内の保育所は、24時間営業だ。 ホテル業務は日勤と夜勤があるので、従業員たちの子を預かる保育所は、自然とそうなった。 今は保育士が増員されて、余裕のある人員で運営されている。 理玖はその保育所「こぐまの森」で、毎日元気に過ごしている。 保育士が日々の様子を写真付きで送ってくれるから、何も心配はいらないと自分に言い聞かせてきた。 けれど目の前の赤ん坊の温もりに触れた瞬間、寂しさが堰を切ったようにあふれ出してしまった。「そ
大きな声の出どころは、隅のソファーに座る一組の家族連れだった。若い夫婦と、抱っこ紐の中にいる生後半年ほどの赤ん坊だ。その子が顔を真っ赤にして泣いている。 翔吾は瞬時に手元の端末で予約データを照会した。(あのお客様は……1ヶ月前に予約を入れている。SNSのバズ効果で集まった若者層ではない) 彼らは恐らく、落ち着ける静かな山奥の温泉宿を求めてやって来たのだ。 しかし蓋を開けてみれば、館内は若者たちであふれ返っている。 普段とは違う環境の熱気と騒がしさに、赤ん坊が敏感に反応して泣き出してしまったに違いない。◇「ご、ごめんなさい、すぐ泣き止ませますから……っ」 若い母親が、顔を真っ赤にして立ち上がった。 彼女は周囲の客に何度も頭を下げながら、必死に赤ん坊をあやしている。額にはじわりと汗が浮かび、瞬きを繰り返す瞳は今にも涙が溢れそうだった。 父親の方も、気まずそうに周囲へ会釈をしながら荷物を抱え直している。「あ、あの、すみません! 外の空気を吸わせてきます!」 母親が逃げるように玄関へ向かおうとした、その時。「待ってください、お客さん!」 実加が持っていた荷物を床に置いて、真っ先に夫婦の元へ駆け寄った。 彼女の胸の奥は、ぎゅっと締め付けられていた。 パニックになり、周囲の視線を気にして何度も頭を下げる母親の姿。 それは理玖を抱えて肩身の狭い思いをしていた、かつての自分自身の姿そのものだったからだ。(周りの目が突き刺さる感覚。誰かに怒られるんじゃないかっていう恐怖。……痛いほど分かる)「外なんて行かなくていいッスよ。せっかく温泉に来たんだから、ゆっくりしていってください」 実加は母親の前に立ち、ニカッと笑いかけた。 少し乱暴だが裏表のない笑顔だった。「でも、赤ちゃんが泣いてご迷惑を…&hell
ついに土曜日がやって来た。 午後、せせらぎ亭の帳場は、かつてないほどの熱気とにぎやかさに包まれていた。 玄関の引き戸が開くたびに、キャリーケースの車輪が転がる音と、若者たちの弾むような話し声がロビーに流れ込んでくる。「うわっ、本当にレトロ! エモい!」「写真撮ろうぜ。あの和紙の壁紙、めっちゃ雰囲気ある」「昭和レトロって感じ。でも汚くないし、居心地いい!」 スマートフォンを片手に、大学生のグループが館内を見渡している。 誰もが楽しげな様子だった。 彼らの視線の先には、従業員全員で急ピッチで張り替えた真っ白な障子と、味わい深い漆喰の壁がある。 老朽化による「ボロさ」は、見事に「ノスタルジックな趣き」へと変換されていた。「お風呂も楽しみだよねー。露天風呂は絶景なんでしょ?」「あー、あのSNSに出ていた写真ね! 後で行ってみよう」 若者たちは実に楽しそうにしている。 黒崎翔吾はフロントカウンターに立ち、タブレット端末を流れるように操作していた。「302号室のお客様、ご案内をお願いします。続いて205号室のグループ、夕食の時間を18時30分に設定。大浴場の混雑予測データを更新します」 翔吾の口からは、的確な指示が飛び出した。「はい! お客様、こちらへどうぞ」 それを受けた仲居たちが、小走りで客を部屋へと案内していく。 彼女たちの顔には疲労の色もあったが、それ以上に、久しぶりの満室という活気を喜んでいる。自然と笑みがこぼれていた。「お荷物、お運びしますぜ!」 山内実加が、大きなボストンバッグを両手に提げてロビーを駆け抜ける。 金髪のメッシュを揺らしながら、持ち前の体力で次々と客の荷物をさばいていく。 彼女のパワフルな姿は、すっかり旅館の景色の一部として馴染んでいた。(オペレーションは完璧だ。お客様の不満を示すデータは、今のところ一切検出されていない) 翔吾は眼鏡の位置を直し、小さく息を吐いた。 昨日の
小山田の言葉には、心からの敬意がにじんでいた。 小夜子は困ったように微笑む。「そんな、大層なことではありません。私はただ……もったいないお化けが怖かっただけですから」「お化け、ですか?」「はい。実家では食べ物を粗末にすると、本当に怖いお化け……いえ、厳しい罰がありましたので」 小夜子の言葉に、小山田は涙ぐんだ顔でくしゃりと笑った。 厳しい罰というのを軽い冗談だと思ったようだ。「……かないませんな。これ
作業台の上に料理が並んだ。 飴色に輝き、ごま油の香りを放つきんぴら。 脂が浮いて湯気を立てる、熱々のアラ汁。 そして真っ白でふっくらとした塩むすび。 見た目は地味で、高級旅館の懐石料理とは比べるべくもない。けれど、これこそが働く人のための活力の源となる「まかない飯」だった。 噛むほどに染み出す大根の滋味深い甘みと、ごま油のコク。醤油の香ばしさ。最後に唐辛子のピリッとした辛味が追いかけてきて、後を引く。皮特有の硬さが、むしろ心地よい歯ごたえというアクセントに変わっていた。「……
黒塗りの車が、砂利を踏みしめて停車した。 午後2時30分、老舗旅館『月影(つきかげ)』の玄関を小夜子は車の窓から見上げた。 築百年を超えるという木造建築は、確かに歴史の重みを感じさせる。だが今の小夜子の目には、それが「重厚さ」というより「重苦しさ」として映った。どこか薄暗く空気がよどんでいる。「降りるぞ」 隼人が短く告げてドアを開けた。さきほどまでの車酔いの青白い顔はどこへやら、その横顔はすでに冷徹な「再生屋」のものに戻っている。 小夜子も後に続いて車を降りた。 玄関前には、支配人を先頭に仲居や板前
トラブルの報告を聞いた瞬間、隼人の口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。(……これだ) トラブル、反発、敵意。それこそが彼の得意とするフィールドだ。生っちょろい温もりから抜け出し、冷徹な「再生屋」としての自分を取り戻す、絶好の機会。「すぐに車を用意しろ。現地へ行く」「はっ。……お一人で向かわれますか?」 隼人は一瞬考え、意地悪な思いつきを口にした。「いや。妻も連れて行く」「奥様を、ですか? しかし現場は殺気立っておりますが&h







