Share

第3話

Author: 楚里ちゃん
この家で私の物と呼べるものは、驚くほど少なかった。

まるでここは私の一時的な休憩所で、いつかは立ち去る場所のように。

半分も埋まらないスーツケースを見て、胸が重くなる。

一から築き上げてきた生活だから、普段は質素に暮らしている。

でも佳典のためなら、いつも一番良い物を選んできた。

彼が私のものだと証明したくて、必死だったから。

ペアのマグカップに歯ブラシ、お揃いのパジャマ、クッション……

でも結局「使いにくい」という理由で、すべてお蔵入りになった。

大きなビニール袋を取り出して、ゴミ扱いされた品々を次々と詰め込む。

私が去った後、この部屋には新しい女主人が住むかもしれない。

私のセンスは元々よくないし。

佳典のために部屋を片付けてあげる、と思うことにした。

一通り整理を終えて、テーブルの上のほとんど手つかずの朝食に目が留まる。

以前なら、もったいなくて冷蔵庫にしまって夕食にしていただろう。

でも今日は迷った末、すべて捨てることにした。

パンも、ベーコンも、コーヒーも好きじゃない。

桜国人の胃を持つ私は、お粥や味噌汁が恋しい。でも佳典は「口の中に匂いが残る」と言う。

だから朝食はずっと彼の好みに合わせてきた。

彼に合わせるうちに、自分が何を好きだったかさえ忘れてしまった。

今日は思い切ってすべて処分して、携帯で自分好みの朝食を注文する。

そして食器を流しに運び、一番嫌いな皿洗いを始めた。

同棲を始めた頃、食洗機を買いたいと佳典に相談したことがある。

でも彼には潔癖症があって、「機械より手洗いの方が清潔」だと言い張った。

私が洗剤アレルギーだということを、彼は忘れていた。

水に触れた手がちくちくと痒くなり、視界がだんだんぼやけてくる。一粒の涙が情けなく頬を伝った。

佳典にとって私は一体何なのだろう?

暇つぶしの調味料?

それとも生活のお手伝いさん?

少なくとも、本当の恋人ではない。

すべてを片付け終えて、ベランダのロッキングチェアに身を委ねた。肌に降り注ぐ陽光が、ほんの少しでも慰めをくれることを願いながら。

携帯に通知が届く。

開いてみると、心遥が久しぶりに更新したSNSだった。

位置情報は東山。

【日の出を見逃したなら、今度は運命の人を見逃さないで】

添付された写真は彼女のセルフィー。右下の隅に、佳典の時計の一部が写り込んでいる。

時計の部分を拡大して確認する。間違いなく彼のものだった。

何度も傷ついてきたせいで、今ではもう感覚が麻痺してしまった。

深く息を吸う。

窓の外の景色を眺めた。

空の雲がゆっくりと流れていく。

太陽も次第に西へと移動している。

閉じ込められているのは、私だけ。

佳典への想いを檻にして、自分で自分を縛りつけている。

朝から座り続けて、いつの間にか夜になっていた。

傷ついた猫のように、隅っこで丸くなっている。

また日付が変わる頃になって、佳典が帰宅した。

顔には隠しきれない喜びが浮かんでいる。

玄関に入ると、大きなゴミ袋二つが目に留まり、眉をひそめた。

「やっと物置の無駄なもの処分したのか?」

佳典は私たちの写真が印刷されたマグカップを見つけたようだった。

「こんなダサいもの、とっくに捨てるべきだったんだ。

捨てる時は、砕くの忘れるなよ。写真付きとか、恥ずかしいから」

シャツのカフスボタンを外しながら、無関心に忠告する。

もう少し注意深く見れば気づくはずなのに。

あの中身のほとんどが、私の物だということに。

でもそれも当然か。心をここに置いていない人が、そんな細かいことに気づくわけがない。

「約束のエッグタルトは?」

私はその言葉で、佳典の後ろめたさを呼び起こそうとした。

佳典の方を見つめる。

彼のカフスボタンを外す手が止まった。

しどろもどろに言い訳をする。「あー、今日は遅くなってしまって、着いた時にはもう閉店していたんだ。今度必ず持って帰る」

佳典が嘘をつく時は、いつもこんな風にたどたどしくなる。

私が自嘲に浸っていると、彼が突然思いがけない質問を投げかけてきた。

「この前のお守り、どこで買ったんだっけ?」

私は困惑した表情で彼を見上げる。「普段はそういうの信じないでしょう?」

佳典の視線が泳ぐ。「ああ、同僚に頼まれたんだ。縁起担ぎってやつかな」

私はただ微笑んで、お守りを授かった寺の場所を彼に送信した。

このお守りは簡単に手に入るものではない。

授かるためには、一週間寺で精進料理を食べ続けなければならない。

その間、ひたすら跪いて拝み、写経もしなくてはならない。

きっと心遥のために求めるつもりなのだろう。

「一週間もか?代理で誰かに頼むことはできないのか?」

佳典の声に落胆が滲んでいる。

彼の様子がおかしいことに気づいて、私は口を開いた。「私が行こうか。あそこの精進料理、また食べたくなったところだし」

彼は少し迷った後、こくりと頷いた。

「これ、生年月日だ」

メッセージを送ってから、彼は部屋の奥へ向かった。

私は小さくつぶやく。

「私からあなたたちへの最後の祝福ということで」

この日を境に、佳典はほとんど家に帰らなくなった。

いつも仕事が忙しいという口実で。

でも心遥のブログは頻繁に更新されている。

たまに佳典が帰宅する時は、何かしら土産を持ってきてくれる。

けれど心遥のブログを見れば一目瞭然だった。罪悪感から同じものを二つ買っているだけ。

私は相変わらず自分の荷物をまとめていた。

この部屋から私という余計な物を、残らず取り除いているのだ。

広い家がますます空虚になっていく。

暇な時間には、南国行きの準備も進めている。

今日も荷物を整理していると、電話が鳴った。

画面に表示されたのは佳典の番号。

でも電話口から聞こえてきたのは、女性の声だった。

「茂野さんですか?同窓会で佳典が酔いつぶれてしまって、お迎えをお願いできますか?」

どこか聞き覚えのある声。

同窓会?

私だって佳典の同級生なのに、そんな集まりがあることすら知らなかった。

電話を切ると、深く考える余裕もなく、急いで服を着替えてタクシーでホテルへ向かった。

個室の半開きのドアを押し開ける。

真っ先に目に飛び込んできたのは、佳典の姿だった。

頬が紅潮し、焦点の定まらない瞳は明らかに酔いが回っている。

隣で彼の世話をしている女性に、半ば寄りかかるような格好で座っていた。

二人の親密な様子は、まるで熱烈に愛し合う恋人のよう。

時折頭を寄せ合って囁き交わし、じゃれ合って笑い声を立てている。

その女性こそが、神崎心遥だった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 君が与えた愛、またの名を孤独   第14話

    最初、佳典は強く拒んでいた。でも翔が何を話したのか分からないが、最終的には承諾してくれた。翔の献身的な世話のもと、佳典はほぼ完治していた。それでも彼は私のそばに居座り続け、帰国しようとしない。病院で、翔が私に先に外で待っているよう言った。彼が佳典と少し話をしたいと。病室のドアを隔てて、翔の率直な声が聞こえてくる。「久我さん、君は馬鹿じゃない。僕が彼女を好きだということは分かるだろう」佳典の声が厳しく響く。「それがどうした?」翔の声は変わらず冷静だった。「そんなことをしても、彼女はますます遠ざかるだけだ」「心晴はもう君から離れている。君も前に進むべきじゃないか」その後の会話は聞き取れなかった。ただ、この話し合いの後、佳典は帰国に同意した。私と翔は南国に残ることになった。残された期間、私たちは息の合ったコンビネーションで仕事を進めた。時が流れ、あっという間に年末を迎える。桜国行きの航空券を手配し、空港に降り立つと迎えに来てくれた両親の姿があった。久しぶりに会う二人は、随分と白髪が増えたように見える。私を見つけた瞬間、母の目が赤く潤んだ。「心晴、痩せたわね。南国で随分苦労したでしょう」髪を優しく撫でながら、母の瞳には心配の色が滲んでいる。一方、父は強がるように言った。「いい経験になったじゃないか。若いうちはそれくらいがちょうどいい」軽い挨拶を交わした後、三人で家路についた。この家に帰るのは本当に久しぶりだった。きれいに整えられた私の小さなベッドを見つめる。布団からは淡い日向の匂いがした。両親が私の後ろでひそひそと話している。きっと佳典のことを聞きたがっているのだろう。私たちが別れたことを、どう切り出せばいいのか分からずにいた。夕食の時間になると、二人はお互いを見つめ合っては視線を逸らすことを繰り返している。結局、母に負けた父が、ぎこちなく話題を振ってきた。「佳典くんは?今日は迎えに来てくれなかったのか?」「ああ、えっと……今日は忙しかったから」父が疑わしげに頷く。母を一瞥してから、さらに追及してきた。「君たち、喧嘩でもしたのか?」二人の心配と期待が入り混じった眼差しに、私は気後れしてしまう。「あ、うん、その……別に何でもないというか……」

  • 君が与えた愛、またの名を孤独   第13話

    翔がそばにいると、不思議と安心感に包まれる。佳典といた時の動揺とは正反対の感覚だった。この瞬間になって初めて気づく——適した人のそばにいるということがどういうことなのかを。戦火は長時間続き、翔はずっと私のそばにいてくれた。明け方近くになって、ようやく外の喧騒が収まった。布団から顔を出すと、ちょうど彼と目が合う。二人の顔が驚くほど近い距離にあった。その瞬間、頬が熱くなるのを感じた。翔も照れたように視線を逸らす。翔は電話を受けると、慌ただしく立ち去った。身支度を整えて、外の様子を確認しに出ようとドアを開けた。すると、入口に寄りかかって座り込んでいる佳典の姿が目に飛び込んできた。彼は疲れ切った様子で立ち上がる。「昨夜は、大丈夫だったか?」目の下に濃いクマができている。おそらく一睡もせず、ずっと私を見守っていたのだろう。胸の奥に温かいものがこみ上げてきた。「よろしければ、中へどうぞ」体を横にずらして、彼を招き入れる。私の後ろに立っていた翔は、空気を読んで部屋の奥へと引っ込んだ。私は佳典に温かいお湯を注いだコップを差し出した。「どうして、ここに?」彼は頭を垂れて、何かを考え込んでいるようだった。「心晴、俺たちは本当にもう元には戻れないのか?」「佳典さん、私たちはもう別れたのよ」穏やかな口調で、もう一度同じことを繰り返した。実際、離れて過ごしたこの期間、私はたくさんのことを考えていた。最初にこんな風に思った時は、とても辛かった。佳典が何度も私の我慢の限界を試してくる。最初は諦めきれずにいて、手放したくなくて、やがて感覚が麻痺していった。私は本当に彼を手放せずにいるのだと、愛しているのだと思い込んでいた。けれど翔と出会って——翔のそばにいると、自分の価値を実感することができる。その時になって確信した。佳典を好きだったのは、ただの習慣に過ぎなかったのかもしれない。別れたのなら、それまでのこと。「佳典さん、南国はあなたには向いていないわ。桜国に帰って、ちゃんとした生活を送って」私たちが最後まで一緒になれなかった現実を、素直に受け入れられるようになっていた。彼にもそれを受け入れてほしい。しばらくして、彼は微笑みを浮かべて立ち上がった。「南国

  • 君が与えた愛、またの名を孤独   第12話

    ここまで決然とした物言いをするつもりはなかった。けれど佳典が手を離そうとしないのを見て、私は心を決めた。ずっと胸の奥に仕舞い込んでいた言葉を、一気に吐き出した。「佳典さん、最初からあなたは私を愛してなんかいなかった。ただ私がいつもそばにいることに慣れきっていただけ。もし神崎さんがあなたを拒絶していなかったら、彼女が結婚していなかったら、私と付き合ったりしたでしょうか?私はあなたが彼女を忘れるための道具に過ぎなかった。私は道具じゃない。もう疲れ果てたの。分かって?あなたがここまで追いかけてきたのも一時の衝動よ。私が急に姿を消したことで何かを失ったような気になって、私に振られたという事実を受け入れられないだけ。本当に私を手放したくないわけじゃない。佳典さん、冷静になって。私にこれ以上時間を無駄にしないで」私の長い告白を受けて、佳典の瞳に絶望の色が浮かんだ。彼はもう何も言わなかった。これ以上しがみつこうともしなかった。ただ、私の手を握ったまま離そうとしない。私は彼の手を振り払った。「佳典さん、私を忘れて」喉の奥にこみ上げてくる嗚咽を必死に堪えながら、その一言を残して振り返ることなく歩き去った。彼はただ茫然と立ち尽くし、私の後ろ姿を見送っていた。アパートに戻り、窓越しに外を見下ろすと、あの人影がビルの下に長い間佇んでいるのが見えた。彼は一度も、本当の意味で自分の心に問いかけたことがないのかもしれない。心遥が戻ってこなければ、自分の愛する人が私ではないことにも気づかなかったのだろう。考えようによっては、心遥も私の恩人なのかもしれない。骨の髄まで愛していた人から離れる決心を、私につけさせてくれたのだから。自分を消耗し続けるより、現実を受け入れる方がずっといい。翔が夕食の支度を終えて、何度も私の部屋のドアを叩いた。私は適当な理由をつけて、すべて断った。胸が詰まったような感覚で、何も喉を通らなかった。部屋に鍵をかけて閉じこもり、闇が私を少しずつ飲み込んでいくのに身を任せた。自分に言い聞かせる。心晴、ただの失恋よ。過去に戻って、自分で自分を軽蔑するような人間には、もう二度となりたくない。三日間、そのまま横になり続けた。何も食べず、何も飲まず、一歩も外に出なかった。翔は毎日やってきて

  • 君が与えた愛、またの名を孤独   第11話

    私と佳典のことは、もう隠し切れないだろう。いっそのこと、公にしてしまおう。【うん、別れた。私から言い出したの】想美のSNSに返信する。携帯に表示された他のメッセージにも目を通す。大勢の友人が、私と佳典の間に何があったのかを尋ねてきている。普段あまり連絡を取らない人たちも少なくない。あれこれ迷った末、思い切ってSNSに投稿することにした。【過去は風と共に、未来に幸あれ】南国での仕事風景の写真を添えて、位置情報も敢えて追加した。南国と桜国には時差がある。この時間だと、向こうは真夜中のはずだ。想美はいつも朝寝坊なのに、今日に限って意外にも早い返信が来た。「あなたから別れを切り出したって?そんなの信じない。久我さんのことあんなに好きだったじゃない。あの時どんなに止めても聞かなかったのに、今さら恋愛脳が治ったわけ?」私は苦笑いを浮かべた。返事をする気にもなれない。もうこの件は終わったものと思っていた。ところが昼近くになって、心遥からメッセージが届いた。LINEで、一見すると慰めの言葉のように装っている。【別れて正解だったと思うわ。佳典って性格的に付き合いにくいもの。私たち幼馴染以外とは滅多に親しくならないし、この数年間あなたも辛い思いをしたでしょう。お仕事頑張って】この皮肉たっぷりのメッセージに、どう返せばいいのか一瞬戸惑った。ただ一言だけタイプして、彼女からの通知をオフにし、同時にSNSの更新も非表示に設定した。私と佳典はもう何の関係もない。それと同じで、彼がいなければ心遥と知り合うこともなかった。同じ女性同士、お互いを傷つけ合う必要なんてあるだろうか?数日後、アパートの入口で見覚えのある人影を目にした。最初は見間違いだと思った。長い間佳典に会わずにいたから、想いが募って幻覚でも見ているのかと。けれど近づいてみると、紛れもなく本人だった。髪はぼさぼさに乱れ、全体的にひと回りも痩せて見える。私を見つめる瞳は赤く縁取られていた。彼の前に立つ私は、まるで旧友を見つめているような気分だった。一瞬、胸の奥から込み上げてくる感情があった。愛情の余韻のようなものは確かに残っている。ただ、十年間見続けてきたこの顔が、なぜかひどく見知らぬ人のように思えた。佳

  • 君が与えた愛、またの名を孤独   第10話

    ベッドに身を横たえ、一日の疲れを解いていく。布団からほのかに香る柔軟剤の匂い——その香りが、またしても佳典のことを思い出させた。小さくため息をつく。そろそろ新しい柔軟剤に変える時期かもしれない。夜の帳が降りた頃、部屋のドアがノックされた。開けてみると、翔が湯気の立つ小鍋を手に立っていた。「新入りさん、これ、僕がずっと大事にとっておいた逸品なんです。今日は君のために特別に」覗き込むと、何か珍しいものかと思いきや——ぐたぐたに煮えたインスタントラーメンだった。少し肩を落とす。佳典が家にいない時、私の食事といえばいつもインスタントラーメン。まさかここに来ても、またラーメンとは。私の表情を見取った翔が、茶化すように言う。「これはシーフード味の特上品ですよ!ほら、新鮮さを味わってみて。特大伊勢海老でダシを取ったんですから!」私は横に身をずらして彼を招き入れた。テーブルを囲んで、二人であぐらをかく。一人暮らしの彼は食器の用意もしていない。だから私たちは鍋から直接、一口ずつ麺をすすった。翔は食べたそうにしながらも、遠慮がちに私に譲ろうとする。数口食べた後は、じっと私が食べる様子を見つめていた。その様子がおかしくて、つい笑ってしまう。「もうお腹いっぱい」鍋を押し戻すと、翔は何度か辞退の素振りを見せてから、鍋を抱えて勢いよく食べ始めた。人が美味しそうに食べている姿を見るのも、こんなに幸せな気持ちになるものなのか。「君が南国に来た理由って何?こんなところ、普通は誰も来たがらないよ」翔は麺をずるずると啜りながら、顔も上げずに話題を振ってきた。「まあ、人生経験ってやつかな」私はさらりと答えてみせる。「本当に?人生経験?信じないなあ。上司に目を付けられたとか、誰かの機嫌を損ねたとか」目を細めて、私の心の奥底を見透かそうとするような視線を向けてくる。その視線から逃れるように、私は目を伏せた。「人として一番大切なのは誠実さだよ。これから運命を共にする二人なんだから、お互い正直になろうよ」翔は追及の手を緩めない。もういいか。話したところで別に失うものもない。私は観念した。「うん、恋人と別れたの。気分転換したくて」「やっぱりね。普通の人がこんなところに来るわけないもん」

  • 君が与えた愛、またの名を孤独   第9話

    私は佳典を深く見つめた。これが最後になるかもしれないと伝えたかった。もう二度と戻らないと告白したかった。あなたが本当に愛する人と、幸せな人生を歩んでほしいと願っていると言いたかった。口を開こうとした瞬間、佳典の携帯が鳴り響いた。着信表示を見ると、心遥の名前が光っている。彼は眉間にしわを寄せ、迷った末に通話ボタンを押した。「どうした?」……「分かった。すぐに戻る」佳典は申し訳なさそうな表情で私を見つめ、携帯を握りしめて落ち着かない様子で口を開いた。「ごめん、心晴。誕生日は今度必ず埋め合わせするから。心遥の足の具合が悪くて、一人じゃ動けないんだ。急いで戻らないと」「分かった」私は素っ気なく答えた。心が死ぬというのは、きっとこういうことなのだろう。これほど悔しい瞬間でも、もうどうでもよく感じてしまう。私の冷たい反応を見て、佳典は内心怒っているのだと勘違いしたようだった。慌てて付け加える。「明後日、明後日には心遥が退院するから、必ず君のそばにいる。そうそう、君が前に食べたがっていたスイーツの店があったよね。明後日、絶対に買ってくるから」ドアの閉まる音と共に、佳典はまた去っていった。テーブルの上のケーキを見つめたまま、私は動けずにいた。彼と過ごしてきたこれまでの年月で、実は一番嫌いだったのは記念日だった。正確に言うなら、記念日が怖かった。失望するのが怖かったから。他の女の子の誕生日には、恋人がプレゼントやサプライズを用意してくれる。少なくとも一緒にいてくれる。でも私は?前回の誕生日は、重要な会議があると言われた。その前は日付を間違えたと言い、後で必ず埋め合わせすると約束された。さらにその前は起業したばかりでお金もなく、生活のために会社で残業すると決められた。……結局いつも、私は一人きりだった。今回も例外ではなかったということだ。壁にかかったカレンダーが示す残り一日を見つめる。再びがらんとした部屋を見回した。もう私の物は何一つ残っていない。以前、佳典はいつも言っていた。無駄な物を買うのはやめろと。例えばソファの上のぬいぐるみ。冷蔵庫に貼ったステッカー。私はただ、家というものは無意味な物を置く場所だと思っていた。そうす

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status