LOGIN高校の3年間、私・篠宮澄香(しのみや すみか)は黒瀬朔(くろせ さく)に片想いをしていた。 朔は私の後ろの席で、授業についていけなくなるたび、椅子の背を軽く蹴った。 そうすると私は、細かな字でびっしり埋まったノートをすぐ後ろへ回した。 それが、二人だけの合図なのだと思っていた。 けれど昨日、生徒の間で使われている匿名掲示板で、こんな投稿を目にした。 【黒瀬朔って最近、急に勉強し始めたよね。高峰玲花(たかみね れいか)と付き合いたいから?】 【決まってるじゃん。玲花が南陵大を目指すって言った途端、黒瀬も南陵大の入試情報を調べ始めたんでしょ。不良が恋のために勉強するとか、尊すぎる】 【でも最近、学年首位の篠宮澄香から毎日ノート借りてない?】 【成績を上げて、玲花と同じ大学に行くためでしょ。篠宮なんて、せいぜい都合のいい踏み台だよ】 私は「都合のいい踏み台」という言葉を、いつまでも見つめていた。 翌日、朔はまた私の椅子を蹴った。 今度は振り向かなかった。 ノートも渡さなかった。
View Moreそれでも頷いた。「分かってる」「それに、今も黒瀬くんが好きかどうか、自分でも分からない」朔の喉が動いた。「うん」その顔を見ていると、胸の中で絡まり続けていたわだかまりが、少しずつほどけていった。朔は無関心だったのではない。ただ、驚くほど不器用だった。それでも、私が傷ついた事実まで消えるわけではなかった。だから、簡単には許したくなかった。遅れて届いた一言だけで、朔のためにすべてを差し出していた頃の自分へ戻りたくもなかった。「黒瀬くん、私にはもう自分の生活がある。新しい授業も、友達も、目標もある。前みたいに、椅子を一度蹴られるだけで、ずっと振り向いて待つことはしない」朔はしばらく黙った。それから低い声で答えた。「分かった。もう蹴らない」私は一瞬、言葉を失った。朔は私を見たまま、真剣に付け加えた。「ちゃんと言葉にする。篠宮、好きだ。ずっと前から好きだった。勉強を始めたのも玲花のためじゃない。少しでも篠宮に近づきたかったからだ。玲花を好きだったことなんて、一度もない」一言ずつ、ゆっくりと話した。どの言葉も、胸の奥から無理に掘り出しているようだった。私は目を伏せた。足元に桜の花びらが落ちていた。この街の春は短い。風が吹けば、辺り一面が桜色に染まった。長い沈黙のあと、小さく言った。「黒瀬くん、私、企画書を書きかけなの」朔は頷いた。「アパートまで送る」私は朔を見た。「ここがもうアパートだけど」朔は黙った。それから、ごく小さく「ああ」と言った。とうとう我慢できず、笑ってしまった。朔は私を見て、目を見開いた。その瞬間、眉間に残っていた冷たさも緊張も、風にほどかれたようだった。私は青いノートと瓶を抱え、アパートへ戻ろうとした。入口まで行ったところで足を止めた。振り返らずに呼んだ。「黒瀬くん」すぐに返事があった。「うん。次に来るときは、先に連絡して」しばらく沈黙した。「篠宮の連絡先、知らない」ドアノブにかけた手が止まった。背後の朔は緊張しているようだった。それでも、ぶっきらぼうに言葉を足した。「教えてくれる?」私は振り返った。朔は桜の木の下に立ち、肩にはまだ一枚の花びらが乗っていた。相変わらず冷たく
朔は私を見ながら、低い声で続けた。「連絡しようと思った。でも、連絡先を知らなかった。人に聞く勇気もなかった」私は言葉を失った。3年間同じクラスだったのに、私と朔は個人的な連絡先を交換していなかった。一番近かったときでさえ、前後の席でノートを渡し合っただけだった。個人的に連絡を取るきっかけさえ、二人は持っていなかった。朔はさらに言った。「こっちの大学に進んだ」「え?」「東嶺大から近い大学」少し決まり悪そうに間を置いた。「東嶺大には届かなかった。でも、篠宮の近くには来られた」胸の奥が、急にきゅっと痛んだ。「南陵大を目指してたんじゃなかったの?」朔は眉を寄せた。「誰が言った?」私は黙った。何かを思い出したらしく、朔の顔がさらに険しくなった。「掲示板?」私は答えなかった。少し黙ってから、朔は言った。「南陵大を調べたのは、あの頃、篠宮がずっと南陵大の資料をまとめてたから。篠宮が受けるんだと思った」私は目を見開いた。朔は続けた。「あとから玲花が南陵大へ行きたいって話した。それで周りが勝手に結びつけた。説明しなかった。必要ないと思ってた」声がさらに低くなった。「ごめん」また、ごめんという言葉だった。けれど今度は、滑稽だとは思わなかった。高校3年間、ずっと見落としていた、いくつもの出来事を思い出した。夜更かししてノートをまとめ、翌日机に突っ伏して眠ったことがある。目を覚ますと、机の端にホットココアが置かれていた。雨の日に傘を忘れ、昇降口まで行くと、私の下駄箱に黒い折り畳み傘が入っていたこともあった。模試の物理で失敗し、一人で階段の踊り場に隠れて泣いたこともある。あとで「学年トップも大したことない」と笑った生徒たちは、朔に廊下の隅へ呼び止められていた。それ以来、私の前でひどいことを言う人はいなくなった。私は、朔がたまたま通りかかっただけだと思っていた。気まぐれに手を貸しただけ。朔のような人でも、たまには人助けをするのだと。けれど今振り返れば、どの「たまたま」にも理由があった。喉が詰まりそうになりながら、朔を見た。「黒瀬くん、いつから……」最後まで言えなかった。それでも朔には伝わった。「1年のとき。校舎裏で会った
もし「好きだ」という言葉が本当だったとしても……それで何が変わるのだろう。すれ違ってしまった事実は、消えない。ぼんやりしていると、となりの部屋に住む友達が私の部屋に飛び込んできた。「澄香!」私は顔を上げた。「どうしたの?」友達は意味ありげに笑った。「下に、すごく格好いい人が来てる。ちょっと近寄りがたい感じの人」胸が大きく鳴った。スマホを握ったまま、ゆっくり階段を下りた。アパートの前には、並木道が静かに延びていた。芽吹いたばかりの若葉が春風に揺れ、柔らかな光が道いっぱいにこぼれていた。一人の青年が、木の下に立っていた。黒い上着を着て、背筋を伸ばしていた。髪は高校時代より少し短くなっていたが、冷たく見える目元は変わっていなかった。ただ、私を見つけた瞬間、張り詰めていた表情がふっと緩んだ。朔だった。私は階段の上で立ち止まり、すぐには近づかなかった。朔も動かなかった。数歩を隔てて、互いを見つめた。長い沈黙のあと、先に口を開いたのは朔だった。「篠宮」やはり低い声で、私の名前しか言わなかった。最後の一段を下り、朔の前に立った。「どうしてここに?」朔は体の脇で一度、手を握っては開いた。「会いに来た」私は朔を見た。「何か用?」しばらく黙ったあと、朔はポケットから古びたノートを取り出した。青い表紙。私が南陵大学の入試情報をまとめた、あのノートだった。私は息を呑んだ。「高峰さんから返してもらったの?」朔は私を見て、小さく答えた。「うん。玲花がうちに来たとき、机の上に南陵大の資料と一緒に置いてあった。自分用にまとめたものだと思って、持って帰ったらしい。俺は、なくしたと思ってた。あの日、初めて玲花が持ってたって知った」そこで一度言葉を切った。自分でも説明が足りないと思ったのか、もう一言付け加えた。「ごめん」声は小さかったが、真剣だった。胸の奥に、何かにそっと触れられた気がした。朔は目を伏せ、手の中のノートを見た。「あの頃は、どう言えばいいか分からなかった。篠宮が怒ってても、説明の仕方が分からなかった」自嘲するように口元を少し歪め、今度は別のものを差し出した。ガラス瓶だった。中には色とりどりの小さな紙の星が、隙
この春から高校生になる。成績は悪くないが、うっかりミスが多かった。私が本棚からノートの束を運び出すと、目を輝かせた。「お姉ちゃん、それ全部、勉強のノート?」「うん」ノートの束を理沙の前に置いた。「使う?」理沙は驚いた。「全部もらっていいの?」私は頷いた。「高校のものは、もう使わないから。要点と間違えた問題をまとめてあるし、必要なところだけ見ればいいよ」理沙は飛びつきそうな勢いで喜んだ。「お姉ちゃん、神!」私は笑った。かつて、そのノートを何より大切にしていた。とりわけ数冊には、どの問題にも、どの印にも、朔との記憶が染み込んでいた。それでも今は、一冊ずつ段ボール箱へ入れていった。あの片想いまで、一緒に封をするように。翌日、東嶺大学の入学式に出席し、晴れて大学生になった。大学生活は忙しかった。講義、サークル、図書館、アルバイト。新しい友人ができ、大勢の優秀な人たちにも出会った。高校時代に心を埋め尽くしていた人や出来事は、時間に押し流され、少しずつ遠くなった。千紘からは、ときどきメッセージが届いた。千紘は地元の教育大学へ進学していた。1限が早すぎるとか、学食が混みすぎるとか、互いに愚痴を言い合った。千紘が朔の話をすることはほとんどなかった。私から尋ねることもなかった。このまま、すべて過去になるのだと思っていた。ところが数か月後、アパートでサークルの企画書を書いていたとき、理沙から突然、画像が送られてきた。【お姉ちゃん、高校のとき付き合ってた人いたの?】指が止まった。続けて写真が届いた。ノートの中の一ページだった。使い込まれたページは、端が少し丸まっていた。その一番下に、黒い字で一行だけ書かれていた。角ばっていて、決して上手とはいえない。けれど、よく知っている字だった。【篠宮、好きだ】息が止まった。廊下を行き交う人たちの笑い声が、遠くなった。その一行しか見えなかった。——篠宮、好きだ。朔の字だった。3年間、朔は私の付箋に短い返事を残した。——うん。——分かった。——細かい。けれど、こんなにはっきりした言葉は一度もなかった。理沙から、またメッセージが届いた。【ノートを見てたら、このページが
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