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君だけのノートを閉じたあの日から

君だけのノートを閉じたあの日から

By:  べつにCompleted
Language: Japanese
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高校の3年間、私・篠宮澄香(しのみや すみか)は黒瀬朔(くろせ さく)に片想いをしていた。 朔は私の後ろの席で、授業についていけなくなるたび、椅子の背を軽く蹴った。 そうすると私は、細かな字でびっしり埋まったノートをすぐ後ろへ回した。 それが、二人だけの合図なのだと思っていた。 けれど昨日、生徒の間で使われている匿名掲示板で、こんな投稿を目にした。 【黒瀬朔って最近、急に勉強し始めたよね。高峰玲花(たかみね れいか)と付き合いたいから?】 【決まってるじゃん。玲花が南陵大を目指すって言った途端、黒瀬も南陵大の入試情報を調べ始めたんでしょ。不良が恋のために勉強するとか、尊すぎる】 【でも最近、学年首位の篠宮澄香から毎日ノート借りてない?】 【成績を上げて、玲花と同じ大学に行くためでしょ。篠宮なんて、せいぜい都合のいい踏み台だよ】 私は「都合のいい踏み台」という言葉を、いつまでも見つめていた。 翌日、朔はまた私の椅子を蹴った。 今度は振り向かなかった。 ノートも渡さなかった。

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Chapter 1

第1話

私は朔の机から自分のノートを取り戻した。

ページは解法の手順やつまずきやすい箇所、頻出事項で隙間なく埋まっていた。

以前、隣の席の小宮山千紘(こみやま ちひろ)がそれをめくり、目を丸くしたことがある。

「澄香、このノート細かすぎない?学年トップでも、ここまで書くの?」

頬が熱くなるのをごまかしながら、私はこう答えた。

「復習しやすいから」

本当は違った。

このノートは朔のために作っていた。彼が読んでも分かるように。

朔は目を引く顔立ちをしていたが、近寄りがたかった。

制服はいつも着崩し、黒い鞄を無造作に肩に掛けていた。

授業中は寝ているか、ぼんやり窓の外を見ているかだった。

教師に当てられると、伏し目がちに立ち上がり、しばらく黙った末に一言だけ答えた。

「分かりません」

教師が腹を立てて教卓を叩いても、顔色ひとつ変えなかった。

どんな言葉をぶつけても、反応ひとつ返さない石のようだった。

本来なら、そんな人には近づかないはずだった。

けれど入学したばかりの頃、私は校舎裏で他校の生徒たちに取り囲まれ、金を出せと脅された。

そのとき朔が、飲みかけのペットボトルを片手に、校舎の角から歩いてきた。

私の前に立つと、相手に向かって言った。

「どけ」

一人が悪態をついた。

朔は目を上げ、そいつを見た。

たったそれだけで、相手は口をつぐんだ。

やがて全員が立ち去ると、朔は屈み込み、散らばった教科書を一冊ずつ拾った。埃を払ってから、私の腕の中へ戻した。

「ありがとう」

小さな声で言うと、朔は私を見もせずに答えた。

「面倒だな」

私が朔を好きになったのは、その日からだった。

そして、我ながら情けないほど一途に好きでいた。

朔が放課後の補習をさぼれば、その日の要点に印をつけた。

授業中に寝ていれば、教師が解説した例題を改めて整理した。

椅子を蹴られれば、ノートを後ろへ回した。

たまに「ありがと」と言われることはあったが、大半は何も言われなかった。

それでも構わなかった。

朔が無口なのは、校内では誰もが知っていたからだ。

むしろ私のノートだけは借りるのだから、朔にとって私は少しくらい特別なのだと思っていた。

昨日の夜、生徒の間で使われている匿名掲示板で、あの投稿を見るまでは。

投稿のタイトルは、こうだった。

【黒瀬朔が最近、急に勉強し始めた理由を知ってる人いる?】

その下には、何百件もの書き込みが連なっていた。

【高峰玲花のために決まってる。玲花、南陵大を目指してるんでしょ?】

【不良が恋のために勉強するとか、無理、尊い】

【でも黒瀬、最近ずっと篠宮澄香からノート借りてるよね……】

【笑わせないで。篠宮なんて、黒瀬が玲花に近づくための踏み台でしょ】

踏み台。

その言葉を見つめているうちに、手足から熱が引いていった。

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あーきよいち
あーきよいち
クラスメイトから、またしっかりやり直して、話せると良いなって感じます。
2026-10-10 02:22:55
2
0
蘇枋美郷
蘇枋美郷
あああああああ!!!!と思いながら読了(笑) めっちゃアオハル!!後半は半泣きになりながら読み進めた。不器用な2人のこの先の人生がどうなっていくのか…続編出して欲しい〜!
2026-10-07 10:50:37
5
0
文文文
文文文
言葉が足りなくてすれ違った2人に、せつなさを感じました。
2026-10-07 07:34:46
3
0
プレリードック
プレリードック
私も不器用なところがあるから、 共感しながら読んでたわ〜
2026-10-06 22:53:52
3
0
高木木綿子
高木木綿子
とても不器用な彼と、臆病だった彼女。これからどの様な大人になっていくのか、見守りたいと思うお話でした。
2026-10-06 20:45:59
4
0
14 Chapters
第1話
私は朔の机から自分のノートを取り戻した。ページは解法の手順やつまずきやすい箇所、頻出事項で隙間なく埋まっていた。以前、隣の席の小宮山千紘(こみやま ちひろ)がそれをめくり、目を丸くしたことがある。「澄香、このノート細かすぎない?学年トップでも、ここまで書くの?」頬が熱くなるのをごまかしながら、私はこう答えた。「復習しやすいから」本当は違った。このノートは朔のために作っていた。彼が読んでも分かるように。朔は目を引く顔立ちをしていたが、近寄りがたかった。制服はいつも着崩し、黒い鞄を無造作に肩に掛けていた。授業中は寝ているか、ぼんやり窓の外を見ているかだった。教師に当てられると、伏し目がちに立ち上がり、しばらく黙った末に一言だけ答えた。「分かりません」教師が腹を立てて教卓を叩いても、顔色ひとつ変えなかった。どんな言葉をぶつけても、反応ひとつ返さない石のようだった。本来なら、そんな人には近づかないはずだった。けれど入学したばかりの頃、私は校舎裏で他校の生徒たちに取り囲まれ、金を出せと脅された。そのとき朔が、飲みかけのペットボトルを片手に、校舎の角から歩いてきた。私の前に立つと、相手に向かって言った。「どけ」一人が悪態をついた。朔は目を上げ、そいつを見た。たったそれだけで、相手は口をつぐんだ。やがて全員が立ち去ると、朔は屈み込み、散らばった教科書を一冊ずつ拾った。埃を払ってから、私の腕の中へ戻した。「ありがとう」小さな声で言うと、朔は私を見もせずに答えた。「面倒だな」私が朔を好きになったのは、その日からだった。そして、我ながら情けないほど一途に好きでいた。朔が放課後の補習をさぼれば、その日の要点に印をつけた。授業中に寝ていれば、教師が解説した例題を改めて整理した。椅子を蹴られれば、ノートを後ろへ回した。たまに「ありがと」と言われることはあったが、大半は何も言われなかった。それでも構わなかった。朔が無口なのは、校内では誰もが知っていたからだ。むしろ私のノートだけは借りるのだから、朔にとって私は少しくらい特別なのだと思っていた。昨日の夜、生徒の間で使われている匿名掲示板で、あの投稿を見るまでは。投稿のタイトルは、こうだった。【黒瀬
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第2話
翌朝、朔は予鈴と同時に教室へ入ってきた。いつものように黒い鞄を机の脇へ押し込み、椅子の背にもたれた。ほどなくして、英語教師が前日のプリントを解説し始めた。空所補充問題に差しかかったとき、背後から椅子を軽く蹴られた。こつん。ペンを握る手が一瞬止まった。以前なら、朔に椅子を蹴られた途端、ノートを後ろへ差し出していた。何も言われなくても。けれど今度は振り向かず、手も動かさなかった。ただ俯いて、教師が説明した熟語をプリントの余白に書き込んだ。数秒の沈黙のあと、朔が気だるげに隣の男子に声をかけるのが聞こえた。「プリント、見せて」男子は一瞬戸惑い、慌てて自分のプリントを渡した。「あ、ああ。ほら」朔はそれを受け取ると、もう何も言わなかった。私は目を伏せた。そこでようやく気づいた。私は、別に特別ではなかったのだ。必要なら、誰からだって借りられる。今までの私が、差し出すのを急ぎすぎていただけだった。休み時間になると、千紘がスマホを手に身を寄せてきた。「澄香、校内掲示板のあれ見た?黒瀬くんと高峰さんの投稿」声を潜めてはいたが、好奇心を隠し切れていなかった。「朔が急に勉強し始めたのは、高峰さんのためだって、みんな言ってるよ。実際、お似合いだよね。札付きの問題児と、学校一の美人。しかも小さい頃からの知り合いで、家同士も付き合いがあるらしいよ」千紘は私の腕を軽くつついた。「澄香はどう思う?」「そうだね」教科書から目を上げ、千紘を見た。「お似合いだと思う」千紘は目を瞬かせた。私の声に何かを感じ取ったらしい。何か言いかけたところで、廊下から呼ぶ声がした。「篠宮、担任が呼んでるよ」私は席を立った。後ろの席では、朔が俯いたまま何かを見ていた。職員室へ行くと、担任は答案を採点していた。私に気づき、まず笑顔を見せた。「篠宮、最近も成績が安定しているな。このまま共通テストと二次試験の対策を詰めれば、東嶺大も十分狙えるぞ」「はい。頑張ります」担任は赤ペンを置いて続けた。「そういえば、黒瀬もこのところ模試の成績が上がっているらしいな。ずっと篠宮のノートを借りているそうだが」私は、朔のためだけに作っていたノートを思い浮かべた。「はい」担任は小さく
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第3話
教室へ入り、答案を配った。朔の周りにいた生徒たちは、私を見るなり散っていった。朔の答案を渡すとき、手の甲に新しい傷があることに気づいた。以前なら、きっと「どうしたの」と尋ねていただろう。休み時間に保健室へ行って消毒液とガーゼをもらい、何でもないふりをして机に置いたはずだ。朔はたいてい使わず、散らかった教科書と一緒に机の中へ押し込んでいた。けれど今度は、答案を差し出しただけだった。「これ、黒瀬くんの」朔が顔を上げた。黒い瞳には、いつもの冷ややかさが宿っていた。私は立ち止まらず、次の答案を配った。昼休み、食堂の列に並んでいると、前にいた女子たちの会話が耳に入った。「昨日、高峰さんと黒瀬くんが一緒に進路指導室へ行ってなかった?」「行ってた。高峰さんは南陵大の学校推薦型選抜を受けるらしいよ。黒瀬くんも最近、南陵大の共通テスト得点率とか一般選抜の配点を調べてるんだって」「本当?今の成績で届くの?」「篠宮が教えてるからじゃない?」笑い声が上がり、一人がさらに声を潜めた。「篠宮って、黒瀬くんのこと好きなんじゃない?毎日のようにノート渡してるし」「好きでもなきゃ、あんな面倒なことしないでしょ」「でも、釣り合うかどうかくらい考えればいいのに」「ほんと。身の程知らずだよね」私はトレーを持ち、すぐ後ろに立っていた。食堂は騒がしいはずなのに、その言葉だけは一つ残らず耳に届いた。身の程知らず。みんなには、私と朔がそう見えていたのだ。列が進み、配膳の人に聞かれた。「何にする?」答えようとしたとき、視界の端に、食堂へ入ってくる二人が映った。朔と玲花だった。玲花は白いカーディガンを制服の上に羽織り、鞄と何冊かの資料を抱えていた。何かを言うと、朔は彼女を見下ろした。それから手を伸ばし、玲花の鞄を受け取った。玲花は顔を上げ、朔に笑いかけた。その瞬間、周囲の音が一斉に遠のいた。さっき耳にした「朔と玲花はお似合い」という言葉だけが、やけに鮮明に残った。返事がないので、配膳の人がもう一度尋ねた。「決まった?」我に返り、適当に二品を指した。「これと、これをお願いします」その夜、家に帰ると、鞄からノートを一冊ずつ取り出した。数学、物理、英語、化学。ど
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第4話
朔は机に突っ伏していたが、その声でようやく顔を上げた。けれど玲花が最初に向かったのは、朔の席ではなかった。まっすぐ私の机まで来た。「篠宮さん、数学のノートを貸してもらえない?」私は玲花を見上げた。「朔が、篠宮さんのノートは一番分かりやすいって言ってた。最近、模試の成績もかなり上がったし。ありがとう」ありがとう。まるで朔に代わって礼を言うかのような、あまりにも自然な口ぶりだった。私は教科書を閉じた。「ごめん。今、手元にないの」教室が一瞬、しんと静まり返った。後ろから小声が聞こえた。「貸すくらいいいのに。けちじゃない?」「あのノート、前は黒瀬くんにしか貸してなかったらしいよ」「必死すぎ」そのとき、背後で椅子が床を擦る音がした。朔が立ち上がった。「通して。出るから」隣の男子が慌てて道を空けた。朔は誰も見ず、そのまま教室を出ていった。玲花の視線が朔の後を追い、やがて私に戻った。彼女は笑って言った。「じゃあ、また今度お願いするね。それから、もう一つお礼を言いたかったの。南陵大のまとめ、すごく詳しくて助かった」私の指が止まった。「何のこと?」玲花は目を瞬かせた。「朔が持ってた、青いノートだよ。ここ数年の共通テスト得点率や二次試験の配点、学部ごとの特徴までまとめてあった」頭の中が一瞬、真っ白になった。青いノート。3日間ほとんど眠らず、朔のために作ったものだった。南陵大の直近5年分の倍率や合格最低点、学部ごとの科目配点、共通テストと個別試験で必要になる目標点まで整理した。最後のページには、小さな笑顔の絵と一緒に、慎重な字でこう書いた。【頑張って、黒瀬くん】朔に見てもらえると思っていた。けれど今、そのノートは玲花の手に渡っていた。私は教科書を開き、もう誰の顔も見なかった。「お礼なんていいよ。役に立ったなら、そのまま使って」今度は玲花も笑わなかった。しばらく私を見つめ、最後に「分かった」と言って立ち去った。昼休み、校庭から教室へ戻ると、学級委員の長谷部湊(はせべ みなと)に呼び止められた。湊はノートを返し、飲むヨーグルトを一本差し出した。「さすが、黒瀬の成績まで上げたノートだな。微分のところ、説明が細かくて一発で分かった」
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第5話
私は朔を見上げた。廊下から差し込む夕日が肩に落ち、硬い横顔を薄い金色に縁取っていた。鞄の肩紐を握り、できるだけ平静な声で答えた。「怒ってない」朔は眉を寄せた。信じてはいないようだったが、それ以上問い詰められる人でもなかった。数秒黙った末、ようやく口を開いた。「じゃあ、どうしてノート貸してくれないの」思わず笑いそうになった。「黒瀬くん、あれは私のノートだよ。誰に貸すかは、私が決める」朔は私を見つめたまま、かすかに喉を鳴らした。「でも、前はいつも貸してくれた」「前は前」私は言葉を遮った。教室は静かだった。窓の外から、最後まで校庭に残った生徒たちがボールをつく音が聞こえた。ぱん。ぱん。一つ一つが胸を打つようだった。朔を見て、言葉を区切りながら伝えた。「もう、貸したくない」朔はさらに深く眉を寄せた。言葉に詰まったように唇を引き結び、なかなか何も言わなかった。私は横をすり抜けようとした。けれど朔がまた腕を伸ばし、行く手を遮った。「篠宮」名前を呼ばれ、足を止めた。けれど、顔は向けなかった。「あのノート」低い声だった。「俺が玲花に渡したんじゃない」一瞬、動けなくなった。玲花が話していた青いノートのことだと気づくまで、少しかかった。胸を鈍い針で刺されたようだった。俺が渡したんじゃない。言い訳のようにも聞こえた。けれど短すぎた。なぜ玲花の手に渡ったのか、何ひとつ説明していなかった。私は顔を上げ、その目を見た。「私には関係ない」朔の表情が、はっきりと固まった。「誰に見せても、誰が使っても、私には関係ないよ。黒瀬くんのことに口を出せる立場でもないし」朔の指先が、体の脇でわずかに動いた。「違う。俺は渡してない」私は朔を見つめた。瞳は夜のように黒かった。以前は、黙り込んだ朔の横顔さえ好きだった。冬の湖のように冷たくても、澄んでいると思っていた。けれど今になって、私は朔を一度も本当に理解していなかったのだと気づいた。好きだったから、すべての沈黙を自分に都合よく「特別」だと読み替えていただけだった。差し出したノートを拒まなかった。それだけで二人だけに通じる合図があるのだと思った。付箋に「うん」と一言
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第6話
もう、そんな自分にはなりたくなかった。だから、こう答えただけだった。「私も受験生だから。そんな余裕はないの」朔は黙り込んだ。その横を抜け、教室を出ようとした。今度は引き止められなかった。扉を出る直前、朔がもう一度、私の名を呼んだ。足を止めたが、振り返らなかった。背後から、少しかすれた声が届いた。「受験が全部終わったら。話したいことがある」廊下の向こうから吹いた風が、前髪を揺らした。背を向けたまま、鞄の肩紐を強く握った。以前なら、その一言だけで何日も考え続けただろう。何を話すのだろう。私に関係することだろうか。けれど今は目を伏せて、小さく答えただけだった。「そのときになったらね」振り返らず、一歩ずつ廊下を歩き出した。夕日の中に立つ朔からも、離れていった。……週末の2日間、ほとんどスマホに触れなかった。机に向かい、ひたすら問題を解いた。数学を1回分、理科を2回分、英語長文を4題。手首が痛くなると、水を一口飲み、また続きを解いた。夜、仕事から帰った母が、まだ明かりのついた私の部屋をノックした。「澄香、無理しすぎないで。もう寝なさい」私は間違えた問題をまとめながら答えた。「もう少しだけ」母は扉のところで、ため息をついた。心配しているのは分かっていた。父は早くに亡くなり、母はずっと一人で家計を支えてくれた。私の前でつらいとは言わなかった。ただ、教師に成績を褒められるたび、その目は嬉しそうに輝いた。担任の言うとおりだった。私と朔は違う。朔には、きっといくつもの道がある。けれど私が先へ進むには、この受験で結果を出すしかなかった。必ず、自分の力でここを出る。月曜日の朝、千紘は席に着くなり、秘密めかして顔を寄せてきた。「澄香、知ってる?校内掲示板の投稿、消えてたよ」本をめくる手が止まった。「どの投稿?」「黒瀬くんと高峰さんのやつ。昨夜もう一度見ようとしたら、存在しませんって出たの」千紘はさらに身を寄せた。「投稿だけじゃなくて、下についてた変な書き込みも全部消えてた。かなり厳しく通報されたみたい。投稿した人のアカウントまで利用停止だって」私は答えなかった。それでも、心臓が不意に大きく跳ねた。千紘は私の顔を見な
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第7話
私はペンのキャップを閉じ、平然と答えた。「見間違いだよ。黒板を見てたんじゃない?」千紘は口を尖らせた。「私、そこまで目悪くないけど」私は本を千紘の前へ押した。「共通テストまで、もう2か月もないよ。噂話はやめて、勉強しよう」千紘は情けない声を上げた。「学年トップ、容赦ない」私は少し笑ったが、それ以上は何も言わなかった。やがてチャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。朝のホームルームが始まり、出欠確認と簡単な連絡事項が済む。そのまま1時間目の英語が始まり、教科書を開くよう指示された。指名された生徒たちが順番に英文を読み上げていく。私は一度も振り返らなかった。後ろの席にいる朔のほうも見なかった。それでも、ずっと背中に視線を感じていた。2時間目は数学だった。担任は教室に入ってもすぐに問題の解説を始めず、眼鏡を押し上げて言った。「入試も近いから、何人か席を替える」嫌な予感がした。その予感どおり、私の名が呼ばれた。「篠宮は、窓側の前から2列目」ペンを握る手がこわばった。窓側の前から2列目。朔からも、今の席からも遠かった。千紘が先に慌て、小声を上げた。「えっ、私は?」担任は別の女子を私の元の席へ移した。教室がわずかにざわついた。私は俯いて教科書を片づけた。一冊ずつ鞄に入れ、机の中のプリントファイルも取り出した。背後で椅子がわずかに動いた。朔は何も言わなかった。私も振り返らなかった。新しい席へ移ると、冬の薄い光が机に差していた。教科書を並べ、椅子を整えようと振り向いたとき、視界の端に朔が映った。元の席で背筋を伸ばし、何かを見つめていた。その授業中、私は一度も気を散らさなかった。授業が終わると、担任に呼び止められた。「篠宮、職員室へ来て」何となく理由は分かっていた。それでも実際に職員室で担任の言葉を聞くと、惨めさに胸の奥がきゅっと縮んだ。「この時期に席を替えたくはなかったんだ。篠宮はずっと調子がいいから、かえって影響が出ないか心配でもある」「大丈夫です」担任はため息をついた。「黒瀬の母親から電話があったの」私は顔を上げた。職員室の窓を、冷たい風が小さく鳴らしていた。担任は続けた。「黒瀬も最近は勉強して
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第8話
朔を見て、冷たい声で尋ねた。「聞いてたの?」朔の眉がわずかに動いた。「知らなかった」また、その言葉だった。知らなかった。あの投稿で私が傷ついたことも。周囲から笑いものにされていたことも。母親からの電話一本で、私が担任の前で「余計な気がかり」にされたことも。朔はいつだって、何も知らなかった。急に、何もかもが重くなった。「黒瀬くん」私は顔を上げた。「説明しなくていい。私たちは最初から、住む世界が違ったんだよ」朔の顔が目に見えて曇った。それでも続けた。「黒瀬くんの家は、いろいろなことを決めてくれる。学校に電話もできるし、邪魔になりそうなものを遠ざけることもできる。進路だって、いくつも用意できる。でも、私は違う。私にあるのは、成績だけだから。だからこれからは、本当にただのクラスメートでいよう」「ただの」という言葉を、はっきり区切った。朔は私を見つめた。その瞳の奥で、何かがひび割れたように見えた。返事を待たず、背を向けた。数歩進んだところで、向こうから玲花が歩いてきた。何冊かの資料を抱え、廊下の反対側に立った。朔を見つけると、目を輝かせた。「朔、探してたの」私にも気づき、笑顔が少しだけ薄れた。私は足を止めなかった。すれ違ったとき、玲花から柔らかな花の香りがした。清潔で、どこまでも彼女らしい香りだった。誰もが朔の隣にふさわしいと思う人だった。背後から玲花の声が聞こえた。「今、時間ある?聞きたいことが……」その先は聞こえなかった。私が早足で離れたからだ。……席替え以来、朔との関わりは完全になくなった。授業中に椅子を蹴られることもなかった。私も、後ろへノートを渡さなくなった。廊下ですれ違えば、ほかのクラスメートにするのと同じように、軽く会釈して通り過ぎた。朔はたいてい何も言わなかった。その場に立ち、私の背中を見送るだけだった。あるとき千紘が、小声で尋ねた。「澄香、つらい?」物理の間違いをノートにまとめていた指が止まった。それから首を横に振った。「つらくないよ」千紘は複雑そうな顔で私を見た。私はそれ以上、何も言わなかった。本当は、まだつらかった。教師がある問題を解説すると、反射的に余白に「こ
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第9話
高い位置で束ねた髪と、きちんと着た制服がよく似合い、ひときわ目を引いた。周囲から囃す声が上がった。「高峰さんが来た」「黒瀬くんを呼びに来たんじゃない?」「卒業前の記念撮影?」私は俯き、袖口を整えた。玲花は男子の列にいた朔の前で止まった。声は大きくなかったが、周囲が静かになったので私にも聞こえた。「朔、クラス写真が終わったら、一緒に写真撮らない?」誰かが口笛を吹いた。朔は男子の列に立ち、表情を変えなかった。玲花を一度見てから答えた。「撮らない」短い一言だった。取りつく島もなかった。玲花の笑顔がこわばった。周囲の囃し声も、すぐに消えた。大勢の前で断られるとは思っていなかったのだろう。数秒後、無理に笑顔を作った。「どうして?」朔は目を伏せ、冷たく答えた。「撮る理由がない」玲花の顔から血の気が引いた。しばらくそこに立っていたが、最後にはカメラを抱え、背を向けた。千紘が息を呑み、こちらを振り返って囁いた。「うわ……黒瀬くん、容赦なさすぎない?高峰さんが好きなんじゃなかったの?」私は答えず、正面を向いた。撮影担当の教師がカメラを構えた。「全員、レンズを見て。3、2、1」シャッターが切られた瞬間、校庭を冷たい風が吹き抜けた。私の高校生活は、終わりへ近づいていた。……共通テストまでの最後の1か月は、驚くほど早く過ぎていった。問題を解いて、解説を聞いて、覚えて、また模試を受ける。そんな毎日の繰り返しだった。黒板の隅に書かれた「共通テストまであと○日」の数字も、30から20へ、20から10へと減っていき、ついに「あと1日」になった。そして、共通テスト当日。試験会場の前は、受験生で混み合っていた。少し離れたところには、見送りに来た保護者の姿もあった。母は小さなお守りを私の手に握らせた。目は少し赤かったのに、私を安心させるように明るく笑っていた。「澄香なら大丈夫」私は母をぎゅっと抱きしめた。「うん。行ってくるね」それから2日間、私は自分が選択した科目の試験を一つずつ受けていった。最後の科目が終わり、解答用紙が回収されたとき、教室のあちこちから小さな息が漏れた。けれど入試は、それで終わりではなかった。翌日、学校で自己採
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第10話
スマホが鳴った。担任からだった。電話を取ると、無意識に手に力が入った。「先生」電話の向こうの声は、私以上に興奮していた。「篠宮、発表を見た?合格だよ。東嶺大に受かっているの!」庭から吹き込んだ風に、草木と昼食の匂いが混じっていた。私はスマホを握ったまま、しばらく声が出なかった。祖母が隣で尋ねた。「どうしたの、澄香?」顔を上げると、急に目の奥が熱くなった。「おばあちゃん、東嶺大に受かった」祖母は一瞬目を丸くし、すぐに目尻に皺を寄せて笑った。「そうかい、よかったねえ」「澄香は、本当によく頑張ったね」その夜、電話の向こうで母が泣いた。私に悟られまいと、声を抑えていた。それでも分かった。「澄香、お母さん、本当に誇らしいよ」私も泣いた。悲しかったからではない。これまで歩いてきた道が、無駄ではなかったとようやく思えたからだ。翌日、学級委員だった湊がクラスのグループチャットで皆に呼びかけた。【明日、卒業祝いで集まるぞ。来られる人は全員来て。高校最後の集まりだから欠席禁止!】チャットはすぐに賑やかになった。千紘から個別にメッセージが届いた。【澄香、帰ってくる?】私は返した。【無理そう。おばあちゃんの家にいるの】千紘は泣き顔のスタンプを送ってきた。【じゃあ、写真いっぱい送るね!】クラスのチャットは何日も賑わっていた。合格報告をする人、進学先を話す人、旅行の約束をする人。私は時折、画面を開いて眺めた。千紘は集まりの写真を何枚も送ってくれた。みんな楽しそうに笑っていた。一枚ずつ見ていき、最後の写真で指が止まった。どこにも朔が写っていなかった。どこへ行ったのか分からなかった。どの大学を受け、結果がどうだったのかも、誰も知らなかった。グループチャットでは、また噂話が始まった。【黒瀬くんって結局どこに進学するの?】【知らない。今日も来なかったし】【高峰さんは南陵大の推薦に受かったんだよね】【じゃあ黒瀬も南陵大?】【さあ。でも卒業式の日、黒瀬くんが校門でずっと誰かを待ってたのは見た】その言葉に、胸が小さく揺れた。校門で。ずっと待っていた。その一行を長く見つめてから、スマホの画面を閉じた。窓の外には、まだ
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