共有

君とすれ違った時気づいたこと
君とすれ違った時気づいたこと
作者: イケイチ

第 1 話

作者: イケイチ
裏切り

婚約披露の食事会を終えると、婚約者の桐谷怜司(きりたに れいじ)は友人たちに誘われるまま、バーへ行ってしまった。

深夜二時。タクシーがつかまらないかもしれないと思い、私は車を出した。

店の奥の薄暗いボックス席には、どこか艶めいた空気が漂っている。怜司は紫煙をゆっくり吐き出し、淡々と言った。

「篠原澪(しのはら みお)の元カレ二人って、あの界隈じゃかなり遊んでたって有名だろ。そう考えたら、俺だけ真面目に付き合ってるの、馬鹿みたいじゃない?」

私の足が止まった。

いつの間にか、怜司のすぐ後ろまで来ていた。照明が落ちていたせいか、誰もこちらに気づかなかった。

友人のひとりが、すぐにその話に乗った。

「桐谷なら、その気になれば寄ってくる女なんていくらでもいるだろ。お前だって遊べばいいじゃん」

あちこちから、悪意を含んだ笑い声が上がった。

怜司なら断ってくれると思っていた。そんな冗談はやめろと、たしなめてくれると信じていた。

けれど彼は、むしろ楽しそうに目を細めた。

「でも、今すぐ相手してくれる子なんて、近くにいないだろ」

すると友人がスマホを取り出した。

「なら、今すぐ呼んでやるよ、七瀬香楠(ななせ かなん)という子はめっちゃいいぞ」

ほどなくして、白い肌に整った顔立ちの、誰の目にも男を引き寄せる女がひとり、怜司の隣に腰を下ろした。

シャツのままソファにだらしなく身を預けている怜司の膝に、女はためらうことなく跨り、両腕を首に絡める。酔いを含んだ怜司の目には、もう隠しようのない欲が滲んでいる。

誰かが笑い混じりに言った。

「お前、もうすぐ澪ちゃんと結婚するんだろ。そんな派手に遊んで、バレたらマズいんじゃないの?」

その言葉に、怜司の目つきが変わった。

女の後頭部を引き寄せ、乱暴に唇を押し付ける。そして、吐息混じりに言った。

「澪だって、ほかの男と付き合ってたんだ。だったら俺がほかの女を試して何が悪い。あいつはもう俺に夢中だよ。俺なしじゃいられない」

どっと笑い声が起こった。その笑い声の中で、怜司はさらに続けた。

薄暗いボックス席で、目に映るものすべてが歪んで見えた。あの声からは、後ろめたさなど少しも感じられない。ただ、仕返しでもしているような、歪んだ高揚だけがあった。

胸の奥が、息もできないほど痛んだ。心臓を踏みにじられたようだった。

その痛みの中で、付き合い始めた頃のことがよみがえる。

元恋人の相沢浩介(あいざわ こうすけ)に心変わりされ、別れてから一年が経っていた。過去には自分なりに区切りをつけていたつもりだった。

怜司に前の恋人のことを聞かれた時、浩介と別れた理由を正直に話した。

「私は、そういう裏切りだけは無理なの」

すると怜司は、まっすぐに見つめて言った。

「澪、俺は浩介みたいなことはしない。ちゃんと大事にする」

付き合い始めたばかりの頃、周りからも、怜司に大切にされているねと言われた。誕生日には大げさなくらいの告白をしてくれたし、オークションでは、何気なく気に入ったと言っただけのダイヤのネックレスを迷いなく落札してくれた。

私も、精一杯彼を愛した。

それなのに、怜司も結局は浩介と同じだった。私の気持ちを踏みにじり、あの日の約束さえ忘れていた。

友人たちのはやし立てる声が、背中にまとわりついて離れない。胸を押さえたままバーを出て、気づけば、怜司と新生活を始めるはずだった部屋へ向かっていた。

昼間の婚約祝いの席で友人たちから贈られた寄せ書きボードが、まだリビングのテーブルに置かれていた。白と金で飾られたボードに並ぶ【おめでとう】の文字が、今はただ残酷だ。

その場に立ち尽くしたまま、涙が次から次へとこぼれ落ちた。涙の向こうで、初めて怜司と結ばれた夜のことまでよみがえった……

何気ない口ぶりで、彼は私に聞いた。

「浩介とは……そういうこと、あった?」

「ないよ」

そう正直に答えた。

私にとって、怜司が初めての相手だった。

その時は、ただの嫉妬だと思っていた。少し拗ねて、過去の相手を気にしているだけなのだと。

今にして思えば、あれは最初から予兆だった。怜司はずっと、私の過去を気にしていた。だから婚約したその日に、あんな形でほかの女を試そうとしたのだ。

けれど、浩介のことを怜司は昨日初めて知ったわけではない。

それなのに、結婚式を心待ちにしていた私の胸を、彼はあの日、深くえぐった。

新居のベッドの上で丸くなった。全身が冷えているのに、額にはじっとりと汗が滲んでいた。痛い。苦しい。

婚約祝いの食事会があったその夜、怜司は結局、戻ってこなかった。

窓辺に座り込んだまま、夜通し冷たい風にさらされた。それでも、戻ってくる気配はなかった。

朝の光が差し始めた頃、ようやくぼんやりとベッドに戻った。胸の痛みはひどく、身体は熱を持ち、意識までぼやけていった。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 君とすれ違った時気づいたこと   第 14 話

    会場には、澪を迎えに来た男が二人いた。最後に、澪は一度だけ俺を見た。それからドレスの裾を持ち上げ、振り返ることなく去っていった。その背中を見送った瞬間、ふと思った。澪がこれまで付き合ってきた男たちの中で、俺はきっと一番目立たない存在だった。それでも澪は、俺と婚約までしてくれた。俺を選んでくれていた。もしあの夜、馬鹿な真似をしなければ。婚約したその日に、自分の醜い感情に負けていなければ。澪は本当に、俺の妻になってくれていたのかもしれない。失って初めて、自分が何を手にしていたのかを思い知った。それからしばらく、俺は半分おかしくなっていた。後悔してもしきれなかった。どうにかして、澪にこ

  • 君とすれ違った時気づいたこと   第 13 話

    私はもう、誰かの裏切りに、自分の人生を預けたりしない。……怜司視点澪は、俺の初恋だった。本当に愛していた。それなのに、ふとした瞬間、どうしようもなく暗い感情が胸の奥で膨らむことがあった。澪が俺と一緒に笑った場所。俺の手を取った時の表情。俺にだけ向けてくれると思っていた甘えた声。そのすべてを、彼女は過去の男にも見せていたのだろうか。一度そんなことを考え始めると、止まらなくなった。友人たちは面白がって言った。「お前が一人の女で満足するタイプかよ」「桐谷が結婚したくらいで落ち着くとか、冗談だろ」笑って聞き流しているふりをした。けれど本当は、その言葉が少しずつ胸の奥に溜まってい

  • 君とすれ違った時気づいたこと   第 12 話

    「それくらいの意地は見せて。これ以上、私に軽蔑させないで」怜司は追ってこなかった。ただその場に立ち尽くし、床をじっと見つめていた。本社で一年、各部署を回った。ようやく父が、私に会社を任せてもいいと言い出した。その夜、ささやかな祝賀会が開かれた。ささやかとはいえ、篠原家の本社で行われる会だ。会場には次々と客が訪れ、私のもとへ挨拶に来ては、グラスを掲げた。私はグラスを手に、落ち着いて笑い、ひとりずつ言葉を返していった。父は少し離れた場所から、その様子を見ていた。隠しきれない誇らしさと安堵が、その顔に浮かんでいる。その時だった。賑やかだった会場が、不意に静まり返った。入口のほうへ

  • 君とすれ違った時気づいたこと   第 11 話

    私は唇の端を少しだけ上げた。「ほら。浩介だって、そんなに寛大じゃない」悔しそうに眉が寄る。何か言葉を探しているようだった。けれど私と目が合うと、やがて浩介は小さく息を吐いた。「……分かった」その声には、ようやく諦めに近いものが混じっていた。怜司のことは、確かにしばらく私を沈ませた。両親に半ば強引に海外旅行へ送り出され、見知らぬ街の景色を眺め、その土地の料理を食べた。何日もかけて、少しずつ呼吸を取り戻していった。そうしてようやく、私は帰国した。家に戻ると、リビングのテレビでは、桐谷家が経営する会社が破産手続きに入ったというニュースが流れていた。画面の中の怜司は、ひどく憔悴して見え

  • 君とすれ違った時気づいたこと   第 10 話

    「澪。俺はまだ、澪のことが好きだ。俺と一緒に来てくれ」今度こそ、会場は完全に騒然となった。「つまり、桐谷さんが浮気してたってこと?」「しかも相手、妊娠してるって言ってなかった?」「それで花嫁には、別の男が二人も迎えに来たの?」「待って。あれ、佐伯慶吾じゃない?佐伯家の御曹司でしょ。もう一人は……相沢浩介だよ。相沢家の跡取りだったはず」ざわめきは、もはや止めようがなかった。完全に場が崩れた中で、怜司だけが私の前に立ちふさがった。目尻は赤く、声はほとんど懇願に近かった。「澪、違う。説明できる。頼むから、まず式だけは最後まで……」伸びてきた手を、一歩引いて避けた。それから、ウェデ

  • 君とすれ違った時気づいたこと   第 9 話

    【私が「誓いません」と言ったら、すぐ入ってきて。早く、派手に、できるだけ格好よく】慶吾から返ってきたのは、【OK】のスタンプだけだった。スポットライトが私に当たる。会場中の視線が、一斉にこちらへ集まった。ゆっくりと、怜司のもとへ歩いていく。彼は祭壇の前で、こちらを見つめていた。唇がわずかに震えている。次の瞬間、涙が一筋こぼれ落ちた。なんて感動的な場面だろう。ウェディングドレス姿の私を見て、怜司が思わず涙を流す。もしこの男が私を裏切っていなければ、私もきっと、この瞬間に心を動かされていた。手を伸ばして彼の涙をそっと拭い、なだめるように肩を軽く叩いた。まだ泣くには早いよ。式は、司

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status