玄関の鍵を回す音が、やけに大きく響いた。
ドアを開けると、夜の冷気が背中を押し出すように部屋の中へ流れ込む。薄暗い玄関の奥、ローテーブルの上に朝のまま置きっぱなしのマグカップと皿が、帰宅した湊を出迎えた。靴を脱ぎ、カーペットの上に足を踏み入れると、踏みしめた感触が少しだけ硬い。何日か掃除機をかけていないせいだろう。靴下の裏に細かいゴミがくっつく感覚が、今日の疲れた身体には妙に不快だった。
コートを脱ぎ、ソファの背に掛ける。荷物を床に置いた瞬間、ふっと肩の力が抜けた。けれどその解放感は一瞬で、次に広がるのは、何も音のない空間が押し寄せてくる重さだった。
キッチンに向かうと、シンクの中には数日前の弁当容器が重なっている。油の匂いがほんのりと漂い、蓋の隙間から見えるソースの跡が乾いて黒ずんでいた。水を流して洗えばいいと分かっていても、手は動かない。湊は視線を逸らし、リビングへ戻った。
リモコンを手に取り、テレビをつける。画面の中ではバラエティ番組の芸人が大声で笑っている。音量を少し上げると、部屋の中の静けさは薄れた。だが、それは賑やかさではなく、ただの「音の壁」だった。映像に集中する気力もなく、視線は自然とテーブルの上のマグカップや、開きっぱなしの書類に移っていく。
京都に来てから、こういう時間が増えた。仕事が終わって部屋に戻り、コンビニの袋を片手に玄関を開け、食べては捨て、片付けもせずに眠る。新しい街での生活は、もっと新鮮で、何かを変えてくれると思っていた。けれど、漂っている空気は東京の頃と何も変わらない。孤独の温度も、息のしづらさも、すべて同じだった。
テレビの音をBGMに、ペットボトルの水を一口飲む。冷たさが喉を通り、胃に落ちるまでの感覚を、やけに鮮明に感じる。
「俺は何をしてるんだ」口に出すと、それは自分の声なのに、どこか遠くの誰かの呟きのように響いた。ソファに沈み込み、背もたれに頭を預ける。蛍光灯の白い光が天井から降り注ぎ、目を閉じても瞼の裏が明るく感じられる。寝室へ移動するのも面倒で、このままここで眠ってしまいそうになる。
けれど、明日の朝はまた仕事がある。女性社員の笑顔と男性社員の視線、その間に挟まれて過ご
瑛の言葉が、耳の奥に残響のようにこびりついて離れなかった。「住み込みで世話したる。その代わり…抱かせろや」ただの一文なのに、意味を理解した瞬間から、胸の奥にじわじわと広がる熱と、全身を冷やすような抵抗感が同時に入り混じっている。ソファの端に腰を下ろし、視線は無意識に床へ落ちていた。足元には、まだ片付けきれていない小さなゴミや、片隅に積まれたままの雑誌の束。目に入るたび、自分のだらしなさを突きつけられる。この部屋を立て直すには、誰かの助けが必要だということは分かっている。前回、瑛が来たときの片付いた部屋と、あの時に感じた解放感は、確かに心を軽くした。あんな空気の中で眠る夜を、もう一度味わいたいとも思う。だが、そのための条件が、あれだ。脳裏に浮かぶのは、あの低く落ち着いた声と、真っ直ぐすぎる視線。冗談でも戯れでもないことを、あの場の空気が証明していた。拒否すればいい。普通なら、即座に。なのに口が動かない。視線も上げられない。瑛は、何も言わずにテーブルの上の空き缶を袋にまとめている。無駄な音を立てないその動きが、やけに静かで、その沈黙が逆に胸を圧迫する。まるで「答えはお前が決めろ」と言われているみたいだった。急かしてはいない。だが、この沈黙は、言葉よりも強く、背中を押す。視線を上げれば、きっと瑛と目が合う。それが怖くて、カーペットの毛足のほつれを指先でいじりながら、唇を噛んだ。小さく響いたその音が、やけに耳に残る。もし受け入れたら、この生活はきっと変わる。瑛は約束を守る人間だという確信はある。口数は少なくても、やるべきことを淡々とこなす姿を、前回と今回で見てきた。頼めばきっと、この散らかった部屋も、自分の乱れた暮らしも、支えてくれるだろう。でも…その代わりに差し出すのは、自分の身体。そこに踏み出す覚悟なんて、自分にあるのか。快感も、心地よさも、一度は知ってしまった。あの夜の記憶は、消そうとしても鮮やかに甦る。肌に残った感触や、耳に残った息遣いまで。嫌悪感はない。それがまた、判断を鈍らせる。窓の外は、いつの間
瑛の手がぴたりと止まった。袋を縛る途中だったはずの指が、そのまま力を抜き、膝の上に落ちる。次に顔を上げたとき、その視線はまっすぐこちらに向けられていた。重たい空気が一瞬で室内に張り詰める。「…なあ」呼びかけられただけなのに、胸がひとつ跳ねる。「住み込みで世話したる」何を言い出すんだと眉を寄せかけた瞬間、続く言葉が落ちた。「その代わり…抱かせろや」頭が真っ白になった。今、確かに聞いた言葉の意味が、脳の奥で固まって動かない。唇がわずかに開いたまま、声が出ない。袋の口を縛るビニールの擦れる音すら止まり、代わりに自分の心臓の音ばかりが響いているようだった。「……は?」やっとのことで搾り出した声は、自分でも情けなくなるほどかすれていた。瑛の表情は、冗談を言って笑わせようとする顔ではない。眉間にはわずかな皺が寄り、その黒い瞳が真剣にこちらを射抜いている。「冗談ちゃう。放っといたらまたこうなるやろ。それやったら俺がここにおったほうが早いやん」普通の「世話する」という言葉なら、まだ理解できる。しかしそこに乗せられた条件が、胸の奥を熱くしていく。頭では「おかしい」と繰り返しながら、視線だけは逸らせない。「…なんで、そんな条件」やっと問いかけると、瑛はわずかに口角を上げた。笑っているというより、逃げ道を塞ぐような静かな表情だ。「理由いる?」その一言で、また喉が詰まる。理由を聞けば、たぶんもっと混乱する。聞かなくても、十分すぎるほど動揺している。部屋の奥、半分閉めたカーテンの隙間から覗く曇り空が、薄い灰色の光を落としている。明るくも暗くもないその光が、瑛の輪郭だけをはっきりと浮かび上がらせていた。どこか密閉されたようなこの空気の中で、距離感が狂っていく。「…断る理由はないんちゃう?」まるで事務的に条件を提示しているかのように、瑛は淡々と言
瑛はリビングの真ん中で立ち止まり、片手を腰に当てたまま、部屋の中をぐるりと見渡した。その視線は淡々としているのに、どこか突き刺すような鋭さを帯びている。沈黙の後、低い声が落ちてきた。「放っといたら、またこうなるやろ」湊の耳に、その言葉はまるで裁判官の判決のように響いた。瞬間、胸の奥で反発心が跳ねる。放っといた?別にわざと散らかしたわけじゃない…忙しかっただけだ。そう言い返そうと口を開きかけたが、視線を足元に落とすと、裸足の指先がペットボトルのキャップを軽く押し潰しているのが見えた。反論の言葉は喉の奥で止まり、代わりに小さく唇を噛む。否定しようにも、この光景がすべてを物語っていた。瑛はそれ以上何も言わず、黙ってコンビニ袋を一つ手に取り、中身を確認するとまとめて縛り始めた。ビニールが擦れる音が、薄暗い部屋にやけに大きく響く。湊は壁際に立ち尽くし、何を手伝えばいいのかもわからず、ただ瑛の手の動きを目で追っていた。床を移動するたび、瑛の靴下がカサリとペットボトルやチラシを踏む音がする。その一つ一つが、湊の胸を締め付けた。瑛は眉一つ動かさず、次々とテーブルや床の上のゴミをまとめていく。まるで淡々と仕事をこなすだけのように見えるが、その手つきは驚くほど迷いがなく、無駄がなかった。「…自分の生活、ほんまにこれでええんか」不意に投げられたその問いは、何気ない調子だった。だが、湊の胸には小さな棘が突き立つような感覚が広がった。痛みはすぐにはわからない。けれど、確かにそこに刺さっていて、動くたびにわずかに心を掻き乱す。湊は視線を逸らし、カーテンの隙間から射し込む細い光を見つめた。埃がその光の中でふわふわと漂い、空気の淀みを際立たせている。答えを探そうとしても、口の中は乾いて、舌が動かない。瑛は湊の返事を待たずに、床に落ちていたシャツを拾い上げ、無造作にソファの背に掛けた。その間も、ちらりと視線だけは湊の方に向ける。その視線に責める色はなかったが、まっすぐで逃げ場がない。「別に…これで困ってるわけじゃないし」ようやく絞り出した声は、情けなくかすれていた。瑛は短く息を吐
午後の日差しは分厚いカーテンに遮られ、部屋の中は昼間とは思えないほど沈んだ薄暗さに包まれていた。玄関のドアが開き、外の冷たい空気が一瞬流れ込む。その瞬間、淀んだ匂いが押し出されるように外へ逃げていった。湊はその匂いに慣れきってしまっていた。鼻の奥にまとわりつくような、湿った布と食べかけの弁当の混ざった臭気。けれど、玄関の向こうから現れた瑛の顔は、その空気を一息吸い込んだ途端にわずかに歪んだ。「…」言葉はなかった。ただ片方の眉が僅かに持ち上がり、そのまま視線が玄関から部屋の奥へと滑っていく。湊は反射的にスリッパを揃え、床に転がっていたコンビニ袋を足で端に寄せた。だが、どこをどう片付けても、惨状は隠しきれない。床には数日前に脱ぎ捨てたままのシャツや靴下、ペットボトルが無造作に転がっている。ローテーブルの上には半分飲み残した缶コーヒーと、底にこびりついたインスタントカップ麺の容器。部屋の隅には、スーパーの袋ごと放置されたゴミが山を作り、そこから漂う匂いがこの部屋全体を覆っていた。「…前と変わらんな」瑛の低い声が、部屋の空気をさらに重たくした。湊は口を開きかけて、喉の奥で言葉を飲み込んだ。反論の材料は山ほど考えたはずだった。忙しかった、仕事で帰りが遅かった、片付ける気力がなかった…けれど、そのどれもが言い訳にしか聞こえないことを、自分が一番よくわかっている。「別に…前よりはマシだと思うけど」やっとのことで口から出た言葉は、自分でも情けなくなるほど弱々しかった。瑛は答えず、無言のまま靴を脱いで中へ入る。歩くたびに足元のペットボトルが小さな音を立て、床に貼りついたゴミ袋がくしゃりと鳴いた。瑛の視線は部屋の隅々までをゆっくりと舐めるように動き、そのたびに湊の心臓が締めつけられる。まるで隠していた傷跡を容赦なく照らされるような、そんな感覚だった。「この前、全部きれいにしたやろ」言葉は淡々としているのに、どこか突き放すような冷たさを含んでいた。湊は思わず顔を背け、部屋の一角に目をやった。そこには前回瑛が丁寧に畳んでくれたバスタオルが、
玄関の扉が静かに閉まる音がして、部屋の中に再び静寂が戻った。数時間前までごみ袋と生活臭に覆われていたこの空間は、今では信じられないほどすっきりしている。窓から入ってくる空気は、冷たいけれども澄んでいて、肺の奥まで染み渡るようだった。湊はソファに深く腰を下ろし、背もたれに頭を預けた。視線の先には、何も置かれていないローテーブルがある。ついさっきまで、ペットボトルや空のカップ麺の容器、読みかけの雑誌が重なっていた場所だ。今はその上に、窓から差し込むオレンジ色の光が静かに落ちているだけだった。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。その呼吸とともに、胸の奥に溜まっていた重さが少しずつ軽くなっていく気がした。部屋が整うと、頭の中まで余計な音が消えるようだ。けれど、静かになった空間の中に、まだ瑛の気配が微かに残っている。柔らかく笑ったときの目元や、ペットボトルをまとめる手の動き。作業着の袖から覗く腕の筋肉、床に膝をついたときに漂った洗剤と彼の香りが混ざった匂い。それらが、残り香のように部屋のあちこちに漂っている。湊は無意識のうちにスマホを手に取っていた。ロックを外し、連絡先アプリを開く。スクロールする親指が止まらない。心のどこかで「あるわけない」と分かっている。それでも探してしまうのは、再会の衝撃があまりにも鮮烈だったからだ。「…ないよな」自嘲するように呟き、スマホをテーブルに置く。置いた拍子に、ほんの小さな音が静まり返った部屋に響いた。瑛が名乗ったときの低い声が、また耳の奥で蘇る。その声に宿っていた穏やかさと、どこか距離を置くような淡々さ。それを思い返すと、胸の奥に小さく波紋が広がる。ソファの背に腕を預け、視線を窓の外へ移す。ビルの隙間から差し込む夕陽が、空気を薄く金色に染めていた。遠くから子供の笑い声が風に乗って聞こえてくる。さっきまでの埃っぽい匂いはもうなく、代わりに新しい空気が流れ込んでくる。解放感は確かにある。だが、それと同時に、胸の中にぽっかりとした空白も生まれている。瑛がここにいた、という事実だけが強烈に残り、その余韻が消えてくれない。たった数時間しか同じ空間にいなかったのに、彼の存在が部屋を支配していたような錯覚が抜
窓が開け放たれた瞬間、冷たい風が部屋の奥まで流れ込み、長い間滞っていた空気を押し出していった。微かに湿った午後の風と、舞い上がる埃の匂いが混じる。その匂いは鼻をくすぐり、同時に湊の胸に鈍い痛みをもたらす。瑛は無言でカーテンを束ね、外の曇り空を一度だけ見上げたあと、ゆっくりと部屋に視線を戻した。作業着の袖をさらにまくり上げ、手際よくテーブルの上のペットボトルを集め始める。その動きは迷いがなく、まるでこの部屋の主であるかのように自然だ。湊はリビングの入口付近に立ち、何をすべきかもわからず、ただ視線のやり場に困っていた。床には脱ぎっぱなしの靴下、しわだらけのシャツ、コンビニ袋。テーブルの端には、半分だけ飲んだまま放置されたペットボトルが三本。全部、自分が放置したものだとわかっている。それらが次々と瑛の手によってゴミ袋に消えていくたび、胸の奥で何かがざわついた。ふと、瑛が顔を上げる。その視線が湊を捕らえる。わずかに目尻が下がり、柔らかく笑んだように見えた。だが、その笑みは声を伴わない。何も言わず、またすぐに作業へ戻る。湊は慌てて視線を逸らす。テーブルの角に目を落とし、そこにこびりついた何かの汚れを爪でこそぎ落とすふりをした。心臓の鼓動が耳の奥で強く響き、皮膚の下を何か熱いものが流れていく感覚がある。(見られた…)その視線が、自分のだらしなさを責めているのではなく、ただ「湊」という存在を見ているように感じてしまう。それが恥ずかしい。いや、恥ずかしい以上に、落ち着かない。瑛はキッチンへと移動し、シンクの中に溜まっていた食器を一つずつ取り出す。水を流す音、スポンジが皿をこする音、そしてガラスコップを置く軽い音が、規則正しく続く。湊はその音を聞きながら、胸の奥が少しずつほどけていくのを感じていた。数分後、瑛が再びリビングに戻ってきた。腕には畳まれたタオルの束があり、それをソファの端に置く。その瞬間、また視線が合う。今度は、明らかに意図的な、まっすぐな目だった。「寒くないですか」短い言葉と共に、窓際へ視線を向ける。その声は落ち着いていて、仕事の一環としての確認にも聞こえるが、湊にはそれ以上のものを含んでいる