湊の呼吸は、瑛の動きに合わせて浅く速くなっていった。
身体の奥から押し寄せてくる波が途切れず、押し流されまいと意識を繋ぎ止めるのに必死だったが、そのたびに耳元で名前が低く響く。「…湊」
その三音が、皮膚の下まで染み込むように広がる。呼吸の隙間に差し込まれた声が、胸の奥を直接撫でるようで、そこから熱が一気に全身に散っていく。恥ずかしさが一瞬で沸騰し、同時に背骨の奥を痺れが走った。
腕に力を込めて瑛の肩を押そうとするが、その動きは中途半端に終わる。指先が彼の体温を捉えた瞬間、拒絶の意志は溶けて消えてしまう。代わりに、肩口に縋るような形で手が残った。
「湊…」
また呼ばれた。耳の奥で、同じ響きが波紋のように重なり合っていく。
どうしてこんなにも名前一つで、体の奥の何かを支配されてしまうのか。理性が小さく抵抗の声を上げるが、その声はすぐに甘く湿った感覚に沈められる。瞼を閉じても、瑛の顔が、唇が、目の奥が焼き付いて離れない。肩口から首筋へ落ちる息がくすぐったく、そこに混ざる低音が震えを誘う。胸の奥で脈打つ熱が、腹の底へと流れ込む感覚が止まらない。
「…あ」
声が零れたのは、意図したことではなかった。口元を覆おうとする前に、瑛の唇が塞ぎ、声を飲み込む。舌先が触れ合い、絡まり、深く沈められる。甘くて苦いような味が広がり、背中が自然と弓なりになる。
名前を呼ばれるたび、体は反射的に開いてしまう。腰が浮き、足先まで熱が駆け抜ける。自分ではどうにもできない反応が、ますます恥ずかしさを煽るのに、その恥が新たな熱へと変わっていく。
「湊、もっと…」
命令のような響きなのに、拒否する力は残っていない。まるでその音が、体の奥深くにある見えない鍵を外してしまったかのようだった。心臓の鼓動が耳の奥で爆ぜるたび、名前の残響が体内を反響し、さらに深く沈んでいく。
外の世界は、もう完全に消えていた。窓の向こうの闇も、部屋の中の静けさも、瑛の声と体温に飲み込まれている。動きと呼吸と音が一つに絡み合い、自分の輪郭が曖昧になっていく。
わずかに残
瑛の腕の中で呼吸を整えていた湊は、頬にかかる指先の感触にわずかに顔を上げた。親指の腹が涙の跡をなぞり、そのまま輪郭をゆっくりと辿る。指先はためらいなく、しかし押しつけることもなく、湊の皮膚の温度を確かめるように動いた。視線が合う。至近距離で捉えた瑛の瞳は、光を受けて深い色を宿している。ベッドサイドのランプの灯りが、二人の間の空気を柔らかく照らし、長く伸びた睫毛の影を頬に落とす。湊はその影の揺れまで見えてしまい、視線を逸らすことができなかった。瑛の手が、頬から顎へとゆるやかに移動する。その指が軽く顎を持ち上げた瞬間、距離がさらに縮まる。呼吸と呼吸が交わる間合い。湊は反射的に胸の奥で息を止めた。そして、唇が触れた。触れるだけの軽いものかと思ったが、その温度と柔らかさは、思っていたよりも確かだった。最初の一瞬、湊の身体はわずかにこわばった。肩に入った力が自分でもわかるほどで、背中の筋肉が硬くなる。だが、瑛は急かさなかった。唇の動きは穏やかで、わずかに間を置いてから再び重ねられる。その繰り返しが、湊の緊張を少しずつほどいていく。吐息が混ざる。瑛の息は、思ったよりも熱を帯びていて、湊の頬にその温度が移る。唇の縁を掠めるような軽い動きが、次第に深みを帯びていく。湊は自分の心音が耳の奥で大きく響くのを感じ、目を閉じた。背中に添えられていた瑛の手が、ゆっくりと動き始める。肩甲骨をなぞるように下り、背筋に沿って滑る。その指先は布越しでもはっきりとわかる温かさを持っていて、触れられるたびに湊の呼吸が浅くなる。やがて、その手が服の裾へと移動した。ためらうように一度止まるが、次の瞬間には指が布を掴み、ゆっくりと上へ持ち上げる。衣擦れの音が、静まり返った部屋にわずかに響いた。その音が耳に届くたび、湊の心臓はさらに速く打つ。裾が腰を越え、背中が空気に晒される。ひやりとした空気と、すぐに重なる瑛の掌の温もり。その温度差が、皮膚の上で鮮明に感じ取れる。瑛の指が背骨をなぞるたび、湊は身を震わせた。唇が一度離れ、瑛が低く名前を呼ぶ。「湊」その声は、まるで確かめるようで、優しくも逃げ場を与えない響きを持っていた。湊は返事をす
湊は瑛に導かれるようにして、静まり返った寝室へと足を踏み入れた。廊下の灯りが背後で遠ざかり、ドアが閉まる音が柔らかく響く。部屋の中は、ベッドサイドの小さなライトだけが淡く空間を照らしていた。その光は天井や壁に溶け、影を長く引き伸ばしている。足元のカーペットがわずかに沈み、靴下越しの感触がやけに鮮明に伝わる。湊はその沈みに、知らず息を止めていた。背中に感じるのは、瑛がすぐそこにいるという存在の重み。ほんの数十センチしかない距離が、やけに息苦しい。ベッドの端に腰を下ろすと、スプリングが小さく音を立てて沈み、身体を受け入れる。途端に、両肩から力が抜けそうになるのを必死にこらえた。視線は膝の上に落ちたまま、何も言えない。そのとき、瑛がゆっくりと近づき、横から湊の肩に腕を回した。引き寄せられる力は強くはないが、抗うことのできない確かさがあった。肩と肩が触れ合い、体温が皮膚を通じて広がる。耳元に落ちてくる呼吸が、髪をわずかに揺らす。「湊」名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が不意に揺れた。その声は深く、低く、しかし柔らかかった。耳に入った響きがそのまま喉を下り、胸の奥に届く。そこからじんわりと熱が広がり、心臓の鼓動に合わせて内側を叩いた。「湊は湊や」二度目の呼びかけは、さらに深く沈んでいくような響きだった。ゆっくりと、言葉を置くように発せられるその音は、意味よりも先に温度を伴って染み込んでくる。湊は瞬きを忘れ、呼吸が浅くなる。これまで名前は呼ばれてきた。仕事でも、友人でも、あるいは形式的な関係でも。しかし、こんなふうに全てを肯定するように、存在そのものを受け入れるように呼ばれたことはなかった。名前の音が、こんなにも温かく感じることがあるのかと、不意に喉の奥が詰まる。瑛の腕が少しだけ力を増し、湊をさらに近くへ引き寄せる。胸板の硬さが背中越しに伝わり、その奥から響く心音が耳に届く。一定のリズムが、不思議と安心感を与えてくる。「…っ」声にならない吐息とともに、視界がにじんだ。涙がこみ上げてくるのを止めようと瞬きを繰り返すが、頬の奥が熱くなり、堰を切るのは時間の問題だった。瑛はそれに気づいているのかいな
湊は視線を落としたまま、膝の上で組んだ拳を強く握り締めていた。爪が掌に食い込む感覚がかすかな痛みとして伝わってくる。それでも力を緩められない。指先から肘にかけてじわじわと熱が溜まり、肩も背中もこわばっている。リビングには時計の秒針が刻む音だけが響いていた。静かすぎるその音が、かえって自分の呼吸を乱しているように思えた。口を開けば震えが混じる気がして、湊は唇を固く結んでいた。ふと、視界の端に瑛の動きが映る。ソファの横に座るその肩がわずかに傾き、ゆっくりと手が伸びてきた。固く握った湊の拳に、指先がそっと触れる。ほんの一瞬、湊は全身の筋肉が跳ねるのを感じた。けれど、払いのけようとした力は生まれない。その触れ方があまりにも静かで、乱暴さや強制の気配がどこにもなかったからだ。「…」声は出なかった。けれど、瑛の指先は迷いなく拳の輪郭をなぞり、そのまま包み込むように手を覆った。掌と掌の間に、思ったよりも確かな熱が広がっていく。「大丈夫や」その囁きは、深夜の空気に溶けるように小さく、それでいて確実に湊の鼓膜に届いた。声の低さが胸の奥をゆっくりと撫で、背中の硬直を少しずつほどいていく。湊はわずかに呼吸を乱し、握っていた拳の力をゆるめた。指が一本ずつ解かれていく感覚が、皮膚を通じて鮮明に伝わる。掌の温かさがじわじわと染み込み、内側に溜まっていた冷たい緊張を押し流していく。それでも、心の奥底には戸惑いが渦を巻いていた。こんな風に触れられることに慣れていない。触れられることで、自分の弱さまで見透かされるような不安がある。それなのに、拒む言葉は浮かんでこなかった。瑛の手は強くも弱くもなく、まるで「離さない」と告げるだけの力加減だった。その手の中にあるのは自分の指の感触、脈打つ血の温度。湊はゆっくりと顔を上げ、瑛を見た。照明の柔らかな光が瑛の横顔を縁取っている。その視線は揺らがず、湊の方へまっすぐに注がれていた。そこには詮索も責めもなく、ただ「ここにいる」という確信だけがあった。再び視線を落とした時、包まれた手がほんの少しだけ動いた。親指が優しく甲をなぞる。そのささやかな動きが、言葉以
湊はソファの端に腰を下ろし、両肘を膝に置いたまま視線を落としていた。背中は丸まり、肩にかけたジャケットの重さが、余計にその姿勢を沈めているようだった。壁の時計の針が静かに進む音と、外から微かに聞こえる車の走行音だけが、部屋の空気をかすかに揺らしていた。瑛はキッチンから湯気の立つマグを手に、ゆっくりと近づいてきた。その足音も、できるだけ静かに抑えているように感じられる。リビングの照明は最小限に落とされ、カーテン越しの街灯の光が柔らかく床を照らしている。「湊」短く、しかしはっきりとした声が、沈黙を切った。耳に届いた瞬間、湊の肩がわずかに跳ねる。名前を呼ばれることは日常的なはずなのに、その響きは今夜だけ違っていた。低く抑えた声が、固く閉ざされた心の奥に小さなひびを入れるようだった。瑛はソファの反対側に腰を下ろし、マグを湊の前のテーブルに置いた。湯気がふわりと広がり、焙煎された豆の香ばしさが鼻腔をくすぐる。湊は視線を落としたまま、マグに手を伸ばそうともしなかった。「ここにおる」瑛はそれだけを静かに言い、背もたれに預けたまま、視線だけを湊に向けていた。その目には詮索や焦りはなく、ただじっと見守る色があった。湊は喉の奥が詰まる感覚に息を止めた。言葉を飲み込み続けていたせいで、胸の奥には重い塊が溜まっている。声に出せば崩れてしまう気がして、ずっと黙っていた。だが、今夜はその沈黙が耐え難く感じられる。「…会社で」かすれた声が、ようやく口をついて出た。瑛はわずかに眉を動かし、続きを促すでもなく待っていた。「最近、同僚と…いや、正確には同じ部署の女性と…ちょっと面倒なことになってて」湊は目を閉じ、息を深く吐き出した。蛍光灯の下で感じていたあの視線や、背後から聞こえる囁き声が、鮮明に頭の中に蘇る。「しつこく話しかけられて、断っても…何度も。でも、こっちから手を出したみたいな噂が…もう、どうしようもないくらい広がってる」瑛の表情は変わらなかったが、その手がソファの肘掛けを軽く叩くように動いた。苛立ちか、それとも
まだ外は白む前、部屋には冷たい空気が漂っていた。カーテンの隙間から差し込む薄い光が、床とベッドの端を淡く染めている。布団の中で丸まる湊の背中は小さく上下し、浅い呼吸が静かに繰り返されていた。瑛はその寝息を壊さぬように、足音を忍ばせて部屋を出る。朝食の準備をしようとクローゼットを開けたとき、昨日のうちに洗い忘れていたスーツの上着がハンガーに掛かっているのに気づいた。袖口に乾いた水滴の跡があり、それが昨夜の雨の名残であることを思い出す。ふと、ポケットがわずかに膨らんでいるのが目に入った。何気なく手を差し入れると、親指の腹にざらりとした感触が触れる。小さく折り畳まれた紙切れだった。光の下に広げると、それは会社のメモ用紙らしい。端が少し湿ってよれ、書かれている文字はところどころ薄くなっていたが、「坂井」という苗字だけは濃く、乱雑に書かれていた。一瞬、瑛の呼吸が止まる。名前の響きが頭の奥で硬く反響し、その意味を探るように眉間に微かな皺が寄る。偶然かもしれない…そう思うには、あまりにもはっきりとした筆跡だった。しかも、その下にかすれた数字が見える。電話番号のようにも、日付のようにも見えた。瑛は指先でその紙をなぞり、もう一度視線を湊の寝室に向けた。扉の向こうからは、まだ変わらぬ寝息が聞こえる。そっと紙を二つに折り、ポケットに戻そうとしたが、ほんの一瞬、ためらった。その間に、昨夜の湊の硬い笑顔や、帰宅直後の湿った空気、毛布を拒むようにずらした肩の感触が蘇る。それらが一つの線でつながっていくのを感じた。深く息を吸い込み、吐き出す。その吐息は冷えた空気の中で白くはならないが、胸の奥の温度はわずかに下がった気がした。瑛は紙を丁寧にポケットへ戻し、スーツを再びハンガーに掛ける。その手の動きはゆっくりと一定で、まるで何事もなかったかのようだ。しかし、胸の奥では水面下に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がり始めていた。鞄を片付けるために手を伸ばすと、中にくしゃくしゃになった別の紙切れがあった。開くと、今度は会議資料の余白に「また話したい」とだけ走り書きがしてある。その文字も同じ筆跡だ。視線が自然に鋭くなる。唇を噛み
湊の背中を、玄関から見送るのが瑛の朝の日課になっていた。けれどこの数日、その背中に微妙な変化があることに気づいていた。コートの襟を立てる仕草が少し早くなり、靴音は以前より硬い。ドアを閉める瞬間の横顔には、出勤の憂鬱というより、何かを押し隠すような影が差していた。今夜もまた、鍵の回る音がしてドアが開くなり、湊は「ただいま」と短く言い、靴を脱ぐよりも先にコートを脱いで浴室へ向かった。鞄はソファの端に無造作に置かれ、足音が廊下に消える。瑛はキッチンでまな板の上の葱を切りながら、その足音の速さに耳を澄ませた。シャワーの水音がすぐに響く。冬の夜に湯気が立ち上る音は、普段なら帰宅の安堵を表すもののはずだ。だが、この数日は違う。まるで一刻も早く何かを洗い流したいとでもいうように、湊は着替えもそこそこに浴室に籠る。「今日は寒かったな」湊が浴室から出てきたとき、瑛は鍋の蓋を開けながら声をかけた。「ああ…まあ」湊は短く答え、タオルで髪を拭きながらダイニングの椅子に腰を下ろす。湯上がりの赤みが頬に差しているのに、表情は妙に固い。「お、髪の毛はね、もうちょっと拭かんと風邪ひくで」軽口を叩いてみても、湊はふっと笑うだけ。その笑いは唇だけが動く、形だけのものだった。「別に大したことない」瑛は味噌汁を椀に注ぎながら、短いその言葉を噛み締めるように耳に入れる。箸を置く音や食器の触れ合う音が、やけに際立って響く。二人の間に流れる沈黙は、鍋の湯気をも冷たく感じさせた。「なあ、最近ちょっと…顔、変わったで」冗談めかして言いながら、視線を湊の目に合わせようとする。しかし、湊はすぐに視線を逸らし、茶碗の中の白飯をゆっくり口に運ぶ。「気のせいだよ」その返しの軽さが、かえって重い。笑ってごまかす湊の唇の端には、僅かに緊張が滲んでいた。瑛はそれ以上問い詰めなかった。だが、胸の奥で何かが確かに動き出している。違和感は確信へと変わりつつあった。湊が何を隠しているのか。それを知るのは、もうすぐかもしれない。