LOGIN合格通知書が届いた。あの街から遠く離れた、目標のT大からだ。かつての担任だった松田先生が、わざわざお祝いの電話をかけてくれた。「鴻上、よくやったな」母は荷造りを手伝いながら、絵の具セットをスーツケースの一番奥に押し込む。「清歌、向こうに行っても元気でね」「うん、お母さんも元気でね」SNSに投稿することもなく、私がどの街へ行くのか、誰にも教えなかった。大学の入学手続きの日。新しい街、新しい顔ぶれ。鴻上清歌を知る人は誰もいない。私が一人の男の子のために、徹夜してスケッチを描き続けたことなんて誰も知らない。私がかつて、あんなにも壮絶な逃亡劇を企てたことすら。寮の窓辺に立ち、見知らぬ街並みを眺めていると、スマホが震える。見知らぬ番号からのメッセージだ。【清歌、お前がどこへ行ったか知ってるよ。志望校を変えて、俺もこの街にいるんだ。番号はお前の同級生から聞いた、ごめん】私は画面をしばらく見つめるが、意外だとすら感じない。以前の「清歌」なら胸を高鳴らせ、ついに彼が自分のために無茶なことをしてくれたと思ったかもしれない。けれど今の「希」は、ただ「どうでもいい」としか思わない。窓の外には4月の夕暮れ、淡い茜色に染まった空の下で、桜の花びらが風に舞っている。私はあの絵の具の箱を開け、真っ白な画用紙を広げる。今回は、誰の顔も描かない。描くのは、窓の外に広がる、まだ一度も歩いたことのない見知らぬ通りだ。街灯が点き始めたばかりで、自転車で通り過ぎる人の影が、長く伸びている。街灯の下まで描き進めたところで、ふと手が止まる。1年前のあの絵には、ちょうどこの場所に手をつなぐ二人の姿が描かれていた。土砂降りの雨に打たれ、形もわからない黒いシミになってしまったけれど。今、私の筆先は同じ場所で宙に浮いており、その下には真っ白な画用紙の余白が広がっている。私は、そこに筆を下ろさなかった。そのまま、空白にしておく。綺麗な余白のほうが、どんな人影よりも美しいから。スマホを手に取り、描き上げたばかりの絵を撮ってその番号に送る。【稔、見て。あなたのいない世界は、空気まで澄んでいる。これからの人生は長いけど、二度と会うことはないわ】送信完了。ブロックし、削除する。一連の動作に一切の迷いはない。
あの合同模試の後、稔はどうにかして私の新しい転校先を見つけ出し、私に朝食の差し入れをしてくるようになった。初日はコンビニのメロンパンとお茶。私はレジ袋を受け取りさえせず、そのまま素通りした。2日目はサンドイッチと牛乳。私はそれを受け取ると、彼の目の前でゴミ箱に捨てた。3日目、彼は校門の前に立ち、ラップで包まれた、手作り風のおにぎりを両手で抱えていた。その匂いには、覚えがある。彼がどれだけ街を歩き回ったかは知らないが、母の作る味にそっくりなものをやっとの思いで見つけてきたのだ。私はそのおにぎりを受け取った。稔の目に一瞬、狂喜の色が走り、震える唇が開いて何かを言おうとした。だがその直後、私はそれをそばにいた野良猫の前にポンと置いてやった。私は彼に一瞥もせず、そのまままっすぐ校門をくぐり抜けた。背後から追いかけてくる足音も、私の名前を呼ぶ声もなかった。ある日の昼休み、咲が、私が当時録音した音声データと、優奈が主導したいじめのトーク履歴を、第一高校と私の新しい学校の匿名掲示板に投稿した。タイトルは【噂の学校一のイケメンが、いかにしていじめを黙認し、女子生徒を追い詰めたか】。掲示板は一瞬にして炎上した。他校の制服を着た稔が、教師の制止も振り切って、うちの学校の学食に飛び込んできた。その場にいた全員がスマホの画面から顔を上げ、一斉に私たちに視線を突き刺す。彼は汗だくのまま私の前まで駆け寄り、両目は異常なほど真っ赤に充血している。「清歌、掲示板のあれ……俺は気にしてない!お前の気が済むなら、俺の評判なんてどうなったっていい!借りは全部返したし、俺にできることは全部やった!一体これ以上、俺にどうしろって言うんだ?」私は箸を置き、立ち上がる。声は決して大きくないが、周囲の人間にははっきりと聞こえるトーンだ。「稔、あなたが私のことを好きだと言ってから、もう2年半になるわね」学食の中は水を打ったように静まり返っている。「母が病院のベッドで寝込んでいたあの日、あなたはどこにいたの」彼は何か言おうと唇を震わせたが、声は出なかった。「あなたの母親に侮辱された私の母を一瞥しただけで、そのまま背を向けて立ち去ったじゃない」私は彼を冷ややかな目で見つめた。「稔、あなたの『好き』なんて、この学食の生
高3の秋。全国のトップ進学校が合同で行う特別模擬試験があった。成績上位者だけが招待される、狭き門の模試だ。稔は第一高校の代表として、清歌の今の学校があるS市の試験会場に来ていた。理科の試験終了のチャイムが鳴ったとき、稔はシャーペンを放り出し、解答用紙を机の角に無造作に押しやった。人混みの中をうつむいたまま歩く彼の表情は、どこか虚ろだった。そして、その足がふいに止まった。10メートルほど先にある花壇のそばに、他校の制服を着た女子生徒が立っていた。高く結んだポニーテールを揺らしながら、彼女はシャーペンを手に、周りを囲む何人かの優等生たちに向けて、計算用紙に数式を書き込みながら、物理の最後の難問の解き方を解説している。陽射しが横顔に落ち、その笑顔には迷いのかけらもなく、確かな自信が滲んでいた。一方、稔はここ数ヶ月の荒れた生活のせいで成績が急落し、さっきの物理の試験も、大問2の時点で完全に手が止まっていた。彼は息を呑んだ。目をこすり、人混みをかき分けてこちらへ駆け寄ってくる。「清歌!」……その声に、私は振り返る。憔悴しきった稔の顔を見ても、私の笑みは一瞬たりとも崩れない。ただ静かに、彼を見つめ返した。稔は私の目の前まで駆け寄ってきて、体の横で両手をぎゅっと握りしめては、また開く。声はひどく震えていて、ほとんど言葉になっていない。「清歌……本当に清歌なのか?これ、夢じゃないよな……生きてたんだな……絶対生きてるって信じてた……この半年間、俺がどれだけ……」私はわざと他人行儀に一歩後ろへ下がり、彼と距離を取る。「人違いです」それを聞いた稔はハッとして、涙が地面にこぼれ落ちた。「間違えるわけないだろ……俺は片時もお前を忘れたことなんて……」私は彼の言葉を遮り、淡々とした口調で言う。「稔。あなたに振り回されて、行き場を失った鴻上清歌は――もう死んだの。私は希(のぞみ)。希望の希よ」彼は唇を震わせた。「清歌、ごめん。俺が本当に悪かった。優奈とはもう完全に縁を切ったし、あいつには仕返しだってしたんだ!家も出て、母さんとも大喧嘩して……毎日ずっと後悔してて……」私は彼を見つめたまま言う。「自分をここまで追い込めば、私が感動するとでも思った?あなたが後悔しているのは、『いなく
翌日の朝。稔は一目散に廊下を駆け抜けると、教室のドアを勢いよく蹴り開けた。ドアが壁にぶつかり、耳をつんざくような轟音が響き渡る。教室中の視線が一斉にこちらへ向く。彼は優奈の席まで突進すると、音量を最大にしたスマホを彼女の顔の前に突きつけた。そして血走った目で、優奈の胸ぐらを荒々しく掴み上げた。「清歌が死んだぞ!お前が追い詰めて、あいつを殺したんだ!俺のことが好きだとか言って、裏でこんなことしてただと!?」録音データから流れる優奈のあの侮辱の言葉が、一言一句、教室中に響き渡っていく。教室にいる全員が固まった。「え?鴻上さん、死んだの!?」「じゃあ、桜井って人殺しじゃん……」優奈の顔からは血の気が引き、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになる。「私、嘘なんて言ってないもん!あんたが鴻上のこと鬱陶しいって、つきまとわれてキモいって!全部あんたが直接私に言ったことじゃん!」稔の腕が一瞬、ピタリと止まる。「じゃあ、保護者会の日はどうなんだよ!お前が母親に吹き込んだから、あんなひどいこと言ったんだろうが!」優奈の感情が完全に決壊し、声が甲高くひび割れる。「私……ただお母さんにちょっと愚痴っただけなのに、あんなことになるなんて思わなかったの!それに、あんたも見てたじゃない!あんたのお母さんが、みんなの前で鴻上のお母さんのこと『貧乏くさい』って見下して罵ってた時、自分だって背を向けて逃げたくせに! 鴻上を追い詰めたのはあんた自身でしょ!なんで私に全部押し付けんのよ!」その言葉に、稔はまるで足元を釘で打ち付けられたように動けなくなった。優奈の口から出た言葉は、どれも紛れもない事実だったからだ。彼はゆっくりと手を離し、よろめきながら後ずさりする。虚ろな目で、彼女がいなくなってしまった教室を見渡す。彼女の席は、もう空っぽだ。だが、机の上に殴り書きされた真っ赤な落書きと、中に突っ込まれた惨めな制服ブレザーが、確かにその女の子がここに存在していたことを残酷に証明している。その日を境に、第一高校の誰もが羨むエリートで、いつも人を見下していたあの白原稔は消え失せた。彼が清歌の使っていた椅子を自分の隣に置き、誰かが触れようとするだけで狂犬のように怒鳴り散らすようになったと、生徒たちの間で噂になっていた。下校
翌朝。稔はいつも通り登校したが、教室に入ると清歌の席が空になっていることに気づいた。素知らぬ顔で周りの雑談に加わりながらも、その視線は何度も後ろの空席へと向けられていた。「なぁ、鴻上のやつ休みか?」「たぶんな。母親が入院したらしいから、看病でもしてんだろ」「でもさ、あんなエグい嫌がらせ、マジで誰が考えたわけ?これでようやく、あのストーカー女も稔への未練を断ち切れたんじゃないか?ギャハハ!」周りの冷やかしの声に、稔は適当に相槌を打ち、それ以上は深く考えなかった。その翌日も、清歌は学校に来なかった。3日目、4日目……そして1週間が過ぎた。さすがの稔も異変に気づき、思わず学校を飛び出して彼女を探そうとしたが、どこへ向かえばいいのか分からなかった。病院へ探しに行こうとして、あの日事件が起きてからというもの、自分が彼女を心配するどころか、母親の容態を尋ねることすら一度もしていなかったことに唐突に気づく。LINEを開き、【どこの病院にいる?見舞いに行くよ】と打ち込む。だが、その文字をじっと見つめ、少し躊躇ってから、メッセージを丸ごと打ち直した。【おばさんの見舞いに行きたいんだけど】以前なら秒で返信が来ていたのに、今はいくら待っても既読すらつかない。仕方なく、彼は過去のトーク履歴を遡り、以前彼女が教えてくれた住所を探し出した。それは彼が初めて彼女に花を贈った時のやり取りで、同時にそれが最初で最後の贈り物だった。彼は以前「薄汚い」と見下していた古い路地裏へと駆け込み、埃を被ったアパートのドアを狂ったように叩き続けた。「清歌!いるのか、清歌!」老朽化したドアは、今にも壊れそうなほど激しく軋んでいた。「うるさいねぇ!近所迷惑って言葉を知らないのかい!」2階から降りてきた老婦人が、不機嫌そうな顔で彼を睨みつけた。「この部屋に住んでる人を探してるんです!どこに行ったか知りませんか!?」それを聞いて老婦人の目は一瞬嫌悪に染まったが、すぐに痛ましそうな表情へと変わった。「ああ、鴻上さんのお母さんなら、もう引っ越したよ。夜逃げみたいにバタバタ出てったから、詳しい行き先なんて誰も知らないんだよ」「引っ越した?そんなわけない!母親はまだ病院にいるはずだし、清歌は大学受験も控えてるのに、引っ越せるわけがない
保護者会の日、母はわざわざ新調したシフォンブラウスを着て学校に来た。シワ一つないように綺麗にアイロンがけされたその服を着て、教室に入ってくるなり、母は私に向かって優しく微笑みかけてくれた。だが突然、教室の入り口に現れた優奈の母親が、階全体に響き渡るような金切り声を上げた。「お宅の清歌さん、うちの優奈の彼氏に毎日付きまとって、泥棒猫みたいな真似してるの、ご存知かしら?」教室にいた保護者全員の視線が、最後列に座る母へと一斉に突き刺さる。母は立ち上がり、血の気の引いた顔で聞き返した。「……え?何を仰って……」優奈の母親はさらに声を張り上げる。「娘さんに聞いてみればいいじゃない?稔くんはうちの優奈と付き合ってるのに、お宅の娘が四六時中追い回してるのよ。本当に非常識にもほどがあるでしょ!母親なら、少しはしつけたらどうなの!」その隣に立っていた稔の母親も、呆れたようにため息をついて鼻で笑う。「自分の身の程も弁えないで……娘さんをちゃんとしつけてくださいな。妙な噂を立てられて、うちの子の将来に傷がついたら困りますから」母の唇が小刻みに震え、私を振り返って見つめた。その目には、耐え難い羞恥心と、これが嘘だと言ってほしいという懇願の色が浮かんでいた。そして全身を震わせながら、稔へと助けを求めるような視線を向けた。母は以前、私の家までわざわざ花を届けに来てくれた彼に、手作りのおにぎりをこっそり渡し、「清歌をよろしくね」と頼んだことがあった。あの時の優しかった彼なら、何か言ってくれると信じていたのだろう。だが、稔はこちらを冷ややかな目で一瞥しただけで、すぐに苛立ったように視線を逸らすと、そのまま背を向けて立ち去った。その瞬間、母の中で何かが音を立てて崩れ落ちるのが、私にもはっきりと聞こえた気がした。彼女は顔がさらに青ざめ、めまいを起こしたようにグラリと体を揺らすと、そのまま崩れ落ちた。「お母さん!」救急車が母を病院へと運んでいく。医師によれば、精神的ショックによる血圧の急激な変動でめまいと失神を起こしたとのことで、そのまま入院して経過観察することになった。意識を取り戻した母は、ベッドの上で背中を震わせながら泣きじゃくった。「清歌……うちにお金も後ろ盾もないことくらい、あなたもわかってるでしょう……