LOGIN私、鴻上清歌(こうがみ きよか)と白原稔(しらはら みのる)は、2年近く秘密の交際を続けている。 「卒業したらみんなに言う」という彼の言葉を信じ、私は修学旅行中に、彼が一番好きなバンドのライブチケットを渡し、一緒に見に行こうと誘うつもりだった。 3ヶ月間必死にバイトして、ようやく手に入れた連番のチケット。これさえあれば、彼も喜んでくれると信じていた。 けれど、待っていたのはクラス全員の前での公開処刑だった。 「ストーカーみたいにまとわりつくの、いい加減にしてくれない? 俺がお前なんかと一緒にライブに行くわけないだろ!」 同級生たちの嘲笑、桜井優奈(さくらい ゆうな)の白々しい制止の声。それらが突然の土砂降りの雨に混ざり合い、彼へのサプライズとして徹夜で描いたスケッチを無残な紙くずへと変えていく。 彼は一度も振り返ることなく立ち去り、誰もいなくなった後で、私にメッセージを送ってきた。 【後でホテルの裏で待ってて】 私は行かなかった。 その日、冷たくて泥混じりの雨水を顔から拭い落とし、私は大学の志望校を誰も私を知らない、遠く離れた街の大学に変更すると決意した。 彼から届いたメッセージを見つめる。悲しみに暮れるのはもう終わりだ。あいつらに今まで舐められた分の代償を、きっちり払わせてやる。
View More合格通知書が届いた。あの街から遠く離れた、目標のT大からだ。かつての担任だった松田先生が、わざわざお祝いの電話をかけてくれた。「鴻上、よくやったな」母は荷造りを手伝いながら、絵の具セットをスーツケースの一番奥に押し込む。「清歌、向こうに行っても元気でね」「うん、お母さんも元気でね」SNSに投稿することもなく、私がどの街へ行くのか、誰にも教えなかった。大学の入学手続きの日。新しい街、新しい顔ぶれ。鴻上清歌を知る人は誰もいない。私が一人の男の子のために、徹夜してスケッチを描き続けたことなんて誰も知らない。私がかつて、あんなにも壮絶な逃亡劇を企てたことすら。寮の窓辺に立ち、見知らぬ街並みを眺めていると、スマホが震える。見知らぬ番号からのメッセージだ。【清歌、お前がどこへ行ったか知ってるよ。志望校を変えて、俺もこの街にいるんだ。番号はお前の同級生から聞いた、ごめん】私は画面をしばらく見つめるが、意外だとすら感じない。以前の「清歌」なら胸を高鳴らせ、ついに彼が自分のために無茶なことをしてくれたと思ったかもしれない。けれど今の「希」は、ただ「どうでもいい」としか思わない。窓の外には4月の夕暮れ、淡い茜色に染まった空の下で、桜の花びらが風に舞っている。私はあの絵の具の箱を開け、真っ白な画用紙を広げる。今回は、誰の顔も描かない。描くのは、窓の外に広がる、まだ一度も歩いたことのない見知らぬ通りだ。街灯が点き始めたばかりで、自転車で通り過ぎる人の影が、長く伸びている。街灯の下まで描き進めたところで、ふと手が止まる。1年前のあの絵には、ちょうどこの場所に手をつなぐ二人の姿が描かれていた。土砂降りの雨に打たれ、形もわからない黒いシミになってしまったけれど。今、私の筆先は同じ場所で宙に浮いており、その下には真っ白な画用紙の余白が広がっている。私は、そこに筆を下ろさなかった。そのまま、空白にしておく。綺麗な余白のほうが、どんな人影よりも美しいから。スマホを手に取り、描き上げたばかりの絵を撮ってその番号に送る。【稔、見て。あなたのいない世界は、空気まで澄んでいる。これからの人生は長いけど、二度と会うことはないわ】送信完了。ブロックし、削除する。一連の動作に一切の迷いはない。
あの合同模試の後、稔はどうにかして私の新しい転校先を見つけ出し、私に朝食の差し入れをしてくるようになった。初日はコンビニのメロンパンとお茶。私はレジ袋を受け取りさえせず、そのまま素通りした。2日目はサンドイッチと牛乳。私はそれを受け取ると、彼の目の前でゴミ箱に捨てた。3日目、彼は校門の前に立ち、ラップで包まれた、手作り風のおにぎりを両手で抱えていた。その匂いには、覚えがある。彼がどれだけ街を歩き回ったかは知らないが、母の作る味にそっくりなものをやっとの思いで見つけてきたのだ。私はそのおにぎりを受け取った。稔の目に一瞬、狂喜の色が走り、震える唇が開いて何かを言おうとした。だがその直後、私はそれをそばにいた野良猫の前にポンと置いてやった。私は彼に一瞥もせず、そのまままっすぐ校門をくぐり抜けた。背後から追いかけてくる足音も、私の名前を呼ぶ声もなかった。ある日の昼休み、咲が、私が当時録音した音声データと、優奈が主導したいじめのトーク履歴を、第一高校と私の新しい学校の匿名掲示板に投稿した。タイトルは【噂の学校一のイケメンが、いかにしていじめを黙認し、女子生徒を追い詰めたか】。掲示板は一瞬にして炎上した。他校の制服を着た稔が、教師の制止も振り切って、うちの学校の学食に飛び込んできた。その場にいた全員がスマホの画面から顔を上げ、一斉に私たちに視線を突き刺す。彼は汗だくのまま私の前まで駆け寄り、両目は異常なほど真っ赤に充血している。「清歌、掲示板のあれ……俺は気にしてない!お前の気が済むなら、俺の評判なんてどうなったっていい!借りは全部返したし、俺にできることは全部やった!一体これ以上、俺にどうしろって言うんだ?」私は箸を置き、立ち上がる。声は決して大きくないが、周囲の人間にははっきりと聞こえるトーンだ。「稔、あなたが私のことを好きだと言ってから、もう2年半になるわね」学食の中は水を打ったように静まり返っている。「母が病院のベッドで寝込んでいたあの日、あなたはどこにいたの」彼は何か言おうと唇を震わせたが、声は出なかった。「あなたの母親に侮辱された私の母を一瞥しただけで、そのまま背を向けて立ち去ったじゃない」私は彼を冷ややかな目で見つめた。「稔、あなたの『好き』なんて、この学食の生
高3の秋。全国のトップ進学校が合同で行う特別模擬試験があった。成績上位者だけが招待される、狭き門の模試だ。稔は第一高校の代表として、清歌の今の学校があるS市の試験会場に来ていた。理科の試験終了のチャイムが鳴ったとき、稔はシャーペンを放り出し、解答用紙を机の角に無造作に押しやった。人混みの中をうつむいたまま歩く彼の表情は、どこか虚ろだった。そして、その足がふいに止まった。10メートルほど先にある花壇のそばに、他校の制服を着た女子生徒が立っていた。高く結んだポニーテールを揺らしながら、彼女はシャーペンを手に、周りを囲む何人かの優等生たちに向けて、計算用紙に数式を書き込みながら、物理の最後の難問の解き方を解説している。陽射しが横顔に落ち、その笑顔には迷いのかけらもなく、確かな自信が滲んでいた。一方、稔はここ数ヶ月の荒れた生活のせいで成績が急落し、さっきの物理の試験も、大問2の時点で完全に手が止まっていた。彼は息を呑んだ。目をこすり、人混みをかき分けてこちらへ駆け寄ってくる。「清歌!」……その声に、私は振り返る。憔悴しきった稔の顔を見ても、私の笑みは一瞬たりとも崩れない。ただ静かに、彼を見つめ返した。稔は私の目の前まで駆け寄ってきて、体の横で両手をぎゅっと握りしめては、また開く。声はひどく震えていて、ほとんど言葉になっていない。「清歌……本当に清歌なのか?これ、夢じゃないよな……生きてたんだな……絶対生きてるって信じてた……この半年間、俺がどれだけ……」私はわざと他人行儀に一歩後ろへ下がり、彼と距離を取る。「人違いです」それを聞いた稔はハッとして、涙が地面にこぼれ落ちた。「間違えるわけないだろ……俺は片時もお前を忘れたことなんて……」私は彼の言葉を遮り、淡々とした口調で言う。「稔。あなたに振り回されて、行き場を失った鴻上清歌は――もう死んだの。私は希(のぞみ)。希望の希よ」彼は唇を震わせた。「清歌、ごめん。俺が本当に悪かった。優奈とはもう完全に縁を切ったし、あいつには仕返しだってしたんだ!家も出て、母さんとも大喧嘩して……毎日ずっと後悔してて……」私は彼を見つめたまま言う。「自分をここまで追い込めば、私が感動するとでも思った?あなたが後悔しているのは、『いなく
翌日の朝。稔は一目散に廊下を駆け抜けると、教室のドアを勢いよく蹴り開けた。ドアが壁にぶつかり、耳をつんざくような轟音が響き渡る。教室中の視線が一斉にこちらへ向く。彼は優奈の席まで突進すると、音量を最大にしたスマホを彼女の顔の前に突きつけた。そして血走った目で、優奈の胸ぐらを荒々しく掴み上げた。「清歌が死んだぞ!お前が追い詰めて、あいつを殺したんだ!俺のことが好きだとか言って、裏でこんなことしてただと!?」録音データから流れる優奈のあの侮辱の言葉が、一言一句、教室中に響き渡っていく。教室にいる全員が固まった。「え?鴻上さん、死んだの!?」「じゃあ、桜井って人殺しじゃん……」優奈の顔からは血の気が引き、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになる。「私、嘘なんて言ってないもん!あんたが鴻上のこと鬱陶しいって、つきまとわれてキモいって!全部あんたが直接私に言ったことじゃん!」稔の腕が一瞬、ピタリと止まる。「じゃあ、保護者会の日はどうなんだよ!お前が母親に吹き込んだから、あんなひどいこと言ったんだろうが!」優奈の感情が完全に決壊し、声が甲高くひび割れる。「私……ただお母さんにちょっと愚痴っただけなのに、あんなことになるなんて思わなかったの!それに、あんたも見てたじゃない!あんたのお母さんが、みんなの前で鴻上のお母さんのこと『貧乏くさい』って見下して罵ってた時、自分だって背を向けて逃げたくせに! 鴻上を追い詰めたのはあんた自身でしょ!なんで私に全部押し付けんのよ!」その言葉に、稔はまるで足元を釘で打ち付けられたように動けなくなった。優奈の口から出た言葉は、どれも紛れもない事実だったからだ。彼はゆっくりと手を離し、よろめきながら後ずさりする。虚ろな目で、彼女がいなくなってしまった教室を見渡す。彼女の席は、もう空っぽだ。だが、机の上に殴り書きされた真っ赤な落書きと、中に突っ込まれた惨めな制服ブレザーが、確かにその女の子がここに存在していたことを残酷に証明している。その日を境に、第一高校の誰もが羨むエリートで、いつも人を見下していたあの白原稔は消え失せた。彼が清歌の使っていた椅子を自分の隣に置き、誰かが触れようとするだけで狂犬のように怒鳴り散らすようになったと、生徒たちの間で噂になっていた。下校
reviews