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言葉の暴力と再現性の否定

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-25 12:24:12

「君を愛してたし、今もやり直せないとは思ってない」

その言葉は、あまりにも自然に、あまりにも軽やかに投げかけられた。氷室の声音に、ためらいはなかった。まるでそれが当然の感情の延長線であるかのように、彼は高田の目を見据えて言った。表情には、わずかな緊張と、しかしそれ以上に“確信”が滲んでいた。彼の中では、それが再び始まることに対する障壁など、存在しないようだった。

高田は、その言葉を受け取った瞬間、自分の眉がほんのわずかに動くのを感じた。けれど、表情全体は変えなかった。目も、口元も、輪郭さえも、沈黙のままに留めた。反応しないことが、何よりの答えになると思ったからだ。

だが、心の奥では確かに何かが静かに泡立っていた。それは怒りではなかった。恐れでもなかった。むしろ、かすかな失望に近い感情だった。

言葉を、彼はまた“使った”のだ。愛していた、という言葉を。やり直せる、という言葉を。かつて、何度も同じように投げかけられては、高田の感情が絡め取られていったその“フレーズ”を、今も彼は当然のように再利用していた。

再現性のある支配。そのやり口は、何一つ変わっていない。

愛していた、という言葉は、かつて高田にとって救済のように響いた。だからこそ、その言葉の後ろにある“求め”に応えようと、何度も自分をすり減らしてきた。美しさを期待され、静かでいることを望まれ、感情を見せると「違う」と言われた。そうして何年もかけて、自分の「感じ方」そのものが否定されていった。

それが愛だったのか。もしそうなら、愛など二度と要らないと思ったこともある。

だが今は違う。

今の自分は、誰かと関係を結ぶときに、“自分自身”を差し出す必要がないと知っている。感情を無理に表現しなくても、理解しようとしてくれる人がいることを知っている。支配と愛は違うということを、大和に出会って、ようやく理解した。

だからこそ、高田は口を開いた。静かに、しかし、ひとつひとつの言葉を、まるでコードを読み上げるように正確に、そして明瞭に。

「それは、“君を支配していた”の間違いです」

氷室が、わずかに目を見開いた。その目の奥に、読み取れるような動揺が走った。想定さ

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