カフェのドアに手をかけた瞬間、外気の湿りが頬を撫でた。午後の日差しは雲にさえぎられ、光の輪郭が曖昧なまま、街全体にぬるい灰色を落としていた。ガラス戸が閉まる音が背後で鈍く響く。高田は一歩、歩道に足を踏み出し、わずかに鼻を鳴らした。空気の匂いが違った。確かに湿気はあって、地面から立ち上る熱気も生ぬるいのに、それでも、数年前とはまったく違う感覚があった。
この空気も、もう彼の記憶とは結びつかない。
この場所で息を吸っても、あの頃に連れ戻されるような錯覚はなかった。視界に映る建物も、音も、人の流れも、まるで新しいレイヤーの上に重ね塗りされたように、昨日と地続きの“今”としてしか感知されなかった。
信号待ちの間に、ポケットの中でスマートフォンを取り出す。画面をつけると、少し前に受け取ったままのメールが表示された。送信者の名前はもう、感情を伴わずに目に入ってきた。指先でその通知をタップし、本文を開く。内容は短く、そして整っていた。
《突然すまない。話がしたい。会ってくれないか》
ほんの数日前には、確かにこの一文に胸の奥を掻き乱されたはずだった。読むたびに息が浅くなり、返すべきか否かの判断をコードのように何度も書き直していた。けれど今は違う。この言葉が、自分の内部に何も波を立てていないことに気づく。
画面の端に表示された、ごみ箱のアイコンに親指を滑らせる。触れた瞬間、確認メッセージが浮かび上がった。
“このメールを削除しますか?”
一秒、視線を留めたのち、そのまま指を動かした。クリック音さえ鳴らない無音の動作。画面が元のホームに戻る。氷室からの痕跡は、それで完全に消えた。
ただのメール。けれど、そこに貼りついていた過去のファイルもまた、今この瞬間、静かに切り離された気がした。削除という行為は、記憶そのものをなかったことにするわけではない。だが、そのファイルに“アクセスしない”と決めることは、自分の中の在り方を変える。それを“選ぶ”ことができたという事実が、胸の奥にじんわりと熱を持たせた。
歩き出す。道路の向こう側で子どもの笑い声がして、すぐ近くを通り過ぎた自転車の車輪が水たまりを軽く弾いた。どれも生活の一部で、どれも自分とは関係のない
朝の光は、まだやわらかかった。カーテンの隙間から差し込む淡い陽射しが、キッチンの床に斜めの線を描いていた。冷蔵庫の下から伸びたその光の帯が、静かに揺れているのは、窓の外で葉が風に揺れているからだろう。食器の触れ合う微かな音が、ぬるま湯の水音と混ざって、部屋の中に薄く満ちていた。高田は、その音を聞きながら、椅子に腰かけていた。手には何も持たず、朝食の後に出されたマグカップの取っ手にも触れていない。ただ、テーブルの上をぼんやりとなぞるように視線を落とし、その奥にあるひとつの背中を見つめていた。大和は流しに向かい、淡々と食器を洗っていた。慣れた動きでスポンジをすべらせ、泡を流しては布巾でひとつずつ丁寧に拭いている。その背には、特別な何かがあるわけではない。ただ日常の一部として、そこにある。それなのに、高田は目が離せなかった。たぶん、特別である必要なんてないのだと思った。ただ、そこに“誰かがいる”ということ。それだけが、今の自分には充分すぎるほどで。ふと、洗っていた皿を伏せ置きながら、大和が肩越しにこちらを振り返った。「なに?」問いかけは軽く、問い詰めるでも、探るでもない。けれど、その声には、気配を読む柔らかさがあった。高田は少しだけ身を引いて、首を振った。「…見てただけ。別に意味はない」それは嘘ではなかった。意味を持たせようとすれば、きっとどこかが歪んでしまう。ただ、その姿を見ていたかった。言葉にするには少しだけ足りない感情が、胸の奥で揺れているのを、自分でも分かっていた。「そっか。ほな、そんまま見といてええよ。俺、なかなかええ男やし」そう言って笑う大和の声は、冗談めかしていたが、どこか照れくさそうでもあった。振り返るその顔には、朝の光がかすかに射していて、輪郭がほんの少し滲んで見えた。高田はそのまま、大和の瞳を見つめ返すことなく、視線をテーブルへと戻した。手元のマグカップに触れることはせず、ただ指先でテーブルの縁をなぞる。口元が、かすかに緩んだ。笑った、というほどのものではなかった。それでも、何かが、ほんの少し溶けたような気がした。それだけで、よかった。
寝る前の静かな時間、部屋の明かりはすでに落とされていて、スタンドライトの柔らかな灯りだけが、高田の手元を照らしていた。布団の端に浅く腰を掛けたまま、彼は手帳を開いていた。ページはすでに何枚も埋まり、記録というより、軌跡のような文字列が重なっている。手帳の端には折り目がつき、指の腹で触れるたびに、過去の時間が微かに浮かび上がるようだった。インクのにじみがかすかに視界に広がる。その下に、まだ何も書かれていない余白が広がっている。高田はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。思考が整理されるのを待っているのではない。ただ、言葉を選ぶ時間が必要だった。その夜、彼が手帳に記したのは、たったひとつの文だった。「愛してる、という言葉に数式はつけない。これだけは、未定義のままでいい」文字は慎重に、しかし迷いなく綴られていった。筆圧は控えめだったが、その分だけ輪郭ははっきりしていた。明確な定義を持たせることが彼の生き方だった。曖昧さを許さず、すべてを論理の枠に収めようとした過去の自分なら、この一文を笑っただろう。あまりにも感情的で、根拠のない、エラーを孕んだ表現。けれど今は、それこそが唯一無二の「真理」だと、思えた。高田はペンを置いたあと、手帳のページに視線を落としたまま、ふっと息をついた。視界の端には、布団の中で眠る大和の姿がある。背中を向けたままだが、その寝息が部屋の空気を一定のリズムで満たしていた。耳を澄ませば、まるで“存在そのもの”が音になって空間に溶け込んでいるようだった。彼の隣にいるということが、ただの偶然ではなく、積み重ねた選択の結果であることを、高田は知っている。それは統計的な因果ではなく、感情による意思だった。論理で解釈できないからこそ、重い。数字で説明できないからこそ、真実に近い。手帳の文字をもう一度だけ見つめてから、高田は静かにそれを閉じた。ページを閉じる音が、小さく室内に響いた。指先に、紙の感触がまだ残っている。それは、過去を記録した記憶の皮膚のようであり、未来への準備でもあった。消しゴムを手に取って、少しだけ悩んだあと、今夜は使わずに戻す。その一文は、訂正の対象ではなかった。書いたままでいいと思えたのは、おそらく初めてのことだ
カップの縁に唇を寄せたとき、少し冷めかけたコーヒーの温度が、逆に安心感を与えてくる。朝の光はまだ部屋に満ちきっておらず、カーテン越しに漏れる柔らかい光が、ダイニングテーブルの上に斜めの影を描いていた。そこには、並べられたふたつのマグと、開かれたノートパソコン。立ち上がっているのは、高田が最近ようやく実装し終えた、自作のToDoアプリだった。画面の背景は無機質なグレー、けれど中央に浮かぶタスク群のフォントは、大和の提案で少しだけ角の丸い、読みやすい書体に変えてある。高田はそれが最初こそ気に入らなかったが、今ではその“妥協点”すら愛着の一部に感じられていた。「奏多くん」 呼びかける声は、コーヒーの湯気の向こうから小さく届いた。高田の視線は画面に留まったままだったが、その口元は静かに動いた。「僕、この間、自分の人生のエラーログ探してたらね…あんまり、なかった」 言い終えたあと、自分でも少し驚いたように目を細めた。まるで初めて知る事実を口にしたかのように。その言葉は、まるで誰かに向けたというより、自分の中の確認だった。「ほんなら、ログ書き換えんでええな。上書き保存でいこ」そう返した大和の声は、静かで穏やかだった。冗談めかした調子ではなく、真っ直ぐで、無理のない言葉の重みがあった。向き合うことよりも、並んでいることに意味がある。そう教えてくれるような響きだった。高田はふと、手元のマグを持ち上げる大和の手を見た。節の太い指が、持ち慣れたような自然な動きで取っ手を支えていた。自分の手とは違う、でも今は隣にある手。気づけば、そのままそっと、自分の指先を大和の手の甲に重ねていた。ぬるいコーヒーの湯気が、ふたりの手のあいだにたゆたっている。画面のタスク一覧に、いくつかの文字が並んでいた。「洗濯洗剤の補充」 「週末の食材買い出し」 そして「月末、花火大会」どれも、“恋人”という言葉が直接関わる内容ではない。ただの日常の用事、タスク、やるべきことのリスト。だが、そのすべてが、“ふたりで過ごす”前提で入力されているというだけで、意味はまったく違ってくる。高田は無意識のうちに、カーソルを動か
湯が沸騰する前の、くぐもった音が耳に優しく触れていた。キッチンに立つ高田の指先は、無駄のない動きで豆を量り、ドリッパーにゆっくりとセットしていく。キッチンタイマーの無音のカウントが、彼の中にあるリズムと重なる。動作はルーチンでありながら、どこか丁寧だった。ひとつひとつの手順に迷いがなく、けれど感情のないそれとは違っていた。Tシャツの背中に、じわりと汗が滲んでいる。梅雨の名残が湿気として空気に残り、朝の涼しさと混ざり合って、肌にまとわりつく。だがその不快さよりも先に、ふいに背後から回された腕のぬくもりが、高田の呼吸を一瞬だけ止めた。「それ、仕事前にやるのやめて」声は抑揚がなく、まるで独り言のようだった。けれど、その言葉にはほんのわずかに、困ったような、諦めたような、けれど拒絶ではない色が滲んでいた。体を逃がすこともなく、むしろ高田は、どこか力を抜くように身を委ねた。「効率落ちんように、朝の愛情タイムや」耳元でささやかれた声は、低くてあたたかくて、朝の空気の中で特別に感じられた。関西弁のやわらかいイントネーションが、背骨に沿って、じわじわと伝わってくるようだった。くすぐったい、というより、しみる。静かに、確実に。高田の睫毛がわずかに震えた。視線はドリッパーの上、湯気のたつ注ぎ口に留まったまま。けれど、その意識はもう背後へと傾いていた。日常の一部として大和がいることは、まだ完全に馴染んだ感覚ではなかった。だが、こうして触れられるたびに、その存在が確かに“今の構成要素”になっていることを、高田は静かに受け入れていた。「お湯、もうすぐ落ちる」少しだけ硬い声でそう言ったあと、高田はコーヒーサーバーに向けてお湯を注いだ。香ばしい香りが、ふたりの距離のあいだに立ち上る。しばらくして腕が外され、大和がマグカップを棚から取り出した。「今日、外回り?」高田の問いに、大和はうなずく代わりに「うん」と短く応じた。返事はラフで、ただの日常会話。けれど、それすらも高田にとっては、かつては想像もつかなかったやりとりだった。マグに注がれるコーヒーの湯気が、また立ちのぼる。高田は一杯を手に取り、もう一杯をそっと大和に差し出
ベッドの端に静かに腰を下ろすと、掛け布団がわずかに沈んだ。部屋の灯りはすでに落とされていて、暗がりの中で光っているものは何もなかった。ただ、耳に届くのは隣で眠る大和の、深く安定した寝息だけだった。高田は、しばらくその音に耳を澄ませていた。吸う音と吐く音の間にある、微細な沈黙。それがやけに心地よく感じられた。部屋の空気は、日中の熱を残していながら、どこかやさしく湿っていて、寝具の中にも自然なあたたかさが染み込んでいた。布団を静かにめくり、寝台の中へ体を滑らせる。シーツに触れた肌が少しだけひやりとして、高田は無意識に肩をすくめた。すぐに、隣の体温がその冷たさを溶かしていく。大和の背中はあたたかくて、ひとつの呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。高田は、そっと背中を寄せた。布団越しではなく、肌と肌の温度が直接混ざるように。互いの背骨がわずかに重なり合い、鼓動のリズムがずれることなく溶けていく。そのわずかな接触に、なぜだか安心した。ずっと、ひとりの空間で過ごしてきた。感情が揺れるたびに、それをコードに変換し、手帳に記録して、処理可能なものに変えてきた。それが“自分のやり方”であり、唯一の安全地帯だった。けれど今、背中に感じる体温の前では、その必要がなかった。処理しなくてもいい。定義づけなくても、感情は感情として、そこにあってもいいのだと、ようやく思えるようになっていた。空白とは、失ったものではなく、まだ満たされていない場所。だからこそ、そこに何を置くかは、自分で選べる。誰かと共にいるということは、その空白を“埋めてもらう”ことではなく、一緒に“埋めていく”という行為なのだと、今の自分は思える。かつて、自分の部屋は“避難所”だった。誰の視線も、感情も届かない、無音の世界。だが今は、その空間に、呼吸の音が重なっている。寝返りを打つ音、何かを落とす音、そして、不器用に差し出される言葉たち。不完全で、未定義で、ぎこちなくて、それでも確かに“ふたりの生活”が、この場所で始まっている。高田は、眠っている大和の背に、そっと額を寄せた。すぐ目の前の背中が上下するたび、まるでその鼓動が自分の体に転写されていくようだった。言葉も数式も必要ない、無
夜の空気は静かに満ちていた。高田の部屋は灯りを落とされ、わずかな常夜灯の光が壁をやわらかく照らしている。窓は閉ざされ、夏の湿気も扇風機の弱い風によって穏やかに分散されていた。部屋の一角では、大和が布団にくるまり、規則正しい寝息を立てている。寝顔は無防備で、額の髪がわずかに額に貼りついていた。高田は静かに立ち上がり、音を立てぬように机の前へ移動した。椅子を引く手も丁寧で、背筋をまっすぐに保ったまま、彼は新しい手帳を机に置いた。旧いものは引き出しの奥に仕舞われたままで、手を伸ばすことはしなかった。新しい手帳の表紙はまだ硬く、ページは一枚一枚が光を反射するように白かった。高田はその最初のページを開き、ペンを取り出した。キャップを外すと、静かな夜のなかに小さな「カチリ」という音が響いた。耳に届くのは、それだけだった。一呼吸置いてから、高田はゆっくりとペン先を紙に落とした。// 新生活ログ文字は整っていて、書き慣れたフォーマットであることが行間に滲んでいた。だが、その筆致にはわずかなためらいがあった。言葉の選び方に慎重さが見える。それでも、手は止まらない。同居開始:7月12日ペン先がわずかに震える。日付を記すという、ただの事実の記録にさえ、何か確かな重みが宿っていた。それは高田にとって、単なる出来事の記録ではなく、“始まり”そのものの証明だった。名前:大和 奏多(共有者)文字を綴るごとに、胸の奥にゆっくりと温度が満ちていく。文字列の中に見える「共有者」という単語が、初めて自身の生活に溶け込んだ存在として書かれたことに、静かな感慨がにじんでいた。定義:愛は、継続するプロセスである。その一文を書き終えたとき、高田の指先はペンを握ったまま、紙の上に留まった。意味を考えているわけではなかった。言葉の温度を、感覚として受け止めようとしていた。長い沈黙の中、彼はそのページをしばらく見つめていた。ペン先がまだ紙に触れていた。文字が完全に乾いていないのか、光を反射して淡く光っていた。高田はゆっくりと椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。天井の模様はいつもと変わらず、ただそこにあるだけだっ