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一目見てその人の事を好きになる、そんな言葉はこれっぽっちも信じてなんかいなかったけれど。でも、それもあり得るんじゃないかって思えるような出来事が私にも起こったの。
もっとも……私の場合はその人に一目惚れしたのではなく、一目嫌いになったわけなんだけれども。 ※※※※ 「ねえねえ、見た? メチャクチャカッコ良くない、新しく課長になった梨ヶ瀬《なしがせ》さん!」 女子トイレできゃあきゃあと騒いでいる女子社員の言葉が耳に入り、さっさと通り過ぎるつもりがつい足を止めてしまった。話題になっていたのは、先程挨拶を終えたばかりの本社から来た若い男性社員。 「そうそう、良いわよね! 前の課長代理だった御堂《みどう》さんとは、また全然違った魅力があるし雰囲気も穏やかで優しそう」 まあ、ミーハーなのは私も同じだったのけど。何故だろう、今回ばかりは彼女達に同意する気にはなれなかった。 「どうかな、私はそうは思わなかったけど? なんだか裏表あるように見えるし、本性はとんでもなさそう」「ええー、そう? 横井《よこい》さん、なんだか梨ヶ瀬さんに厳しくない~?」 私の評価が気に入らなかったのか、彼女達はああでもないこうでもないとまた騒ぎ出した。 ……いいけれどね、別に本気で聞いてくれなくても。 そんな風に思いながらお手洗いを出ると、すぐ傍に噂の人である梨ヶ瀬さんが立っていて……なんてタイミングで遭遇するのだろうと、つい視線を逸らしたのだけど。 「俺って君からはそんな風に見えてるんだねえ、横井さん?」 柔らかく微笑んでいるはずなのに、全く感情の読めない梨ヶ瀬さんの瞳。その温度を感じさせない冷たさに、今まで感じたことのないくらい背筋がゾッとして。 ……この時の発言をしっかりと聞かれてたこと、それがその後の私の運命を大きく変えてしまったのかもしれない。それでも……ほら、結局こう返してくるから何度も期待して良いのではないかと考えてしまう。繰り返し「そう上手くいくはずがない」と思い直すことに、私の方が疲れてしまうくらいには。 これも梨ヶ瀬《なしがせ》さんの作戦のうちなのだろうか? そう疑ったりしている間に、いつまでもムキになっている自分が馬鹿みたいに思えて。 恋愛には一生懸命にはなりませんって涼しい顔してたくせに、本気になるとこんなにしつこい男性だったなんて……そんな事を考えていたら、彼から予想もしなかった言葉を聞かされて。「もしも過去の出来事が理由で俺とは向き合えない、とかなら尚更ね」「……どういう意味ですか?」 もしかしてこの人は知っていたりするの、私の過ちを? いいえ、そんなはずはない。あの事をこれまで誰にも話したことなんてない、こっちに来たばかりの梨ヶ瀬さんがそれを知る方法なんてない。それでも……もしかしてと怖くて手が震える。 どのみち隠し通せないと頭では分かっていたのに、いざこうして突き付けられると怯えてしまう。向けられていた好意が嫌悪に変わる瞬間、私はどう梨ヶ瀬さんと向き合えば良いのだろう? そのまま彼から距離を詰められるがつい焦って後ずさってしまい、逆に手首を掴まれ梨ヶ瀬さんの腕の中に引き寄せられてしまった。「そのままの意味だよ? 麗奈《れな》の過去に何があったのか俺には想像もつかないけど、それを断られる理由にされては困るって事。俺という人間からまで目を逸らしてほしくはないしね」「そんな事を言われても、私は……」 自身の過去を言い訳にしないのならば、それこそこの人の気持ちに応えられない理由などある訳がなくて。こういう計算高く狡猾な部分も理解しているはずなのに、今もまだこうやって振り回されている。 だけど梨ヶ瀬さんからすれば当然の要望とも言える、自分には一切関係ない理由で向き合う事もせずフラれるなんてそれこそ納得出来る訳がないもの。 だったら、私はどうすればいいの? 気持ちも誤魔化せないお互いの距離と、暴かれそうになる自身の隠したい過去に心臓が今までにないほどギュッとなる。 けれども発した声は自分でも驚くほど落ち着いていて、ある意味どこか吹っ切れた感じもした。「……じゃあ、全部受け入れてくれるんですか? 私が梨ヶ瀬さんの今まで築いてきたキャリアも潰しかねない、そんなとんでも
それでも繰り返し、頭の中で繰り返されるあの時の光景。何よりも許せないのは、自身の行動によって他人が傷付くと分かっていたのにそれを止められなかった事で。 結局のところ……臆病者の私はどれだけ強がっていても、その事実を知られ梨ヶ瀬《なしがせ》さんに軽蔑されるのを恐れているのだと思う。 だけど今はそんな事をぼんやり考えていられる状況ではなくて、好機とばかりに想いを伝えようとしてくる梨ヶ瀬さんから逃れようと必死になっている。「そうやってすぐに急かすのは止めてください、待てない男は嫌われますよ?」「そう? 俺は結構慎重派だから、ある程度は麗奈《れな》の気持ちが傾くまで待ってたと思うけど。それに……待ちすぎてせっかく来ていたはずのチャンスまで逃してたら間抜けでしょ?」 分かってる、梨ヶ瀬さん相手に口で勝とうとするのが間違いなんだって。この人はちゃんと気付いてるんだもの、私が彼にもう惹かれ始めてしまっている事を。 自分の過去から目を逸らし、それを隠したまま梨ヶ瀬さんの気持ちに応えられればきっと楽なのに。そんな考えが頭を過る自分の汚さに、どうしようもなく情けない気持ちになる。 だいたい……そうやって誤魔化してまで付き合っても、いずれ梨ヶ瀬さんには隠し通せなくなるに決まってるのに。「梨ヶ瀬さんにとってのチャンスが私にはそうではない場合、どう答えるのが正解なんでしょうね?」「はぁ……麗奈は、それを俺に聞くんだ?」 私としては彼の気持ちに応えたいが、それが気持ちの面で難しい事を伝えているつもりだったのだけど。急に梨ヶ瀬さんの表情が微妙なものに変わって、何か変な事を言ってしまったかと戸惑ってしまう。 しかし自分の言葉をよく思い出してみると、誤解されるような発言をしていたことに気付いて。「あのっ、違いますからね!? 私は梨ヶ瀬さんへの断り方を聞いてるわけじゃなくて……」「はあ。それなら良かったよ、もの凄く遠回しにフラれてるのかと思ったから」 気持ちに応じることが出来るかと聞かれても、すぐに『はい』とは言えるわけではない。だけど本心では、このままこの人に心許してしまいたくもあって。 もしも、梨ヶ瀬さんが私の望む言葉をくれるなら? いいえ、きっと今は優しい彼もあの事を知れば私を軽蔑するに違いない。誰かに期待なんて……してはいけないのだから。「梨ヶ瀬さんは遠回し
これは冗談とかではなく、この人は人道りの多い道路で平気でこんな事を言っているのだ。他の通行人がこちらの会話を聞いているとは思わないが、彼の甘い台詞のせいで顔が熱くなり真っ直ぐ前を向けなくて。 そんな様子の私を見て、心底嬉しそうな顔をするのは止めて欲しいんですけど。「うん、そうだね。そんな麗奈《れな》の可愛い顔は、俺だけで独り占めしてたいかな?」「……っつ! 貴方は、またそういう恥ずかしい事を!」 流石にこれ以上、甘い台詞には耐えられそうにない! そう思ってグッと顔を上げ片手で梨ヶ瀬《なしがせ》さんの頭を叩こうとしたが、すぐにその腕を掴まれて。そのままズンズン歩き出した彼に、強引に引っ張られてどこかへ連れて行かれる。「ちょっと、梨ヶ瀬さん!? いきなりどこに連れてくつもりなんですか?」「今すぐに二人きりになれるとこ。場所を選べば口説いて良いって、さっき君が言ってくれたからね」 それは違うでしょ!? そういうセリフは、時と場所を選んで言ってくださいって意味でしょうが! ……んん、いや? 私が言った言葉だと、そういう事になるのかもしれない。ああ、だんだん私の頭が混乱してきた気がする。 私がぐるぐるしている間に彼はホテルのロビーで受付を済ませ、いつの間にやらモダンな部屋のソファーに二人並んで座っていた。「……ええと、どうしてこうなってるんでしたっけ?」「そうだね、今日こそ麗奈から良い返事をもらうためにかな? 今日の運勢は大吉だったし、少しくらい強引にいこうかと」 いやいや、梨ヶ瀬さんの今日の運勢とか私にはどうでもいいですし? まずどうして今日は、良い返事がもらえると確信してらっしゃるんですかね。 なんかもう頭が痛いを通り越して、中身が全部真っ白くなりそうな気がする。本当に私がいろいろ気にしてるのが、馬鹿馬鹿しくなってしまうのに。 どうして私はまだ、あの日のあの過ちに捕らわれたままなのだろう? 今もそれを許すことが出来ないで、心があそこに留まっている。 今の自分には、こんなにも心を揺さぶってくる人が現れたというのに。その想いに応えることもせずにズルズルと引き伸ばしてる、そんな狡い自分がここにはいて。 もし……そのうちに梨ヶ瀬さんが私に興味を無くしたら、後悔するのは間違いない。素直になってみてはどうだと、私の中で葛藤が生まれる。 一歩、
それはそれは、見た目と中身にギャップが有り過ぎてとても残念です。その時や場合に応じて軽めの恋愛を楽しんでそうな雰囲気なのに、想像以上に梨ヶ瀬《なしがせ》さんはしっかり真剣交際をしたいタイプらしい。 だから、なおさらこの人の相手が自分じゃ駄目な気がして……「私は梨ヶ瀬さんが思ってる程、価値のある女ではないと思いますよ?」「俺の中での麗奈《れな》の価値は、君じゃなく俺が決めるものだよね? 少なくとも自分にとって麗奈は、唯一無二の存在だし」 何を言っても全部こうして返してくるから、興味を無くしてもらう事も出来ない。諦めが悪いと自負しているだけあってか、それはもう手強すぎて。 梨ヶ瀬さんは私には勿体ないくらい素敵な男性だって、自分でも分かってるけれど……どうしてこの人は、もっと自分に合った女性を選ばないんだろう? 仮に付き合ったとしても、きっといつか私にがっかりするに決まってるのに。「ねえ、またうだうだ難しく考えてるでしょ? どうして麗奈は好きか嫌いか、それだけで俺を見てくれないんの。俺は君の何だって、受け止める覚悟はあるんだけど?」「……そんな簡単な問題じゃないでしょう?」 何度もそう言ってくれるけれど、答えがそんな簡単な事だとは思えない。全部の問題をクリアーにして、梨ヶ瀬さんだけを見れたら……その時の、答えは予想出来るけれど。 その感情を認めてしまったら、私はきっと身動きとれなくて余計に苦しくなってしまうから。 なのに……「簡単だよ、難しくしてるのが麗奈なだけで」 そんな風に、何も気にしてないように言うから。「そうなのかもしれないって、自分でも分かってはいるんです。梨ヶ瀬さんの言うように出来れば、きっとずっと生きやすいだろうなと思いますし。でも……私が許せないのは多分、自分自身なので」「その理由は、俺に聞かせてもらえないの?」 その答えも本当は分かってるくせに、そうやって聞いて来るんですよね。少しでも可能性があれば諦めない、その言葉は嘘じゃないって何度も繰り返すように。 素直に言ってしまえば楽になる。そう誰かが囁いても……結局は怖くて言えないの、この人に軽蔑されるかもしれないから。「それを隠したままでは、俺と付き合えない。そう考えてしまうところが、麗奈らしいとは思うけれど。正直な気持ち、好きな女性にいつまでもそんな顔をさせておきた
これ以上、眞杉《ますぎ》さんと鷹尾《たかお》さんの前で揶揄われたら堪らない。そう思った私は、適当な理由を付けて二人と別方向へと歩き出す。梨ヶ瀬《なしがせ》さんにはわざと声を掛けなかったが、どうせあの人は勝手について来るだろう。 どうしてこんな私に執着するのか、何度聞いてもよく分からないけれど。少しずつ信頼するようになって、今では一番この心を揺らす存在になった。「もしかして俺の存在を忘れてるの、麗奈《れな》?」「むしろ存在を忘れさせてくれるような人なら、凄く良かったんですけどね」 存在感が有り過ぎなくせによく言うわよ。私は梨ヶ瀬さんが支社に来て以来、一日だってこの人の事を考えずに済んだ日なんてないのに。 こっちは嫌味でそう言ったのに、梨ヶ瀬さんはその言葉に満足そうな顔をしていて。 ああ、本当に面倒な人と距離を縮めてしまってる。後悔しても、もう後戻りが出来ないところにまで来てる気がして……「ちょっとずつだけど、麗奈の心に俺が存在する割合が増えてるみたいで嬉しいかな」「もう充分過ぎるくらいなんですけどね、どれだけ占領すれば気が済むんです?」 仕事でもプライベートでも無理矢理関わってくるくせに、これ以上を望むというの? そんなベタベタした関係を、この人が好むようには見えないんだけれど。「それはもちろん全部だよ、俺は麗奈を独占したい」「……っ!?」 ああ、もう! 本当にこの人といると頭がおかしくなりそう! こんな蜂蜜みたいに甘い言葉を平気で言えちゃうし、重いくらいの束縛宣言までしてくるんだから。 爽やかさなんてどこかに飛んでいくくらいの激重感情を持っている、そんな梨ヶ瀬さんから逃げられる気がしなくて。 素直になれればきっと楽なはず、彼なら私のどんなところだって受け入れてくれると思いはするのに。 それでもまだ、許せないのは自分自身で。 ……今もまだ記憶から消すことも出来ない、あの日の過ち。 梨ヶ瀬さんはもちろん、紗綾《さや》や御堂《みどう》さんにも話せないまま私の中で今も燻り続けてる。 軽口で周りに愛想を振りまくことも、流行の好きなミーハーなキャラでいるのもそう難しくはないのに。誰かに甘えることが簡単に出来ないのは、それが関係しているからだと思う。 そんな私を梨ヶ瀬さんは、本当にいつまでも可愛いと言ってくれるのだろうか?「……正直、
「ええっ? 今からですか、でも……」 この状況ならば、眞杉《ますぎ》さんが迷うのは分かっていた。でもここでは、女友達と言う立場を最大限利用させてもらうことにして。コテンと首を傾げ、彼女に甘えるようにその細い腕を掴んで見せる。 そうやって眞杉さんを鷹尾《たかお》さんから引き離して、私の方へと引き寄せる。そして……「ちょっと聞いてみたんですけど、どうやら今しか空きが無いらしいんです。私、どうしてもその店で眞杉さんと二人きりで話をしたくて」「まあ、そうなんですか? 鷹尾さん、梨ヶ瀬《なしがせ》さん! すみません、ブックカフェはまた今度にしてもらっていいですか?」 ほら、見なさい。眞杉さんの優先順位が、鷹尾さんから私に変わっちゃいましたよ? このままでは男二人がこの場に残されることになるが、さて鷹尾さんと梨ヶ瀬さんはどうするかしらね。 そうやって余計な事ばかりを話している男たちを、ちょっとだけ懲らしめてやる。 それくらいのつもり、だったのだけれど……「ああそうだ、横井《よこい》さん。昨夜の事はまだ眞杉さんには話さないでね?」「――っ!!」 まさか不意打ちで、そんな事を言われるとは思ってなかった。一瞬で昨日の夜の事が頭に浮かんで、あっという間に顔が熱くなるのが分かる。 ……こ、この人は本当にとんでもないわ!「ん、昨夜の事って? え、なになに? もしかして二人、何かあったりしたとか……」「鷹尾さんはそうやって、余計な事ばかり気にしなくていいですから!」 こう言う時だけ、嬉々として話を聞き出そうとしないで! 鷹尾さんがいま気にするべきなのは、隣にいる眞杉さんの事だけですよ。 少しくらい焦ればいいと思って言いだした事なのに、まさか梨ヶ瀬さんにこんな風に返されるなんて。「……あの、大丈夫ですか? 横井さん、顔が真っ赤になってますよ」「平気ですよ、頭に血が上ってるだけですから。主に誰かさんへに対する怒りでね」 そう言って睨んでも梨ヶ瀬さんは相変わらずの余裕の表情、本当にむかつく。オロオロと私達を交互に見てる眞杉さんが可哀想になって、仕方なく鷹尾さんに後は任せる事にした。「眞杉さん! 今度は絶対、私と二人きりでお茶しましょうね。邪魔者がいないときに!」「邪魔者って誰だろうね、鷹尾は知ってる?」 私はいま、眞杉さんに話しかけてるん
「麗奈《れな》はさ、何で自分の気持ちに素直にならないんだ? 好きなんだろ、梨ヶ瀬《なしがせ》さんの事が」 第三者だから冷静に観察出来るのか、伊藤《いとう》さんには私の気持ちは完全にバレている。梨ヶ瀬さんに隠せているかと言えばそうではないけれど、ハッキリと突っ込んでくるところが伊藤さんらしいと思った。 伊藤さんには関係ない。そう一言いえば済む事なのに、それが出来ないのは彼が意外と真剣に心配してくれてるからかもしれない。「……だって、釣り合わないじゃないですか。私と梨ヶ瀬さんでは」 これは第一の言い訳。仕事も出来て人当たり
「……ええ、もう大丈夫です。じゃあ、今日の七時に駅前で」 用件のみの電話を終えると、私はそのままシャワーを浴びにバスルームへと向かう。 さっきの電話の相手は、あの伊藤《いとう》さんだ。 熱は大丈夫なのか? とわざわざ電話をくれたのだけど、やはり彼はよく分からない。 ただ梨ヶ瀬《なしがせ》さんの事について、余計な事をしてくれるな! と注意しようと思ったが、それは今日の夜に直接言う事にする。 熱めのシャワーを浴びて汗を流せばすっきりとして、ぼんやりしていた頭もだいぶハッキリとしてくる。 昨日梨ヶ瀬さんは月曜まで大事を取って休むようにと言ってくれた。そのおかげで熱も下がり体調もずいぶん
「そういえば麗奈《れな》、お腹が空いてるんじゃない? おかゆでも作ろうか」 おもむろにキッチンの方へと視線を移して、梨ヶ瀬《なしがせ》さんはそう言った。 「へえ、露骨に話題を変えてきますね? さっきまで、全く病人扱いしてくれなかったくせに」 確かにお腹は空いているが……そう簡単に流れを変えられてしまうのも癪なので、わざと話を元に戻そうとして見たのだけど。 梨ヶ瀬さんはいつも通りに微笑んでるように見えるが、ちょっとだけ口元がヒクついていて面白い。 だけどそんな私の視線を感じ取ったのか、彼は『キッチン借りるね』と
気付いた時には梨ヶ瀬《なしがせ》さんの唇が私のそれに触れていて、驚きで抵抗なんて出来なかった。優しく重ねられた少し乾いた唇、近付いた彼から香る爽やかなシトラス系のフレグランスも。 その、何もかもが私の身体を縛り付け動けなくする。 一度離れたが、すぐにまた戻り同じように軽く触れてくる。私の手首を掴んでいた梨ヶ瀬さんの手がゆっくりと移動し、指を絡めるような形で私の手のひらに重ねられた。それはまるで恋人同士がするキスのように甘い。 ……全身から力が抜ける。 多分もう逃げられない、そう思った瞬間だった。 何度も繰り返される、







