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第98話

Author: 音夢
何しろ、拓也が心を寄せているのは詩織だ。その詩織の実の母親を敵に回してまで、美咲に手を貸してくれるはずがない。

その瞬間、「身の程知らず」という言葉が、まるで現実の形をとったかのように思えた。

「当然のことだ」

夜、美咲はベッドに横たわりながらも、どうしても眠りにつくことができなかった。

頭の中を占めていたのは、今日オークションで目にした『ハスの香り』のことばかりだった。

あの絵を見るのは初めてであり、同時に十数年ぶりに触れる母の遺作でもあった。

母もかつては美大生で、大学二年のときに大きな賞を受賞し、名を知られるようになった。

もしその後、康二に出会うことがなく、彼女のために仕掛けられた見え透いた罠に嵌らなければ、今頃は名の通った画家になっていたかもしれない。

美咲は何度も寝返りを打った。目を閉じると、必ずあの絵が浮かんでくる。

胸が締めつけられるように苦しかった。

どうしてもあの絵を取り戻したい。だが、美咲にはどうすることもできない。

もしその代償が「拓也と離婚しないこと」であるなら、美咲はいっそ手放す方がましだとさえ思った。

しかし、手に入れないままでいられるだろうか――その問いが心を苛み続ける。

ふと、美咲は康二に引き取られたばかりの頃のことを思い出した。

児童養護施設から中島家に迎え入れられたある日、偶然、書斎で母の残した絵を数枚見つけたのだ。

それらは長いあいだ忘れられていたらしく、家政婦が掃除の最中に見つけ出したものだった。

絵を手にした家政婦が処分の仕方を康二に尋ねているとき、美咲はそれが母の作品だと気づいた。

十八歳の美咲は、せめて一枚だけでも形見として残してほしいと、涙ながらに康二に懇願した。

しかし、康二はそれらを売りに出そうとした。

買い取る術もない美咲は、一晩中泣き明かした。

そして、泣き疲れた夜、拓也から電話がかかってきて、彼に理由を知られてしまった。

翌日、拓也は数枚の絵を彼女のもとへ届けた。

その時の拓也は、優しさを見せすぎたくはないが、不親切と思われるのも癪だ――そんな複雑な表情を浮かべていた。

「どうやって手に入れたの」

十八歳の美咲は、涙に濡れた目で彼を見上げた。

泣き顔を見た瞬間、拓也の心はたやすく解け、自分のしたことは間違いではなかったと確信した。

「ちょっと金を使って、別
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